第16話 灰原の竈
灰原の沢筋を見る。
そう決まった翌朝、笠森城の庭には、いつもより早く人が集められた。
戦いに行く人数ではない。
宇平次。
足軽の佐太。
槙尾から来た三郎兵衛。
南谷の善助。
そして、久住宗介。
たった五人である。
宗介は、自分の名が呼ばれた時、思わず喉を鳴らした。
行きたくない。
正直に言えば、それしかなかった。
灰原の沢筋には、敵の飯場があるかもしれない。三十から四十の男たちが潜んでいるかもしれない。こちらは五人。しかも宗介は刀も槍も使えない。
戦えば足手まといだ。
逃げても足手まといかもしれない。
だが、飯場を見るには、飯の跡を見なければならない。
灰。
水場。
薪。
塩の包み。
干し飯の屑。
火の使い方。
それらを見て、何人が、何日、どれほど動けるのかを読む。
それができる者は、今の笠森には多くなかった。
「無理に行かせるつもりはない」
片瀬弥四郎は、宗介を見てそう言った。
若い城主は、宗介の恐怖を見抜いていた。
「お前が行かずとも、宇平次が見る。槙尾の三郎兵衛も道を知る。善助も沢筋を知っている」
宗介は返事に詰まった。
行かなくていい。
そう言われると、今すぐ頷きたくなる。
だが、敵の飯包みを見た時の感覚が残っていた。
あれは、ただの賊ではない。
誰かが飯を分け、塩を持たせ、荷車を止めようとしていた。
敵にも、腹を見る者がいる。
ならば、こちらも見なければならない。
「行きます」
宗介は言った。
声は震えていた。
「怖くないわけではありません。むしろ、怖いです。ですが、飯場の跡は見たい」
宇平次が鼻を鳴らした。
「怖いなら、後ろにいろ」
「はい。前には出ません」
「そこは少しくらい意地を張れ」
「張って死ぬより、後ろで見ます」
三郎兵衛が短く笑った。
「正直な兵糧方殿だ」
弥四郎は小さく頷いた。
「ならば、行け。ただし、戦うな。敵の数を見ることより、飯場を見ることを優先せよ。深く入りすぎるな。夕暮れ前には戻れ」
「承知しました」
宗介たちは、それぞれ小さな飯包みを持った。
干し飯。
小さな味噌握り。
竹筒の水。
火は使わない。
持ち出す飯包みには、新しく決めた結びが使われている。見張り用とは違う。外へ探りに出る者の結びだ。
市松が板に印をつけた。
「宇平次殿、佐太、三郎兵衛、善助、宗介。飯包み五つ。水竹筒五つ。戻りは夕暮れ前」
「字は合っているか」
宗介が聞くと、市松は不機嫌そうに眉を寄せた。
「人の名くらい書ける」
「すみません」
「でも三郎兵衛は難しい」
三郎兵衛が無表情のまま言った。
「間違えてもよい。戻れば直す」
「戻れよ」
市松はぽつりと言った。
その一言に、場が少し静かになった。
宇平次が短く答えた。
「戻る」
宗介はその言葉に頷き、門を出た。
灰原の沢筋へは、渡しを使わない。
昨日切った縄は仮縄に変えられているが、敵が見ている可能性がある。今回は少し上流へ回り、浅瀬を渡ることになった。
善助の案内で、南谷の外れから雑木林へ入る。
道と呼べるほどのものはない。
獣道と、人が時々通った跡が混ざっている。
宗介は何度も足を滑らせた。
そのたびに、前を行く宇平次が振り返る。
「足元を見すぎるな。前も見ろ」
「はい」
「だが、見なさすぎても転ぶ」
「難しいです」
「だから山道は難しい」
宇平次の声に苛立ちはあるが、以前ほどの棘はない。
叱っている。
だが、教えてもいる。
宗介は善助の足運びを真似た。
柔らかい土を踏む。
濡れた石を避ける。
草の根元へ足を置く。
少しずつ、息の乱れがましになった。
沢の音が近づいてきた。
水の流れる音。
ただし、澄んだ音ではなかった。
どこか鈍い。
流れが濁っているのかもしれない。
善助が手を上げた。
「ここから先、声を落としてください」
全員が頷いた。
宗介の心臓が速くなる。
周囲の木々が濃くなり、光が薄くなる。沢筋は湿り、足元には古い落ち葉が溜まっていた。
しばらく進むと、善助がしゃがみ込んだ。
「跡があります」
宇平次と三郎兵衛が近づく。
宗介も少し遅れて覗き込んだ。
泥に足跡がある。
数は多い。
しかも、同じ方向へ何度も踏まれている。
「新しいか」
宇平次が聞く。
