第22話 盗まれた名
朝の光が差しても、笠森城の空気は晴れなかった。
門は開かなかった。
南谷の者は外へ走らなかった。
捕虜の言葉に揺らされても、足軽と村人は割れなかった。
それは確かに、夜を越えたということだった。
だが、夜に聞こえた声は、まだ城の中に残っていた。
「おつね」
「弥三が外で倒れとる」
「南谷の米を返してほしければ、灰原へ来い」
声だけが、耳の奥にこびりついている。
久住宗介は、竈のそばで粥をよそいながら、何度も門の方を見た。
朝になれば確かめる。
弥四郎はそう約束した。
だから、確かめなければならない。
約束を板に書いた以上、それを果たさなければ、次から誰も板を信じなくなる。
「宗介」
片瀬弥四郎が声をかけた。
若い城主は、門の内側に立っていた。宇平次、善助、足軽二人がそばにいる。
「おつねの夫、弥三。草履の件。南谷の外を確かめる」
「はい」
「お前は城に残れ」
宗介は一瞬、頷きかけた。
正直、外へ出なくていいと言われて安堵した。
だが、すぐに首を振った。
「いえ、行かせてください」
弥四郎の目が細くなる。
「戦いに行くのではないぞ」
「分かっています。呼び声と、投げ込まれた物を確かめたいんです。どこから投げたか。どこで名を呼んだか。何を持ってきたか」
宇平次が眉を寄せる。
「また足跡か」
「はい。たぶん、足跡と、拾った物です」
「怖くないのか」
「怖いです」
宗介は即答した。
「でも、怖いから見ます。見ないと、また同じ声で動かされます」
弥四郎は少しだけ黙った。
そして頷いた。
「なら、後ろにいろ。宇平次の命を聞け。勝手に離れるな」
「はい」
門が開いた。
朝の冷えた空気が流れ込む。
宗介は、腰に小さな飯包みと竹筒を下げて外へ出た。
門の外には、夜の跡が残っていた。
土の上に足跡がある。
草が踏まれている。
門から少し離れた斜面には、声を張るために立ったらしい場所があった。土がえぐれ、石がずれている。
宇平次がしゃがんだ。
「二人、いや三人か」
善助も膝をつき、足跡を見た。
「南谷の者の足ではありませぬ。わらじの結びが違います」
「分かるのか」
「村の者は、山道でほどけぬよう少し違う結びをします。これは川向こうの者の結びに近い」
宗介はその言葉を頭に刻んだ。
わらじの結び。
それも印になる。
敵は名を使い、草履を使い、声を使う。
こちらは足跡と結びを見なければならない。
門の外から少し回り込むと、低い土塁の脇に布の切れ端が引っかかっていた。
昨夜、草履の包みを投げた者が引っかけたのかもしれない。
善助が拾い上げ、顔をしかめた。
「南谷の家で使う布に似ています」
「誰の家か分かりますか」
「すぐには。ですが、色と縫い方に見覚えがあります」
おつねのものか。
草履の家のものか。
それとも、別の家から盗んだものか。
宗介の胃が重くなる。
敵は、ただ名を呼んだのではない。
南谷の家にあった物を持ち出し、それを証のように見せている。
次に一行は、南谷村の外れへ向かった。
家々は静かだった。
多くの者は城や北の祠へ移っている。戸が閉じられた家もあれば、慌てて出たままの家もある。
その一つの戸が、半分開いていた。
善助の顔が変わる。
「ここは、おつねの家です」
宇平次が手で制した。
「不用意に入るな」
足軽が槍を構え、戸の横へ立つ。
中は荒らされていた。
米俵はない。
そもそも大きな米は先に分けたはずだ。
だが、土間の隅の小さな箱が開けられ、子供の草履や古い布、木椀が散らばっている。
おつねが昨夜見て崩れかけた草履は、ここから持ち出されたものだろう。
「弥三殿は」
宗介が聞くと、善助は首を横に振った。
「ここにはおりませぬ。北の祠へ行ったはずです」
「確認しましょう」
さらに村の奥を見て回ると、似たように荒らされた家が二つあった。
大きな荷はない。
米も多くはない。
だが、草履、櫛、子供の布、家の者しか知らないような細々した物がなくなっていた。
敵は、米ではなく名と証を盗んでいる。
宗介はそう感じた。
口の中が苦くなった。
「これは、嫌な手だな」
宇平次が低く言った。
「米を奪うより、腹が立つ」
「はい」
宗介は頷いた。
