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【連載版】戦国に転生した五十一歳、兵糧係から成り上がる 〜刀は振れないが、腹を満たせば兵は立つ〜  作者: あちゅ和尚


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第2話 兵糧蔵の底

 夜が明けても、笠森城の煙は消えなかった。


 敵の姿は、ひとまず丘の向こうへ退いている。


 けれど、それは勝ったということではなかった。


 土塁の一部は崩れ、木柵は何本も折れ、門の脇には血を吸った泥が黒く残っていた。櫓の下では、怪我をした足軽が呻いている。粥を飲んで眠った者もいれば、味噌握りを握ったまま座り込んでいる者もいた。


 久住宗介は、竈のそばに腰を下ろしていた。


 身体中が痛い。


 腕も肩も腰も、まるで長い荷降ろしを休まず続けた後のように軋んでいる。腰を下ろす場所はあっても、心を休める場所はない。現代なら当たり前にあった逃げ場が、ここには一つもなかった。


 水はぬるく、椀は欠け、煙は目にしみる。


 それでも、朝の冷えた空気の中に、米の匂いが残っていた。


 それだけが救いだった。


「久住宗介」


 声をかけられ、宗介は顔を上げた。


 片瀬弥四郎が立っていた。


 若い城主は、夜を越えてなお鎧を解いていない。顔には疲れが見えたが、目は濁っていなかった。傍らには郎党が二人。少し離れて、昨日宗介と言い合った古参の男も控えている。