「昨日か、今朝か。少なくとも古くはありません」
善助は答えた。
宗介は足跡そのものより、その横を見た。
小さな白い粒が落ちている。
米粒か。
いや、干し飯の欠片だ。
拾い上げようとして、宇平次に止められた。
「素手で触るな」
「すみません」
三郎兵衛が小枝でそれを寄せた。
乾いている。
だが、泥はついていない。
「ここで食べています」
宗介は小声で言った。
「歩きながらか」
「たぶん。飯包みから落ちた欠片です。ここで休んだというより、移動中に食べたのかもしれません」
宇平次が頷く。
「先へ」
さらに進むと、沢の水が見えた。
水は薄く濁っていた。
上流から赤茶けた泥が混ざっている。飲めないことはないのかもしれないが、宗介なら避けたい。
沢の脇には、踏み荒らされた場所がある。
水を汲んだ跡。
だが、桶を置いた跡が雑だ。
足場が崩れかけている。
「ここで水を汲んでいる」
三郎兵衛が言った。
「だが、ひどい場所だ」
宗介は頷いた。
「足を滑らせます。水も濁っている。腹を壊す者が出るはずです」
「藤七の話と合うな」
宇平次が言った。
塩屋藤七は、灰原筋で腹を下す者が増えていると言っていた。
その理由が、目の前にあった。
悪い水。
荒れた沢。
多人数が汲むには足りない場所。
「敵は、長くここにいられないかもしれません」
宗介は言った。
宇平次が振り向く。
「なぜだ」
「水が悪い。足場も悪い。薪が湿っている。飯を作るには向きません。短く動くならともかく、長く留まれば腹を壊す者が増えると思います」
三郎兵衛が静かに頷いた。
「だから南谷の米と笠森の道を狙ったか」
「はい。もっと良い飯場か、水場が欲しいのかもしれません」
宗介の声は小さかった。
だが、自分で言って背筋が冷えた。
敵は単に米を奪いたいのではない。
悪い飯場から動きたいのだ。
水が悪く、沢が荒れ、荷車も入らない場所から、もっと動きやすい場所へ出たい。
そのために南谷を狙い、渡しを狙い、荷車を狙った。
「先へ行くぞ」
宇平次が言った。
それから一行は、さらに沢を上がった。
やがて、煙の臭いがした。
全員が足を止める。
宇平次が手で低く合図する。
声を出すな。
宗介は息を殺した。
少し先に、開けた場所があった。
古い炭焼き場の跡だろう。
地面が黒く、丸く固めた土の跡がある。その脇に、新しい灰があった。
竈と呼べるほど立派ではない。
石を三つ置き、その間で火を焚いた跡。
近くには、細かく折られた枝が積まれている。
湿った薪と、少し乾いた薪が分けられていた。
宗介は目を細めた。
分けている。
ただ投げ込んでいるのではない。
薪の使い方を知っている者がいる。
さらに、灰の横には、黒く焦げた竹筒が一つ転がっていた。
水を入れたか、味噌湯を温めたか。
少し離れた場所には、葉で包んだ何かの残り。
三郎兵衛が周囲を見回し、小声で言った。
「人はいない」
宇平次が頷く。
「だが、近くに戻るかもしれぬ。急げ」
宗介は慎重に灰へ近づいた。
まだ、ほんの少し温かい。
「今朝まで火がありました」
そう言うと、佐太の顔が硬くなった。
「近いな」
「はい」
宗介は灰の周りを見た。
焦げた飯粒。
味噌のついた木片。
塩の包み紙らしき小さな布。
そして、干し飯を戻したような跡。
粥ではない。
水で戻し、味噌を溶いたものを食べたのか。
量は多くない。
人数分をきっちり分けたような食べ跡だった。
「ここで大勢が腹いっぱい食った跡ではありません」
宗介は言った。
「どれくらいだ」
宇平次が問う。
「十人前後でしょうか。三十人が食った跡にしては少ないです」
三郎兵衛が周囲を見る。
「本隊ではなく、前に出る組か」
「たぶん」
宗介はさらに灰の外側を見た。
足跡は多い。
だが、全部が同時にいた感じではない。
踏み方が重なっている。
ここを中継に使っているのかもしれない。
「飯場というより、中継の竈です」
「中継?」
「ここで少し温める。飯包みを食べる。水を足す。そしてまた動く。長くいる場所ではないと思います」
宇平次は沢の下流を見た。
「本当の飯場は、もっと奥か」
「あるいは、別の場所です。ここは前に出る者が使う竈かもしれません」
その時、善助が低く言った。
