第1話 腹を満たせば兵は立つ
煙の臭いで、久住宗介は目を開けた。
まず、喉が焼けた。
次に、鼻の奥へ土と血と汗の臭いが入り込んだ。
どこかで木が爆ぜている。ぱち、と乾いた音がした。その向こうで、誰かが呻いていた。
「……なんだ、ここは」
声に出したつもりだったが、喉から漏れたのは掠れた息だけだった。
宗介は泥の上に膝をついていた。
背広ではない。作業着でもない。粗末な小袖に、わらじ。手は土で黒く汚れ、爪の間に泥が詰まっている。
五十一年を生きた自分の感覚からすれば、腕も肩も妙に軽い。だが腰の奥には、重い疲れが残っていた。
自分の身体であって、自分の身体ではない。
そんな気味の悪い違和感が、泥の冷たさと一緒に背筋を這い上がってきた。
夢ではない。
夢なら、こんな臭いはしない。
遠くで怒号が上がった。
「退け! 門へ戻れ!」
「水はないのか、水!」
「米を寄越せ! 何でもいい、食わせろ!」
宗介は顔を上げた。
小さな城だった。
石垣など立派なものはない。土塁と木柵と、急ごしらえの櫓。山というより、丘の肩にしがみつくような城である。
笠森城。
その名は、自分の知識ではなかった。
まるでこの身体の奥に沈んでいた記憶が、泥の中から浮かび上がるように、宗介の頭に残っていた。
尾張、美濃、三河。
その境目にある、小さな小さな城。
大勢力に飲まれれば、名も残らず潰える城。
宗介の背筋が冷えた。
戦国。
その言葉だけが、泥より重く胸に沈んだ。
「おい、そこで座ってる奴! 死んでねえなら手を貸せ!」
怒鳴られて振り向くと、頬に泥を塗った足軽がこちらを睨んでいた。兜は歪み、肩で息をしている。腹が減っているのが顔に出ていた。
宗介は立ち上がろうとした。
膝が笑った。
怖い。
とんでもなく怖い。
刀も槍も持ったことがない。喧嘩だって、五十一年生きてきて本気のものは数えるほどしかない。殴られるのも斬られるのも御免だった。
だが、目の前の足軽たちはもっと酷かった。
腹が空いている。
水が足りていない。
足が止まりかけている。
その顔を見た瞬間、宗介の中で別の感覚が起きた。
現場が崩れる前の顔だ。
荷が遅れ、積み込みが詰まり、休憩が飛び、人が怒鳴り始める。事故が起きる前の空気。誰も悪くないと言いながら、誰かが必ず潰れる空気。
宗介はそれを知っていた。
刀は振れない。
戦はできない。
だが、崩れかけた現場の臭いだけは分かる。
「米はどこだ」
「あ?」
「米と水と薪だ。味噌はあるか。鍋は。釜は。使える竈はどこだ」
足軽が目を剥いた。
「何を言ってやがる。今は敵が――」
「敵が来るなら、なおさらだ。腹が空いた足で逃げられるか。水を飲んでない腕で槍が持てるか」
自分でも驚くほど、声が出た。
怖さが消えたわけではない。足は震えていた。背中は汗で濡れていた。
それでも、今ここで黙って座っていれば死ぬ。
腹が減った兵は、立てない。
立てない兵は、逃げることも守ることもできない。
「米蔵はあっちだ! けど鍵は兵糧方の爺が――」
「鍵なんか後だ。使える分を出せ。炊ける米、炊けない米、干し飯、割れ米、全部分けろ。水を運ぶ者を二人。薪を割る者を二人。怪我の重い者は座らせろ。動ける者は、動かす」
「お前、何者だ」
「知らん!」
宗介は本音を吐いた。
「俺にも分からん。だが、飯の段取りだけは分かる!」
足軽は呆けた顔をした。
次の瞬間、城の内側でまた怒号が上がった。
「兵糧が足りぬ! 勝手に食わせるな!」
「なら足りるように食わせるんだ!」
宗介は怒鳴り返し、ふらつきながら走った。
米蔵は酷かった。
俵は積まれているが、積み方が悪い。湿気たものが下に押し込まれ、使いやすい場所に古い米と新しい米が混ざっていた。味噌樽は蓋が甘く、塩は布袋のまま床に置かれている。薪は乾いたものと湿ったものが一緒くたで、竈のそばには灰が溜まって火の回りが悪い。
宗介は額を押さえた。
これは戦以前の問題だ。
だが、文句を言っている暇はない。
「湿った薪は後ろ! 乾いたのを前へ出せ! 細い薪から燃やせ、太いのをいきなり突っ込むな!」
「おい、こいつ何で薪の燃やし方なんぞ――」
「喋る暇があるなら手を動かせ!」
宗介は米を見た。
