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【連載版】戦国に転生した五十一歳、兵糧係から成り上がる 〜刀は振れないが、腹を満たせば兵は立つ〜  作者: あちゅ和尚


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第18話 水を絶たせぬために

 夜が明けると、南谷の井戸の周りには泥の輪が残っていた。


 火を投げ込まれた場所は黒く焦げ、水をかけた跡だけがぬらぬらと光っている。井戸の縄には、刃がかすった浅い傷が残っていた。


 あと少し深ければ、切れていた。


 久住宗介は、その傷を見て背筋が冷たくなった。


 米俵を一つ失うのも重い。


 だが、水を汲む縄一本を失うことも、同じくらい重い。


 縄が切れれば、釣瓶が落ちる。


 釣瓶が落ちれば、水はあっても汲めない。


 井戸があっても、使えなければ井戸ではない。


「……水は、あるだけでは駄目なんだな」


 宗介が呟くと、そばにいた善助が頷いた。


「汲めねば、無いのと同じでございます」


 善助の声は疲れていた。


 昨夜、彼は井戸の縄を身体ごと守った。手のひらには縄擦れの血が滲んでいる。


「手を見せてください」


「大したことは」


「大したことになる前に見ます」


 宗介は善助の手を取った。


 皮が剥けている。


 血は止まっているが、このまま水汲みを続ければ悪くなる。


「今日は、水汲みを減らしてください」


「それは困ります。井戸の扱いを知る者が要ります」


「知る者が潰れる方が困ります」


 善助は言葉に詰まった。


 宗介は少し声を落とした。


「善助さんが倒れたら、誰が井戸の癖を教えるんですか。縄の引き方、釣瓶の戻し方、足場の避け方。俺はまだ全部を知りません」


 善助は自分の手を見た。


 悔しそうだった。


 だが、納得もしたようだった。


「では、若い者に教えます」


「はい。今日は善助さんが汲むのではなく、教える役です」


「教える役……」


 善助は不思議そうに繰り返した。


 戦国の小さな村では、できる者がやる。


 教えるために手を止める余裕など少ないのだろう。


 だが、それではできる者から潰れる。


 現場でも同じだった。


 仕事ができる者にだけ荷を載せ続ければ、ある日その者が折れる。そして全体が止まる。


 宗介は井戸の周りを見た。


「水汲みも、交代にしましょう」


「交代ですか」


「はい。井戸を知る者、力のある者、桶を運ぶ者、足場を見張る者。全部一人にやらせない」


 善助はしばらく考え、頷いた。


「やってみます」


 笠森城へ戻る頃には、朝の粥が炊かれていた。


 南谷の井戸で汲んだ水も少し入っている。


 その水を見て、宗介は昨夜のことを思い出した。


 火。


 縄。


 井戸へ伸びた刃。


 敵は水を飲みに来たのではなかった。


 こちらの水を使えなくしに来た。


 それは、単に米を奪うよりも嫌な攻めだった。


 腹を満たす前に、飯を炊けなくする。


 米があっても、水がなければ粥にならない。


 水があっても、縄がなければ汲めない。


 汲めても、足場が悪ければ転ぶ。


 宗介の頭の中で、兵糧という言葉がまた広がっていく。


 米。


 水。


 薪。


 味噌。


 塩。


 干し飯。


 荷車。


 縄。


 井戸。


 釣瓶。


 足場。


 人の手。


 どこまでが兵糧なのか、もう分からなかった。


 だが、分からないからといって見ないわけにはいかない。


 城庭では、片瀬弥四郎がすでに待っていた。


 若い城主の鎧には、昨夜の煤がまだ残っている。ほとんど眠っていないはずだが、目ははっきりしていた。


「井戸の縄は」


「浅く傷が入っています。まだ使えますが、予備を増やした方がいいです」


 宗介は答えた。


「南谷の井戸だけではありません。城の井戸も同じです。縄、釣瓶、足場、火の届くもの。全部見直した方がいい」


