第17話 井戸を守る夜
敵は今夜、下へ出る。
その報せが入った瞬間、笠森城の中から眠気が消えた。
疲れが消えたわけではない。
足軽たちの目の下には黒い影があり、南谷の者たちも肩を落としている。竈のそばの女衆は、煙で赤くなった目を何度も擦っていた。
だが、誰も座り込まなかった。
灰原の沢筋。
悪い水。
薪少なし。
十人前後の中継竈。
木札に三本傷。
今夜、下へ出る。
市松が板に描いた印を、片瀬弥四郎はじっと見ていた。
「米だけではないな」
若い城主が言った。
久住宗介は、その言葉に顔を上げた。
「はい」
「敵は水も欲しがっている」
「たぶん」
宗介は板の南谷の印を指した。
「灰原の沢の水は悪い。腹を下す者が出ている。薪も少ない。長くいれば、動ける者が減ります。今夜下へ出るなら、米だけでなく、よい水場を取りたいはずです」
宇平次が腕を組む。
「水場か。南谷の井戸」
善助の顔が強張った。
「南谷の井戸を取られれば、村は終わります」
「城も困る」
喜兵衛が低く言った。
「南谷の井戸は、城の水を補う場所でもある」
弥四郎は頷いた。
「ならば、敵が狙うのは三つ。南谷の井戸。渡し。城門」
「城門は騒がせるだけかもしれません」
宗介は言った。
「火を見せて西へ寄せたように、門を騒がせて南谷の井戸へ向かうかもしれない。あるいは渡しを騒がせて井戸へ」
「どれも捨てられぬな」
宇平次の声は苦い。
「はい。でも、全部を同じ厚さでは守れません」
宗介は板に三つの丸を描いた。
城門。
渡し。
南谷の井戸。
「門は、城の中に水と飯があります。ここは持ちます。ただ、火を投げられた時の水を分けておく」
「昨夜と同じか」
「同じです。ただし、今回は門へ人を寄せすぎない」
次に、渡しの印を指す。
「渡しは仮縄。敵が渡ろうとしたら切れる。ここは見張りと合図を重くする。長く戦わない」
「三度鳴らす竹筒だな」
「はい」
最後に、南谷の井戸。
宗介はそこへ炭で黒い丸を描いた。
「南谷の井戸は、今夜一番危ないと思います」
善助が唇を噛む。
「井戸を隠すことはできません」
「はい。だから、井戸を空にしない。井戸の周りを空ける。敵が来た時に、桶や荷が邪魔にならないようにする。水を汲む縄と釣瓶を守る。できれば、予備の縄を別に隠しておく」
「縄を切られたら、水が汲めぬ」
喜兵衛が頷いた。
「それをやられると厄介だ」
宗介は続けた。
「あと、井戸のそばに米を置かないでください。敵が水を取りに来た時、米まで見えれば欲が出ます。井戸は井戸だけにする」
「水を守る場と、米を守る場を分けるか」
弥四郎が言った。
「はい。一緒に置くと、両方取られます」
宇平次は少し考え、すぐに決めた。
「門は俺が見る。渡しは佐吉と三郎兵衛。南谷の井戸は佐太と善助、それに村の者を二人。だが、敵が多ければ持たぬ」
弥四郎が言う。
「井戸へは俺も行く」
場が静まった。
宇平次が即座に首を振った。
「若、それはなりませぬ」
「南谷を守ると言ったのは俺だ。井戸を捨てれば、村は城を信じなくなる」
「ですが、城主が外へ出れば、城が揺れます」
宇平次の声には焦りがあった。
宗介も同じ思いだった。
弥四郎が出れば、兵の気は立つ。
だが、もし傷を負えば終わりだ。
若い城主はしばらく黙った。
そして、宗介を見た。
「なら、俺は門に残る。だが、南谷の井戸へは、城の命として守らせる」
「それでよろしいかと」
宗介は答えた。
「若様が城に残っているから、南谷の者も戻れる場所があるんです」
弥四郎はわずかに目を細めた。
「言うようになったな」
「怖いので、言っています」
「ならよい」