全員に白飯を食わせる余裕はない。時間もない。腹を満たし、身体を温め、塩気を入れ、すぐ動ける形にしなければならない。
「粥だ。薄くていい。怪我人と足の震えてる奴から先に飲ませろ」
「薄い粥で戦えるかよ」
「いきなり固い飯を詰め込んだら吐く。まず温かいものを腹に入れろ」
宗介は味噌樽の蓋を開けた。
匂いが立った。
濃い。
辛い。
だが、今はそれが必要だった。
「飯が炊けたら、味噌を少し混ぜる。塩も少し。大きく握るな。小さく、数を作れ。門へ戻る者に持たせる」
「味噌を飯に?」
「そうだ。味噌握りだ。手が汚い奴は水で流せ。飲み水と洗う水は分けろ!」
宗介は自分の口が勝手に動いている気がした。
荷を積む時も同じだった。
重いものを下へ。
壊れるものは分ける。
先に出す荷は手前に置く。
休憩を飛ばせば、人は壊れる。
水を切らせば、現場は荒れる。
それが米と薪と人の身体に変わっただけだ。
「干し飯は?」
「奥にある!」
「奥に置くな、馬鹿野郎!」
思わず怒鳴ってから、宗介は息を詰めた。
戦国の男を馬鹿呼ばわりした。
殴られるかと思った。
だが、怒鳴られた若い小者は、一瞬むっとしただけで俵の陰を指した。
「……あれだ」
「よし。袋に分けろ。見張りと門に詰める者へ持たせる。空腹は後から来る」
火が強くなった。
竈の上で鍋が鳴り、薄い粥がふつふつと泡を立てた。湯気が立つ。米の甘い匂いに、味噌の匂いが混じる。
その匂いに、周囲の足軽たちの目が変わった。
「おい……食えるのか」
「俺にも寄越せ」
「並べ!」
宗介は叫んだ。
「押すな! こぼしたら終わりだ! 先に怪我人、次に門から戻った者、次に見張りに立つ者だ。器がないなら葉でも板でも使え。熱いからゆっくり飲め!」
「何でお前が仕切ってんだ!」
古参らしい男が怒鳴った。
顎に白い髭が混じり、目つきが鋭い。兵糧方の者か、足軽頭か。少なくとも、城の中で口を利ける立場の男だった。
宗介は一瞬、言葉に詰まった。
ここで言い負かせるほどの度胸はない。
だが、鍋の前で引けば終わる。
「仕切りたいわけじゃない」
宗介は息を整えた。
「今、飯を配らなければ、門の前の者が崩れる。門が崩れれば、ここにある米も味噌も薪も、全部敵に取られる。あなたが兵糧を守りたいなら、まず兵を立たせるべきだ」
男の眉が動いた。
「……口だけは達者だな」
「口だけなら、粥は煮えません」
その言い方が妙だったのか、近くの足軽が小さく吹き出した。
空気がわずかに緩んだ。
古参の男は宗介を睨み、それから鍋を見た。湯気を見た。湯気を見つめる足軽たちの目を見た。
「半刻だけだ」
「それだけあれば足ります」
「米を無駄にしたら斬るぞ」
「無駄にしません」
斬る。
さらりと言われたその言葉に、宗介の背中が凍った。
この時代では、本当に斬られる。
冗談ではない。
それでも、手は止められなかった。
椀を受け取った足軽が、粥を啜った。
目が見開かれた。
次の男も啜った。喉を鳴らした。熱さに顔をしかめ、それでも椀を離さなかった。
「……うめえ」
「薄いぞ」
「薄くても熱い。腹に落ちる」
「味噌の握り、まだか」
「焦るな。小さく握れと言っただろう!」
宗介は飯を握る手を見た。
女もいた。小者もいた。足軽の一人が、不器用な手で味噌のついた飯を丸めている。形はいびつだったが、それでいい。きれいな握り飯を作る場ではない。
食えればいい。
持てればいい。
数が出ればいい。
城の外で、また鬨の声が上がった。
敵が近い。
足軽たちの肩が跳ねた。
だが、先ほどまでのような崩れ方ではなかった。
味噌握りを一つ口へ押し込み、水を飲み、槍を掴む男がいた。粥を飲み終えた若い足軽が、震える膝を叩いて立った。
「行けるか」
誰かが聞いた。
「行ける」
若い足軽は唇についた粥を袖で拭った。
「腹が入った。さっきよりは、足が動く」
宗介は胸の奥が熱くなるのを感じた。
勝ったわけではない。
敵を討ったわけでもない。
ただ、飯を食わせただけだ。
だが、その飯で一人の足が動く。
それは、宗介が知っているどんな理屈より確かだった。
「水桶を門の内側へ二つ。こぼれないよう半分だけ入れろ。満杯にするな、重くて運べない」
「半分でいいのか」
「往復できる重さにしろ。運べない水は、水じゃない」
足軽が目を瞬いた。
それから、にやりとした。
