第14話 敵の飯包み
半助の腕の傷は、夜になっても熱を持っていた。
おきぬは布を替え、湯で汚れを拭い、薄い粥を少しずつ飲ませている。
半助は強がっていたが、顔色は悪い。
南谷の若者たちは、半助の周りに集まりかけては、おきぬに追い払われていた。
「邪魔だよ。見舞いは飯の後。今は風を通す」
その声に、皆が渋々離れる。
久住宗介は、少し離れた場所からそれを見ていた。
戻れた。
半助は戻れた。
だが、傷を負った。
偽の米俵は敵を釣った。
けれど、その代わり、半助の血が流れた。
それを成功と呼んでいいのか、宗介にはまだ分からない。
「座れ」
喜兵衛が言った。
宗介は振り向いた。
「いえ、まだ――」
「座れと言っておる。倒れた兵糧方など邪魔だ」
言い方は荒い。
だが、目は本気で心配していた。
宗介は竈のそばに腰を下ろした。
途端に、足が重くなった。
自分では気づかないうちに、かなり無理をしていたらしい。膝が小さく震え、指先に力が入らない。
喜兵衛は椀を差し出した。
薄い粥だった。
「食え」
「先に足軽へ」
「これはお前の分だ。市松が印をつけておる」
宗介は椀を受け取った。
粥は薄い。
米粒も少ない。
それでも湯気が立っている。
口へ運ぶと、味噌の薄い塩気が舌に触れた。
腹に落ちた瞬間、身体が自分のものに戻るような感覚があった。
「……ありがとうございます」
「礼より、食え」
喜兵衛はそう言って、宗介の前に腰を下ろした。
手には、汚れた布包みがあった。
「何ですか」
「曲がりで拾わせた」
宗介の手が止まった。
南谷の曲がり。
偽の米俵を落とし、半助が傷を負った場所。
「敵のものですか」
「おそらくな」
喜兵衛は布包みを開いた。
中には、干し飯が入っていた。
それと、小さな塩の包み。
さらに、硬く丸めた味噌らしきものが少し。
宗介は思わず身を乗り出した。
ただの落とし飯ではない。
包み方が揃っている。
干し飯の量も少ないが、歩きながら食うにはちょうどいい。塩も別にされている。味噌も小さく、無駄が少ない。
宗介は布の端を見た。
結び目が固い。
解きやすいが、走ってもほどけにくい。
「これ、誰が拾いました」
「佐太だ。敵が落としたものか、こちらが押し返した時に転がったものかは分からぬ」
「他にも?」
「三つ」
喜兵衛は背後の小者へ目をやった。
小者が同じような布包みを二つ持ってくる。
宗介はそれを並べた。
大きさが、ほぼ同じだった。
結び方も似ている。
中身も似ている。
干し飯。
塩。
味噌。
量も、大きくは違わない。
宗介の背中に冷たいものが走った。
「……これは、支給されています」
喜兵衛の眉が動いた。
「支給?」
「配られた飯です。誰かが同じように分けて、持たせている」
「賊が飯を分けるくらい、珍しくはなかろう」
「ただ奪った飯を分けたなら、もっとばらつきます。これは量が揃いすぎています。塩まで別にしている。しかも、走ってもほどけにくい結び方です」
喜兵衛は布包みをじっと見た。
それから、低く唸った。
「敵にも、兵糧方がおるということか」
宗介はすぐには答えられなかった。
兵糧方。
そう呼んでいいのかは分からない。
だが、少なくとも、敵の腹を見ている者がいる。
火を見せる。
渡しを狙う。
荷車の車輪を止めようとする。
そして、動く者へ同じ飯包みを持たせる。
行き当たりばったりの賊ではない。
「弥四郎様へ」
宗介は粥の椀を置いて立とうとした。
喜兵衛が肩を押さえた。
「食ってからだ」
「でも」
「食わぬ兵糧方が、飯包みを語るな」
宗介は言い返せなかった。
結局、椀の粥を飲み干してから、布包みを持って弥四郎のもとへ向かった。
片瀬弥四郎は、蔵の前で宇平次と話していた。
半助の傷のこと。
曲がりでの襲撃のこと。
次に本物の米を動かす時の守りのこと。
そのどれも、すぐに決めなければならない話だった。
「宗介」
弥四郎は布包みに気づいた。
「それは」
「敵の落とし物と思われます」
宗介は膝をつき、布包みを開いた。
宇平次も顔を近づける。
「飯か」
「はい。干し飯、塩、味噌。三つとも中身が似ています。包み方も近い」
弥四郎は一つを手に取った。
布の結び目を見る。
中身を見る。
少しだけ干し飯を指で摘まんだ。
「汚いが、古くはないな」
「はい。数日前に包んだものだと思います。もっと古ければ湿ります」
宇平次が言った。
「敵も飯を持って出た。それだけではないのか」
「それだけなら、もっと雑だと思います」
宗介は自分の腰にある見張り用の小さな包みを取り出した。
笠森で作ったものだ。
干し飯少し。
味噌握り一つ。
竹筒の水。
