第24話 捨て名
朝の笠森城には、言葉の残り香があった。
米の匂いでも、味噌の匂いでも、煙の匂いでもない。
昨夜、門の外から投げ込まれた言葉。
偽の佐平。
井戸縄。
三本傷。
南谷へ出るという声。
それらが、まだ城の中のあちこちに引っかかっている。
久住宗介は、板の前に座っていた。
市松が炭を握り、眠そうな目でこちらを見ている。
「また見直しかよ」
「うん」
「昨日も見直した」
「昨日の夜に、また増えたから」
「増えすぎなんだよ」
市松の文句はもっともだった。
最初は米と水だけだった板が、今では三枚に分かれている。
城内。
城外。
敵の腹。
さらに門の内側には、合い言葉の小板まである。
そこへ今度は、偽の佐平と三本傷が加わった。
宗介は、敵の腹を見る板を指でなぞった。
灰原の竈。
悪い水。
薪場荒らし。
井戸の縄。
偽の呼び声。
三本傷。
甚内。
敵は、ただ暴れているのではない。
米を狙い、水を狙い、火を遅らせ、名を盗む。
そして、その動きに印をつけている。
こちらと同じように。
「敵にも、板があるのかもしれない」
宗介が呟くと、市松が嫌そうな顔をした。
「俺みたいなのが向こうにもいるってことか」
「いるかもしれない」
「嫌だな」
「俺も嫌だ」
その時、捕虜を見張っていた足軽がやって来た。
「兵糧方。与七が話したいと」
宗介は顔を上げた。
若い捕虜、与七。
灰原甚内のもとにいた男で、塩は上の者だけだと漏らし、南谷の者を人質にする狙いも話した。
宗介はすぐに立ち上がりかけたが、喜兵衛に止められた。
「一人で行くな」
「はい」
捕虜のところへは、喜兵衛と宇平次も一緒に向かった。
与七は壁際に座らされていた。
手は縛られているが、水は少し与えられている。顔色はまだ悪いが、昨夜よりは目が動いていた。
「話したいことがあると聞いた」
宇平次が問う。
与七は怯えたように顔を上げた。
「三本傷のことです」
宗介の背筋が伸びた。
「知っているんですか」
「はっきりとは……でも、見たことがあります」
与七は唇を舐めた。
喉が乾いている。
宗介は見張りに目で合図した。
水をほんの少し。
椀の底に残る程度だ。
与七はそれを飲み、ようやく続けた。
「甚内様は、人を筋で分けていました」
「筋?」
宇平次が聞き返す。
「はい。一筋、二筋、三筋と」
宗介は板を思い浮かべた。
三本傷。
三筋。
「一筋は、水と縄を見る者です。井戸、渡し、釣瓶、荷車の縄」
宇平次の顔が硬くなった。
「二筋は」
「火と薪。薪場、竈、火をつける者、煙を出す者」
喜兵衛が低く唸る。
「三筋は」
与七は一度目を伏せた。
「名を呼ぶ者です。村の家を見て、物を持ち出し、外から呼ぶ。佐平という男が、その手伝いをしていました」
宗介は息を呑んだ。
きれいに分かれすぎている気もする。
だが、これまでの敵の動きと合っている。
井戸の縄。
薪場。
偽の呼び声。
三本傷は、三筋の印。
名を使う者たちの印だったのかもしれない。
「では、三本傷は三筋の印か」
宇平次が問う。
「たぶん……でも、場所によって違うかもしれません。俺ら下の者には、全部は知らされません。ただ、三本傷がある所には、名を使う者が来ると聞きました」
「灰原の竈にもあった」
宗介が言うと、与七は頷いた。
「三筋がそこを使ったのだと思います。家から持ってきた物を分けたり、誰の名を呼ぶか決めたり」
場が重くなった。
飯場だけではない。
敵には、名を扱う場所がある。
人の家の物を並べ、誰をどう呼ぶか決める者たちがいる。
宗介は胃の奥が冷えるのを感じた。
「甚内は、三筋をまだ使うか」
宇平次が低く問う。
与七は小さく頷いた。
「使います。米が足りない時ほど、人を動かせと言っていました」
「人を動かせば、米が動く」
喜兵衛が呟いた。
「南谷の者が外へ出れば、人質になる。足軽と村人が揉めれば、門が薄くなる。誰かが家族を探しに出れば、追う者が出る」
