第23話 合い言葉は鍵ではない
「井戸縄」
門の内側に掛けられた小さな板には、そう書かれていた。
字の横には、市松が描いた井戸と縄の絵がある。井戸は歪み、縄は蛇のように曲がっていたが、門番たちには十分通じた。
合い言葉。
外から名を呼ばれても、家の物を見せられても、すぐには動かないための一呼吸。
久住宗介は、何度もそう説明した。
これは門を開ける鍵ではない。
言えたら通すものではない。
言えなければ疑う。
言えても、なお確かめる。
そういうものだ。
だが、言葉は一度決めると、人の中で勝手に形を変える。
「井戸縄を言えば門が開くんか」
足軽の一人が、冗談めかしてそう言った時、宗介はすぐに首を振った。
「違います」
「分かってる。冗談だ」
「冗談でも、そう覚えると危ないです」
足軽は少しむっとした顔をした。
宇平次が横から言った。
「聞いたか。合い言葉は鍵ではない。疑うための間だ」
その一言で、足軽は口を閉じた。
宗介は宇平次に小さく頭を下げた。
自分の言葉だけでは、足りない時がある。
宇平次が言えば、足軽は聞く。
弥四郎が言えば、城全体が動く。
喜兵衛が言えば、蔵の者が従う。
おきぬが言えば、女衆が動く。
善助が言えば、南谷の者が耳を貸す。
宗介一人で何かを回しているわけではない。
むしろ、宗介一人で抱え込めば、すぐに詰まる。
それが、この数日で嫌というほど分かってきた。
その日の夕方、城内では小さな確認が続いていた。
門番には、合い言葉の扱いをもう一度。
南谷の者には、外から名を呼ばれても勝手に動かないことをもう一度。
子供と年寄りには、門へ近づかないことをもう一度。
捕虜の与七には水を少し。
痩せた男は、口を利かせすぎないよう離して置く。
すべて、板に印をつける。
市松は炭で黒くなった手を見て、顔をしかめていた。
「俺、もう字より炭の方が多い」
「手を洗って」
「水がもったいないって怒られる」
「少しだけならいい」
「少しだけ、ばっかりやな」
「少しだけが命を繋ぎます」
「重いこと言うなよ」
市松はぶつぶつ言いながら、水桶の端で手を擦った。
その横では、おつねと弥三が井戸縄を編む手伝いをしていた。
昨夜、外から名を呼ばれた夫婦である。
弥三は足を痛めているため、重い荷は持てない。だが、縄を編むことはできた。
おつねは、時折門の方を見る。
昨夜の声が、まだ耳に残っているのだろう。
宗介は近づき、声をかけた。
「無理はしないでください」
おつねは首を横に振った。
「何かしていないと、声が思い出されます」
弥三も静かに頷いた。
「家の草履まで使われました。腹が立って、じっとしておれませぬ」
「なら、縄をお願いします」
宗介はそう言った。
「井戸の縄が切れなければ、水が汲めます。水が汲めれば、粥が炊けます」
おつねは編みかけの縄を見た。
「私らの手でも、役に立ちますか」
「はい」
宗介は即答した。
「水を汲む縄は、米俵と同じくらい大事です」
弥三は少しだけ笑った。
「米俵と縄が同じとは、変な兵糧方様だ」
「自分でもそう思います」
宗介も苦笑した。
だが、本気だった。
縄が切れれば、水は汲めない。
水が汲めなければ、米は粥にならない。
粥がなければ、人は立てない。
ならば、縄も兵糧の一部だ。
夜が落ちた。
笠森城の門は固く閉じられた。
竈の火は低く、煙は抑えてある。
見せ薪場は片づけられ、本物の薪は三か所に分けられている。
井戸の縄は二重に確認された。
南谷の所在帳は、庄屋と善助の手元。
合い言葉の小板は、門の内側。
捕虜は離して置かれ、与七だけは見張りをつけたまま、少し話せる距離にある。
最初の異変は、夜半前だった。
門の外から、低い声がした。
「笠森の者。話がある」
宇平次が門の内側で手を上げた。
誰も返事をしない。
声は続いた。
「佐平だ。南谷の佐平だ。庄屋殿に話がある」