 弥四郎はすぐに頷いた。


「喜兵衛」


「はっ」


「城の井戸も見る。縄と釣瓶を数えよ。替えがなければ作らせる」


「承知」


「宇平次」


「はっ」


「井戸を守る者を、槍だけで選ぶな。水を汲む者、縄を見る者、火を消す者を分けよ」


 宇平次が少しだけ目を細めた。


 以前なら、こういう命に顔をしかめたかもしれない。


 だが今は違った。


「承知しました。井戸も持ち場と見ます」


 弥四郎は宗介へ視線を戻した。


「敵は、水を潰しに来た」


「はい」


「なら、次は何を狙う」


 その問いに、宗介はすぐには答えられなかった。


 水を守った。


 だから次は米か。


 渡しか。


 荷車か。


 薪か。


 敵の腹も苦しい。


 灰原の水は悪い。


 薪も少ない。


 なら、敵は短く動きたい。


 こちらの水を潰せなかったなら、次に何をするか。


「……薪かもしれません」


 宗介は言った。


 喜兵衛が眉を上げる。


「薪?」


「はい。水を潰せなかった。米を奪うのも簡単ではない。なら、飯を炊く火を邪魔する。薪場を焼くか、乾いた薪を濡らすか、奪うか」


 宇平次が低く唸った。


「そこまでやるか」


「敵にも飯を見ている者がいるなら、やると思います」


 宗介は城の隅に積まれた薪を見た。


 乾いた薪。


 湿った薪。


 乾かしている途中の薪。


 それらは今まで、竈の周りに集めることばかり考えていた。


 だが、一か所に集めすぎれば、燃やされる。


 雨に晒されれば、使えなくなる。


 敵に火をつけられれば、飯だけでなく城内まで燃える。


「薪も分けます」


 宗介は言った。


「すぐ使う薪。乾かす薪。予備の薪。全部一か所に置かない。竈の近くには今日使う分だけ。残りは屋根の下と、火の届きにくい場所へ」


 喜兵衛が渋い顔で頷いた。


「面倒だな」


「はい」


「だが、燃やされればもっと面倒だ」


「はい」


 弥四郎は短く命じた。


「やれ。薪場も兵糧のうちだ」


 宇平次が小さく笑った。


「若まで、兵糧が広くなってきましたな」


「笑うな。実際に広い」


 弥四郎は真顔で言った。


「米だけ見ておればよいと思っていたが、水を狙われ、縄を狙われ、今度は薪かもしれぬ。敵は小さいところを突く」


 宗介はその言葉を聞きながら、胸の奥が静かに重くなるのを感じた。


 小さいところ。


 まさにそこだ。


 大きな城攻めではない。


 派手な合戦でもない。


 井戸の縄一本。


 荷車の車輪。


 乾いた薪。


 見張りの飯包み。


 そういう小さなところを潰されると、城は大きく崩れる。


 昼前、薪の移動が始まった。


 女衆と小者だけでなく、南谷の若者たちも加わる。


 乾いた薪は竈近くに少し。


 残りは蔵から離した屋根下へ。


 湿った薪は日当たりのよい斜面へ並べる。


 細い枝は焚きつけ用として別に束ねる。


 太い薪は、すぐに火へ入れない。


 市松が板に印を増やしていく。


「薪まで印かよ」


「薪も飯になります」


「薪は薪だろ」


「火がなければ、米は飯にならない」


 市松は口を尖らせながら、薪の絵を描いた。


 相変わらず下手だった。


 だが、細い枝と太い薪の違いは何とか分かる。


 おきぬがそれを見て笑った。


「市松、その太い薪、魚みたいだよ」


「うるせえな。分かればいいんだよ」


「分かるよ。たぶん」


「たぶんって言うな」


 笑い声が少しだけ起きた。


 小さな笑いだった。


 それでも、昨夜の緊張で固まっていた城庭が少し緩んだ。


 宗介はその笑いを聞きながら、ほっとした。


 だが、長くは続かなかった。


 門の外から、槙尾の使いが来た。


 安西新蔵ではない。


 若い足軽で、息を切らしていた。


「槙尾より知らせ! 西沢の小さな薪場が荒らされました!」


 宇平次がすぐに反応した。


「薪場だと」