「はい」
与七は震える声で答えた。
「甚内様は、そういうことをよく見ます」
宗介はしばらく黙った。
灰原甚内。
荷の道を知る男。
米と水だけでなく、人の動きまで荷のように扱う男。
こちらが人を食う口、働く手として見ているように、甚内は人を動かす札として見ている。
似ている。
そう思ってしまい、宗介は胸が悪くなった。
「宗介」
宇平次が呼んだ。
「どう見る」
「三本傷は、今後も名を使う手の印として見るべきです」
宗介は答えた。
「ただし、全部がそうとは限りません。敵もこちらが気づいたと分かれば、変えてくるかもしれない」
「では、どうする」
「三筋を逆に見たいです」
宇平次の目が細くなる。
「逆に?」
「敵は、こちらの名前や物を拾って使っています。なら、こちらも敵が拾える名前を作ります」
喜兵衛が眉をひそめた。
「名を作るとは」
「本物ではない名です。実際にはいない者の名。あるいは、城の中では使わない捨て名」
与七が目を見開いた。
宇平次も黙った。
宗介は自分の言葉を確かめながら続けた。
「敵が名を拾うなら、拾わせる名を混ぜる。たとえば、南谷に『惣八』という者がいると、わざと小さく漏らす。でも実際にはいない。もし外から『惣八が倒れている』と声が来たら、その話は敵の三筋から来たと分かります」
喜兵衛が腕を組んだ。
「空の米俵ならぬ、空の名か」
「はい」
「嫌な手だな」
「嫌です」
宗介は正直に答えた。
「でも、敵が名を使うなら、こちらもどこから漏れたか見ないといけません」
宇平次は少し考えた。
「捨て名をいくつも作れば、敵の口を試せる」
「ただし、やりすぎると味方が混乱します」
「だろうな」
「だから、知る者を絞ります。弥四郎様、宇平次殿、喜兵衛、庄屋さん、善助さん、市松。あと、必要な門番だけ」
喜兵衛が市松の名を聞いて眉を上げた。
「あの小僧もか」
「板を書くので」
「口が軽ければ終わるぞ」
「市松は、必要なら黙れます」
宗介はそう言った。
根拠は強くない。
だが、市松はこの数日で、ただの走り回る少年ではなくなっている。
何を書くか。
何を大きな板に出すか。
何を秘密の小板にするか。
その意味を覚え始めていた。
宇平次は短く言った。
「若へ申す」
片瀬弥四郎は、捕虜の話と宗介の案を聞き終えると、しばらく黙った。
若い城主は、板の前に立っていた。
城内、城外、敵の腹。
三枚の板を順に見る。
そして、宗介へ視線を向けた。
「捨て名か」
「はい」
「本物の南谷の者は使わぬな」
「使いません」
「子供や年寄りの名も使わぬ」
「はい。実在しない名にします」
「敵がその名を呼べば、敵がこちらの漏らした餌を拾ったと分かる」
「はい」
弥四郎は庄屋と善助を呼んだ。
二人は緊張した顔で来た。
捨て名の説明を聞くと、庄屋はすぐには頷かなかった。
「名を弄ぶようで、気持ちのよいものではございませぬ」
当然の反応だった。
宗介は頭を下げた。
「俺も、よい気持ちはしません」
「ですが、敵はすでに名を盗んでおります」
善助が低く言った。
「盗まれた名で、昨夜おつねが泣きました。なら、こちらが偽の名を置くのも、守るためかもしれませぬ」
庄屋は長く息を吐いた。
「……分かりました。ただし、南谷の本当の家名とは混ぜぬでくだされ」
「必ず」
弥四郎が答えた。
「これは、南谷を守るために使う。南谷を縛るためではない」
庄屋は深く頭を下げた。
こうして、最初の捨て名が決められた。
惣八。
おまさ。
小平。
どれも、今の南谷にはいない名である。
さらに、それぞれに偽の持ち物も決めた。
惣八は、古い笠。
おまさは、赤い布。
小平は、小さな木椀。
実際には、城の中にある不要な物へ印をつけ、捨て名と結びつける。
外へ投げるわけではない。
誰かが聞いた時、わざと小さく漏れるようにする。
どこから漏れるかを見るためだ。
