第15話 商人の通る道
笠森城の朝は、また板の前から始まった。
米。
水。
薪。
南谷。
西尾根。
渡し。
敵の飯包み。
灰原の味噌。
荒い塩。
商人の道。
板の上は、丸と線と下手な絵で埋まりつつあった。
最初に見れば、ただの落書きにしか見えない。
だが今の笠森城では、その落書きが命綱になっている。
久住宗介は、板の前にしゃがみ込んでいた。
市松が横で炭を持っている。
「商人って、どう描けばいい?」
「荷を背負った人で」
「人も荷も下手になるぞ」
「分かればいい」
「そればっかりだな」
市松は文句を言いながら、小さな人の背中に丸い荷を描いた。
確かに下手だった。
だが、商人だと分かる。
宗介はそれで十分だと思った。
そこへ、片瀬弥四郎が来た。
若い城主の顔には、昨夜からの疲れがまだ残っている。けれど目は眠っていなかった。
「宗介」
「はい」
「槙尾から知らせが来た。安西新蔵が、商人を一人連れてくる」
宗介は顔を上げた。
「川向こうへ通う商人ですか」
「らしい。塩と味噌を扱う者だという」
喜兵衛が後ろから近づいてきた。
「商人など、口が軽いようで重い。銭にならぬ話はせぬぞ」
宇平次も門の方から歩いてくる。
「しかも、どちらにも良い顔をする。敵にも味方にも売るのが商人だ」
宗介は頷いた。
「だから、こちらも銭や米ではなく、道で話します」
「道で?」
宇平次が眉を寄せた。
「商人は荷を運びます。荷が通れない道は困る。水場が分からないのも困る。どこで止められるか分からないのも困る。なら、安全に通れる道の情報は、商人にとって価値があるはずです」
「こちらの道を教える危うさもある」
弥四郎が言った。
「はい。全部は見せません。見せる道と、隠す道を分けます」
宗介は板に炭で線を足した。
笠森城から南谷へ下る道。
そこから曲がりへ向かう道。
渡しへ伸びる道。
その一部に小さな印を置く。
「商人へ見せるのは、城の門近くと、南谷の外れまで。渡しの仮縄、蔵の位置、南谷の隠し米の場所は見せない」
「商人が知りたがれば」
「知らないふりではなく、そこは通行止めだと言います」
宇平次が腕を組む。
「商人が素直に従うか」
「従わなければ、笠森では水も休み場も出せない。そう伝えるしかありません」
喜兵衛が低く言った。
「米は出さんぞ」
「出しません。水と、休む場所と、通ってよい道。それだけです」
弥四郎は少し考え、頷いた。
「よい。だが、商人を蔵へ近づけるな」
「はい」
「南谷の者の前で、勝手な約束もするな」
「承知しました」
昼前、門の外に安西新蔵が現れた。
供は一人。
その後ろに、小柄な男がいた。
年は四十前後か。
背中に荷を負い、腰には小さな秤のようなものを下げている。顔は日に焼け、目は油断なく動いていた。足元のわらじは擦り減っているが、結び直しは丁寧だった。
商人だ。
宗介は、そう思った。
槍を持つ者とは違う。
足軽とも村人とも違う。
荷を見る目と、人を見る目が同じだけ鋭い。
宇平次が門の上から声を落とした。
「名を申せ」
新蔵が答える。
「槙尾家中、安西新蔵。こちらは塩屋藤七。川向こう、灰原筋、南谷筋を通る商いの者にございます」
塩屋藤七は、深く頭を下げた。
「塩屋藤七にございます。米ではなく、塩と味噌と少しの干物を扱っております」
宇平次は門を少しだけ開けさせた。
新蔵と藤七だけを入れる。
供は外。
武器は預かる。
すでに決まった手順だった。
藤七が門をくぐる時、その目が一瞬、水桶へ向いた。
門の左右。
丸の印。
二本線の火消し桶。
そして、竈の煙。
宗介はそれを見ていた。
この男も、飯と水を見る。
商人にとっても、それは命なのだろう。
弥四郎は門の内側で二人を迎えた。
「笠森城主、片瀬弥四郎である」
藤七は土に手をついた。
「お目通り、恐れ入ります」