「はい。薪を持ち去ったというより、濡らされ、散らされております。火をつけられた跡も少し」


 宗介は背筋が冷たくなった。


 早い。


 敵はもう薪を触っている。


 あるいは、こちらが気づく前から触っていたのか。


「人の被害は」


 弥四郎が問う。


「見張り一人が殴られましたが、命はあります。敵の数は多くありませぬ。二、三人かと」


 喜兵衛が低く言った。


「薪を奪うのではなく、使えなくする」


「こちらの飯を遅らせるためか」


 宇平次が言う。


 宗介は頷いた。


「たぶん。濡れた薪は火が弱い。煙が出る。飯が遅れる。夜なら火の場所もばれる」


 弥四郎はすぐに決めた。


「笠森の薪場も見張る。だが人は多く割けぬ。薪を一か所に積むな。使う分を小さく分けて、場所を変える」


「承知」


 喜兵衛が答える。


 宗介はさらに言った。


「槙尾へ伝えてください。濡らされた薪も全部捨てないでください。乾かせば使えるものもある。湿った薪は火の強い時に少しずつ。今夜すぐ使う薪とは混ぜないように」


 使いの足軽が目を瞬いた。


「薪の使い方まで?」


「大事です」


 宗介は真面目に答えた。


「濡れた薪を慌てて全部火に入れれば、煙で苦しくなります。飯も遅れます」


 足軽は少し呆れたようだったが、弥四郎が頷いたことで表情を改めた。


「承知しました。伝えます」


 使いが戻ると、城内の作業はさらに増えた。


 井戸の縄。


 釣瓶。


 薪場。


 乾いた薪。


 湿った薪。


 火消し水。


 見張りの飯。


 南谷の井戸。


 渡しの仮縄。


 全部が同時に動く。


 宗介は頭が割れそうだった。


 あちらを見れば、こちらが抜ける。


 こちらを直せば、別のところが危うい。


 万能ではない。


 とても一人では無理だ。


「市松」


「何だよ」


「板を分けよう」


「また増やすのか!」


「増やすというか、分ける。城の中の板。城の外の板。敵の動きの板」


 市松は目を白黒させた。


「三枚も見るのか」


「一枚に全部書くと、誰も見なくなる」


「俺も見たくない」


「だから分ける」


 市松は少し考え、渋々頷いた。


「城の中は俺が書く。外は誰が書く?」


「善助さんに頼みます。南谷のことが分かるから」


「敵の動きは?」


 宗介は少し迷った。


 その時、喜兵衛が近づいてきた。


「敵の動きは、わしが見る」


「喜兵衛が?」


「不満か」


「いえ」


 宗介は首を振った。


「助かります」


「敵の飯包み、薪場、井戸、渡し。全部一枚に残す。あとで若が見られるようにする」


「お願いします」


 喜兵衛は板を持ち上げた。


「ただし、字はわしの方がましだ」


 市松がむっとした。


「俺だって読める字は書ける!」


「なら、もっと丁寧に書け」


「うるせえ」


 そんなやり取りの中にも、少しずつ形ができていった。


 城の中を見る板。


 城の外を見る板。


 敵の腹を見る板。


 宗介一人の頭の中にあったものが、少しずつ外へ出ていく。


 それは大事なことだった。


 宗介が倒れても、誰かが見られる。


 宗介がいない場所でも、誰かが続けられる。


 現場は、一人の頭の中に置いてはいけない。


 それを、宗介は何度も痛いほど知っていた。


 夕暮れ前、南谷から半助が来た。


 腕にはまだ布が巻かれている。


 動くなと言われていたはずなのに、顔をしかめながら歩いている。


「半助さん、何をしているんですか」


「善助殿に言われました。井戸の予備縄、隠し場所を変えたと伝えに」


「怪我人を使わないでください」


「伝えるだけならできます」


 半助はそう言った。


 その顔には、何もできないまま寝ていることへの悔しさがあった。


 宗介は言葉を飲み込んだ。


 無理をさせてはいけない。


 だが、役目を全部奪うのも違う。


「分かりました。では、伝える役をお願いします。ただし、重いものは持たない。走らない。腕を使わない」