弥四郎は短く息を吐き、命じた。
「宇平次、門。喜兵衛、城内の飯と水。宗介は……」
宗介の心臓が跳ねた。
「宗介は南谷の井戸へ」
やはり、そう来た。
足が冷たくなる。
行きたくない。
夜の村。
敵が水を狙って来るかもしれない場所。
そこへ自分が行く。
考えただけで、喉が乾いた。
「戦わせるためではない」
弥四郎は言った。
「井戸と水を見よ。どこに桶を置くか。どの縄を隠すか。誰に水を渡すか。お前が見ろ」
「……はい」
宗介は頷いた。
「行きます」
声はまた震えていた。
宇平次が言った。
「死ぬなよ」
「できるだけ」
「そこは、死にませんと言え」
「言い切る自信がありません」
宇平次は呆れた顔をした。
だが、少し笑った。
「なら、戻れ。戻って報告しろ」
「はい」
夕暮れ前、南谷へ向かう一行が出た。
佐太。
善助。
南谷の若者二人。
笠森の小者が一人。
そして宗介。
武器を持つ者は少ない。
水桶を運ぶ者、予備の縄を持つ者、干し飯と味噌握りを小さく包んだ者。
宗介の腰にも竹筒がある。
今回の飯包みは、井戸守り用の結びにした。
市松が勝手にそう呼んだのだ。
「井戸守り結び」
あまり格好よくはない。
だが、見分けはつく。
南谷村は、夕闇の中で静まり返っていた。
家々の戸は閉じられ、動ける者の多くは城へ移っている。それでも、全部が空ではない。年寄りや、動けぬ者を見守る女衆が少し残っていた。
井戸は村の中央にある。
宗介はまず、周りを見た。
桶が転がっている。
縄が二本。
釣瓶が一つ。
井戸の足元は濡れ、泥になっている。
夜に慌てれば、必ず転ぶ。
「桶をどけます」
宗介は言った。
「井戸の周りを空けてください。水を汲む者以外は近づけない。飲ませる場所は、少し離したここ」
地面を指す。
善助が頷き、若者たちを動かした。
「桶はあちらへ。釣瓶の縄は一本だけ出す。予備はどこへ」
「家の裏へ。すぐ取れるが、外から見えない場所に」
「分かった」
「井戸の水を汲み切ろうとしないでください。水を取らせまいとして使いすぎると、こちらが困ります」
佐太が顔をしかめる。
「敵に飲ませるくらいなら、汲み出した方が」
「井戸は桶ではありません。汲み出してもすぐには空にならないかもしれませんし、足元が泥になって使えなくなります」
「では守るしかないか」
「はい」
宗介は井戸から少し離れた場所に、小さな水桶を二つ置いた。
一つは味方用。
もう一つは、火が出た時のため。
二本線の印をつける。
城で決めた印と同じだ。
「村でも同じ印か」
善助が言った。
「同じにします。場所が違っても、意味が同じなら迷いません」
「なるほど」
南谷の若者の一人が、少し感心したように頷いた。
宗介はさらに、井戸の近くの藁束をどけさせた。
「火をつけられると困ります。燃えるものは離す」
「井戸に火をかける者がいるか?」
「井戸そのものではなく、周りを燃やして近づけなくするかもしれません」
言いながら、宗介の背筋が冷えた。
そういうことを、自分が考えるようになっている。
戦国に来て、まだいくらも経っていない。
それなのに、火をどう使われるか、水をどう奪われるか、そんなことばかり考えている。
「宗介殿」
善助が声をかけた。
「顔色が悪うございます」
「怖いので」
「……正直ですな」
「嘘をついても、足の震えは止まりません」
善助は一瞬、言葉に詰まった。
それから小さく笑った。
「なら、震えたままでも、井戸を見てくだされ」
「はい」
夜が降りた。
南谷の家々は黒い影になり、井戸の上だけに細い空が見える。
遠く、笠森城の方で、かすかな火が揺れていた。
