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【連載版】戦国に転生した五十一歳、兵糧係から成り上がる 〜刀は振れないが、腹を満たせば兵は立つ〜  作者: あちゅ和尚


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第23話 合い言葉は鍵ではない

 「井戸縄」


 門の内側に掛けられた小さな板には、そう書かれていた。


 字の横には、市松が描いた井戸と縄の絵がある。井戸は歪み、縄は蛇のように曲がっていたが、門番たちには十分通じた。


 合い言葉。


 外から名を呼ばれても、家の物を見せられても、すぐには動かないための一呼吸。


 久住宗介は、何度もそう説明した。


 これは門を開ける鍵ではない。


 言えたら通すものではない。


 言えなければ疑う。


 言えても、なお確かめる。


 そういうものだ。


 だが、言葉は一度決めると、人の中で勝手に形を変える。


「井戸縄を言えば門が開くんか」


 足軽の一人が、冗談めかしてそう言った時、宗介はすぐに首を振った。


「違います」


「分かってる。冗談だ」


「冗談でも、そう覚えると危ないです」


 足軽は少しむっとした顔をした。


 宇平次が横から言った。


「聞いたか。合い言葉は鍵ではない。疑うための間だ」


 その一言で、足軽は口を閉じた。


 宗介は宇平次に小さく頭を下げた。


 自分の言葉だけでは、足りない時がある。


 宇平次が言えば、足軽は聞く。


 弥四郎が言えば、城全体が動く。


 喜兵衛が言えば、蔵の者が従う。


 おきぬが言えば、女衆が動く。


 善助が言えば、南谷の者が耳を貸す。


 宗介一人で何かを回しているわけではない。


 むしろ、宗介一人で抱え込めば、すぐに詰まる。


 それが、この数日で嫌というほど分かってきた。


 その日の夕方、城内では小さな確認が続いていた。


 門番には、合い言葉の扱いをもう一度。


 南谷の者には、外から名を呼ばれても勝手に動かないことをもう一度。


 子供と年寄りには、門へ近づかないことをもう一度。


 捕虜の与七には水を少し。


 痩せた男は、口を利かせすぎないよう離して置く。


 すべて、板に印をつける。


 市松は炭で黒くなった手を見て、顔をしかめていた。


「俺、もう字より炭の方が多い」


「手を洗って」


「水がもったいないって怒られる」


「少しだけならいい」


「少しだけ、ばっかりやな」


「少しだけが命を繋ぎます」


「重いこと言うなよ」


 市松はぶつぶつ言いながら、水桶の端で手を擦った。


 その横では、おつねと弥三が井戸縄を編む手伝いをしていた。


 昨夜、外から名を呼ばれた夫婦である。


 弥三は足を痛めているため、重い荷は持てない。だが、縄を編むことはできた。


 おつねは、時折門の方を見る。


 昨夜の声が、まだ耳に残っているのだろう。


 宗介は近づき、声をかけた。


「無理はしないでください」


 おつねは首を横に振った。


「何かしていないと、声が思い出されます」


 弥三も静かに頷いた。


「家の草履まで使われました。腹が立って、じっとしておれませぬ」


「なら、縄をお願いします」


 宗介はそう言った。


「井戸の縄が切れなければ、水が汲めます。水が汲めれば、粥が炊けます」


 おつねは編みかけの縄を見た。


「私らの手でも、役に立ちますか」


「はい」


 宗介は即答した。


「水を汲む縄は、米俵と同じくらい大事です」


 弥三は少しだけ笑った。


「米俵と縄が同じとは、変な兵糧方様だ」


「自分でもそう思います」


 宗介も苦笑した。


 だが、本気だった。


 縄が切れれば、水は汲めない。


 水が汲めなければ、米は粥にならない。


 粥がなければ、人は立てない。


 ならば、縄も兵糧の一部だ。


 夜が落ちた。


 笠森城の門は固く閉じられた。


 竈の火は低く、煙は抑えてある。


 見せ薪場は片づけられ、本物の薪は三か所に分けられている。


 井戸の縄は二重に確認された。


 南谷の所在帳は、庄屋と善助の手元。


 合い言葉の小板は、門の内側。


 捕虜は離して置かれ、与七だけは見張りをつけたまま、少し話せる距離にある。


 最初の異変は、夜半前だった。


 門の外から、低い声がした。