布の端には印の結び。
それを敵の飯包みの隣に置く。
場が静かになった。
「似ているな」
宇平次が低く言った。
「はい」
宗介は頷いた。
「相手も、動く者に飯を持たせています。しかも、ばらばらではない。まとまって動くための飯です」
弥四郎は布包みを見つめた。
「賊ではない、と見るか」
「賊でも、まとめる者がいます」
宗介は答えた。
「ただ腹を空かせて飛び出してくる者なら、偽の米俵に全員が群がったかもしれません。でも、縄持ちは荷車を狙い続けました。別の男は先回りしていました。飯も揃っています」
宇平次の目が鋭くなった。
「命じる者がいる」
「はい」
「その者は、戦の道を知っている」
「たぶん、荷の道も知っています」
宗介は板に描かれた米の道図を見た。
「敵は、城を攻め落とす前に、米の通る場所を狙っています。南谷の曲がり。渡し。西の見せ火。荷車。水場。こちらがどこで慌てるかを見ています」
弥四郎はしばらく黙っていた。
若い城主の顔から、疲れが消えたわけではない。
だが、目の奥がさらに硬くなった。
「名のある家の手か」
宇平次が言った。
「それとも、どこぞの小領主が賊を使っているか」
喜兵衛が遅れてやってきた。
「灰原の辺りではないか」
灰原。
その名に、南谷の庄屋が顔を上げた。
「灰原なら、川向こうの荒れ地を抱えております。近年、作が悪いと聞きます」
弥四郎が庄屋を見る。
「灰原に、これほど動ける者がいるか」
「分かりませぬ。ただ、あそこは人の出入りが多い。流れ者も、逃げた百姓も、落ち武者崩れもおります」
宇平次が腕を組む。
「灰原の名を借りた別の者かもしれぬ」
弥四郎は頷いた。
「決めつけぬ。だが、川向こうを疑う」
宗介は布包みを見た。
敵の飯。
たったそれだけで、川向こうの影が少し濃くなった。
誰かがいる。
腹を見ている者が。
「若」
宗介は言った。
「こちらの飯包みを変えた方がいいです」
「なぜだ」
「敵に拾われた時、笠森のやり方を知られます」
宇平次が眉を上げた。
「なるほどな。敵の飯からこちらが見たように、こちらの飯から敵も見るか」
「はい」
宗介は自分の包みを開いた。
「見張り用、門番用、荷運び用。全部同じにすると、拾われた時に分かります。少しだけ変えましょう」
「どう変える」
「包みの布を変えるほど余裕はありません。結び目を変えます。見張りは二つ結び。荷運びは一つ結び。門番は結ばず、竈で渡す。外へ持ち出すものには、誰が持ったか印をつけます」
喜兵衛が頷いた。
「敵に拾われても、すぐには分からぬようにするか」
「はい。それと、飯包みを落とさないように、腰への結び方も揃えます」
市松が横から顔を出した。
「また結びか」
「結びです」
「飯も水も縄も、全部結びだな」
「ほどけたら困るものばかりだから」
市松は少し考え、真面目な顔で頷いた。
「それはそうだ」
弥四郎は短く命じた。
「今日から変えよ。外へ出る者の飯包みは、宗介と喜兵衛が見る。市松、印をつけろ」
「へい」
「宇平次」
「はっ」
「敵の飯包みは、槙尾へも見せる。安西新蔵なら分かることがあるかもしれぬ」
「承知」
「ただし、すべては渡すな。こちらにも残す」
弥四郎の判断は早かった。
宗介はそれに少し驚いた。
以前なら、自分がもっと説明しなければならなかったかもしれない。
今は、弥四郎が先を見て動いている。
敵の飯包みから、敵の段取りを見る。
こちらの飯包みを拾われた時の危険を見る。
若い城主は、確実に変わり始めていた。
昼過ぎ、笠森城では飯包みの作り替えが始まった。
派手な作業ではない。
布を広げ、干し飯を少し入れ、味噌を小さく包み、塩を分ける。
持つ役によって結びを変える。
見張り用は二つ結び。
荷運び用は一つ結び。
急ぎの使いには端を折り込むだけ。
持ち出す時、市松が板に印をつける。
誰が、どこへ、何を持ったか。
以前よりさらに面倒になった。
足軽たちは当然、不満を言った。
「結びまで決めるのかよ」
「腹に入れば同じだろ」
「ほどくのに手間取ったらどうする」
宗介は一つずつ答えた。
「ほどき方も同じにします」
「敵に拾われた時、何の飯か分かりにくくするためです」
「落とさない結び方にします」
納得した者もいる。
していない者もいる。
だが、宇平次が一言で締めた。
「戦場で飯を落とした奴は、自分で腹を空かせろ」
それで、大半は黙った。
おきぬは竈のそばで、器用に布を結んでいた。
「男どもは不器用だねえ」
女衆が笑う。
南谷の女たちも、結び方を覚え始めた。
子供たちは市松の周りで、板の印を覗き込む。
飯包み。
見張り。
荷運び。
門番。
敵の飯。