「こちらへ」
彼は少し離れた藪の根元を指していた。
そこには、米俵の縄に似たものが落ちていた。
ただし、俵そのものはない。
縄だけが切られ、捨てられている。
喜兵衛がいれば、すぐに分かっただろう。
宗介は縄を見た。
粗い。
だが、俵を縛る縄に見える。
「ここで俵を開けた?」
三郎兵衛が呟く。
宗介は首を振った。
「分かりません。でも、米を小分けにした可能性があります」
「俵から小袋へか」
「はい。沢筋では荷車が使えない。俵のままでは重い。小分けにして背負うなら、ここで分けたかもしれません」
宇平次の顔が険しくなる。
「それなら、敵は米を得ている」
失った一俵か。
別の村から奪った米か。
藤七から流れた米か。
分からない。
だが、敵には米がある。
そして、それを小分けにする者がいる。
「見ろ」
佐太が小声で言った。
さらに奥に、小さな木札のようなものが落ちていた。
宗介が拾おうとすると、今度は自分で手を止めた。
三郎兵衛が小枝で寄せる。
木札には、傷が三本ついていた。
字ではない。
ただの印。
だが、見覚えがある気がした。
笠森で市松が使っている板の印と同じようなもの。
数を示す印かもしれない。
「敵も印を使っています」
宗介の声は、自分でも驚くほど低かった。
宇平次が木札を見る。
「三本傷。ただの傷ではないのか」
「かもしれません。でも、飯包みが揃っていた。薪も分けている。米を小分けにしているなら、数えるものが要るはずです」
三郎兵衛が頷いた。
「三包み、三組、三人。何かの印か」
「持ち帰りましょう」
宇平次は木札を布で包ませた。
「長居は危うい。戻る」
全員が頷いた。
その時だった。
沢の下から、かすかに人の声が聞こえた。
宗介の全身が固まった。
宇平次が手を上げる。
動くな。
声は近づいてくる。
二人か。
三人か。
水を汲みに来たのかもしれない。
戻ってきた敵かもしれない。
宇平次は一瞬で判断した。
沢から離れ、斜面の陰へ入る。
全員が低く身をかがめた。
宗介は息を止めた。
心臓の音が大きすぎる。
聞こえるのではないかと思った。
沢沿いに、男たちが現れた。
三人。
ひとりは桶を持ち、もうひとりは薪を抱えている。最後のひとりは槍を持っていた。
粗末な姿だが、動きはだらけていない。
「水が悪い」
桶を持つ男がぼやいた。
「腹を下すよりましだ。上で煮ろ」
薪を持つ男が答えた。
「煮る薪も惜しい。今夜には下へ出るんだろう」
「黙れ」
槍の男が低く叱った。
「余計なことを言うな」
今夜には下へ出る。
その言葉が、宗介の胸に刺さった。
下。
南谷か。
渡しか。
笠森に近い場所か。
男たちは竈の方へ向かいかけた。
しかし、何かに気づいたように足を止めた。
「おい。灰が触られてねえか」
宗介の喉が詰まった。
宇平次の手が、刀へ伸びる。
三郎兵衛も槍を構え直す。
戦うな。
弥四郎の命が、宗介の頭に浮かんだ。
だが、見つかれば戦いになる。
桶の男が、さらに竈へ近づこうとした。
その時、上の枝から鳥が飛び立った。
ばさばさと音を立てる。
男たちの目がそちらへ向いた。
三郎兵衛が、宗介の肩を軽く押した。
今だ。
全員が斜面の陰を下がった。
音を立てないように。
しかし、宗介の足が滑った。
小石が転がった。
かつん、と乾いた音がする。
「誰だ!」
槍の男が叫んだ。
「走れ!」
宇平次が初めて声を出した。
全員が一斉に走る。
宗介も走った。
走ったつもりだった。
だが、足がもつれる。
息ができない。
背後から怒号が上がる。
「人だ! 追え!」
追われている。
その事実だけで、頭が真っ白になりかけた。
「宗介、右へ寄れ!」
善助の声。
右。
右へ。
宗介は必死に足を動かした。
左は沢へ落ちる。
右の斜面へ寄る。
そこに細い木があり、善助が手を伸ばしていた。
宗介はその手を掴んだ。
引き上げられる。
背後で槍が草を払う音がした。
近い。
近すぎる。
佐太が振り返り、槍を構えた。
宇平次が怒鳴る。
「止まるな! 知らせが先だ!」
佐太は一瞬だけ敵を牽制し、すぐに下がった。
戦わない。
知らせを持ち帰る。
それが今日の役目だ。
宗介はそれを何度も考えていたはずなのに、いざ追われると足が勝手に止まりそうになる。