「立てるか」


「……はい」


 宗介は膝に手をついて立ち上がった。


 ふらついた。


 すぐに弥四郎の郎党が手を伸ばしかけたが、宗介はそれを断った。


「大丈夫です」


 大丈夫ではなかった。


 だが、ここでいきなり倒れるわけにはいかない。


 弥四郎は無理に急かさず、宗介が息を整えるのを待った。


「昨夜のこと、改めて礼を言う」


「礼を言われるほどではありません。食わせただけです」


「その食わせることが、できておらなんだ」


 弥四郎の声に、悔しさが混じった。


 若さゆえの意地ではない。


 本当に見ていたのだろう。


 粥を飲んだ兵が立ち、味噌握りを懐に入れた足軽の目が戻ったことを。


 宗介は小さく頭を下げた。


「兵が立ったのは、城に米と味噌が残っていたからです。無ければ、俺には何もできませんでした」


「その米と味噌を見てほしい」


 弥四郎は城の奥を顎で示した。


「今日よりしばらく、お前を兵糧方の手伝いに置く。喜兵衛」


 古参の男が一歩前に出た。


 昨日、宗介に「米を無駄にしたら斬る」と言った男である。


 名は喜兵衛というらしい。


 太い眉と皺の刻まれた顔。若い足軽なら睨まれただけで黙りそうな迫力があった。


「この者に蔵を見せよ」


「若、本気でございますか」


「二度は言わぬ」


 弥四郎の声は静かだった。


 喜兵衛は唇を結び、深く頭を下げた。


「承知しました」


 その声には不満が残っていた。


 宗介は胃の奥が重くなるのを感じた。


 無理もない。


 素性の知れない流れ者が、いきなり兵糧方に口を出す。現代の現場でも揉める。ましてここは戦国だ。下手をすれば、口論で済まない。


 弥四郎は宗介へ向き直った。


「宗介。城の米を守るのは、槍を持って門に立つのと同じだ。いや、時にはそれより難しい」


「分かっています」


「分かっておるなら、まず見よ。分からぬことは聞け。勝手に動かすな」


「はい」


「ただし、見て何か気づいたなら申せ。耳は貸す」


 宗介は弥四郎を見た。


 若い。


 まだ危うい。


 だが、この若城主は自分の知らないものを知らないままにしようとはしていない。


 そこに、宗介は小さな希望を見た。


「承知しました」


 そう答えると、弥四郎は門の修繕へ向かった。


 宗介は喜兵衛の背を追った。


 兵糧蔵は、城の奥まった場所にあった。


 外から見ると、ただの低い板屋に見える。だが近づくと、土壁の下に隙間があり、扉の脇には古い縄が垂れていた。鍵はある。だが扉の合わせ目は歪み、湿った風が入っている。


 喜兵衛が鍵を開けた。


「入れ」


 中へ一歩踏み込んだ瞬間、宗介は息を止めた。


 臭いが悪い。


 米の臭いだけではない。


 湿気。


 古い藁。


 黴。


 鼠の糞。


 味噌の濃い匂い。


 塩気。


 それらが狭い蔵の中で混ざり、重く沈んでいた。


 宗介は思わず天井を見た。


 梁の端に黒ずみがある。


 雨漏りだ。


「……ここ、雨が入りますか」


 喜兵衛の眉が動いた。


「少しだ」


「少しではありません。あの梁が湿っています。下の俵は危ない」


「俵はどれも大事だ」


「だからです」


 宗介は近くの俵に手を置いた。


 表面は乾いているように見えた。


 だが、下の方が重い。藁に湿りがある。


 俵を持ち上げようとしたが、腰が悲鳴を上げた。


「ぐっ……」


 持ち上がらない。


 現代で扱った米袋とは重さも形も違う。身体の使い方も分からない。


 そばにいた小者が鼻で笑った。


「口ほどにもねえな」


 宗介は悔しかったが、言い返せなかった。


 知識はあっても、この身体では俵一つ満足に動かせない。


 それが、情けないほどはっきり分かった。


「すまん。二人で傾けてくれ。下を見たい」


「偉そうに言うな」


 小者が吐き捨てた。


 喜兵衛が低く言った。


「やれ」


 小者二人が渋々俵を傾けた。


 下の藁が黒ずんでいた。


 宗介は膝をつき、指で触れた。


 湿っている。


 鼻へ近づけると、酸っぱい臭いがした。


「これは上へ積んだままでは駄目です。早く使うか、干すか、別にしないと周りまで悪くなる」


「米を干すだと?」


「俵のままではなく、中を確かめて。駄目なものと使えるものを分けます」


「そんな暇があるか」


「このままにした方が、もっと暇がなくなります」


 宗介は立ち上がり、蔵の中を見回した。


 俵はある。


 量だけ見れば、すぐに尽きるほどではない。


 しかし、置き方が悪い。


 古いものが奥に押し込まれ、新しいものが手前に積まれている。重い俵が下の俵を潰し、壁際は湿気を吸っている。鼠にかじられた跡もある。干し飯の袋は口が甘く、塩の袋は味噌樽の近くに置かれ、湿りかけていた。


