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【連載版】戦国に転生した五十一歳、兵糧係から成り上がる 〜刀は振れないが、腹を満たせば兵は立つ〜  作者: あちゅ和尚


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第21話 呼び声の罠

 夜になる前に、笠森城の中は静かに組み替えられた。


 門の近くには、宇平次の配下だけを置く。


 南谷の者は門から少し離し、竈、水場、怪我人の世話、子供たちの見守りへ分ける。


 足軽と南谷の若者を一組にして水を運ばせ、城の女衆と南谷の女衆を混ぜて粥を配らせる。


 捕虜は二人を離した。


 若い与七は蔵から離れた壁際。


 痩せた男は門にも竈にも近づけぬ場所。


 どちらにも見張りをつける。


 久住宗介は、板の前にしゃがみ込んでいた。


 市松が炭を持っている。


「門近く、南谷の者なし。竈に南谷女衆二、城の女衆二。水汲み、足軽一と南谷一。怪我人のそばにおきぬさんと南谷のおつねさん」


「多いな」


 市松は眉間に皺を寄せた。


「多いけど、書いて」


「字より絵でええか」


「分かればいい」


「またそれや」


 市松はぼやきながら、板に人の印を並べていく。


 その隣に、口の形と交差した二本線。


 偽の呼び声。


 門を開けるな。


 庄屋か善助を通せ。


 子供や年寄りを門へ近づけない。


 宗介はそれを何度も見直した。


 怖かった。


 敵が門を破りに来るのも怖い。


 火を投げ込まれるのも怖い。


 だが今夜は、それとは違う怖さがあった。


 人の心を動かされる怖さだ。


 家族の名を呼ばれる。


 誰かが外で倒れていると言われる。


 飯を餌にされる。


 あるいは、南谷の者が城内で責められる。


 その時、人は理屈で止まれるのか。


 宗介には自信がなかった。


「宗介」


 片瀬弥四郎が声をかけた。


 若い城主は、板の印を見下ろしていた。


「足りぬところは」


「あります」


 宗介は即答した。


「たぶん、たくさんあります。でも、今見えている危ないところは、できるだけ塞ぎました」


「そうか」


 弥四郎は頷いた。


「なら、今夜はこれで受ける」


 受ける。


 その言葉が、宗介には重く聞こえた。


 勝ちに行くのではない。


 相手の手を受ける。


 受けて、崩れないようにする。


 今の笠森城にできるのは、そこまでだった。


 夜が落ちた。


 城の外は黒く沈み、門の向こうには何も見えない。


 竈の火は低く保たれ、粥の湯気だけが細く上がる。


 水桶の丸印。


 火消し用の二本線。


 捕虜へ渡した水の印。


 門番の味噌握り。


 すべて板に残されていた。


 最初の声が来たのは、月が雲に隠れた頃だった。


「おつね!」


 門の外から、男の声がした。


 城内が凍った。


 南谷の女、おつねが竈のそばで顔を上げた。


 彼女の腕には、小さな子がいる。


「おつね! 弥三が外で倒れとる! 聞こえぬか!」


 おつねの顔から血の気が引いた。


「弥三……?」


 宗介はすぐに立ち上がった。


 弥三。


 それが誰なのか、宗介には分からない。


 だが、おつねの反応で察した。


 身内だ。


 夫か、兄弟か。


 おつねが一歩、門の方へ動いた。


 その腕を、おきぬが掴んだ。


「行っちゃ駄目だよ」


「でも、弥三が」


「本物かどうか分からない」


「でも!」


 おつねの声が裂けた。


 子供が泣き出す。


 その泣き声で、周囲の南谷の者たちも揺れた。


 門の方へ目が集まる。


 足が動きかける。


 宗介は叫びそうになり、堪えた。


 怒鳴ってはいけない。


 恐怖で動きそうになっている者に怒鳴れば、余計に崩れる。