「妙なことを言う」
「妙でも運べる」
「違いねえ」
笑い声が一つ起きた。
ほんの小さな笑いだった。
それでも、城の空気は変わり始めていた。
煙はまだある。
泥も血もある。
腹の底に居座る恐怖も消えない。
だが、空腹だけが支配する場ではなくなった。
「その者は誰だ」
若い声がした。
宗介が振り向くと、数人の郎党を連れた若武者が立っていた。
歳はまだ若い。二十にも届くかどうか。頬に若さが残り、鎧も身体に馴染みきっていない。だが、目だけは逃げていなかった。
片瀬弥四郎。
笠森城の若き城主。
その名も、宗介自身の知識ではなかった。
この身体が、この城で聞き覚えていた名なのだろう。胸の奥に沈んでいた欠片が、若武者の顔を見た途端に形を持った。
弥四郎は鍋と、味噌握りを抱える足軽と、門へ戻っていく兵たちを順に見た。
「誰が命じた」
古参の男が膝をついた。
「若。申し訳ございませぬ。こちらの流れ者が勝手に――」
「勝手ではありません」
宗介は反射的に口を挟んだ。
周囲が凍った。
宗介も凍った。
城主の前で何を言っているのか。
だが、弥四郎は怒鳴らなかった。
ただ、宗介を見た。
「では、誰の命だ」
「……腹の命です」
自分で言って、変な言葉だと思った。
だが、他に言いようがなかった。
「腹が空けば、兵は立てません。水がなければ、腕は上がりません。薪がなければ粥は煮えません。粥がなければ怪我人は冷えます。握りがなければ、門へ戻る者の足が続きません」
弥四郎の目が細くなった。
「名は」
「久住宗介」
「どこの者だ」
答えられなかった。
東京、と言っても通じない。現代、と言えば狂人だ。配送の現場にいた、などと言っても意味がない。
宗介は喉を鳴らした。
「……遠いところの者です」
郎党の一人が眉を吊り上げた。
「怪しいぞ」
「怪しいです」
宗介は認めた。
「自分でも、ここにいる理由が分かりません。刀も槍も使えません。戦働きもできません。逃げたい気持ちもあります」
何人かが鼻で笑った。
宗介はその笑いを受け止めた。
笑われても仕方がない。
怖いものは怖い。
「けれど、飯と水と薪と人の動きは見られます。今の笠森城は、米があっても飯になっていません。水があっても届いていません。薪があっても火になっていません。人がいても、空腹で倒れかけています」
弥四郎は黙って聞いていた。
若い。
未熟かもしれない。
だが、聞く耳があった。
それだけで、宗介はこの若武者がただの飾りではないと感じた。
「お前なら、立て直せるのか」
「全部は無理です」
即座に答えた。
できる、と言えば楽だった。
だが、それは嘘だ。
「敵を追い払うことはできません。城を強くすることも、一日では無理です。米も急には増えません。水場も薪場も、人手も足りない」
「では、何ができる」
「今あるものを、今いる者に届かせます」
宗介は門の方を見た。
「腹が減って逃げる者を、一人でも減らします。水がなくて倒れる者を、一人でも減らします。冷えて震える怪我人を、一人でも戻します。荷を遅らせず、飯を腐らせず、薪を濡らさず、無駄に死ぬ者を減らします」
弥四郎の顔が、わずかに変わった。
その言葉が、若い城主のどこかに届いたのだと分かった。
外から駆け込んできた足軽が叫んだ。
「若! 敵、いったん退きました! こちらの追い討ちは無用とのこと!」
弥四郎はすぐに振り返った。
「追うな。門を固めよ。怪我人を内へ。水を回せ。動ける者は柵の修繕にかかれ」
命が飛んだ。
若いが、声は通った。
宗介は少しだけ安堵した。
追わない判断ができる。
それは大きい。
腹が満ちた直後の兵は、強くなった気がする。だが、実際には疲れが消えたわけではない。そこで追えば、今度こそ崩れる。
弥四郎は宗介へ向き直った。
「久住宗介」
「はい」
「今はまだ、お前を信じたわけではない」
「当然です」
「だが、お前の粥で兵が立った。味噌握りを持った者の顔が変わった。それは見た」
弥四郎は少しだけ息を吐いた。
「笠森は小さい。尾張からも、美濃からも、三河からも、大きな影が伸びてくる。槍を増やすにも限りがある。米を奪えば民が逃げる。民が逃げれば田が荒れる。田が荒れれば、次の兵糧がない」
宗介は弥四郎を見直した。
分かっている。