「笠森の者。話がある」


 宇平次が門の内側で手を上げた。


 誰も返事をしない。


 声は続いた。


「佐平だ。南谷の佐平だ。庄屋殿に話がある」


 城内がざわついた。


 佐平。


 南谷の名を集めていたかもしれない男。


 寺の手伝いをしていた、字を少し読み、人の名をよく覚える男。


 善助の顔が強張る。


 庄屋は唇を引き結んだ。


 門外の声は続いた。


「灰原にいる者を見た。甚内のことも知っておる。門を開けずともいい。話だけ聞け」


 宇平次が小声で言った。


「若」


 片瀬弥四郎は門の少し後ろにいた。


 若い城主はすぐには動かなかった。


 宗介も息を殺していた。


 佐平本人か。


 偽物か。


 本物なら情報を得られるかもしれない。


 偽物なら罠。


 そして本物でも、罠を持っているかもしれない。


「合い言葉を問え」


 弥四郎が静かに言った。


 宇平次が門越しに声を出した。


「合い言葉を申せ」


 外の声が、わずかに間を置いた。


「……井戸縄、だろう」


 城内に緊張が走った。


 知っている。


 門番の一人が息を呑む。


 だが、宗介は逆に冷静になった。


 言い方が違う。


 「井戸縄」と答えたのではない。


 「だろう」と言った。


 どこかで聞いた。


 推測した。


 それは、合い言葉を持つ者の言い方ではなかった。


 宇平次もそれを感じたのだろう。


 門は開かない。


「合い言葉は聞いた」


 宇平次は言った。


「だが、門は開けぬ」


 外の声が少し苛立った。


「合い言葉を言うたではないか」


 弥四郎が小さく頷いた。


 宗介は胸の中で息を吐いた。


 やはりだ。


 この声の主は、合い言葉を門の鍵だと思っている。


 こちらが決めた意味を分かっていない。


「合い言葉は鍵ではない」


 宇平次の声が、門越しに低く響いた。


「用があるなら、そこで申せ」


 外はしばらく黙った。


 やがて、声が戻る。


「甚内は、灰原の沢を捨てる」


 城内の空気が変わった。


 宗介は思わず板を見た。


 灰原の沢。


 悪い水。


 薪少なし。


 敵の飯は細っている。


 灰原を捨てる。


 あり得る。


 だが、どこへ。


「どこへ向かう」


 宇平次が問う。


「南谷の奥だ。井戸を取る」


 善助が息を呑む。


 しかし宗介は違和感を覚えた。


 南谷の井戸は昨夜守った。


 敵も失敗した。


 今さら正面から取りに来るだろうか。


 もちろん、来ないとは言えない。


 だが、この情報はあまりにこちらが怖がる場所をまっすぐ突いている。


「なぜ、それを知らせる」


 弥四郎が門の内側から声を出した。


 外の声はすぐ答えた。


「俺は南谷の者だ。甚内に従う気はない」


「なら、なぜ灰原にいる」


「捕まっていた」


「なら、どうやって逃げた」


 また、短い間。


 宗介の背中に汗が流れた。


 この間が怖い。


 本物が思い出している間かもしれない。


 偽物が作っている間かもしれない。


「沢の見張りが眠った。そこを抜けた」


 弥四郎は善助へ目を向けた。


 善助が首を横に振る。


 声だけでは分からない、という顔だった。


 庄屋も同じだった。


「佐平なら答えよ」


 庄屋が門の内側から声を張った。


「南谷の寺の裏にある石仏は、いくつだ」


 外の声が止まった。


 宗介は息を殺す。


 庄屋は続けた。


「佐平なら知っておる。よく掃除をしていたはずだ」


 沈黙。


 それから、外の声が少し荒くなった。


「そんなことを言っている場合か! 南谷が危ないのだぞ!」


 庄屋の顔が険しくなった。


「佐平ではない」


 宇平次の目が光る。


「門を開ける必要なし」


 外で舌打ちのような音がした。


 次の瞬間、門の外から小さな包みが投げ込まれた。


「触るな!」


 宗介と宇平次の声が重なった。


 包みは門の内側の土に転がった。


 今回は草履ではない。


 小さな木札だった。


 棒で寄せる。


 市松が火を近づけすぎないように照らす。


 木札には、井戸の絵と、三本傷が刻まれていた。


 三本傷。


 灰原の中継竈で拾った木札と同じような印。


 宗介の喉が鳴った。


「甚内の印かもしれません」


 喜兵衛が低く言った。