竈の火だろう。
あの火がある限り、城には粥がある。
そう思うだけで、少しだけ胸が落ち着いた。
最初に動きがあったのは、渡しの方だった。
遠くで竹筒が鳴った。
かん、かん、かん。
三度。
渡しの合図だ。
佐太が顔を上げる。
「渡しか」
「でも、ここを離れないでください」
宗介はすぐに言った。
「井戸から人を動かすための音かもしれません」
佐太は歯を食いしばった。
「分かってる」
だが、身体は動きたがっている。
戦う者は、音のした方へ行きたくなる。
それを止めるのも、段取りだった。
「善助さん、村の者を動かさないで。家から出さない」
「はい」
次に、城門の方で声が上がった。
遠い怒号。
火の明かりが一つ高くなる。
門も騒いでいる。
敵は三か所を同時に触っているのか。
それとも、騒がせているだけか。
宗介の喉が乾いた。
水を飲みたい。
だが、飲みすぎれば足りなくなる。
竹筒の水で唇だけを湿らせた。
「来ます」
善助が低く言った。
井戸の反対側、細い路地の奥に、人影が見えた。
一つ。
二つ。
三つ。
多くはない。
だが、低く身をかがめている。
井戸を知っている動きだ。
「誰だ」
佐太が槍を構えた。
返事はない。
人影の一つが、何かを投げた。
石かと思った。
違った。
小さな火のついた藁束だった。
井戸の手前に落ちる。
しかし、そこに燃える藁はもうなかった。
宗介がどけさせていた。
火は泥の上で小さく揺れただけだった。
「二本線!」
宗介が叫ぶ。
南谷の若者が火消し用の桶を取る。
水をかける。
じゅっと音がし、火が消えた。
人影が一瞬止まった。
燃え広がると思っていたのだろう。
佐太がそこへ踏み込んだ。
「寄るな!」
槍先が闇を裂く。
敵の一人が後ろへ下がる。
だが、別の一人が横へ回った。
狙いは佐太ではない。
井戸の縄。
「縄!」
宗介は叫んだ。
善助がすぐに反応した。
井戸の縄を掴み、身体ごと引く。
敵の男が短い刃物で縄を狙ったが、届かない。
南谷の若者が桶を投げつけた。
桶は男の肩に当たり、派手な音を立てて転がった。
敵が舌打ちする。
宗介は足がすくんでいた。
走れない。
戦えない。
ただ見て、声を出すだけ。
それでも、見なければならない。
敵の目は井戸の水ではなく、縄に向いている。
水を飲むためではない。
井戸を使えなくするためだ。
「水を取りに来たんじゃない! 縄を切りに来てる!」
宗介が叫ぶと、佐太の動きが変わった。
敵を追うのではなく、井戸と縄の間に立つ。
「善助、予備の縄は」
「隠してあります!」
「今は出さないで!」
「分かっております!」
敵はさらに一度、火を投げようとした。
だが、燃えるものがない。
井戸の周りは空いている。
泥は濡れている。
火は広がらない。
佐太と南谷の若者が踏ん張るうちに、遠くから足音が近づいてきた。
城の方ではない。
渡しの方だ。
三郎兵衛の声がした。
「南谷へ回れ!」
槙尾の者だ。
渡しの騒ぎから、こちらへ一人回ってきたのだろう。
敵の人影が揺れた。
「退くぞ!」
低い声がして、三つの影が路地へ戻り始める。
佐太が追いかけようとした。
「待って!」
宗介は叫んだ。
「井戸から離れないで!」
佐太は一歩踏み出し、そこで止まった。
悔しそうに歯を剥いた。
だが、追わなかった。
敵の影は闇に消えた。
しばらく、誰も動かなかった。
善助が井戸の縄を握ったまま、荒く息をしている。
南谷の若者は桶を拾い、手を震わせていた。
佐太は槍を構えたまま、路地を睨んでいる。
宗介は、ようやく自分が息を止めていたことに気づいた。
「縄は」
声が掠れた。