「家の物を使えば、城の中の人を動かせます。名前と物を合わせれば、本当だと思わせられる」
善助の拳が震えていた。
「村の家を荒らし、名まで使うか」
怒りを押し殺した声だった。
北の祠へ向かうと、弥三はそこにいた。
生きていた。
足を少し痛めていたが、倒れてはいなかった。
年寄りたちと子供を守りながら、祠の奥で一夜を越していたのである。
「おつねは」
弥三は宇平次たちを見るなり、そう聞いた。
「城にいる。子も無事だ」
善助が答えると、弥三はその場にへたり込んだ。
「よかった……」
宗介も息を吐いた。
昨夜の声は、やはり嘘だった。
いや、完全な嘘ではない。
弥三という名は本物。
草履も本物。
ただし、弥三が外で倒れているという話は嘘。
本物を混ぜた嘘。
それが一番怖い。
祠にいた年寄りの一人が、震える声で言った。
「夜の間に、下の方で人の声がしました。誰かが南谷の家を漁っておったのかもしれませぬ」
「数は」
宇平次が聞く。
「多くはありませぬ。二人か三人。荷を背負うような音がしました」
宗介はうなずいた。
門の外の足跡と合う。
少人数で村へ入り、家の物を盗み、城の外から名を呼ぶ。
大きな攻めではない。
だが、心を崩すには十分だった。
城へ戻る途中、宗介はほとんど黙っていた。
宇平次が横目で見る。
「どうした」
「敵は、米だけじゃなく、名前も運んでいます」
「名前を運ぶ?」
「はい。誰の夫がどこにいるか。誰の子の草履か。どの家の物か。それを集めて、城へ投げる。声にする。人を動かすための荷です」
宇平次はしばらく黙った。
「荷にも、嫌な荷があるものだな」
「はい」
宗介は胸の奥が重くなるのを感じた。
荷は米や薪だけではない。
人の名も、家の物も、心を動かす荷になる。
それを敵は使っている。
笠森城へ戻ると、おつねが門の内側で待っていた。
弥三の無事を伝えると、その場で崩れ落ちた。
泣いた。
子を抱きしめ、声を殺しきれず泣いた。
周囲の南谷の者たちも息を吐いた。
だが同時に、家が荒らされたことを伝えると、また別の沈黙が落ちた。
「家の物を……」
庄屋の顔が土のように暗くなった。
宗介は弥四郎の前に膝をつき、見たことを報告した。
「おつねさんの家を含め、少なくとも三軒が荒らされています。米ではなく、草履、布、櫛、子供の物、家の者が見れば分かる物が持ち出されています」
弥四郎の表情が険しくなる。
「名と物を使うためか」
「はい。敵は、南谷の者の名を盗んでいます」
その言葉に、場が静まった。
名を盗む。
宗介自身、言ってから重さを感じた。
米を盗むよりも、見えにくい。
だが、人を動かす力は大きい。
弥四郎は短く命じた。
「市松、板を」
「へい」
市松が走ってくる。
炭を構えた顔は、昨日より少し大人びて見えた。
「何を書く」
宗介はゆっくり言った。
「敵は南谷の家を荒らした。家の物を持ち出した。名と物を使って呼ぶ。弥三は無事。草履はおつねの家から盗まれたもの」
市松は炭を走らせる。
家の印。
草履。
口の印。
盗まれた名。
下手な絵だが、意味は伝わる。
弥四郎は南谷の者たちへ向き直った。
「聞け。昨夜の呼び声は嘘だった。弥三は生きている。だが、おつねの家の物が盗まれていた」
ざわめきが広がる。
「これより、外から名を呼ばれても、物を見せられても、すぐに信じるな。必ず庄屋、善助、または城の者を通せ」
庄屋が深く頭を下げた。
「南谷の者へ、よく言い聞かせます」
宗介はそこで口を開いた。
「もう一つ、お願いします」
弥四郎が見る。
「南谷の家族の名と、今いる場所を、庄屋さんと善助さんで確認してください」
南谷の者たちがざわついた。
宗介は急いで続ける。
「全部を城に知らせる必要はありません。むしろ、全員に広げない方がいい。でも、庄屋さんと善助さんが、誰が城にいて、誰が祠にいて、誰がまだ村に残っているかを知っていないと、偽の呼び声を確かめられません」
庄屋は難しい顔をした。
「名をまとめる、ということですか」
「はい。ただし、板に大きく書いて誰でも見えるようにはしません。敵に見られたら困ります。庄屋さん、善助さん、弥四郎様、必要な人だけが知る」
喜兵衛が頷いた。
「米の帳と同じだな。誰の米か分からねば返せぬ。誰がどこにいるか分からねば、偽の名に振り回される」
