表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【連載版】戦国に転生した五十一歳、兵糧係から成り上がる 〜刀は振れないが、腹を満たせば兵は立つ〜  作者: あちゅ和尚


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
17/49

第17話 井戸を守る夜

 敵は今夜、下へ出る。


 その報せが入った瞬間、笠森城の中から眠気が消えた。


 疲れが消えたわけではない。


 足軽たちの目の下には黒い影があり、南谷の者たちも肩を落としている。竈のそばの女衆は、煙で赤くなった目を何度も擦っていた。


 だが、誰も座り込まなかった。


 灰原の沢筋。


 悪い水。


 薪少なし。


 十人前後の中継竈。


 木札に三本傷。


 今夜、下へ出る。


 市松が板に描いた印を、片瀬弥四郎はじっと見ていた。


「米だけではないな」


 若い城主が言った。


 久住宗介は、その言葉に顔を上げた。


「はい」


「敵は水も欲しがっている」


「たぶん」


 宗介は板の南谷の印を指した。


「灰原の沢の水は悪い。腹を下す者が出ている。薪も少ない。長くいれば、動ける者が減ります。今夜下へ出るなら、米だけでなく、よい水場を取りたいはずです」


 宇平次が腕を組む。


「水場か。南谷の井戸」


 善助の顔が強張った。


「南谷の井戸を取られれば、村は終わります」


「城も困る」


 喜兵衛が低く言った。


「南谷の井戸は、城の水を補う場所でもある」


 弥四郎は頷いた。


「ならば、敵が狙うのは三つ。南谷の井戸。渡し。城門」


「城門は騒がせるだけかもしれません」


 宗介は言った。


「火を見せて西へ寄せたように、門を騒がせて南谷の井戸へ向かうかもしれない。あるいは渡しを騒がせて井戸へ」


「どれも捨てられぬな」


 宇平次の声は苦い。


「はい。でも、全部を同じ厚さでは守れません」


 宗介は板に三つの丸を描いた。


 城門。


 渡し。


 南谷の井戸。


「門は、城の中に水と飯があります。ここは持ちます。ただ、火を投げられた時の水を分けておく」


「昨夜と同じか」


「同じです。ただし、今回は門へ人を寄せすぎない」


 次に、渡しの印を指す。


「渡しは仮縄。敵が渡ろうとしたら切れる。ここは見張りと合図を重くする。長く戦わない」


「三度鳴らす竹筒だな」


「はい」


 最後に、南谷の井戸。


 宗介はそこへ炭で黒い丸を描いた。


「南谷の井戸は、今夜一番危ないと思います」


 善助が唇を噛む。


「井戸を隠すことはできません」


「はい。だから、井戸を空にしない。井戸の周りを空ける。敵が来た時に、桶や荷が邪魔にならないようにする。水を汲む縄と釣瓶を守る。できれば、予備の縄を別に隠しておく」


