第18話 水を絶たせぬために
夜が明けると、南谷の井戸の周りには泥の輪が残っていた。
火を投げ込まれた場所は黒く焦げ、水をかけた跡だけがぬらぬらと光っている。井戸の縄には、刃がかすった浅い傷が残っていた。
あと少し深ければ、切れていた。
久住宗介は、その傷を見て背筋が冷たくなった。
米俵を一つ失うのも重い。
だが、水を汲む縄一本を失うことも、同じくらい重い。
縄が切れれば、釣瓶が落ちる。
釣瓶が落ちれば、水はあっても汲めない。
井戸があっても、使えなければ井戸ではない。
「……水は、あるだけでは駄目なんだな」
宗介が呟くと、そばにいた善助が頷いた。
「汲めねば、無いのと同じでございます」
善助の声は疲れていた。
昨夜、彼は井戸の縄を身体ごと守った。手のひらには縄擦れの血が滲んでいる。
「手を見せてください」
「大したことは」
「大したことになる前に見ます」
宗介は善助の手を取った。
皮が剥けている。
血は止まっているが、このまま水汲みを続ければ悪くなる。
「今日は、水汲みを減らしてください」
「それは困ります。井戸の扱いを知る者が要ります」
「知る者が潰れる方が困ります」
善助は言葉に詰まった。
宗介は少し声を落とした。
「善助さんが倒れたら、誰が井戸の癖を教えるんですか。縄の引き方、釣瓶の戻し方、足場の避け方。俺はまだ全部を知りません」
善助は自分の手を見た。
悔しそうだった。
だが、納得もしたようだった。
「では、若い者に教えます」
「はい。今日は善助さんが汲むのではなく、教える役です」
「教える役……」
善助は不思議そうに繰り返した。
戦国の小さな村では、できる者がやる。
教えるために手を止める余裕など少ないのだろう。
だが、それではできる者から潰れる。
現場でも同じだった。
仕事ができる者にだけ荷を載せ続ければ、ある日その者が折れる。そして全体が止まる。
宗介は井戸の周りを見た。
「水汲みも、交代にしましょう」
「交代ですか」
「はい。井戸を知る者、力のある者、桶を運ぶ者、足場を見張る者。全部一人にやらせない」
善助はしばらく考え、頷いた。
「やってみます」
笠森城へ戻る頃には、朝の粥が炊かれていた。
南谷の井戸で汲んだ水も少し入っている。
その水を見て、宗介は昨夜のことを思い出した。
火。
縄。
井戸へ伸びた刃。
敵は水を飲みに来たのではなかった。
こちらの水を使えなくしに来た。
それは、単に米を奪うよりも嫌な攻めだった。
腹を満たす前に、飯を炊けなくする。
米があっても、水がなければ粥にならない。
水があっても、縄がなければ汲めない。
汲めても、足場が悪ければ転ぶ。
宗介の頭の中で、兵糧という言葉がまた広がっていく。
米。
水。
薪。
味噌。
塩。
干し飯。
荷車。
縄。
井戸。
釣瓶。
足場。
人の手。
どこまでが兵糧なのか、もう分からなかった。
だが、分からないからといって見ないわけにはいかない。
城庭では、片瀬弥四郎がすでに待っていた。
若い城主の鎧には、昨夜の煤がまだ残っている。ほとんど眠っていないはずだが、目ははっきりしていた。
「井戸の縄は」
「浅く傷が入っています。まだ使えますが、予備を増やした方がいいです」
宗介は答えた。
「南谷の井戸だけではありません。城の井戸も同じです。縄、釣瓶、足場、火の届くもの。全部見直した方がいい」
弥四郎はすぐに頷いた。
「喜兵衛」
「はっ」
「城の井戸も見る。縄と釣瓶を数えよ。替えがなければ作らせる」
「承知」
「宇平次」
「はっ」
「井戸を守る者を、槍だけで選ぶな。水を汲む者、縄を見る者、火を消す者を分けよ」
宇平次が少しだけ目を細めた。
以前なら、こういう命に顔をしかめたかもしれない。
だが今は違った。
「承知しました。井戸も持ち場と見ます」
弥四郎は宗介へ視線を戻した。
「敵は、水を潰しに来た」
「はい」
「なら、次は何を狙う」
その問いに、宗介はすぐには答えられなかった。
水を守った。
だから次は米か。
渡しか。
荷車か。
薪か。
敵の腹も苦しい。
灰原の水は悪い。
薪も少ない。
なら、敵は短く動きたい。
こちらの水を潰せなかったなら、次に何をするか。
「……薪かもしれません」
宗介は言った。
喜兵衛が眉を上げる。
「薪?」
「はい。水を潰せなかった。米を奪うのも簡単ではない。なら、飯を炊く火を邪魔する。薪場を焼くか、乾いた薪を濡らすか、奪うか」
宇平次が低く唸った。
「そこまでやるか」
「敵にも飯を見ている者がいるなら、やると思います」
宗介は城の隅に積まれた薪を見た。
乾いた薪。
湿った薪。
乾かしている途中の薪。
それらは今まで、竈の周りに集めることばかり考えていた。
だが、一か所に集めすぎれば、燃やされる。
