第21話 呼び声の罠
夜になる前に、笠森城の中は静かに組み替えられた。
門の近くには、宇平次の配下だけを置く。
南谷の者は門から少し離し、竈、水場、怪我人の世話、子供たちの見守りへ分ける。
足軽と南谷の若者を一組にして水を運ばせ、城の女衆と南谷の女衆を混ぜて粥を配らせる。
捕虜は二人を離した。
若い与七は蔵から離れた壁際。
痩せた男は門にも竈にも近づけぬ場所。
どちらにも見張りをつける。
久住宗介は、板の前にしゃがみ込んでいた。
市松が炭を持っている。
「門近く、南谷の者なし。竈に南谷女衆二、城の女衆二。水汲み、足軽一と南谷一。怪我人のそばにおきぬさんと南谷のおつねさん」
「多いな」
市松は眉間に皺を寄せた。
「多いけど、書いて」
「字より絵でええか」
「分かればいい」
「またそれや」
市松はぼやきながら、板に人の印を並べていく。
その隣に、口の形と交差した二本線。
偽の呼び声。
門を開けるな。
庄屋か善助を通せ。
子供や年寄りを門へ近づけない。
宗介はそれを何度も見直した。
怖かった。
敵が門を破りに来るのも怖い。
火を投げ込まれるのも怖い。
だが今夜は、それとは違う怖さがあった。
人の心を動かされる怖さだ。
家族の名を呼ばれる。
誰かが外で倒れていると言われる。
飯を餌にされる。
あるいは、南谷の者が城内で責められる。
その時、人は理屈で止まれるのか。
宗介には自信がなかった。
「宗介」
片瀬弥四郎が声をかけた。
若い城主は、板の印を見下ろしていた。
「足りぬところは」
「あります」
宗介は即答した。
「たぶん、たくさんあります。でも、今見えている危ないところは、できるだけ塞ぎました」
「そうか」
弥四郎は頷いた。
「なら、今夜はこれで受ける」
受ける。
その言葉が、宗介には重く聞こえた。
勝ちに行くのではない。
相手の手を受ける。
受けて、崩れないようにする。
今の笠森城にできるのは、そこまでだった。
夜が落ちた。
城の外は黒く沈み、門の向こうには何も見えない。
竈の火は低く保たれ、粥の湯気だけが細く上がる。
水桶の丸印。
火消し用の二本線。
捕虜へ渡した水の印。
門番の味噌握り。
すべて板に残されていた。
最初の声が来たのは、月が雲に隠れた頃だった。
「おつね!」
門の外から、男の声がした。
城内が凍った。
南谷の女、おつねが竈のそばで顔を上げた。
彼女の腕には、小さな子がいる。
「おつね! 弥三が外で倒れとる! 聞こえぬか!」
おつねの顔から血の気が引いた。
「弥三……?」
宗介はすぐに立ち上がった。
弥三。
それが誰なのか、宗介には分からない。
だが、おつねの反応で察した。
身内だ。
夫か、兄弟か。
おつねが一歩、門の方へ動いた。
その腕を、おきぬが掴んだ。
「行っちゃ駄目だよ」
「でも、弥三が」
「本物かどうか分からない」
「でも!」
おつねの声が裂けた。
子供が泣き出す。
その泣き声で、周囲の南谷の者たちも揺れた。
門の方へ目が集まる。
足が動きかける。
宗介は叫びそうになり、堪えた。
怒鳴ってはいけない。
恐怖で動きそうになっている者に怒鳴れば、余計に崩れる。
「善助さん!」
宗介が呼ぶと、善助がすぐに来た。
「弥三という方は」
「おつねの夫です。昨日、北の祠へ年寄りを送ったはず」
「城の外にいる可能性は」
善助は一瞬迷った。
「ないとは言えませぬ。だが、外の声は怪しい」
門の外からまた声がする。
「おつね! 門を開けさせろ! 弥三が死ぬぞ!」
おつねの膝が崩れかけた。
おきぬが支える。
弥四郎が前へ出た。
「おつね」
声は静かだった。
「門は開けぬ」
おつねは涙で顔を歪めた。
「若様……」
「だが、見捨てるとも言わぬ。夜が明け次第、善助と宇平次の者に確かめさせる。今、門を開ければ、お前も子も、城の者も危うい」
「でも、もし本当に……」
「本当なら、朝に助ける」
弥四郎はまっすぐ言った。
「今、罠にかかれば、助ける者まで失う」
おつねは声を殺して泣いた。
子供も泣いている。
宗介の胸が痛んだ。
これが罠なら卑怯だ。
だが、本当でないとも言い切れない。
その苦しさを敵は使っている。
門の外の声は、なおも続いた。
「おつね! 聞こえぬのか! 子を連れて出てこい!」
宇平次が門の内側で低く命じる。
「誰も動くな。返事もするな」
足軽たちは黙って槍を握った。
返事をしない。
それだけでも、相手の手が空を切る。
しばらくすると、声は途切れた。
だが、城内の空気は戻らなかった。