「縄を切られたら、水が汲めぬ」


 喜兵衛が頷いた。


「それをやられると厄介だ」


 宗介は続けた。


「あと、井戸のそばに米を置かないでください。敵が水を取りに来た時、米まで見えれば欲が出ます。井戸は井戸だけにする」


「水を守る場と、米を守る場を分けるか」


 弥四郎が言った。


「はい。一緒に置くと、両方取られます」


 宇平次は少し考え、すぐに決めた。


「門は俺が見る。渡しは佐吉と三郎兵衛。南谷の井戸は佐太と善助、それに村の者を二人。だが、敵が多ければ持たぬ」


 弥四郎が言う。


「井戸へは俺も行く」


 場が静まった。


 宇平次が即座に首を振った。


「若、それはなりませぬ」


「南谷を守ると言ったのは俺だ。井戸を捨てれば、村は城を信じなくなる」


「ですが、城主が外へ出れば、城が揺れます」


 宇平次の声には焦りがあった。


 宗介も同じ思いだった。


 弥四郎が出れば、兵の気は立つ。


 だが、もし傷を負えば終わりだ。


 若い城主はしばらく黙った。


 そして、宗介を見た。


「なら、俺は門に残る。だが、南谷の井戸へは、城の命として守らせる」


「それでよろしいかと」


 宗介は答えた。


「若様が城に残っているから、南谷の者も戻れる場所があるんです」


 弥四郎はわずかに目を細めた。


「言うようになったな」


「怖いので、言っています」


「ならよい」


 弥四郎は短く息を吐き、命じた。


「宇平次、門。喜兵衛、城内の飯と水。宗介は……」


 宗介の心臓が跳ねた。


「宗介は南谷の井戸へ」


 やはり、そう来た。


 足が冷たくなる。


 行きたくない。


 夜の村。


 敵が水を狙って来るかもしれない場所。


 そこへ自分が行く。


 考えただけで、喉が乾いた。


「戦わせるためではない」


 弥四郎は言った。


「井戸と水を見よ。どこに桶を置くか。どの縄を隠すか。誰に水を渡すか。お前が見ろ」


「……はい」


 宗介は頷いた。


「行きます」


 声はまた震えていた。


 宇平次が言った。


「死ぬなよ」


「できるだけ」


「そこは、死にませんと言え」


「言い切る自信がありません」


 宇平次は呆れた顔をした。


 だが、少し笑った。


「なら、戻れ。戻って報告しろ」


「はい」


 夕暮れ前、南谷へ向かう一行が出た。


 佐太。


 善助。


 南谷の若者二人。


 笠森の小者が一人。


 そして宗介。


 武器を持つ者は少ない。


 水桶を運ぶ者、予備の縄を持つ者、干し飯と味噌握りを小さく包んだ者。


 宗介の腰にも竹筒がある。


 今回の飯包みは、井戸守り用の結びにした。


 市松が勝手にそう呼んだのだ。


「井戸守り結び」


 あまり格好よくはない。


 だが、見分けはつく。


 南谷村は、夕闇の中で静まり返っていた。


 家々の戸は閉じられ、動ける者の多くは城へ移っている。それでも、全部が空ではない。年寄りや、動けぬ者を見守る女衆が少し残っていた。


 井戸は村の中央にある。


 宗介はまず、周りを見た。


 桶が転がっている。


 縄が二本。


 釣瓶が一つ。


 井戸の足元は濡れ、泥になっている。


 夜に慌てれば、必ず転ぶ。


「桶をどけます」


 宗介は言った。


「井戸の周りを空けてください。水を汲む者以外は近づけない。飲ませる場所は、少し離したここ」


 地面を指す。


 善助が頷き、若者たちを動かした。


「桶はあちらへ。釣瓶の縄は一本だけ出す。予備はどこへ」


「家の裏へ。すぐ取れるが、外から見えない場所に」


「分かった」


「井戸の水を汲み切ろうとしないでください。水を取らせまいとして使いすぎると、こちらが困ります」


 佐太が顔をしかめる。


「敵に飲ませるくらいなら、汲み出した方が」


「井戸は桶ではありません。汲み出してもすぐには空にならないかもしれませんし、足元が泥になって使えなくなります」


「では守るしかないか」


「はい」


 宗介は井戸から少し離れた場所に、小さな水桶を二つ置いた。


 一つは味方用。


 もう一つは、火が出た時のため。


 二本線の印をつける。


 城で決めた印と同じだ。


「村でも同じ印か」


 善助が言った。


「同じにします。場所が違っても、意味が同じなら迷いません」


「なるほど」


 南谷の若者の一人が、少し感心したように頷いた。


 宗介はさらに、井戸の近くの藁束をどけさせた。


「火をつけられると困ります。燃えるものは離す」


「井戸に火をかける者がいるか?」


「井戸そのものではなく、周りを燃やして近づけなくするかもしれません」


 言いながら、宗介の背筋が冷えた。


 そういうことを、自分が考えるようになっている。


 戦国に来て、まだいくらも経っていない。


 それなのに、火をどう使われるか、水をどう奪われるか、そんなことばかり考えている。


「宗介殿」


 善助が声をかけた。


「顔色が悪うございます」


「怖いので」


「……正直ですな」


「嘘をついても、足の震えは止まりません」


 善助は一瞬、言葉に詰まった。


 それから小さく笑った。


「なら、震えたままでも、井戸を見てくだされ」


「はい」


 夜が降りた。


 南谷の家々は黒い影になり、井戸の上だけに細い空が見える。


 遠く、笠森城の方で、かすかな火が揺れていた。


 竈の火だろう。


 あの火がある限り、城には粥がある。


 そう思うだけで、少しだけ胸が落ち着いた。


 最初に動きがあったのは、渡しの方だった。


 遠くで竹筒が鳴った。


 かん、かん、かん。


 三度。


 渡しの合図だ。


 佐太が顔を上げる。


「渡しか」


「でも、ここを離れないでください」


 宗介はすぐに言った。


「井戸から人を動かすための音かもしれません」


 佐太は歯を食いしばった。


「分かってる」


 だが、身体は動きたがっている。


 戦う者は、音のした方へ行きたくなる。


 それを止めるのも、段取りだった。


「善助さん、村の者を動かさないで。家から出さない」


「はい」


 次に、城門の方で声が上がった。


 遠い怒号。


 火の明かりが一つ高くなる。


 門も騒いでいる。


 敵は三か所を同時に触っているのか。


 それとも、騒がせているだけか。


 宗介の喉が乾いた。


 水を飲みたい。


 だが、飲みすぎれば足りなくなる。


 竹筒の水で唇だけを湿らせた。


「来ます」


 善助が低く言った。


 井戸の反対側、細い路地の奥に、人影が見えた。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 多くはない。