怖い。
背中を向けるのが怖い。
だが、止まれば捕まる。
斜面を抜け、沢から離れた。
敵の足音は少しずつ遠ざかる。
追う側も、悪い足場を深く追いすぎるのは危険だと知っているのだろう。
やがて、宇平次が手を上げた。
「ここで一度、息を整える」
宗介は膝に手をつき、荒く息を吐いた。
喉が焼ける。
胸が痛い。
胃の中の味噌握りが戻りそうだった。
「吐くなよ」
宇平次が言った。
「貴重な飯だ」
「……はい」
宗介は何とか答えた。
三郎兵衛が周囲を見回す。
「追っては来ません」
善助が水竹筒を差し出した。
「少しだけ」
宗介は頷き、口を湿らせた。
飲みすぎてはいけない。
戻る道にも水は要る。
それを、今は身体で分かっていた。
「聞いたな」
宇平次が全員を見る。
「今夜には下へ出る、と」
三郎兵衛が頷いた。
「槙尾へも知らせます」
宗介はまだ息を整えながら言った。
「下というのがどこかは分かりません。でも、あの場所は中継です。本当の飯場は別にあります。水が悪い。今夜動く。薪を惜しんでいる」
「敵は余裕がない」
宇平次が言う。
「はい。たぶん、長く待てない。腹を壊す者が増える前に、南谷か渡しへ出たいのかもしれません」
「なら、今夜だ」
佐太の顔が強張った。
宇平次は短く頷いた。
「戻るぞ。急ぐ。ただし、走り潰れるな。知らせを持って帰るまでが斥候だ」
帰り道は、来た時より長く感じた。
足は重い。
喉は乾く。
背後が気になる。
だが、宗介は何度も自分に言い聞かせた。
戻る。
板に印をつける。
敵の竈。
悪い水。
小分けの米。
木札の三本傷。
今夜、下へ出る。
それを持ち帰る。
それが自分の役目だ。
笠森城の門が見えた時、宗介は本当に膝から崩れそうになった。
門上の見張りが叫ぶ。
「戻った!」
門が開く。
中央は空けられている。
水桶は左右。
竈の火は細く生きている。
帰る場所が、そこにあった。
弥四郎がすぐに出てきた。
「報告を」
宇平次が膝をつく。
宗介も続いた。
「灰原の沢筋に中継の竈あり。火は今朝まで使われていました。水は悪く、薪も乏しい。飯は十人前後の跡。敵の本隊ではなく、前へ出る組の飯場と思われます」
三郎兵衛が木札を差し出す。
「木札に三本傷。数の印かもしれませぬ」
善助が続ける。
「敵三人が戻ってきました。水汲みと薪運び。『今夜には下へ出る』と話しておりました」
場が静まった。
今夜。
その言葉だけで、城の空気が変わる。
弥四郎の目が細くなった。
「下とは、南谷か。渡しか。笠森か」
「分かりません」
宇平次は答えた。
「ですが、動くのは今夜と見てよろしいかと」
宗介は息を整えながら、板の前へ行った。
市松が炭を持って待っている。
「何を書く」
「灰原の竈。悪い水。薪少なし。十人前後。木札三本。今夜、下へ出る」
市松の顔が強張った。
「今夜か」
「うん」
市松は黙って板に印をつけた。
灰。
水。
薪。
三本傷。
夜。
下へ向かう矢印。
下手な印だった。
だが、笠森城の者たちは、それを見て理解した。
敵は今夜動く。
弥四郎は板を見て、すぐに命じた。
「南谷の曲がり、渡し、門。三か所を備える。西の見せ火には釣られるな。宇平次、門と渡しの人を分けよ。喜兵衛、飯と水を半刻内に用意。宗介、どこへ何を回すか示せ」
「はい」
疲れは残っている。
足は震えている。
だが、休んでいる暇はなかった。
敵の腹を見た。
次は、こちらの腹を崩されないようにしなければならない。
宗介は竈の方を見た。
薄い粥の火は、まだ消えていない。
その火が、今夜の笠森城を支えることになる。
第16話─了
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『呂布の武と郭嘉の知を授かって戦国に転生した俺、信長の負け戦をひっくり返す』
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本作とは少し違う、武と知で戦場をひっくり返す派手めの戦国転生ものです。
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