「新蔵殿から話は聞いている。川向こうへ通うそうだな」
「はい。通れる時だけ、でございますが」
その返しに、宇平次の眉がわずかに動いた。
通れる時だけ。
つまり、通れない時も多い。
弥四郎はすぐには本題に入らなかった。
「まず水を」
宗介は市松に合図した。
水を小椀で出す。
飯は出さない。
味噌湯でもない。
ただの水。
藤七は椀を受け取り、すぐには飲まなかった。
一度、匂いを嗅いだ。
それから、少しだけ口に含む。
喉を鳴らしすぎないよう、抑えて飲んでいる。
かなり渇いている。
だが、それを見せたくない。
宗介はそう見た。
「うまい水でございます」
藤七が言った。
「井戸か」
弥四郎が問う。
「はい。川の水ではございませぬな」
「分かるのか」
「商いで歩いておりますと、水に当たれば命に関わります」
藤七はもう一口、水を飲んだ。
「川向こうでは、近頃、腹を下す者が増えております。上の沢が荒れたせいか、流れが悪うございます」
宗介は思わず前へ出かけた。
川向こう。
腹を下す者。
水。
敵の飯包み。
つながる。
弥四郎が宗介を見る。
「兵糧方」
藤七の目が宗介へ向いた。
ただの小者を見る目ではない。
値踏みする目だった。
「はい」
宗介は一歩前へ出た。
「塩屋殿。川向こうで腹を下す者が増えたのは、いつ頃からですか」
藤七はすぐ答えなかった。
水椀を両手で持ち、宗介を見る。
「それを申し上げると、何か商いになりますか」
喜兵衛が顔をしかめた。
宇平次も不快そうに眉を寄せる。
だが、弥四郎は怒らなかった。
宗介も、怒る気にはならなかった。
商人は、ただで話さない。
それは喜兵衛が言った通りだ。
「笠森と南谷の間で、通ってよい道を示せます」
宗介は言った。
「水を汲んでよい場所も。ただし、決めた道だけです。勝手に渡しや蔵へ近づくなら、以後、水も休み場も出せません」
藤七の目がわずかに細くなった。
「道を売る、ということですか」
「売るというより、取り決めです」
「商人には同じに聞こえます」
「なら、そうです」
宗介は認めた。
「こちらは、川向こうに何が流れているか知りたい。あなたは、安全に通れる道と水場が欲しい。米は出せません。銭も多くは出せません。でも、通れる道と水なら出せます」
藤七は弥四郎を見た。
「若様も、同じお考えで」
弥四郎は頷いた。
「ただし、笠森の道を全て売るつもりはない」
「それは当然でございます」
藤七は少し笑った。
「全て教える城があれば、商人でも心配になります」
新蔵が横で声を殺して笑った。
宗介は、藤七が少しだけこちらを見る目を変えたのを感じた。
まだ信用ではない。
だが、話をする相手としては見た。
「腹を下す者が増えたのは、十日ほど前からでございます」
藤七は言った。
「灰原の沢筋で、山を崩した者がおります。炭焼きか、逃げ込んだ者か、詳しくは知りませぬ。水が濁り、そこから下の家で腹を壊す者が出た」
「それで塩と味噌が売れた?」
宗介が聞くと、藤七は目を少し見開いた。
「よくお分かりで」
「腹を壊した後、塩気と温かいものが欲しくなります」
「その通りでございます。味噌、塩、干し飯。よく動きました」
喜兵衛が低く言った。
「敵の飯包みも、それでか」
藤七はそちらを見る。
弥四郎が合図すると、敵から拾った飯包みが出された。
藤七は布を見た。
味噌を嗅ぐ。
塩を指で触る。
そして、深く息を吐いた。
「これは、灰原筋へ渡した品に近うございます」
場が静まった。
「誰へ渡した」
宇平次が問う。
藤七は口を閉じた。
「申し上げれば、商人の首が飛びます」
「黙っていれば、笠森の米が飛ぶ」
宇平次の声が低くなる。
藤七の顔が強張った。
宗介は一歩前へ出た。
「名前でなくても構いません」
藤七が宗介を見る。
「どれくらいの量が動いたか。誰が食う飯なのか。百人分なのか、十人分なのか。そこだけでも」