 だが、低く身をかがめている。


 井戸を知っている動きだ。


「誰だ」


 佐太が槍を構えた。


 返事はない。


 人影の一つが、何かを投げた。


 石かと思った。


 違った。


 小さな火のついた藁束だった。


 井戸の手前に落ちる。


 しかし、そこに燃える藁はもうなかった。


 宗介がどけさせていた。


 火は泥の上で小さく揺れただけだった。


「二本線!」


 宗介が叫ぶ。


 南谷の若者が火消し用の桶を取る。


 水をかける。


 じゅっと音がし、火が消えた。


 人影が一瞬止まった。


 燃え広がると思っていたのだろう。


 佐太がそこへ踏み込んだ。


「寄るな!」


 槍先が闇を裂く。


 敵の一人が後ろへ下がる。


 だが、別の一人が横へ回った。


 狙いは佐太ではない。


 井戸の縄。


「縄!」


 宗介は叫んだ。


 善助がすぐに反応した。


 井戸の縄を掴み、身体ごと引く。


 敵の男が短い刃物で縄を狙ったが、届かない。


 南谷の若者が桶を投げつけた。


 桶は男の肩に当たり、派手な音を立てて転がった。


 敵が舌打ちする。


 宗介は足がすくんでいた。


 走れない。


 戦えない。


 ただ見て、声を出すだけ。


 それでも、見なければならない。


 敵の目は井戸の水ではなく、縄に向いている。


 水を飲むためではない。


 井戸を使えなくするためだ。


「水を取りに来たんじゃない! 縄を切りに来てる!」


 宗介が叫ぶと、佐太の動きが変わった。


 敵を追うのではなく、井戸と縄の間に立つ。


「善助、予備の縄は」


「隠してあります!」


「今は出さないで!」


「分かっております!」


 敵はさらに一度、火を投げようとした。


 だが、燃えるものがない。


 井戸の周りは空いている。


 泥は濡れている。


 火は広がらない。


 佐太と南谷の若者が踏ん張るうちに、遠くから足音が近づいてきた。


 城の方ではない。


 渡しの方だ。


 三郎兵衛の声がした。


「南谷へ回れ!」


 槙尾の者だ。


 渡しの騒ぎから、こちらへ一人回ってきたのだろう。


 敵の人影が揺れた。


「退くぞ!」


 低い声がして、三つの影が路地へ戻り始める。


 佐太が追いかけようとした。


「待って!」


 宗介は叫んだ。


「井戸から離れないで!」


 佐太は一歩踏み出し、そこで止まった。


 悔しそうに歯を剥いた。


 だが、追わなかった。


 敵の影は闇に消えた。


 しばらく、誰も動かなかった。


 善助が井戸の縄を握ったまま、荒く息をしている。


 南谷の若者は桶を拾い、手を震わせていた。


 佐太は槍を構えたまま、路地を睨んでいる。


 宗介は、ようやく自分が息を止めていたことに気づいた。


「縄は」


 声が掠れた。


 善助が答える。


「無事です」


「釣瓶は」


「無事」


「予備の縄は」


「見つかっておりませぬ」


 宗介は膝から崩れそうになった。


 井戸は守れた。


 水は残った。


 縄も切られていない。


 だが、勝ったという感じはしなかった。


 ただ、壊されずに済んだだけだ。


 それでも、今夜はそれで十分だった。


 しばらくして、宇平次が数人を連れて南谷へ来た。


 門と渡しの騒ぎは、やはり陽動だったらしい。


 渡しでは仮縄を触られたが、切る前に退いた。