雨に晒されれば、使えなくなる。
敵に火をつけられれば、飯だけでなく城内まで燃える。
「薪も分けます」
宗介は言った。
「すぐ使う薪。乾かす薪。予備の薪。全部一か所に置かない。竈の近くには今日使う分だけ。残りは屋根の下と、火の届きにくい場所へ」
喜兵衛が渋い顔で頷いた。
「面倒だな」
「はい」
「だが、燃やされればもっと面倒だ」
「はい」
弥四郎は短く命じた。
「やれ。薪場も兵糧のうちだ」
宇平次が小さく笑った。
「若まで、兵糧が広くなってきましたな」
「笑うな。実際に広い」
弥四郎は真顔で言った。
「米だけ見ておればよいと思っていたが、水を狙われ、縄を狙われ、今度は薪かもしれぬ。敵は小さいところを突く」
宗介はその言葉を聞きながら、胸の奥が静かに重くなるのを感じた。
小さいところ。
まさにそこだ。
大きな城攻めではない。
派手な合戦でもない。
井戸の縄一本。
荷車の車輪。
乾いた薪。
見張りの飯包み。
そういう小さなところを潰されると、城は大きく崩れる。
昼前、薪の移動が始まった。
女衆と小者だけでなく、南谷の若者たちも加わる。
乾いた薪は竈近くに少し。
残りは蔵から離した屋根下へ。
湿った薪は日当たりのよい斜面へ並べる。
細い枝は焚きつけ用として別に束ねる。
太い薪は、すぐに火へ入れない。
市松が板に印を増やしていく。
「薪まで印かよ」
「薪も飯になります」
「薪は薪だろ」
「火がなければ、米は飯にならない」
市松は口を尖らせながら、薪の絵を描いた。
相変わらず下手だった。
だが、細い枝と太い薪の違いは何とか分かる。
おきぬがそれを見て笑った。
「市松、その太い薪、魚みたいだよ」
「うるせえな。分かればいいんだよ」
「分かるよ。たぶん」
「たぶんって言うな」
笑い声が少しだけ起きた。
小さな笑いだった。
それでも、昨夜の緊張で固まっていた城庭が少し緩んだ。
宗介はその笑いを聞きながら、ほっとした。
だが、長くは続かなかった。
門の外から、槙尾の使いが来た。
安西新蔵ではない。
若い足軽で、息を切らしていた。
「槙尾より知らせ! 西沢の小さな薪場が荒らされました!」
宇平次がすぐに反応した。
「薪場だと」
「はい。薪を持ち去ったというより、濡らされ、散らされております。火をつけられた跡も少し」
宗介は背筋が冷たくなった。
早い。
敵はもう薪を触っている。
あるいは、こちらが気づく前から触っていたのか。
「人の被害は」
弥四郎が問う。
「見張り一人が殴られましたが、命はあります。敵の数は多くありませぬ。二、三人かと」
喜兵衛が低く言った。
「薪を奪うのではなく、使えなくする」
「こちらの飯を遅らせるためか」
宇平次が言う。
宗介は頷いた。
「たぶん。濡れた薪は火が弱い。煙が出る。飯が遅れる。夜なら火の場所もばれる」
弥四郎はすぐに決めた。
「笠森の薪場も見張る。だが人は多く割けぬ。薪を一か所に積むな。使う分を小さく分けて、場所を変える」
「承知」
喜兵衛が答える。
宗介はさらに言った。
「槙尾へ伝えてください。濡らされた薪も全部捨てないでください。乾かせば使えるものもある。湿った薪は火の強い時に少しずつ。今夜すぐ使う薪とは混ぜないように」
使いの足軽が目を瞬いた。
「薪の使い方まで?」
「大事です」
宗介は真面目に答えた。
「濡れた薪を慌てて全部火に入れれば、煙で苦しくなります。飯も遅れます」
足軽は少し呆れたようだったが、弥四郎が頷いたことで表情を改めた。
「承知しました。伝えます」
使いが戻ると、城内の作業はさらに増えた。
井戸の縄。
釣瓶。
薪場。
乾いた薪。
湿った薪。
火消し水。
見張りの飯。
南谷の井戸。
渡しの仮縄。
全部が同時に動く。
宗介は頭が割れそうだった。
あちらを見れば、こちらが抜ける。
こちらを直せば、別のところが危うい。
万能ではない。
とても一人では無理だ。
「市松」
「何だよ」
「板を分けよう」
「また増やすのか!」
「増やすというか、分ける。城の中の板。城の外の板。敵の動きの板」
市松は目を白黒させた。
「三枚も見るのか」
「一枚に全部書くと、誰も見なくなる」
「俺も見たくない」
「だから分ける」
市松は少し考え、渋々頷いた。
「城の中は俺が書く。外は誰が書く?」
「善助さんに頼みます。南谷のことが分かるから」
「敵の動きは?」
宗介は少し迷った。
その時、喜兵衛が近づいてきた。
「敵の動きは、わしが見る」
「喜兵衛が?」
「不満か」
「いえ」
宗介は首を振った。
「助かります」
「敵の飯包み、薪場、井戸、渡し。全部一枚に残す。あとで若が見られるようにする」
「お願いします」
喜兵衛は板を持ち上げた。
「ただし、字はわしの方がましだ」