市松は、小さな秘密の板を前にして難しい顔をしていた。
「惣八、おまさ、小平……本当にいないんだな」
「いない」
善助が答えた。
「似た名も?」
「今の南谷にはおらぬ」
「なら書く」
市松は慎重に字を書いた。
いつもより丁寧だった。
宗介はそれを見て、少し安心した。
「この板は、誰にでも見せない」
「分かってる」
「大きな板にも書かない」
「分かってるって」
「もし誰かに聞かれたら」
「知らないって言う」
市松は少しむっとして言った。
「俺だって、秘密の板くらい守れる」
「うん。頼む」
市松はその一言で、少しだけ表情を緩めた。
次に決めたのは、漏らし方だった。
これが難しい。
わざとらしく言えば、敵に疑われる。
広めすぎれば城内が混乱する。
誰かを試すように言えば、味方の信頼を損なう。
宗介は頭を抱えた。
「これは、飯を配るより難しいです」
喜兵衛が鼻を鳴らした。
「飯は椀に入るが、言葉はどこへ転がるか分からぬからな」
「はい」
「なら、転がす場所を狭めよ」
その言葉に、宗介は顔を上げた。
喜兵衛は続けた。
「城の中で漏らすから広がる。門の外へ水を汲みに出る者、薪を見に行く者、商人に話す者。転がる道を決めるのだ」
「言葉の道」
宗介は呟いた。
荷の道。
水の道。
米の道。
今度は言葉の道。
本当に、どこまで広がるのか分からない。
だが、喜兵衛の言う通りだった。
言葉にも通る道がある。
門番。
水汲み。
薪場。
商人。
捕虜。
そこを絞れば、どこから漏れたか見えるかもしれない。
「まず一つだけにします」
宗介は言った。
「惣八だけ。古い笠と結びつけます。『惣八の笠を南谷の奥へ取りに行く』という話を、明日の水場確認の前に、外に聞こえるか聞こえないかくらいで出す」
宇平次が顔をしかめる。
「わざと聞かせるのか」
「はい。ただし、聞かせる相手を絞ります。門外の藪に誰かがいるか、見張りを置く。そこで反応を見る」
「敵が来たら」
「追わない。声が返るか、後で惣八の名が使われるかを見るだけです」
弥四郎は頷いた。
「最初は小さく試す。よい」
夜まで待たず、試しは夕方に行うことになった。
門外へ水桶を出す作業がある。
その時、宇平次の配下と南谷の若者が、わざと少し大きめの声で話す。
「惣八の笠は南谷の奥だったか」
「明日の朝、取りに行くと聞いた」
それだけ。
本当なら、何でもない会話である。
だが、惣八はいない。
笠も本物の誰かのものではない。
門の上では、宇平次の配下が藪を見ていた。
宗介は門の内側にいた。
心臓が嫌な音を立てている。
自分たちは今、敵の手に似たことをしているのではないか。
名を使い、物を使い、人を動かそうとしている。
そう思うと、気分が悪かった。
しかし、敵の名の罠を見抜くには、言葉の道を知るしかない。
水桶を出す。
短い会話。
それだけで門は閉じられた。
その場では、何も起きなかった。
藪も動かない。
声もない。
足跡も分からない。
宇平次が戻ってきて、首を振った。
「見えぬ」
「失敗ですか」
「早い」
宇平次は言った。
「夜を待て」
その通りだった。
夜半過ぎ、門の外から声がした。
「惣八!」
宗介の背中に冷たいものが走った。
「惣八の笠は預かった! 返してほしければ、南谷の奥へ来い!」
城内が凍った。
惣八はいない。
だが、敵は呼んだ。
拾った。
こちらの捨て名を拾った。
宗介は喉の奥で息を止めた。
門は開かない。
誰も動かない。
惣八を心配する者はいない。
だから、城内は揺れなかった。
ただ、敵の声だけが空しく闇に落ちた。
弥四郎が小さく言った。
「かかったな」
宇平次の顔が険しくなる。
「門外の藪に、聞いていた者がいたということか」
「あるいは、水桶のやり取りを見ていた者が、誰かへ伝えた」
宗介は答えた。
「少なくとも、言葉は届きました」
喜兵衛が低く言った。
「三筋が動いている」