城内がざわついた。
佐平。
南谷の名を集めていたかもしれない男。
寺の手伝いをしていた、字を少し読み、人の名をよく覚える男。
善助の顔が強張る。
庄屋は唇を引き結んだ。
門外の声は続いた。
「灰原にいる者を見た。甚内のことも知っておる。門を開けずともいい。話だけ聞け」
宇平次が小声で言った。
「若」
片瀬弥四郎は門の少し後ろにいた。
若い城主はすぐには動かなかった。
宗介も息を殺していた。
佐平本人か。
偽物か。
本物なら情報を得られるかもしれない。
偽物なら罠。
そして本物でも、罠を持っているかもしれない。
「合い言葉を問え」
弥四郎が静かに言った。
宇平次が門越しに声を出した。
「合い言葉を申せ」
外の声が、わずかに間を置いた。
「……井戸縄、だろう」
城内に緊張が走った。
知っている。
門番の一人が息を呑む。
だが、宗介は逆に冷静になった。
言い方が違う。
「井戸縄」と答えたのではない。
「だろう」と言った。
どこかで聞いた。
推測した。
それは、合い言葉を持つ者の言い方ではなかった。
宇平次もそれを感じたのだろう。
門は開かない。
「合い言葉は聞いた」
宇平次は言った。
「だが、門は開けぬ」
外の声が少し苛立った。
「合い言葉を言うたではないか」
弥四郎が小さく頷いた。
宗介は胸の中で息を吐いた。
やはりだ。
この声の主は、合い言葉を門の鍵だと思っている。
こちらが決めた意味を分かっていない。
「合い言葉は鍵ではない」
宇平次の声が、門越しに低く響いた。
「用があるなら、そこで申せ」
外はしばらく黙った。
やがて、声が戻る。
「甚内は、灰原の沢を捨てる」
城内の空気が変わった。
宗介は思わず板を見た。
灰原の沢。
悪い水。
薪少なし。
敵の飯は細っている。
灰原を捨てる。
あり得る。
だが、どこへ。
「どこへ向かう」
宇平次が問う。
「南谷の奥だ。井戸を取る」
善助が息を呑む。
しかし宗介は違和感を覚えた。
南谷の井戸は昨夜守った。
敵も失敗した。
今さら正面から取りに来るだろうか。
もちろん、来ないとは言えない。
だが、この情報はあまりにこちらが怖がる場所をまっすぐ突いている。
「なぜ、それを知らせる」
弥四郎が門の内側から声を出した。
外の声はすぐ答えた。
「俺は南谷の者だ。甚内に従う気はない」
「なら、なぜ灰原にいる」
「捕まっていた」
「なら、どうやって逃げた」
また、短い間。
宗介の背中に汗が流れた。
この間が怖い。
本物が思い出している間かもしれない。
偽物が作っている間かもしれない。
「沢の見張りが眠った。そこを抜けた」
弥四郎は善助へ目を向けた。
善助が首を横に振る。
声だけでは分からない、という顔だった。
庄屋も同じだった。
「佐平なら答えよ」
庄屋が門の内側から声を張った。
「南谷の寺の裏にある石仏は、いくつだ」
外の声が止まった。
宗介は息を殺す。
庄屋は続けた。
「佐平なら知っておる。よく掃除をしていたはずだ」
沈黙。
それから、外の声が少し荒くなった。
「そんなことを言っている場合か! 南谷が危ないのだぞ!」
庄屋の顔が険しくなった。
「佐平ではない」
宇平次の目が光る。
「門を開ける必要なし」
外で舌打ちのような音がした。
次の瞬間、門の外から小さな包みが投げ込まれた。
「触るな!」
宗介と宇平次の声が重なった。
包みは門の内側の土に転がった。
今回は草履ではない。
小さな木札だった。
棒で寄せる。
市松が火を近づけすぎないように照らす。
木札には、井戸の絵と、三本傷が刻まれていた。
三本傷。
灰原の中継竈で拾った木札と同じような印。
宗介の喉が鳴った。
「甚内の印かもしれません」
喜兵衛が低く言った。
「あるいは、そう見せたいだけか」
弥四郎は木札を見た。
「外の者は」
門上の見張りが答えた。
「闇へ退きました。二人、いや三人。追いませぬ」