おつねは子を抱いたまま震え、南谷の者たちは互いに顔を見合わせている。
宗介は市松へ言った。
「板に」
「分かってる」
市松は炭を握った。
おつね。
弥三の名。
門開けず。
朝に確認。
宗介はその印を見て、深く息を吐いた。
板に書いたからといって、おつねの不安が消えるわけではない。
だが、約束が形になる。
朝に確認する。
それを残すだけでも、少しは違う。
次の声は、門の正面ではなく、城の南側から来た。
「庄屋殿!」
南谷の庄屋が顔を上げた。
「南谷の米を返してほしければ、灰原へ来い! 話をつけられる!」
宇平次が舌打ちした。
「今度は庄屋か」
庄屋は唇を結んだ。
動こうとはしなかった。
だが、その目には揺れがあった。
米。
南谷の米。
失った一俵も、預けた九俵も、村人の腹に直結している。
「庄屋殿」
宗介は低く声をかけた。
「今は返事をしないでください」
「分かっております」
庄屋は答えた。
だが、拳は震えていた。
「米の話を外からされるのは、腹に響きますな」
「はい」
「敵は、よく分かっている」
その言葉が重かった。
敵は、こちらの痛いところをよく分かっている。
おつねの夫の名。
庄屋の米。
南谷の不安。
城内の不満。
どれも刃物ではない。
だが、人を動かすには十分すぎる。
その時、捕虜の痩せた男が笑った。
「ほら見ろ。南谷の奴らを抱えたせいで、城が腐る」
見張りの足軽が男を睨む。
痩せた男は続けた。
「お前らの粥が薄いのは誰のせいだ。南谷の口が増えたからだろうが」
足軽たちの空気が硬くなった。
宗介はすぐに弥四郎を見た。
弥四郎は頷いた。
「捕虜を離せ」
宇平次が動いた。
痩せた男を、門や竈からさらに離れた場所へ移す。
口を塞ぐのではなく、声が届きにくい場所へ。
宗介は少し意外だった。
弥四郎は痩せた男へ近づき、静かに言った。
「喋るなとは言わぬ」
痩せた男が睨む。
「だが、言葉を武器にするなら、こちらも武器として扱う」
弥四郎の声は冷たかった。
「次に城内を割る言葉を吐けば、話を聞く口ではなくなる」
痩せた男の顔がわずかに引きつった。
若い城主の本気を感じたのだろう。
宇平次が男を引きずっていく。
その間、与七は顔を伏せていた。
宗介は与七のそばへ行った。
「今の声は、甚内の手ですか」
与七は震えながら頷いた。
「たぶん。名を呼べ、と言っていました。出てこなくてもいい。中で揉めればいい、と」
宗介は胃が冷えた。
出てこなくてもいい。
中で揉めればいい。
やはり、敵は門を開けさせるだけを狙っていない。
城の中を濁らせることそのものが狙いだ。
「他には」
与七は少し迷い、言った。
「包みを投げることもある」
「包み?」
「家から取った物。草履、櫛、子供の着物。見せれば、身内が外にいると思う」
宗介は立ち上がった。
その瞬間、門の外で何かが投げ込まれた。
低い土塁の向こうから、小さな包みが庭へ転がる。
足軽が槍を向けた。
「触るな!」
宗介は叫んだ。
自分の声が思ったより大きく出た。
皆が止まる。
包みは布だった。
中から、小さな草履が片方だけ出ている。
南谷の女が悲鳴を上げた。
「それ、うちの……!」
駆け出そうとした女を、隣にいた城の女衆が抱きとめた。
混ぜて配置していたから、止められた。
南谷の者だけで固めていれば、一緒に門へ走ったかもしれない。
宗介は喉が詰まった。
配置が効いた。
だが、胸が痛い。
子供の草履まで使うのか。
宇平次が足軽へ命じた。
「長い棒で寄せろ。手で触るな」
「罠ですか」
「分からん。だから触るな」
棒で包みを広げる。
中身は草履と、小さな木片、それに少しの干し飯だった。
火薬のようなものはない。
毒かどうかも分からない。
ただ、心を揺らすには十分だった。
草履の持ち主だと叫んだ女は、その場に座り込んで泣いた。
弥四郎は彼女へ歩み寄った。
「これがあるからといって、子が外にいるとは限らぬ」
「でも、これは……」
「家から持ち出したのかもしれぬ。道で拾ったのかもしれぬ。罠かもしれぬ」
弥四郎は声を低くした。
「朝に確かめる。今は動くな」
女は泣きながら頷いた。
宗介は市松へ言った。
「板に」
市松の手は震えていた。
「草履も?」
「書く。誰の物かも。朝に確かめる」
「嫌なことばっかり書くな」
「うん」
宗介もそう思った。
嫌なことばかりだ。
だが書かなければ、朝には混乱する。
誰が何を見たか。
誰に確認を約束したか。
誰を外へ出してはいけないか。
それを忘れれば、夜の罠が朝まで続く。
しばらくして、門の外は静かになった。