「はい」
南谷の者の中には、不安そうな顔もあった。
名を城に握られる。
そう感じた者もいるだろう。
宗介はそれも分かった。
「これは縛るためではありません」
宗介は言った。
「外から呼ばれた時、すぐ確かめるためです。誰かが本当にいないなら探す。いるなら嘘と分かる。分からないままだと、心が動かされます」
弥四郎が静かに付け加えた。
「南谷の名を、敵に使わせぬためだ。城が奪うためではない」
庄屋が頷いた。
「承知しました。善助、手を貸せ」
「はい」
こうして、南谷の者の所在を確かめる作業が始まった。
大げさな帳面ではない。
庄屋が知る家ごとに、今どこにいるかを確認する。
城。
北の祠。
村の残り家。
行方不明。
無事を確認済み。
市松はそれを全部書こうとして、宗介に止められた。
「市松は大きな板には書かないで」
「何でだよ」
「これは見せる板じゃない。庄屋さんと善助さんの手元で持つものです」
「俺は書けないのか」
「書ける。でも、皆に見える場所に置かない」
市松は少し不満そうだった。
だが、理由を聞くと黙った。
「敵に見られたら、また名を使われる」
「そういうこと」
「嫌な帳だな」
「うん」
庄屋は古い紙片と小さな板を使い、家ごとに印をつけ始めた。
善助が横で補う。
おつねの家。
弥三、北の祠で無事。
おつねと子、城内。
草履は盗まれた。
別の家では、老婆が村に残っている。
また別の家では、若者が行方不明。
それが分かるたび、城内に小さな動揺が起きた。
宗介は、その動揺を見ながら思った。
これは米を数えるより重い。
米なら、ある、ない、湿っている、使える、に分けられる。
人は違う。
無事と言われても、心は無事とは限らない。
行方不明と書かれれば、その家の者は座っていられない。
だが、見えないままにしておくよりはいい。
見えない不安は、敵に使われる。
昼前、与七が宗介を呼んだ。
捕虜として壁際に置かれている若い男だ。
痩せた男とは離されている。
見張りの足軽が槍を構えたまま、宗介を通した。
「何ですか」
与七は声を潜めた。
「甚内様は、名を集める者を使っています」
宗介の背筋が冷えた。
「名を集める者?」
「村に入り、家の物を見て、誰が誰の家かを聞く者です。もとは寺の小者だったとか、庄屋の手伝いだったとか。俺は詳しくない。でも、名前を覚えるのが早い」
「その者の名は」
与七は首を振った。
「皆、佐平と呼んでいました」
佐平。
宗介は見張りへ目を向けた。
「弥四郎様へ」
すぐに話は弥四郎へ伝えられた。
弥四郎は庄屋と善助を呼ぶ。
「南谷に、佐平という名を知る者はいるか」
庄屋は少し考え、顔を曇らせた。
「佐平……寺の手伝いをしていた者に、その名がありました。字が少し読め、人の名をよく覚える男です。数日前から姿を見ませぬ」
善助が苦い顔をした。
「まさか、灰原へ」
「決めつけるな」
弥四郎は言った。
「だが、疑え」
宗介は唇を噛んだ。
敵は、村の外から名を盗んだだけではない。
村の中を知る者を使っているかもしれない。
それなら、呼び声が正確だった理由も分かる。
おつね。
弥三。
家の物。
草履。
ただの脅しではない。
情報を集めている。
弥四郎は低く命じた。
「佐平の顔を知る者を門に近づける。だが、一人にするな。もし外で佐平の声がしても、門は開けぬ」
「承知しました」
庄屋が頭を下げる。
宇平次が言った。
「敵は人の名を使う。なら、こちらは合い言葉を決めるか」
宗介は顔を上げた。
「合い言葉」
「名だけでは通さぬ。何か決めた言葉を返せぬ者は、身内を名乗っても通さぬ」
宗介は頷いた。
「いいと思います。ただ、難しい言葉は駄目です。年寄りや子供が忘れます」
弥四郎が言った。
「南谷の者には、家ごとにではなく、今日と明日だけ使う言葉を決める。変える」
「毎日変えるのですか」
善助が驚く。
「敵に知られれば終わる」
宗介は考えた。
合い言葉。
難しすぎても駄目。
広めすぎても駄目。
だが、全員が知っていなければ使えない。
矛盾している。
「城の門では使えます」
宗介は言った。