 門では火を見せただけで、深くは来なかった。


 そして南谷の井戸では、縄を狙われた。


「水を飲みに来たのではないな」


 宇平次は井戸を見て言った。


「使えなくしに来た」


「はい」


 宗介は頷いた。


「敵は、自分たちの水が悪い。だから、こちらの良い水を使えなくしたかったのかもしれません。南谷の井戸が使えなくなれば、城も村も水で苦しくなる」


「米より先に水か」


「水がなければ、米は飯になりません」


 宇平次は黙った。


 それから、短く言った。


「よく見た」


 宗介は返事に困った。


 見ただけだ。


 佐太や善助が守った。


 南谷の若者が桶を投げた。


 三郎兵衛が回ってきた。


 自分は、声を出しただけ。


 だが、その声で佐太は縄を守る動きに変わった。


 それは、少しだけ役に立ったのかもしれない。


 夜明け前、南谷の井戸の水を少し汲み、笠森城へ戻った。


 門をくぐると、弥四郎が待っていた。


 若い城主は眠っていない顔だった。


「井戸は」


 第一声がそれだった。


「無事です」


 宗介は答えた。


「敵は水を飲みに来たのではなく、井戸の縄を切りに来ました。火も投げましたが、周りを片づけていたので広がりませんでした」


 弥四郎は深く息を吐いた。


「そうか」


 善助が膝をついた。


「若様。井戸は守りました」


「よく守った」


 弥四郎は言った。


「南谷は、城が守ると言った。その言葉、今夜は少し守れた」


 善助の目が赤くなった。


 宗介はその横で、胸の奥が熱くなるのを感じた。


 城と村の間に、細い糸が一本増えた。


 米ではない。


 水の糸だ。


 弥四郎は宗介へ向いた。


「敵は水を潰しに来る」


「はい」


「ならば、これからは井戸も兵糧として見る」


「はい」


 宗介はすぐに頷いた。


「井戸、縄、釣瓶、足場、火の届くもの。全部です」


 喜兵衛が後ろで低く笑った。


「お前の兵糧は、また広がったな」


「広がりすぎです」


 宗介は本音を漏らした。


 弥四郎が少しだけ笑った。


 だが、その笑みはすぐに消えた。


「市松」


「へい」


「板に残せ。敵は南谷の井戸の縄を狙った。火は広がらず。井戸は無事。渡しと門は陽動」


 市松が炭を握る。


 板に新しい印が増える。


 井戸。


 縄。


 火。


 陽動。


 水を潰す敵。


 丸と線ばかりの印が、また笠森城の命を少しだけ見える形にした。


 宗介は竈の前へ歩いた。


 薄い粥の鍋がある。


 火はまだ消えていない。


 南谷の井戸の水で、次の粥が炊ける。


 それだけで、今夜は勝ちと呼んでいいのかもしれない。


 いや、勝ちではない。


 また、被害を小さくしただけだ。


 だが、その小ささが、城を生かしていた。


 宗介は椀を手に取り、門の者へ回す粥をよそった。


 水があるから、粥が炊ける。


 粥があるから、兵が立つ。


 井戸を守ることも、戦だった。


第17話─了

新しい戦国転生短編を投稿しました。


『呂布の武と郭嘉の知を授かって戦国に転生した俺、信長の負け戦をひっくり返す』


https://ncode.syosetu.com/n4580mf/


本作とは少し違う、武と知で戦場をひっくり返す派手めの戦国転生ものです。

よろしければ、こちらも読んでいただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