「追うな」
弥四郎は即答した。
宗介は胸を撫で下ろした。
追えば、罠だったかもしれない。
木札。
三本傷。
偽の佐平。
南谷の井戸を狙うという話。
どこまでが真実か分からない。
だが、一つだけはっきりしたことがある。
敵は、合い言葉の存在を知った。
そして、それを鍵だと思って試した。
「合い言葉を変えます」
宗介は言った。
弥四郎が頷く。
「当然だ」
「それだけでは足りません」
「申せ」
「合い言葉は、毎晩変えます。そして、門を開けるためではなく、会話を続けるかどうかの印にします。言えた者も、必ずもう一つ、本人確認をする」
「本人確認」
宇平次が聞き返す。
「家のこと、村のこと、本人しか知らないことです。ただし、敵に盗まれているかもしれないので、ひとつではなく二つ。庄屋さんか善助さんが決める」
庄屋が頷いた。
「できます。佐平を名乗るなら、寺の石仏を聞く。弥三を名乗るなら、おつねとの間の子の呼び名を聞く。ただし、あまり皆に広めぬ方がよい」
「はい」
宗介は続けた。
「それと、門外から情報が来ても、その場で動かない。板に書く。朝に確かめる。急ぎの時だけ、宇平次殿と弥四郎様が決める」
弥四郎は静かに言った。
「情報にも配り方が要るな」
「はい」
宗介は頷いた。
「飯と同じです。来たものをすぐ口に入れると、腹を壊すことがあります」
宇平次が少し笑った。
「情報も煮るか」
「煮るというか、確かめます」
「同じようなものだ」
弥四郎は市松へ目を向けた。
「板に残せ。偽の佐平。合い言葉を知るが、鍵と思っている。石仏を答えられず。三本傷の木札。情報はすぐ動かず、板に残して確かめる」
「へい」
市松は炭を握った。
偽の佐平。
井戸縄。
石仏。
三本傷。
情報をすぐ食うな。
最後の絵をどう描けばいいのか分からず、市松は困った顔をした。
「情報を食うなって、どう描くんだよ」
宗介も少し困った。
「口に入れない印で」
「また口か」
市松は口の絵と、その前に手を置く絵を描いた。
妙な絵になった。
だが、意味は何となく伝わった。
その夜、合い言葉はすぐに変えられた。
新しい合い言葉は「炭粥」。
弥四郎が決めた。
「意味が分からぬ方がよい」
宇平次はそう言ったが、宗介は少し不安になった。
「難しくありませんか」
「炭と粥だ。城の者なら忘れぬ」
「嫌な組み合わせだねえ」
おきぬが竈のそばで笑った。
「炭の入った粥なんか出したら、誰も食べないよ」
「だから覚えやすい」
弥四郎は真面目に言った。
確かに、一度聞くと忘れにくい。
市松は小さな秘密の板に、炭と粥の絵を描いた。
炭は黒い丸。
粥は湯気の立つ椀。
それは、合い言葉を知る者だけが見る板になった。
夜の後半、外からもう一度声がした。
今度は名を呼ばなかった。
「甚内は南谷へ出るぞ!」
それだけを叫び、すぐに闇へ消えた。
宇平次は動かなかった。
弥四郎も動かなかった。
宗介は板に印をつけた。
南谷へ出るという声。
確かめ未了。
すぐ動かず。
門開けず。
そのまま夜は明けた。
朝になり、善助と宇平次の配下が南谷の周りを確かめた。
井戸に異常はなかった。
ただ、南谷のさらに奥の薪場に、少しだけ踏み跡があった。
敵は来た。
だが、井戸ではなく、奥の道を見ていたらしい。
偽の佐平が叫んだ「南谷の井戸」は、こちらをそちらへ寄せるためだった可能性が高い。
宗介は報告を聞き、背中に冷たい汗を感じた。
もし昨夜、井戸へ人を寄せすぎていたら。
奥の道を抜かれていたかもしれない。
弥四郎は板を見ながら言った。
「嘘だけではない。南谷へは来た。だが井戸ではなかった」
「本物を混ぜた嘘です」
宗介は答えた。
「おつねさんの草履の時と同じです」
「なら、これからも同じだな」
弥四郎の声は硬かった。
「敵の言葉は、すべて嘘と思えば見落とす。すべて本当と思えば動かされる」
「はい」