だが、それで終わりではなかった。
今度は城内に不満が滲み始める。
「南谷のせいで、敵がうるせえ」
「俺らが守ってるのに、泣くばかりだ」
「草履一つで門を開けるところだったぞ」
宗介はそれを聞いて、足軽たちの方へ向かった。
怖い。
だが、放っておけば敵の思う壺だ。
「今、南谷の者を責めたら、敵の手に乗ります」
宗介は言った。
足軽の一人が睨む。
「綺麗ごとか」
「違います。敵は、そうさせたいんです」
「何だと」
「南谷の者が泣く。足軽が怒る。足軽が怒れば南谷の者が城を信じなくなる。城を信じなくなれば、次の呼び声で動く。敵はそれを待っています」
足軽たちは黙った。
宗介は続けた。
「腹が減っているのは分かります。腹が立つのも分かります。でも、今ここで怒りを南谷へ向けると、敵の飯になります」
「敵の飯?」
「はい。こちらの揉め事が、敵の腹を満たします」
妙な言い方だった。
だが、足軽たちの何人かは意味を掴んだらしい。
顔をしかめた。
「胸くそ悪いな」
「はい」
「なら、どうすりゃいい」
「水を運ぶ組を変えます。足軽だけで固まらず、南谷の若者と一緒に。文句があるなら、作業しながら言ってください」
「作業しながら文句かよ」
「座って文句を言うより、水が増えます」
誰かが小さく笑った。
苛立った笑いだったが、それでも空気が少しだけ緩んだ。
「本当にお前は、何でも飯と水に戻すな」
「それしかできません」
足軽は鼻を鳴らした。
「なら、水桶持ってくる」
「お願いします」
その後、城内では小さな動きが増えた。
泣いた女のそばには、城の女衆と南谷の年寄りを一人ずつつけた。
おつねには、朝に弥三を確認する役を善助が引き受けると伝えた。
足軽には門番用の味噌湯を少し回した。
南谷の若者には、水運びを手伝わせた。
捕虜の痩せた男は離され、与七には見張りを強めた。
全部、小さい。
だが、小さいところを放っておくと、崩れる。
宗介はそれをもう知っていた。
夜明け前、ようやく外の声は完全に消えた。
門は開かなかった。
誰も外へ走らなかった。
南谷の者は泣いたが、城内は割れなかった。
それが今夜の結果だった。
勝ちではない。
敵を討っていない。
米も増えていない。
だが、人を動かす罠に、笠森城は動かされなかった。
朝の薄明かりの中、弥四郎は門の内側に立っていた。
「善助。宇平次の者を連れて、弥三と草履の件を確かめよ。深追いはするな」
「承知しました」
「宗介」
「はい」
「今夜のことを板に残せ」
「もう、市松が書いています」
弥四郎が板を見る。
おつねの名。
弥三の呼び声。
草履の包み。
庄屋への米の誘い。
捕虜の煽り。
門開けず。
朝に確認。
城内割れず。
下手な字と印で埋まった板を見て、弥四郎は静かに言った。
「人を守るにも、帳が要るのだな」
宗介は少し考え、頷いた。
「はい。人の不安も、見えるようにしないと溜まります」
「なら、これも兵糧か」
宗介は答えに詰まった。
米でも水でも薪でもない。
人の不安。
呼び声。
家族の名。
それまで兵糧と言っていいのか。
けれど、人が崩れれば飯は回らない。
人が動けば門が開く。
人が割れれば城が割れる。
「たぶん」
宗介は言った。
「兵糧を回す人を守ることも、兵糧です」
弥四郎は頷いた。
「なら、今夜も兵糧方の戦だった」
宗介は首を横に振りかけ、やめた。
戦ったのは、門を守った者。
泣く者を止めたおきぬ。
板を書いた市松。
動かず耐えた南谷の者。
怒りを呑んだ足軽たち。
自分一人ではない。
「皆で、何とか崩れずに済みました」
宗介は言った。
弥四郎は少しだけ笑った。
「それでよい」
竈の方から、朝の粥の匂いが流れてきた。
薄い。
米粒は少ない。
それでも温かい。
宗介はその匂いを吸い込み、ようやく自分の腹が空いていることに気づいた。
人を動かす敵。
人を動かされないための段取り。
笠森城の戦は、ますます見えにくくなっている。
だが、門は開かなかった。
井戸も残っている。
竈の火も消えていない。
なら、今日も兵は立てる。
第21話─了
新しい戦国転生短編を投稿しました。
『呂布の武と郭嘉の知を授かって戦国に転生した俺、信長の負け戦をひっくり返す』
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本作とは少し違う、武と知で戦場をひっくり返す派手めの戦国転生ものです。
よろしければ、こちらも読んでいただけると嬉しいです。