「あるいは、そう見せたいだけか」


 弥四郎は木札を見た。


「外の者は」


 門上の見張りが答えた。


「闇へ退きました。二人、いや三人。追いませぬ」


「追うな」


 弥四郎は即答した。


 宗介は胸を撫で下ろした。


 追えば、罠だったかもしれない。


 木札。


 三本傷。


 偽の佐平。


 南谷の井戸を狙うという話。


 どこまでが真実か分からない。


 だが、一つだけはっきりしたことがある。


 敵は、合い言葉の存在を知った。


 そして、それを鍵だと思って試した。


「合い言葉を変えます」


 宗介は言った。


 弥四郎が頷く。


「当然だ」


「それだけでは足りません」


「申せ」


「合い言葉は、毎晩変えます。そして、門を開けるためではなく、会話を続けるかどうかの印にします。言えた者も、必ずもう一つ、本人確認をする」


「本人確認」


 宇平次が聞き返す。


「家のこと、村のこと、本人しか知らないことです。ただし、敵に盗まれているかもしれないので、ひとつではなく二つ。庄屋さんか善助さんが決める」


 庄屋が頷いた。


「できます。佐平を名乗るなら、寺の石仏を聞く。弥三を名乗るなら、おつねとの間の子の呼び名を聞く。ただし、あまり皆に広めぬ方がよい」


「はい」


 宗介は続けた。


「それと、門外から情報が来ても、その場で動かない。板に書く。朝に確かめる。急ぎの時だけ、宇平次殿と弥四郎様が決める」


 弥四郎は静かに言った。


「情報にも配り方が要るな」


「はい」


 宗介は頷いた。


「飯と同じです。来たものをすぐ口に入れると、腹を壊すことがあります」


 宇平次が少し笑った。


「情報も煮るか」


「煮るというか、確かめます」


「同じようなものだ」


 弥四郎は市松へ目を向けた。


「板に残せ。偽の佐平。合い言葉を知るが、鍵と思っている。石仏を答えられず。三本傷の木札。情報はすぐ動かず、板に残して確かめる」


「へい」


 市松は炭を握った。


 偽の佐平。


 井戸縄。


 石仏。


 三本傷。


 情報をすぐ食うな。


 最後の絵をどう描けばいいのか分からず、市松は困った顔をした。


「情報を食うなって、どう描くんだよ」


 宗介も少し困った。


「口に入れない印で」


「また口か」


 市松は口の絵と、その前に手を置く絵を描いた。


 妙な絵になった。


 だが、意味は何となく伝わった。


 その夜、合い言葉はすぐに変えられた。


 新しい合い言葉は「炭粥」。


 弥四郎が決めた。


「意味が分からぬ方がよい」


 宇平次はそう言ったが、宗介は少し不安になった。


「難しくありませんか」


「炭と粥だ。城の者なら忘れぬ」


「嫌な組み合わせだねえ」


 おきぬが竈のそばで笑った。


「炭の入った粥なんか出したら、誰も食べないよ」


「だから覚えやすい」


 弥四郎は真面目に言った。


 確かに、一度聞くと忘れにくい。


 市松は小さな秘密の板に、炭と粥の絵を描いた。


 炭は黒い丸。


 粥は湯気の立つ椀。


 それは、合い言葉を知る者だけが見る板になった。


 夜の後半、外からもう一度声がした。


 今度は名を呼ばなかった。


「甚内は南谷へ出るぞ!」


 それだけを叫び、すぐに闇へ消えた。


 宇平次は動かなかった。


 弥四郎も動かなかった。


 宗介は板に印をつけた。


 南谷へ出るという声。


 確かめ未了。


 すぐ動かず。


 門開けず。


 そのまま夜は明けた。


 朝になり、善助と宇平次の配下が南谷の周りを確かめた。


 井戸に異常はなかった。


 ただ、南谷のさらに奥の薪場に、少しだけ踏み跡があった。


 敵は来た。


 だが、井戸ではなく、奥の道を見ていたらしい。


 偽の佐平が叫んだ「南谷の井戸」は、こちらをそちらへ寄せるためだった可能性が高い。


 宗介は報告を聞き、背中に冷たい汗を感じた。


 もし昨夜、井戸へ人を寄せすぎていたら。


 奥の道を抜かれていたかもしれない。


 弥四郎は板を見ながら言った。


「嘘だけではない。南谷へは来た。だが井戸ではなかった」


「本物を混ぜた嘘です」


 宗介は答えた。


「おつねさんの草履の時と同じです」


「なら、これからも同じだな」


 弥四郎の声は硬かった。


「敵の言葉は、すべて嘘と思えば見落とす。すべて本当と思えば動かされる」