「善助さん!」


 宗介が呼ぶと、善助がすぐに来た。


「弥三という方は」


「おつねの夫です。昨日、北の祠へ年寄りを送ったはず」


「城の外にいる可能性は」


 善助は一瞬迷った。


「ないとは言えませぬ。だが、外の声は怪しい」


 門の外からまた声がする。


「おつね! 門を開けさせろ! 弥三が死ぬぞ!」


 おつねの膝が崩れかけた。


 おきぬが支える。


 弥四郎が前へ出た。


「おつね」


 声は静かだった。


「門は開けぬ」


 おつねは涙で顔を歪めた。


「若様……」


「だが、見捨てるとも言わぬ。夜が明け次第、善助と宇平次の者に確かめさせる。今、門を開ければ、お前も子も、城の者も危うい」


「でも、もし本当に……」


「本当なら、朝に助ける」


 弥四郎はまっすぐ言った。


「今、罠にかかれば、助ける者まで失う」


 おつねは声を殺して泣いた。


 子供も泣いている。


 宗介の胸が痛んだ。


 これが罠なら卑怯だ。


 だが、本当でないとも言い切れない。


 その苦しさを敵は使っている。


 門の外の声は、なおも続いた。


「おつね! 聞こえぬのか! 子を連れて出てこい!」


 宇平次が門の内側で低く命じる。


「誰も動くな。返事もするな」


 足軽たちは黙って槍を握った。


 返事をしない。


 それだけでも、相手の手が空を切る。


 しばらくすると、声は途切れた。


 だが、城内の空気は戻らなかった。


 おつねは子を抱いたまま震え、南谷の者たちは互いに顔を見合わせている。


 宗介は市松へ言った。


「板に」


「分かってる」


 市松は炭を握った。


 おつね。


 弥三の名。


 門開けず。


 朝に確認。


 宗介はその印を見て、深く息を吐いた。


 板に書いたからといって、おつねの不安が消えるわけではない。


 だが、約束が形になる。


 朝に確認する。


 それを残すだけでも、少しは違う。


 次の声は、門の正面ではなく、城の南側から来た。


「庄屋殿!」


 南谷の庄屋が顔を上げた。


「南谷の米を返してほしければ、灰原へ来い! 話をつけられる!」


 宇平次が舌打ちした。


「今度は庄屋か」


 庄屋は唇を結んだ。


 動こうとはしなかった。


 だが、その目には揺れがあった。


 米。


 南谷の米。


 失った一俵も、預けた九俵も、村人の腹に直結している。


「庄屋殿」


 宗介は低く声をかけた。


「今は返事をしないでください」


「分かっております」


 庄屋は答えた。


 だが、拳は震えていた。


「米の話を外からされるのは、腹に響きますな」


「はい」


「敵は、よく分かっている」


 その言葉が重かった。


 敵は、こちらの痛いところをよく分かっている。


 おつねの夫の名。


 庄屋の米。


 南谷の不安。


 城内の不満。


 どれも刃物ではない。


 だが、人を動かすには十分すぎる。


 その時、捕虜の痩せた男が笑った。


「ほら見ろ。南谷の奴らを抱えたせいで、城が腐る」


 見張りの足軽が男を睨む。


 痩せた男は続けた。


「お前らの粥が薄いのは誰のせいだ。南谷の口が増えたからだろうが」


 足軽たちの空気が硬くなった。


 宗介はすぐに弥四郎を見た。


 弥四郎は頷いた。


「捕虜を離せ」


 宇平次が動いた。


 痩せた男を、門や竈からさらに離れた場所へ移す。


 口を塞ぐのではなく、声が届きにくい場所へ。


 宗介は少し意外だった。


 弥四郎は痩せた男へ近づき、静かに言った。


「喋るなとは言わぬ」


 痩せた男が睨む。


「だが、言葉を武器にするなら、こちらも武器として扱う」


 弥四郎の声は冷たかった。


「次に城内を割る言葉を吐けば、話を聞く口ではなくなる」


 痩せた男の顔がわずかに引きつった。