少なくとも、この若城主は城の小ささを分かっている。
だから苦しい。
だから、危うい。
「その上で、まだ俺は戦を槍の数で見ていたのかもしれぬ」
弥四郎は鍋から立つ湯気を見た。
「腹もまた、戦か」
宗介は頷いた。
「腹は、戦の土台です」
風が吹いた。
煙が流れ、泥だらけの城の庭が見えた。
粥を啜る者。
味噌握りを懐に入れる者。
水桶を二人で運ぶ者。
薪を乾いた場所へ移す小者。
まだ荒れている。まだ雑だ。まだ危ない。
だが、さっきまで地面に沈みかけていた兵たちが、少しずつ動き始めている。
宗介はその光景を見て、喉の奥が詰まった。
自分はなぜここにいるのか。
これからどうなるのか。
元の世へ戻れるのか。
何一つ分からない。
分かるのは、この城が危ういということだけ。
そして、今ここで飯を回さなければ、人が死ぬということだけだった。
「宗介」
弥四郎が言った。
「しばらく、城に残れ」
命令だった。
同時に、若い城主なりの賭けでもあった。
「兵糧方を見よ。米、水、薪、味噌、干し飯。人足の動きもだ。お前が見たものを、俺に申せ」
古参の男が顔を上げた。
「若、本気でございますか。この者、素性も知れませぬぞ」
「知れぬ」
弥四郎は認めた。
「だが、素性の知れた者だけで、この有様だ」
古参の男は言葉を失った。
弥四郎は厳しい顔をしたまま、宗介へ一歩近づいた。
「ただし、勝手は許さぬ。城の米は城の命だ。民の米も民の命だ。食わせると言って、空にすることは許さぬ」
「分かっています」
「本当に分かっているか」
「米は、今食う分だけではありません。明日の分、次の雨の日の分、逃げ込んでくる民の分、怪我人の分、働く者の分。分け方を間違えれば、城は内側から崩れます」
弥四郎は、初めてわずかに口元を動かした。
「ますます妙な男だ」
「よく言われます」
「誰にだ」
宗介は答えに詰まった。
前の世の仲間たちの顔が、ふと浮かんだ。
荷台の前で笑っていた同僚。
伝票を握って怒っていた事務の者。
無茶な時刻を言ってくる相手。
夜明け前の冷えた道。
それらが遠く、ありえないほど遠く感じられた。
「……昔の仲間に」
「そうか」
弥四郎はそれ以上聞かなかった。
その若さに似合わぬ沈黙が、宗介にはありがたかった。
また、門の方で声が上がる。
「水! こっちにも水を!」
「味噌握り、もう少し寄越せ!」
「怪我人を寝かせる場所がない!」
宗介は反射的に動きかけた。
弥四郎が短く言った。
「行け」
「はい」
宗介は走った。
走りながら、恐怖はまだ腹の底にあった。
だが、その上に別のものが乗っていた。
やることがある。
まず、水桶の位置。
次に粥を薄めすぎないこと。
薪は濡らさない。
干し飯は小分けにする。
怪我人は風を避ける場所へ。
門へ戻る者には、味噌握りを一つずつ。
食わせる順番を間違えれば揉める。
揉めればこぼれる。
こぼれれば足りなくなる。
足りなくなれば、また怒号が戻る。
戦国の城は、思ったより狭く、思ったより脆く、思ったより人の腹でできていた。
宗介は竈の前に戻り、鍋を覗いた。
「粥、焦がすな! 底から混ぜろ!」
「へい!」
「味噌握りは大きすぎる! 半分の大きさで数を増やせ!」
「これでは小さすぎるだろ!」
「動きながら食うんだ。大きいと喉に詰まる!」
「水桶、どこへ置く!」
「門の内側、右と左! 真ん中に置くな、走る者の邪魔だ!」
声を出すたび、周囲の者が少しずつ動いた。
最初は怪しげに。
次に渋々。
やがて、腹に粥が落ちた者から順に、手が早くなった。
宗介は泥だらけの手で汗を拭った。
空を見上げる余裕はまだない。
それでも、煙の向こうで、笠森城の小さな旗がかすかに揺れているのが見えた。
名もない小城。
若い城主。
腹を空かせた足軽。
湿った薪。
薄い粥。
味噌のついた握り飯。
そんなものが、歴史を変えるはずがない。
そう思う自分がいた。
同時に、宗介は知っていた。
大きな荷崩れは、小さな積み間違いから始まる。
ならば、大きな流れを変えるのも、ほんの小さな段取りから始まるのかもしれない。
刀は振れない。
槍も扱えない。
だが、腹を満たせば兵は立つ。
兵が立てば、城はまだ落ちない。
宗介は震える息を吐き、次の鍋へ向かった。
第1話─了