藤七は少し黙った。
弥四郎も黙っている。
無理に名を吐かせれば、藤七はもう口を閉ざすだろう。
商人は道で生きている。
一度裏切り者と見られれば、次の道で殺される。
宗介には、それが何となく分かった。
「十人、二十人の量ではございません」
藤七はようやく言った。
「ただし、百人を養うほどでもない。動ける男が三十から四十。数日動く分。そのくらいの塩と味噌と干し飯が、灰原の沢筋へ入りました」
宇平次が息を呑む。
「三十から四十」
「正確ではございません」
「それでも多い」
新蔵が言った。
「槙尾の西沢で荷を奪った者、笠森の渡しを探った者、南谷の曲がりに出た者。同じ腹かもしれませぬな」
弥四郎は板へ目を落とした。
宗介も板を見る。
敵六。
縄持ち。
見せ火。
渡し。
飯包み。
それらの後ろに、三十から四十の腹。
小さな城にとっては十分な脅威だった。
「その者らは、どこで飯を作っている」
宗介が聞いた。
藤七は眉を上げた。
「戦う者ではなく、飯の場所でございますか」
「はい」
「灰原の沢筋、古い炭焼き場が二つございます。片方は水が悪い。もう片方は、沢から少し上がった乾いた場所にある。そこで火を使っていると聞きました」
「聞いた?」
「私はそこへは入りませぬ。品は手前で渡します」
「誰が奥へ運ぶんですか」
藤七は少し迷った。
「灰原の若い者と、見慣れぬ男たち。荷運びに慣れた者が混じっております」
宗介の背中が冷えた。
荷運びに慣れた者。
ただの賊ではない。
荷の扱いを知る者がいる。
「荷車は?」
「使っておりませぬ。沢筋が悪い。背負いと、棒で担ぐ荷です」
「なら、重い米は多く運べません」
宗介は呟いた。
弥四郎がすぐ反応した。
「どういうことだ」
「三十から四十が数日動くなら、米が要ります。でも沢筋が悪く、荷車が使えないなら、大きな米俵は運びにくい。干し飯や奪った米を小分けにしているはずです」
喜兵衛が頷いた。
「だから南谷の米を狙ったか」
「はい。ただ、米俵のままでは運びにくい。荷車を止め、こちらの道を使いたかったのかもしれません」
宇平次の顔が険しくなった。
「笠森の荷車を奪い、道を使う」
「あるいは、荷車を壊してこちらの運びを止める」
新蔵が言った。
「どちらでも笠森は苦しくなる」
弥四郎は長く黙った。
その沈黙の間に、竈の火がぱちりと鳴った。
藤七は水椀を両手で持ったまま、余計なことは言わない。
商人らしい沈黙だった。
「藤七」
弥四郎が口を開いた。
「笠森は、南谷の外れまでの道と水場を示す。通る時は門で名を告げよ。勝手に渡しへ近づくな。蔵と南谷の米には触れるな」
「承知しました」
「その代わり、川向こうへ塩、味噌、干し飯が大きく動く時は知らせよ。名を言えとは言わぬ。量と向きだけでよい」
藤七は頭を下げた。
「できる限り」
「できぬ時は」
「来ませぬ」
藤七は正直に言った。
「来た時は、何か言える時でございます」
弥四郎は頷いた。
「よい」
宗介は少しだけ息を吐いた。
約束と呼ぶには細い。
だが、何もないよりはましだ。
藤七は敵にも味方にもなる。
だからこそ、道を閉ざしすぎても駄目だ。
商人の荷は、情報も運ぶ。
午後、宗介は藤七を連れて、城の外の水場と休み場所を見せた。
もちろん、見せてよい場所だけである。
南谷へ下る途中の小さな広場。
水を汲める浅い井戸。
荷を置いても道を塞がない場所。
そこに市松が印を置いていく。
商人の印。
水の印。
通ってよい道。
通ってはならない道。
藤七はそれを見て、感心したように言った。
「笠森は、小さい城と思っておりましたが」
「小さいです」
宗介は答えた。
「だから、間違える余裕がないんです」
「なるほど」
藤七は背負い荷の紐を直した。
「久住殿は、もとは商いの方で?」
「違います」