 戦は、槍だけで崩れるのではない。


 蔵の底からも崩れる。


 湿った俵一つ。


 数え忘れた干し飯一袋。


 誰に渡したか分からない米。


 そういう小さな穴から、城の腹は空になっていく。


「帳面はありますか」


「帳面?」


 喜兵衛が訝しげに見た。


「米がいつ入り、どれだけ出たか。味噌、塩、干し飯、薪。どれを、誰に、どれほど渡したか。書いたものです」


「あるにはある」


 喜兵衛は奥の棚から板切れと古い紙束を出した。


 宗介は受け取り、広げた。


 文字は読める。


 なぜ読めるのか、自分でも分からなかった。だが、読めることに今は感謝した。


 ただ、内容は酷かった。


 米、何俵。


 味噌、少々。


 塩、袋一つ。


 兵へ渡す。


 人足へ渡す。


 それだけ。


 日付も曖昧。誰が受け取ったかも曖昧。減った理由も曖昧。


 これでは、あと何日持つか分からない。


 宗介は額を押さえた。


「これでは、城の腹が見えません」


「城の腹?」


「はい。どれだけ食えば、どれだけ減るのか。誰に渡したか。何日もつのか。それが分からないと、米があっても足りるかどうか分かりません」


「腹が減った者に食わせ、戦の前に握りを作る。昔からそうしてきた」


「昔からそうして持っていたなら、それでいいです。でも昨夜、兵は倒れかけていました」


 喜兵衛の目が鋭くなった。


 宗介は一瞬身構えた。


 だが、ここは引けない。


「責めているわけではありません。人数が少ない。戦が続く。村から入る米も読めない。怪我人も出る。だから、ざっくりでは持たないんです」


「では、お前なら分かるのか」


「今は分かりません」


 宗介は正直に言った。


「米の量も、人の数も、一日に食う分も、水場の距離も、薪の乾き具合も分かりません。だから、まず数えます」


 小者がまた笑った。


「数えるだけで城が守れるか」


「数えないと、守る前に腹が空きます」


 宗介は蔵の入口を振り返った。


 外では、足軽たちが柵を直している。木を運ぶ者の足取りは重い。朝の粥で少しは動けているが、昨夜の疲れが消えたわけではない。


 もし、今日の昼を抜けば。


 もし、夕方の水が遅れれば。


 また空気は荒れる。


 そして次に敵が来た時、同じ手は通じない。


 粥を炊けばどうにかなる、という話ではない。


 炊くための米、水、薪、人手、時間。


 それらを揃える仕組みがなければ、次は間に合わない。


「喜兵衛殿」


「殿はいらん」


「では、喜兵衛」


「いきなり呼び捨てか」


「すみません。では、どう呼べば」


「……喜兵衛でよい」


 ぶっきらぼうな声だった。


 だが、宗介を追い出そうとはしていなかった。


 昨日の粥。


 門へ戻った足軽の顔。


 それが喜兵衛の中にも残っているのだろう。


 宗介は頷いた。


「この城に、今、飯を食う者は何人いますか」


 喜兵衛は少し黙った。


「戦える足軽が四十ほど。怪我で寝ておる者が七。小者、人足、女衆を入れれば、百には届かぬくらいだ」


「百には届かぬほど」


 宗介は板切れを手に取り、土間に膝をついた。


 炭の欠片で線を引く。


 足軽。


 怪我人。


 小者。


 女衆。


 人足。


 城主の近習。


 それぞれに丸をつけていく。


「一日に、皆が同じだけ食うわけではない。働く者、見張る者、怪我人。分ける必要があります」


「分ければ、不満が出る」


「出ます。だから、決め方を見えるようにします」


「見えるように?」


「誰に渡したか分からないから揉めます。二度取る者と、取れない者が出る。取れない者は怒る。怒れば、次は奪おうとする」


 小者たちが黙った。


 宗介の言葉が偉そうな命令ではなく、昨日の光景と繋がっているからだろう。


 腹が入ったから、手が動いた。


 水があったから、門へ戻れた。


 それを彼ら自身が覚えている。


「米俵は、全部でいくつですか」


「数えれば分かる」


「数えたものはありますか」


「……古いものなら」


「なら、今の数を数え直しましょう。食えるもの、怪しいもの、すぐ使うもの、残すもの。分けます」


「勝手に動かすなと言われたはずだ」


「はい。だから、まず分け方だけ決めて、弥四郎様に見てもらいます」


 喜兵衛は少しだけ目を細めた。


 宗介が城主の命を盾に好き勝手するつもりではないと分かったのかもしれない。


「ふん。口は回る」


「手も動かします。重い俵は持てませんが」


 自分で言って、宗介は苦笑した。


 小者の一人がまた鼻を鳴らしたが、さっきより棘は薄かった。


 その時、蔵の外から足軽が駆け込んできた。


「喜兵衛殿! 昼の飯はどうする!」


「まだ朝を食わせたばかりだ」


「柵の修繕に出た者が腹を減らしてる。昨夜からまともに寝てねえ」


 宗介はすぐに口を開きかけた。


 だが、喜兵衛が先に宗介を見た。


「どうする、兵糧方殿」


 嫌味だった。


 それでも、聞いている。


 宗介は蔵の中をもう一度見た。


 白飯をたっぷり食わせれば、米は減る。


 抜けば、柵の修繕が止まる。


 粥だけでは力が出ない者もいる。


 ならば。


「柵の修繕に出ている者には、味噌握りを小さく二つ。水を一杯。怪我人には粥を続ける。門番には干し飯を少し持たせる。昼に全員を一度に集めない。持ち場ごとに配ります」