「それなら」


 半助は少しだけ表情を緩めた。


「できます」


 宗介は市松に言った。


「半助さんは、南谷の伝え役。板に書いて」


「怪我人なのに?」


「怪我人だから、できる役を決める」


 市松は少し考え、頷いた。


「分かった」


 半助はそのやり取りを見て、小さく頭を下げた。


 宗介は胸が少し痛んだ。


 人を役に分ける。


 それは便利だが、冷たくもある。


 だからこそ、間違えてはいけない。


 できること。


 できないこと。


 無理をさせてはいけないこと。


 そこを見ないと、人は米俵より簡単に壊れる。


 夜に入る前、弥四郎が三枚の板を見た。


 城内。


 城外。


 敵の腹。


 若い城主は一枚ずつ目を通し、しばらく黙っていた。


「これで、宗介一人が見なくてもよいな」


 宗介は驚いた。


 弥四郎は、その意図を見抜いていた。


「はい。俺一人では見きれません」


「最初からそう言えばよい」


「言いにくくて」


「できぬことを抱える方が、よほど危うい」


 弥四郎の言葉は静かだった。


 宗介は頭を下げた。


「はい」


 弥四郎は板に視線を落としたまま言った。


「敵は井戸を狙い、薪を狙い、渡しを狙う。ならば、こちらは米だけでなく、水と薪と道を守る。だが守るばかりでは疲れる」


 宇平次が頷く。


「いずれ、敵の飯場を潰す必要がありましょう」


 宗介の身体が強張った。


 飯場を潰す。


 それは、敵の腹を断つということだ。


 理屈では分かる。


 だが、そこには敵の人間がいる。


 腹を空かせ、水に苦しんでいる者たちがいる。


 弥四郎は宗介を見た。


「今すぐではない」


 その声は、宗介の迷いを見透かしたようだった。


「まずは、こちらを崩されぬようにする。次に、敵がどこまで耐えられるかを見る」


「はい」


「宗介。敵の水と薪が苦しいなら、敵は動かざるを得ぬ。そうだな」


「はい。長く灰原にいれば、腹を壊す者が増えると思います」


「なら、敵は焦る」


「たぶん」


「焦る敵は、無理をする」


 弥四郎は板の灰原の印に指を置いた。


「その無理を見る」


 宗介は頷いた。


 敵の腹を読む。


 それは、人の苦しみを見ることでもある。


 簡単なことではない。


 だが、見なければ、こちらが死ぬ。


 その夜、笠森城では火が低く保たれた。


 井戸の縄は二重に確認された。


 薪は三か所に分けられた。


 門の水桶には丸印。


 火消し用には二本線。


 南谷の伝え役として、半助の名が板に加わった。


 そして、敵の板には新しい印が増えた。


 薪場荒らし。


 濡らされた薪。


 井戸の縄。


 悪い水。


 焦る敵。


 宗介はその板を見て、深く息を吐いた。


 敵は大軍ではない。


 だが、こちらを小さく崩す術を知っている。


 ならば、こちらも小さく崩れないようにしなければならない。


 米を守るために、水を見る。


 水を守るために、縄を見る。


 火を守るために、薪を見る。


 人を守るために、役を分ける。


 笠森城の戦は、ますます地味になっていく。


 だが、その地味なものの上に、人の命が乗っていた。


 竈の火が、ぱちりと鳴る。


 宗介はその火を見つめた。


 今夜も、粥は炊ける。


 井戸の水もある。


 薪も乾いている。


 ならば、兵はまだ立てる。


第18話─了

新しい戦国転生短編を投稿しました。


『呂布の武と郭嘉の知を授かって戦国に転生した俺、信長の負け戦をひっくり返す』


https://ncode.syosetu.com/n4580mf/


本作とは少し違う、武と知で戦場をひっくり返す派手めの戦国転生ものです。

よろしければ、こちらも読んでいただけると嬉しいです。

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