「では、荷を運ぶ方で?」
宗介は少し黙った。
現代の物流。
配送。
荷の積み方。
道の段取り。
言っても伝わらない。
「遠いところで、荷と人の動きを見ていました」
藤七はそれ以上聞かなかった。
「それで十分でございます。荷と人の動きを見る者は、商いでも戦でも役に立ちます」
宗介は藤七を見た。
商人の目は、相変わらず油断ならない。
だが、嘘ばかりではないようにも見えた。
城へ戻る頃、藤七は新蔵と共に門を出た。
供へ水を渡し、飯は渡さない。
それも手順通りだった。
藤七は門の外で一度振り返り、弥四郎へ深く頭を下げた。
「道と水、ありがたく。次に通れる時は、荷の流れをお持ちします」
「待つ」
弥四郎は短く答えた。
門が閉じられる。
宇平次が低く言った。
「信用できるか」
弥四郎は首を振った。
「できぬ」
宗介も頷いた。
「でも、使える情報はあります」
喜兵衛が板を見た。
「敵は三十から四十。灰原の沢筋。荷車は使えず、背負いと担ぎ荷。塩と味噌と干し飯が入っている」
「それだけ分かれば、だいぶ違う」
宇平次が言った。
「ただし、こちらも見られた」
弥四郎の声は静かだった。
「道を示した以上、敵に漏れる覚悟も要る」
「はい」
宗介は答えた。
「だから、見せた道にはこちらも目を置きます。水場も印を見ます。藤七が約束通り通ったかどうか、残るはずです」
「足跡か」
「足跡、使った水、置いた荷の跡。全部は無理ですが、見る場所を決めれば少しは分かります」
宇平次は苦笑した。
「今度は商人の足跡まで見るのか」
「道を売ったので」
「売った覚えはない」
「取り決めでした」
「似たようなものだ」
弥四郎が小さく笑った。
その笑いはすぐに消えた。
「灰原の沢筋を探る」
宇平次が表情を引き締めた。
「斥候を出しますか」
「出す。だが深くは入らせぬ。飯場を探せ。敵の数より、まず飯場だ」
飯場。
その言葉に、宗介は弥四郎を見た。
若い城主は、敵の腹を見ようとしている。
「飯場が分かれば、敵の動ける範囲も見える」
弥四郎は言った。
「違うか、宗介」
「違いません」
宗介は答えた。
「飯場から遠すぎる場所には、長くいられません。水場が悪ければ、腹を壊します。薪がなければ火も使えない。そこを見れば、次にどこへ出るか少し分かるかもしれません」
弥四郎は頷いた。
「なら、次は敵の飯場を見る」
その一言で、城の空気がまた変わった。
守るだけではない。
敵の腹を探る。
ただし、斬り込むのではない。
米、水、薪、火、道を見る。
宗介は板へ新しい印を描き足した。
灰原の沢。
敵の飯場。
塩屋藤七。
商人の道。
描きながら、思った。
戦は遠いところにあると思っていた。
武将がいて、軍勢がいて、旗が並び、槍がぶつかるものだと。
だが今、宗介の目の前にある戦は、もっと泥臭い。
どの水を飲むか。
どの道を通るか。
誰が味噌を運ぶか。
どこで飯を炊くか。
その積み重ねで、人は動き、城は残り、敵もまた動く。
夕暮れ、竈の火が細く揺れた。
粥の湯気の向こうで、市松が板に商人の印を描いている。
「これ、商人に見える?」
「見える」
「ほんまか?」
「……たぶん」
「たぶんかよ」
市松が笑った。
宗介も少し笑った。
だが、胸の奥は重いままだった。
灰原の沢筋。
三十から四十の腹。
敵の飯場。
次に見るべき場所は決まった。
小さな笠森城は、ついに敵の腹を探りに行くところまで来ていた。
第15話─了
新しい戦国転生短編を投稿しました。
『呂布の武と郭嘉の知を授かって戦国に転生した俺、信長の負け戦をひっくり返す』
https://ncode.syosetu.com/n4580mf/
本作とは少し違う、武と知で戦場をひっくり返す派手めの戦国転生ものです。
よろしければ、こちらも読んでいただけると嬉しいです。