 若い城主の本気を感じたのだろう。


 宇平次が男を引きずっていく。


 その間、与七は顔を伏せていた。


 宗介は与七のそばへ行った。


「今の声は、甚内の手ですか」


 与七は震えながら頷いた。


「たぶん。名を呼べ、と言っていました。出てこなくてもいい。中で揉めればいい、と」


 宗介は胃が冷えた。


 出てこなくてもいい。


 中で揉めればいい。


 やはり、敵は門を開けさせるだけを狙っていない。


 城の中を濁らせることそのものが狙いだ。


「他には」


 与七は少し迷い、言った。


「包みを投げることもある」


「包み?」


「家から取った物。草履、櫛、子供の着物。見せれば、身内が外にいると思う」


 宗介は立ち上がった。


 その瞬間、門の外で何かが投げ込まれた。


 低い土塁の向こうから、小さな包みが庭へ転がる。


 足軽が槍を向けた。


「触るな!」


 宗介は叫んだ。


 自分の声が思ったより大きく出た。


 皆が止まる。


 包みは布だった。


 中から、小さな草履が片方だけ出ている。


 南谷の女が悲鳴を上げた。


「それ、うちの……!」


 駆け出そうとした女を、隣にいた城の女衆が抱きとめた。


 混ぜて配置していたから、止められた。


 南谷の者だけで固めていれば、一緒に門へ走ったかもしれない。


 宗介は喉が詰まった。


 配置が効いた。


 だが、胸が痛い。


 子供の草履まで使うのか。


 宇平次が足軽へ命じた。


「長い棒で寄せろ。手で触るな」


「罠ですか」


「分からん。だから触るな」


 棒で包みを広げる。


 中身は草履と、小さな木片、それに少しの干し飯だった。


 火薬のようなものはない。


 毒かどうかも分からない。


 ただ、心を揺らすには十分だった。


 草履の持ち主だと叫んだ女は、その場に座り込んで泣いた。


 弥四郎は彼女へ歩み寄った。


「これがあるからといって、子が外にいるとは限らぬ」


「でも、これは……」


「家から持ち出したのかもしれぬ。道で拾ったのかもしれぬ。罠かもしれぬ」


 弥四郎は声を低くした。


「朝に確かめる。今は動くな」


 女は泣きながら頷いた。


 宗介は市松へ言った。


「板に」


 市松の手は震えていた。


「草履も?」


「書く。誰の物かも。朝に確かめる」


「嫌なことばっかり書くな」


「うん」


 宗介もそう思った。


 嫌なことばかりだ。


 だが書かなければ、朝には混乱する。


 誰が何を見たか。


 誰に確認を約束したか。


 誰を外へ出してはいけないか。


 それを忘れれば、夜の罠が朝まで続く。


 しばらくして、門の外は静かになった。


 だが、それで終わりではなかった。


 今度は城内に不満が滲み始める。


「南谷のせいで、敵がうるせえ」


「俺らが守ってるのに、泣くばかりだ」


「草履一つで門を開けるところだったぞ」


 宗介はそれを聞いて、足軽たちの方へ向かった。


 怖い。


 だが、放っておけば敵の思う壺だ。


「今、南谷の者を責めたら、敵の手に乗ります」


 宗介は言った。


 足軽の一人が睨む。


「綺麗ごとか」


「違います。敵は、そうさせたいんです」


「何だと」


「南谷の者が泣く。足軽が怒る。足軽が怒れば南谷の者が城を信じなくなる。城を信じなくなれば、次の呼び声で動く。敵はそれを待っています」


 足軽たちは黙った。


 宗介は続けた。


「腹が減っているのは分かります。腹が立つのも分かります。でも、今ここで怒りを南谷へ向けると、敵の飯になります」


「敵の飯?」


「はい。こちらの揉め事が、敵の腹を満たします」


 妙な言い方だった。


 だが、足軽たちの何人かは意味を掴んだらしい。


 顔をしかめた。


「胸くそ悪いな」


「はい」