善助が答える。
「無事です」
「釣瓶は」
「無事」
「予備の縄は」
「見つかっておりませぬ」
宗介は膝から崩れそうになった。
井戸は守れた。
水は残った。
縄も切られていない。
だが、勝ったという感じはしなかった。
ただ、壊されずに済んだだけだ。
それでも、今夜はそれで十分だった。
しばらくして、宇平次が数人を連れて南谷へ来た。
門と渡しの騒ぎは、やはり陽動だったらしい。
渡しでは仮縄を触られたが、切る前に退いた。
門では火を見せただけで、深くは来なかった。
そして南谷の井戸では、縄を狙われた。
「水を飲みに来たのではないな」
宇平次は井戸を見て言った。
「使えなくしに来た」
「はい」
宗介は頷いた。
「敵は、自分たちの水が悪い。だから、こちらの良い水を使えなくしたかったのかもしれません。南谷の井戸が使えなくなれば、城も村も水で苦しくなる」
「米より先に水か」
「水がなければ、米は飯になりません」
宇平次は黙った。
それから、短く言った。
「よく見た」
宗介は返事に困った。
見ただけだ。
佐太や善助が守った。
南谷の若者が桶を投げた。
三郎兵衛が回ってきた。
自分は、声を出しただけ。
だが、その声で佐太は縄を守る動きに変わった。
それは、少しだけ役に立ったのかもしれない。
夜明け前、南谷の井戸の水を少し汲み、笠森城へ戻った。
門をくぐると、弥四郎が待っていた。
若い城主は眠っていない顔だった。
「井戸は」
第一声がそれだった。
「無事です」
宗介は答えた。
「敵は水を飲みに来たのではなく、井戸の縄を切りに来ました。火も投げましたが、周りを片づけていたので広がりませんでした」
弥四郎は深く息を吐いた。
「そうか」
善助が膝をついた。
「若様。井戸は守りました」
「よく守った」
弥四郎は言った。
「南谷は、城が守ると言った。その言葉、今夜は少し守れた」
善助の目が赤くなった。
宗介はその横で、胸の奥が熱くなるのを感じた。
城と村の間に、細い糸が一本増えた。
米ではない。
水の糸だ。
弥四郎は宗介へ向いた。
「敵は水を潰しに来る」
「はい」
「ならば、これからは井戸も兵糧として見る」
「はい」
宗介はすぐに頷いた。
「井戸、縄、釣瓶、足場、火の届くもの。全部です」
喜兵衛が後ろで低く笑った。
「お前の兵糧は、また広がったな」
「広がりすぎです」
宗介は本音を漏らした。
弥四郎が少しだけ笑った。
だが、その笑みはすぐに消えた。
「市松」
「へい」
「板に残せ。敵は南谷の井戸の縄を狙った。火は広がらず。井戸は無事。渡しと門は陽動」
市松が炭を握る。
板に新しい印が増える。
井戸。
縄。
火。
陽動。
水を潰す敵。
丸と線ばかりの印が、また笠森城の命を少しだけ見える形にした。
宗介は竈の前へ歩いた。
薄い粥の鍋がある。
火はまだ消えていない。
南谷の井戸の水で、次の粥が炊ける。
それだけで、今夜は勝ちと呼んでいいのかもしれない。
いや、勝ちではない。
また、被害を小さくしただけだ。
だが、その小ささが、城を生かしていた。
宗介は椀を手に取り、門の者へ回す粥をよそった。
水があるから、粥が炊ける。
粥があるから、兵が立つ。
井戸を守ることも、戦だった。
第17話─了
新しい戦国転生短編を投稿しました。
『呂布の武と郭嘉の知を授かって戦国に転生した俺、信長の負け戦をひっくり返す』
https://ncode.syosetu.com/n4580mf/
本作とは少し違う、武と知で戦場をひっくり返す派手めの戦国転生ものです。
よろしければ、こちらも読んでいただけると嬉しいです。