「なぜだ」


「一斉に集めると、修繕も見張りも止まります。並ばせれば揉めます。配る方が大変ですが、場は崩れません」


「誰が配る」


 宗介は詰まった。


 そこだ。


 米があっても、人が足りなければ回らない。


 自分一人が走り回っても無理だ。昨日は火事場だったから動けただけで、毎日あれをやれば倒れる。


「配る者を決めます。走れる小者を二人。水は別に二人。握りを作る者は竈に残す。誰に渡したか、板に印をつける」


「いちいち印など」


「いちいちやらないと、渡したつもり、もらってない、が起きます。腹が絡むと、人は荒れます」


 足軽が気まずそうに目を逸らした。


 昨夜、押し合いになりかけたのを思い出したのだろう。


 喜兵衛は黙っていたが、否定はしなかった。


「その板を何枚かください。炭で書きます。字が読めなくても分かるように、丸と線でいい」


「丸と線?」


「飯を渡したら一つ。水を渡したら一つ。見れば分かるようにします」


「帳面ではないのか」


「帳面は後でまとめます。動いている最中は、早く見える方がいい」


 宗介はそこで口を閉じた。


 不用意に現代の言葉を出しすぎるべきではない。


 すでに十分怪しい。


 これ以上、妙なところを増やすべきではなかった。


 蔵を出ると、空は白く濁っていた。


 城の庭では、足軽たちが折れた柵を運び、女衆が欠けた椀を洗っている。竈の火は小さくなっていたが、灰の奥に赤みが残っている。


 宗介は薪置き場へ向かった。


 そこでも、頭を抱えたくなった。


 乾いた薪と湿った薪が混ざっている。


 太いものばかりが手前にあり、焚きつけに使う細い枝は奥へ押し込まれていた。雨を避ける屋根も低く、横から吹き込めば簡単に濡れる。


「これも分けます」


 宗介が呟くと、小者が嫌そうな顔をした。


「今度は薪かよ」


「米があっても、火がなければ飯にならない」


「それはそうだが」


「湿った薪は煙が出る。火が弱い。飯が遅れる。飯が遅れれば、兵が荒れる」


 宗介は薪を三つに分けさせた。


 すぐ使う乾いた薪。


 乾かせば使える薪。


 今は火に向かない薪。


 単純な分け方だった。


 だが、その単純なことがされていない。


 次に水場を見た。


 井戸は城内に一つ。


 ただし、深い。


 縄が古く、釣瓶の縁が割れかけている。水を汲む場所の足元は泥で滑りやすく、桶を置く場所も決まっていない。夜に慌てて汲めば、転ぶ者が出る。


「ここで怪我人が出ます」


「井戸でか」


「滑ります。桶を落とすか、足を捻るか。夜ならなおさらです」


「井戸でまで兵糧方が口を出すのか」


「水がなければ飯になりません。怪我人も洗えません。兵も立てません。だから口を出します」


 小者は呆れたように首を振った。


「飯のことばかりだな」


「飯のことばかりです」


 宗介はそう答えた。


 それ以上のことはできない。


 軍議で策を語ることも、槍を取って敵を追うこともできない。織田だの斎藤だの今川だの、名前は知っていても、この笠森城が今どの流れにいるのかさえ分からない。


 自分の知識は、穴だらけだった。


 だからこそ、見えるものを見るしかない。


 米。


 水。


 薪。


 塩。


 味噌。


 干し飯。


 人の腹。


 人の足。


 そこなら、宗介にも分かる。


 昼前、弥四郎が兵糧蔵へ戻ってきた。


 宗介は土間に並べた板切れを前に、膝をついた。


 板には炭で印がついている。


 米俵。


 湿りあり。


 味噌樽。


 塩袋。


 干し飯。


 薪。


 水桶。


 人の数。


 まだ粗い。


 とても帳面とは呼べない。


 だが、見れば分かる。


 どこに何があり、何が怪しく、何がすぐ使えるのか。


 弥四郎はしばらく黙って見ていた。


「これは、お前が書いたのか」


「はい。まだ途中です」


「途中でこれか」


「正確ではありません。米の量も、食える量と怪しい量を分けきれていません。薪も水も、人手も足りません」


「足りぬことばかりだな」


「はい」


 宗介は顔を上げた。


「このまま次の小競り合いが来れば、笠森城は持ちません」


 周囲の空気が硬くなった。


 喜兵衛が低い声を出した。


「流れ者が、軽々しく申すな」


「軽くは言っていません」


 宗介の声も震えていた。


 怖い。


 こんなことを言えば、怒りを買う。


 だが、黙っていて次に同じことが起きれば、もっと多く死ぬ。


「昨日は、たまたま間に合いました。米があり、味噌があり、敵が一度退いたからです。でも次は、雨かもしれません。夜かもしれません。敵が門に張りついたままかもしれません。怪我人がもっと多いかもしれません。その時、今の蔵では飯が遅れます。水が届きません。薪が燃えません」


 弥四郎は板切れから目を離さなかった。


「では、何から直す」


 宗介は息を吸った。


 その問いを待っていた。


「まず、蔵の中を三つに分けます。すぐ使うもの。守って残すもの。怪しいもの。次に、毎日減る量を見ます。誰がどれだけ食ったか、厳密でなくても印をつけます。それから水桶と薪の置き場を決めます。門、竈、怪我人のいる場所。この三つへ、すぐ届くようにします」