「なら、どうすりゃいい」


「水を運ぶ組を変えます。足軽だけで固まらず、南谷の若者と一緒に。文句があるなら、作業しながら言ってください」


「作業しながら文句かよ」


「座って文句を言うより、水が増えます」


 誰かが小さく笑った。


 苛立った笑いだったが、それでも空気が少しだけ緩んだ。


「本当にお前は、何でも飯と水に戻すな」


「それしかできません」


 足軽は鼻を鳴らした。


「なら、水桶持ってくる」


「お願いします」


 その後、城内では小さな動きが増えた。


 泣いた女のそばには、城の女衆と南谷の年寄りを一人ずつつけた。


 おつねには、朝に弥三を確認する役を善助が引き受けると伝えた。


 足軽には門番用の味噌湯を少し回した。


 南谷の若者には、水運びを手伝わせた。


 捕虜の痩せた男は離され、与七には見張りを強めた。


 全部、小さい。


 だが、小さいところを放っておくと、崩れる。


 宗介はそれをもう知っていた。


 夜明け前、ようやく外の声は完全に消えた。


 門は開かなかった。


 誰も外へ走らなかった。


 南谷の者は泣いたが、城内は割れなかった。


 それが今夜の結果だった。


 勝ちではない。


 敵を討っていない。


 米も増えていない。


 だが、人を動かす罠に、笠森城は動かされなかった。


 朝の薄明かりの中、弥四郎は門の内側に立っていた。


「善助。宇平次の者を連れて、弥三と草履の件を確かめよ。深追いはするな」


「承知しました」


「宗介」


「はい」


「今夜のことを板に残せ」


「もう、市松が書いています」


 弥四郎が板を見る。


 おつねの名。


 弥三の呼び声。


 草履の包み。


 庄屋への米の誘い。


 捕虜の煽り。


 門開けず。


 朝に確認。


 城内割れず。


 下手な字と印で埋まった板を見て、弥四郎は静かに言った。


「人を守るにも、帳が要るのだな」


 宗介は少し考え、頷いた。


「はい。人の不安も、見えるようにしないと溜まります」


「なら、これも兵糧か」


 宗介は答えに詰まった。


 米でも水でも薪でもない。


 人の不安。


 呼び声。


 家族の名。


 それまで兵糧と言っていいのか。


 けれど、人が崩れれば飯は回らない。


 人が動けば門が開く。


 人が割れれば城が割れる。


「たぶん」


 宗介は言った。


「兵糧を回す人を守ることも、兵糧です」


 弥四郎は頷いた。


「なら、今夜も兵糧方の戦だった」


 宗介は首を横に振りかけ、やめた。


 戦ったのは、門を守った者。


 泣く者を止めたおきぬ。


 板を書いた市松。


 動かず耐えた南谷の者。


 怒りを呑んだ足軽たち。


 自分一人ではない。


「皆で、何とか崩れずに済みました」


 宗介は言った。


 弥四郎は少しだけ笑った。


「それでよい」


 竈の方から、朝の粥の匂いが流れてきた。


 薄い。


 米粒は少ない。


 それでも温かい。


 宗介はその匂いを吸い込み、ようやく自分の腹が空いていることに気づいた。


 人を動かす敵。


 人を動かされないための段取り。


 笠森城の戦は、ますます見えにくくなっている。


 だが、門は開かなかった。


 井戸も残っている。


 竈の火も消えていない。


 なら、今日も兵は立てる。


第21話─了

新しい戦国転生短編を投稿しました。


『呂布の武と郭嘉の知を授かって戦国に転生した俺、信長の負け戦をひっくり返す』


https://ncode.syosetu.com/n4580mf/


本作とは少し違う、武と知で戦場をひっくり返す派手めの戦国転生ものです。

よろしければ、こちらも読んでいただけると嬉しいです。

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