「はい」


「だから、書いて、分けて、確かめる」


「はい」


 喜兵衛が腕を組んだ。


「飯も情報も、雑に飲み込むなというわけだ」


 宗介は頷いた。


「腹を壊します」


 宇平次が低く笑った。


「嫌な教えだが、覚えやすい」


 昼前、槙尾の安西新蔵が来た。


 偽の佐平と三本傷の木札の話を聞くためだった。


 木札を見た新蔵は、顔をしかめた。


「三本傷。槙尾の西沢でも見ました」


「どこで」


 弥四郎が問う。


「薪場近くの木に。最初はただの傷と思いましたが、同じならば印でしょう」


「何の印か」


「三つ目の場所。三番目の組。あるいは、三日目の合図。まだ分かりませぬ」


 宗介は木札を見た。


 三本。


 敵の中でも、板や印が使われている。


 こちらと同じように、相手も人を動かすための印を持っている。


 それがはっきりしてきた。


「甚内も板を使っているのかもしれません」


 宗介が言うと、新蔵は頷いた。


「荷駄を扱う者なら、印は使います。字を読めぬ者にも分かるように、荷や道へ傷をつける」


「敵にも市松がいるわけか」


 宇平次がぼそりと言った。


 市松がむっとした。


「俺は敵じゃねえよ」


「そういう意味ではない」


「じゃあ何だよ」


「役目が似ているということだ」


 市松は少し考え、嫌そうな顔をした。


「嫌だな、それ」


 宗介も同じ気持ちだった。


 敵にも、印をつける者がいる。


 敵にも、飯を分ける者がいる。


 敵にも、道を読む者がいる。


 相手は影ではなく、こちらと同じように人を動かしている。


 だからこそ怖い。


 弥四郎は静かに言った。


「三本傷の意味を探る。だが、それに釣られすぎるな」


「承知」


 宇平次が答えた。


 宗介は板に新しい欄を作った。


 三本傷。


 意味不明。


 西沢にもあり。


 釣られすぎるな。


 市松がその横に、小さな目の絵を描いた。


「これは?」


 宗介が聞くと、市松は答えた。


「見張るけど、飛びつかないって意味」


 宗介は少しだけ笑った。


「いいと思う」


「やろ?」


 市松が得意げな顔をした。


 その日の夕方、笠森城では情報の扱い方が決められた。


 外から来た声。


 投げ込まれた物。


 捕虜の言葉。


 商人の話。


 槙尾からの知らせ。


 南谷の噂。


 それらをすぐに信じない。


 すぐに捨てない。


 板に残し、出どころをつけ、確かめる役を決める。


 宗介はそれを「飯の仕分け」と同じように考えた。


 食える米。


 怪しい米。


 すぐ使う米。


 残す米。


 混ぜてはいけない米。


 情報も同じだった。


 すぐ動くもの。


 朝に確かめるもの。


 捨てるもの。


 相手に見せるもの。


 隠すもの。


 夕暮れ、弥四郎は板の前で宗介に言った。


「お前は、米から始めて、とうとう言葉まで分け始めたな」


「分けないと、混ざります」


「混ざると」


「腹を壊します」


 弥四郎は小さく笑った。


 だが、その目は真剣だった。


「なら、笠森はまだ腹を壊しておらぬ」


「はい」


 宗介は頷いた。


「まだ、立てます」


 竈の火が低く揺れている。


 門の内側には新しい合い言葉。


 板には偽の佐平と三本傷。


 城内には、昨日より少しだけ落ち着いた南谷の者たち。


 敵は名を盗み、言葉を投げ、印を残す。


 だが、笠森城はその言葉をそのまま飲み込まない。


 書いて、分けて、確かめる。


 地味で、面倒で、遅い。


 それでも、門は開かず、人は走らず、粥は炊けている。


 宗介は椀を手に取り、門番へ運んだ。


 門番は小さく呟いた。


「炭粥」


 宗介は頷いた。


 合い言葉は、今夜も鍵ではない。


 門を開けないための一呼吸だった。


第23話─了

新しい戦国転生短編を投稿しました。


『呂布の武と郭嘉の知を授かって戦国に転生した俺、信長の負け戦をひっくり返す』


https://ncode.syosetu.com/n4580mf/


本作とは少し違う、武と知で戦場をひっくり返す派手めの戦国転生ものです。

よろしければ、こちらも読んでいただけると嬉しいです。

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