「米を増やす話ではないのか」


「増やす前に、減り方を知らないと増やしても消えます」


 弥四郎の目が宗介へ向いた。


 宗介は続けた。


「それと、村から奪うだけでは駄目です。村に残す分を考えなければ、次の米がなくなります。民が逃げれば、城に入る手も減ります」


 弥四郎の表情がわずかに動いた。


 そこは、若城主自身も痛いほど分かっている場所なのだろう。


「村のことは、後で申せ」


「はい」


「まず蔵だ」


 弥四郎は喜兵衛を見た。


「喜兵衛。宗介に手を貸せ」


「若」


「蔵を守るのは、お前の役目だ。ならば、蔵の弱いところを知るのも、お前の役目であろう」


 喜兵衛は深く息を吐いた。


 長い沈黙の後、頭を下げた。


「……承知しました」


 宗介は胸を撫で下ろしかけた。


 だが、その時、門の方から裸足の小者が駆け込んできた。


「若!」


 弥四郎が振り向く。


「何事だ」


「南の村より知らせ! 昨夜退いた賊が、川向こうにまだおります! 数は多くありませぬが、夜までにまた動くやもしれぬと!」


 城の庭がざわめいた。


 足軽たちの顔に、昨日の疲れと恐怖が戻る。


 宗介は思わず蔵を見た。


 湿った米。


 混ざった薪。


 深い井戸。


 数の合わない干し飯。


 誰にどれだけ渡したか分からない帳面。


 まだ何一つ、直っていない。


 弥四郎が静かに言った。


「宗介」


「はい」


「夜までに、どこまでできる」


 無茶だ。


 そう思った。


 全部など無理だ。


 蔵の整理も、水場の足元も、薪の置き場も、人の割り振りも、一日で整うものではない。


 だが、夜は待ってくれない。


 敵も待ってくれない。


 戦国は、こちらの段取りが終わるまで止まってはくれない。


 宗介は板切れを握った。


「全部は無理です」


「分かっている」


「なら、今夜死なないための分だけやります」


 弥四郎の目が強くなった。


「申せ」


「門の内側に水桶を置きます。竈の火は落とさず、粥を少し薄めに続けます。干し飯を小分けにして、門番と見張りへ配ります。湿った薪は使わず、乾いた薪だけを前へ。怪我人は風を避ける場所へまとめます。飯を取りに来させず、こちらから持ち場へ回します」


「人は」


「走れる小者を四人ください。水二人、飯二人。あと、誰に渡したか印をつける者を一人」


「喜兵衛」


「出します」


 喜兵衛の返事は短かった。


 だが、先ほどより早かった。


 宗介は息を吐き、すぐに竈の方へ向かった。


 腹の底には、まだ恐怖があった。


 逃げたい気持ちもある。


 だが、逃げたところで行く場所などない。


 ここで飯を回さなければ、また誰かが倒れる。


 ここで水を置かなければ、また誰かの足が止まる。


 笠森城は、小さい。


 頼りない。


 土と木と、人の腹でどうにか立っている。


 だからこそ、宗介のすることは決まっていた。


「火を落とすな!」


 竈の前で、宗介は声を張った。


「粥を続ける! 干し飯は小さく分けろ! 水桶は門の左右! 走る者の邪魔になる場所へ置くな!」


 足軽たちが振り向く。


 まだ疑う目がある。


 面白くなさそうな顔もある。


 それでも、昨日粥を飲んだ者が一人、立ち上がった。


「俺が水を運ぶ」


 別の若い小者が、渋々手を上げた。


「じゃあ俺は握りを持ってく」


 宗介は頷いた。


「一度に欲張るな。運べる分だけ持て。落とした飯は戻らない」


 その言葉に、誰かが小さく笑った。


 笑えるなら、まだ動ける。


 宗介は煙の中で、次の鍋を覗き込んだ。


 薄い粥が、ふつふつと音を立てていた。


 米は少ない。


 水も楽ではない。


 薪も限られている。


 蔵の底は、まだ乱れたままだ。


 だが、火は消えていない。


 夜までに間に合わせなければならない。


 それだけを胸に、宗介は震える手で粥をかき混ぜた。


第2話─了

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