「外から名を呼ばれたら、門番が合い言葉を聞く。ただし、城内の皆に広めすぎない。庄屋さんと善助さん、門番、弥四郎様、宇平次殿だけ。南谷の者が外へ出ないなら、全員が知る必要はありません」
「では、外の者が本物でも答えられぬ」
「はい。だから門は開けない。合い言葉は、外の声が偽物かどうかを見るためというより、すぐ信じないための一呼吸です」
宇平次が頷いた。
「一呼吸か」
「はい。呼ばれてすぐ動かないための段取りです」
弥四郎は少し考え、言った。
「今日の合い言葉は『井戸縄』にする」
喜兵衛が小さく笑った。
「覚えやすい」
「忘れようがない」
宇平次も頷いた。
「門番、庄屋、善助へ伝える。外から名を呼ばれても、まず『井戸縄』を問う。答えられても、すぐには開けぬ。答えられなければ、なお開けぬ」
宗介は市松へ向いた。
「これは大きい板には書かない」
「何で」
「敵に見えたら意味がない」
「じゃあ俺は書かないのか」
「小さい板に、門番用だけ。門の内側からしか見えない場所へ」
市松は少し嬉しそうにした。
「秘密の板か」
「そう。秘密の板」
「任せろ」
この日から、笠森城の門の内側に小さな板が掛けられた。
井戸縄。
字が読める者だけでなく、井戸と縄の絵も添えられている。
市松が描いたので、少し頼りない絵だった。
だが、門番には伝わった。
午後、北の祠から弥三が城へ戻った。
おつねと子の前に立つと、言葉もなく抱き合った。
周囲の者たちは、何も言わずに見守った。
宗介は少し離れた場所でそれを見ていた。
昨夜、門を開けていれば。
おつねが走っていれば。
誰かが止められなければ。
今この光景はなかったかもしれない。
そう思うと、膝の力が抜けそうになった。
弥三はやがて弥四郎の前に膝をついた。
「妻子を守っていただき、ありがとうございます」
「城だけでは守れぬ」
弥四郎は答えた。
「南谷の者も、城を支えよ。水、薪、見張り、名の確認。できることをせよ」
「はい」
弥三は深く頭を下げた。
その日、南谷の者たちは以前よりもよく動いた。
守られているだけではない。
自分たちも城を支える。
そういう空気が、少しだけ生まれた。
おつねは竈のそばで粥を混ぜた。
弥三は足を庇いながらも、井戸の縄を編む手伝いをした。
子供は市松の横で、板の絵を覗き込んでいる。
泣き声は、まだある。
不安も消えていない。
だが、夜に敵が投げ込んだ草履は、城を割ることができなかった。
夕方、弥四郎は三枚の板を見た。
城内。
城外。
敵の腹。
そこに、さらに小さな秘密の板。
井戸縄。
「名を守るためにも、段取りが要るか」
弥四郎が言った。
宗介は頷いた。
「はい。名を盗まれると、人が動かされます」
「なら、名も兵糧か」
喜兵衛が冗談めかして言った。
宗介は少し考えた。
「兵糧を運ぶ人の名ですから」
喜兵衛は苦笑した。
「本当に、お前の兵糧はどこまでも広がるな」
「俺も困っています」
それは本音だった。
米から始まったはずだった。
粥、味噌握り、水、薪、井戸、縄、荷車、道、商人、捕虜、そして名前。
どこまで見ればいいのか分からない。
だが、見なければそこを突かれる。
夜が近づく。
門の内側には、合い言葉の小さな板。
竈には薄い粥。
井戸の縄は編み直され、予備も隠された。
南谷の家族の所在は、庄屋と善助の手元に残された。
宗介はそのすべてを見て、深く息を吐いた。
敵は米を奪う。
水を潰す。
薪を濡らす。
そして、名前を盗む。
ならばこちらは、米を数え、水を守り、薪を分け、名を確かめる。
地味で、面倒で、胸の痛む作業ばかりだ。
それでも、笠森城はまだ崩れていない。
竈の火が、ぱちりと鳴った。
宗介は粥を一椀よそい、門番へ運んだ。
門番は受け取り、小さな秘密の板をちらりと見た。
「井戸縄」
ぽつりと呟く。
その声に、宗介は頷いた。
今夜も、門は簡単には開かない。
第22話─了
新しい戦国転生短編を投稿しました。
『呂布の武と郭嘉の知を授かって戦国に転生した俺、信長の負け戦をひっくり返す』
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本作とは少し違う、武と知で戦場をひっくり返す派手めの戦国転生ものです。
よろしければ、こちらも読んでいただけると嬉しいです。