「だから、書いて、分けて、確かめる」
「はい」
喜兵衛が腕を組んだ。
「飯も情報も、雑に飲み込むなというわけだ」
宗介は頷いた。
「腹を壊します」
宇平次が低く笑った。
「嫌な教えだが、覚えやすい」
昼前、槙尾の安西新蔵が来た。
偽の佐平と三本傷の木札の話を聞くためだった。
木札を見た新蔵は、顔をしかめた。
「三本傷。槙尾の西沢でも見ました」
「どこで」
弥四郎が問う。
「薪場近くの木に。最初はただの傷と思いましたが、同じならば印でしょう」
「何の印か」
「三つ目の場所。三番目の組。あるいは、三日目の合図。まだ分かりませぬ」
宗介は木札を見た。
三本。
敵の中でも、板や印が使われている。
こちらと同じように、相手も人を動かすための印を持っている。
それがはっきりしてきた。
「甚内も板を使っているのかもしれません」
宗介が言うと、新蔵は頷いた。
「荷駄を扱う者なら、印は使います。字を読めぬ者にも分かるように、荷や道へ傷をつける」
「敵にも市松がいるわけか」
宇平次がぼそりと言った。
市松がむっとした。
「俺は敵じゃねえよ」
「そういう意味ではない」
「じゃあ何だよ」
「役目が似ているということだ」
市松は少し考え、嫌そうな顔をした。
「嫌だな、それ」
宗介も同じ気持ちだった。
敵にも、印をつける者がいる。
敵にも、飯を分ける者がいる。
敵にも、道を読む者がいる。
相手は影ではなく、こちらと同じように人を動かしている。
だからこそ怖い。
弥四郎は静かに言った。
「三本傷の意味を探る。だが、それに釣られすぎるな」
「承知」
宇平次が答えた。
宗介は板に新しい欄を作った。
三本傷。
意味不明。
西沢にもあり。
釣られすぎるな。
市松がその横に、小さな目の絵を描いた。
「これは?」
宗介が聞くと、市松は答えた。
「見張るけど、飛びつかないって意味」
宗介は少しだけ笑った。
「いいと思う」
「やろ?」
市松が得意げな顔をした。
その日の夕方、笠森城では情報の扱い方が決められた。
外から来た声。
投げ込まれた物。
捕虜の言葉。
商人の話。
槙尾からの知らせ。
南谷の噂。
それらをすぐに信じない。
すぐに捨てない。
板に残し、出どころをつけ、確かめる役を決める。
宗介はそれを「飯の仕分け」と同じように考えた。
食える米。
怪しい米。
すぐ使う米。
残す米。
混ぜてはいけない米。
情報も同じだった。
すぐ動くもの。
朝に確かめるもの。
捨てるもの。
相手に見せるもの。
隠すもの。
夕暮れ、弥四郎は板の前で宗介に言った。
「お前は、米から始めて、とうとう言葉まで分け始めたな」
「分けないと、混ざります」
「混ざると」
「腹を壊します」
弥四郎は小さく笑った。
だが、その目は真剣だった。
「なら、笠森はまだ腹を壊しておらぬ」
「はい」
宗介は頷いた。
「まだ、立てます」
竈の火が低く揺れている。
門の内側には新しい合い言葉。
板には偽の佐平と三本傷。
城内には、昨日より少しだけ落ち着いた南谷の者たち。
敵は名を盗み、言葉を投げ、印を残す。
だが、笠森城はその言葉をそのまま飲み込まない。
書いて、分けて、確かめる。
地味で、面倒で、遅い。
それでも、門は開かず、人は走らず、粥は炊けている。
宗介は椀を手に取り、門番へ運んだ。
門番は小さく呟いた。
「炭粥」
宗介は頷いた。
合い言葉は、今夜も鍵ではない。
門を開けないための一呼吸だった。
第23話─了
新しい戦国転生短編を投稿しました。
『呂布の武と郭嘉の知を授かって戦国に転生した俺、信長の負け戦をひっくり返す』
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本作とは少し違う、武と知で戦場をひっくり返す派手めの戦国転生ものです。
よろしければ、こちらも読んでいただけると嬉しいです。