外の声は、しばらく惣八の名を呼んだ。
だが、誰も返事をしない。
やがて、声は途切れた。
闇が戻る。
宗介は足元の板を見た。
捨て名。
惣八。
古い笠。
敵が呼んだ。
市松が震える手でそれを書き加えた。
「本当に、呼んだな」
「うん」
「いない奴の名なのに」
「うん」
市松は炭を握りしめた。
「気持ち悪いな」
「うん」
本当に、気持ち悪かった。
敵の道が一つ見えた。
だが、喜びはなかった。
人の名を餌にしたからだ。
たとえ存在しない名でも、嫌なものは嫌だった。
弥四郎は静かに言った。
「これで分かった。敵は門外の声を聞く。あるいは、門外の動きを見て、すぐ三筋へ流す」
「はい」
「なら、次はその道を追う」
宇平次が頷いた。
「門外の藪、水場、南谷奥。そのどこかに、名を拾う目がある」
「深追いはしないでください」
宗介は思わず言った。
宇平次がこちらを見る。
「分かっている」
「敵は、惣八を呼んで南谷奥へ誘っています。そこへ行けば罠です」
「だから、行かぬ」
宇平次は短く答えた。
「だが、南谷奥へ向かう道は見る。朝にな」
弥四郎も頷いた。
「朝に見る。夜は動かぬ。敵の声に乗らぬ」
宗介はほっと息を吐いた。
夜に動けば、敵の思うつぼだ。
朝に見る。
板に残す。
確かめる。
それが笠森のやり方になってきている。
翌朝、南谷奥へ向かう道で、小さな印が見つかった。
木の根元に三本傷。
その少し先には、藪へ入る細い踏み跡。
大勢ではない。
一人か二人。
名を拾い、声を投げ、戻る者の道かもしれない。
宇平次はその踏み跡を見て、追おうとはしなかった。
「印だけ見ればよい。今日は追わぬ」
宗介は頷いた。
追えば、また別の罠があるかもしれない。
今は道を知ることが先だ。
城へ戻ると、弥四郎は報告を聞き、すぐに決めた。
「南谷奥の三本傷は、三筋の通り道と見る。今後、名を使う声はそこから来る可能性が高い」
「はい」
「なら、三筋を逆に使える」
宗介は顔を上げた。
弥四郎の目は、もう守るだけのものではなかった。
「若」
「甚内は、こちらの名を拾う。なら、こちらが拾わせる名で、甚内の三筋を動かせる」
宇平次が低く笑った。
「反撃ですな」
「大きくは動かぬ。だが、相手の目を一つ塞ぐ」
弥四郎は宗介を見た。
「宗介。次は、捨て名ではなく、捨て道を作れるか」
「捨て道……」
「敵に見せる道だ。本当の荷は通らぬ。だが、敵が見張りたくなる道」
宗介は板を見た。
米の道。
水の道。
言葉の道。
そして、捨て道。
空俵。
捨て名。
今度は、空の道。
胃が重くなった。
だが、同時に分かった。
守っているだけでは、甚内に次々と狙われる。
こちらから、敵の目と足を動かさなければならない。
「作れます」
宗介は言った。
「ただし、本物の米も人も通さない道にしてください。見せるだけです」
「よい」
弥四郎は頷いた。
「笠森は、甚内の手に乗るだけでは終わらぬ」
その言葉に、城庭の空気が少し変わった。
敵の名を知った。
三筋の道を見つけた。
捨て名が効いた。
次は、捨て道。
派手な戦ではない。
槍を並べて突き進むわけでもない。
だが、笠森城が初めて、敵の情報の腹へ手を伸ばそうとしていた。
宗介は板の前に膝をつき、市松へ言った。
「新しい板がいる」
市松は顔をしかめた。
「またかよ」
「今度は、捨て道の板」
「もう板だらけだ」
「うん」
「でも、いるんだろ」
「いる」
市松はため息をつき、古い板を探しに走った。
宗介はその背中を見送りながら、深く息を吐いた。
米を数え、水を守り、薪を分け、名を確かめ、今度は道を偽る。
自分がどこまで来たのか、よく分からない。
ただ一つだけ分かる。
笠森城は、まだ腹を壊していない。
ならば、まだ立てる。
第24話─了
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