市松がむっとした。
「俺だって読める字は書ける!」
「なら、もっと丁寧に書け」
「うるせえ」
そんなやり取りの中にも、少しずつ形ができていった。
城の中を見る板。
城の外を見る板。
敵の腹を見る板。
宗介一人の頭の中にあったものが、少しずつ外へ出ていく。
それは大事なことだった。
宗介が倒れても、誰かが見られる。
宗介がいない場所でも、誰かが続けられる。
現場は、一人の頭の中に置いてはいけない。
それを、宗介は何度も痛いほど知っていた。
夕暮れ前、南谷から半助が来た。
腕にはまだ布が巻かれている。
動くなと言われていたはずなのに、顔をしかめながら歩いている。
「半助さん、何をしているんですか」
「善助殿に言われました。井戸の予備縄、隠し場所を変えたと伝えに」
「怪我人を使わないでください」
「伝えるだけならできます」
半助はそう言った。
その顔には、何もできないまま寝ていることへの悔しさがあった。
宗介は言葉を飲み込んだ。
無理をさせてはいけない。
だが、役目を全部奪うのも違う。
「分かりました。では、伝える役をお願いします。ただし、重いものは持たない。走らない。腕を使わない」
「それなら」
半助は少しだけ表情を緩めた。
「できます」
宗介は市松に言った。
「半助さんは、南谷の伝え役。板に書いて」
「怪我人なのに?」
「怪我人だから、できる役を決める」
市松は少し考え、頷いた。
「分かった」
半助はそのやり取りを見て、小さく頭を下げた。
宗介は胸が少し痛んだ。
人を役に分ける。
それは便利だが、冷たくもある。
だからこそ、間違えてはいけない。
できること。
できないこと。
無理をさせてはいけないこと。
そこを見ないと、人は米俵より簡単に壊れる。
夜に入る前、弥四郎が三枚の板を見た。
城内。
城外。
敵の腹。
若い城主は一枚ずつ目を通し、しばらく黙っていた。
「これで、宗介一人が見なくてもよいな」
宗介は驚いた。
弥四郎は、その意図を見抜いていた。
「はい。俺一人では見きれません」
「最初からそう言えばよい」
「言いにくくて」
「できぬことを抱える方が、よほど危うい」
弥四郎の言葉は静かだった。
宗介は頭を下げた。
「はい」
弥四郎は板に視線を落としたまま言った。
「敵は井戸を狙い、薪を狙い、渡しを狙う。ならば、こちらは米だけでなく、水と薪と道を守る。だが守るばかりでは疲れる」
宇平次が頷く。
「いずれ、敵の飯場を潰す必要がありましょう」
宗介の身体が強張った。
飯場を潰す。
それは、敵の腹を断つということだ。
理屈では分かる。
だが、そこには敵の人間がいる。
腹を空かせ、水に苦しんでいる者たちがいる。
弥四郎は宗介を見た。
「今すぐではない」
その声は、宗介の迷いを見透かしたようだった。
「まずは、こちらを崩されぬようにする。次に、敵がどこまで耐えられるかを見る」
「はい」
「宗介。敵の水と薪が苦しいなら、敵は動かざるを得ぬ。そうだな」
「はい。長く灰原にいれば、腹を壊す者が増えると思います」
「なら、敵は焦る」
「たぶん」
「焦る敵は、無理をする」
弥四郎は板の灰原の印に指を置いた。
「その無理を見る」
宗介は頷いた。
敵の腹を読む。
それは、人の苦しみを見ることでもある。
簡単なことではない。
だが、見なければ、こちらが死ぬ。
その夜、笠森城では火が低く保たれた。
井戸の縄は二重に確認された。
薪は三か所に分けられた。
門の水桶には丸印。
火消し用には二本線。
南谷の伝え役として、半助の名が板に加わった。
そして、敵の板には新しい印が増えた。
薪場荒らし。
濡らされた薪。
井戸の縄。
悪い水。
焦る敵。
宗介はその板を見て、深く息を吐いた。
敵は大軍ではない。
だが、こちらを小さく崩す術を知っている。
ならば、こちらも小さく崩れないようにしなければならない。
米を守るために、水を見る。
水を守るために、縄を見る。
火を守るために、薪を見る。
人を守るために、役を分ける。
笠森城の戦は、ますます地味になっていく。
だが、その地味なものの上に、人の命が乗っていた。
竈の火が、ぱちりと鳴る。
宗介はその火を見つめた。
今夜も、粥は炊ける。
井戸の水もある。
薪も乾いている。
ならば、兵はまだ立てる。
第18話─了
新しい戦国転生短編を投稿しました。
『呂布の武と郭嘉の知を授かって戦国に転生した俺、信長の負け戦をひっくり返す』
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本作とは少し違う、武と知で戦場をひっくり返す派手めの戦国転生ものです。
よろしければ、こちらも読んでいただけると嬉しいです。