似たような印が増えすぎて、市松が頭を抱えた。
「もう板が足りねえ!」
「新しい板を探します」
「探すのも俺かよ」
「お願いします」
「兵糧方は人使いが荒い」
「人が足りないので」
宗介が言うと、市松は舌を出して走っていった。
午後、槙尾の安西新蔵が再び笠森へ来た。
今度は供を一人だけ連れている。
門で水を出すと、軽く礼を言い、すぐ弥四郎の前へ通された。
敵の飯包みを見せると、新蔵の顔から笑みが消えた。
「これは」
「曲がりで敵が落としたものだ」
弥四郎が言う。
「槙尾で見覚えはあるか」
新蔵は布を手に取り、結び目を見た。
中の干し飯を少し嗅ぐ。
塩の包みを開く。
そして、味噌を指で押した。
「灰原の味噌に似ています」
場が静まった。
「断じられるか」
弥四郎が問う。
「断じることはできませぬ。ですが、川向こうの灰原では、豆が少なく、麦を混ぜた味噌を使う家が多い。この味噌にも、その匂いがございます」
宗介には違いが分からなかった。
だが、喜兵衛が顔を近づけ、鼻を鳴らした。
「確かに、城の味噌とは違う」
新蔵はさらに言った。
「それと、この塩。粒が荒い。槙尾の塩とは違います。川向こうへ回る商人筋から入ったものかもしれませぬ」
「商人筋」
宇平次が低く言った。
「賊に商人がついているのか」
「商人は、誰にでも売ります」
新蔵は淡々と言った。
「銭か、米か、守りの約束があれば」
宗介の胸が重くなった。
飯包み一つから、さらに別の影が見えた。
灰原。
川向こう。
商人筋。
荒い塩。
麦の匂いのする味噌。
敵は、ただ藪から出てくるだけではない。
敵にも米と味噌と塩の流れがある。
「その商人筋を押さえられますか」
宗介が思わず聞いた。
新蔵がこちらを見る。
「押さえる?」
「塩や味噌がどこから入っているか分かれば、敵の腹も見えるかもしれません」
新蔵の目が少し楽しそうに細くなった。
「兵糧方殿は、商人の荷も見るのですか」
「見るしかありません」
宗介は答えた。
「塩がなければ、飯は持ちません。味噌がなければ、温かいものの力が落ちます。敵が動くには、それも要るはずです」
新蔵は弥四郎へ向いた。
「面白い見立てです」
弥四郎は頷いた。
「槙尾には、川向こうへ通う商人を知る者がいるか」
「おります。ただし、口は軽くありませぬ」
「軽くするには」
「銭か、米か、安全」
新蔵は迷いなく答えた。
喜兵衛が嫌そうな顔をした。
「米は出せぬ」
「銭も多くはない」
弥四郎が言う。
「なら、安全か」
宗介は口を挟んだ。
「通る道を示すことはできます」
「道?」
「安全な道。水を汲める場所。荷車が詰まらない場所。どこに見張りがいるか。商人は、それを欲しがるのではありませんか」
新蔵は黙った。
それから、ゆっくり頷いた。
「欲しがります。特に今は」
「なら、米ではなく道の情報と引き換えに、川向こうへ何が流れているか聞けるかもしれません」
宇平次が渋い顔をした。
「道を教えれば、敵にも漏れる」
「全部は教えません」
宗介は板を見た。
「教える道と、隠す道を分けます。商人へ見せる道は、こちらが見張れる場所だけ。渡しや南谷の曲がりは、勝手に通らせない」
新蔵が軽く手を打った。
「なるほど。道を餌に、荷の話を聞く」
「餌というか」
宗介は少し言い淀んだ。
「商人も腹があります。危ない道を通れば荷を失う。安全に通れるなら、話すこともあるかと」
弥四郎はしばらく考えた。
「すぐには動かぬ。だが、商人筋は見る」
「はい」
「新蔵殿。槙尾にも同じ飯包みを見せ、灰原と商人筋を探ってほしい」
「承知しました」
「その代わり、西尾根の水場と見張りの取り決めは、笠森も守る」
「ありがたく」
話は決まった。
小さな飯包みから、敵の腹だけでなく、商人の道まで見え始めた。
宗介は頭が痛くなった。
米。
水。
薪。
塩。
味噌。
荷車。
縄。
商人。
道。
見れば見るほど、つながっていく。
戦国の腹は、思っていたより広い。
夕方、宗介は城の端で一人、空を見ていた。
西の山には、今日は火が見えない。
だが、それが安全という意味ではないことを、もう知っている。
敵は火を見せることもあれば、消すこともある。
飯を落とすこともあれば、拾われることを考えて結びを変えるかもしれない。
こちらが学べば、敵も学ぶ。
竈の方から、味噌湯の匂いが流れてきた。
その匂いに、腹が鳴る。
宗介は苦笑した。
敵の腹を考えている自分にも、腹はある。
その当たり前が、やけに重い。
市松が新しい板を抱えて走ってきた。
「宗介! 板、見つけた!」
「ありがとう」
「次は何を書く?」
宗介は少し考えた。
「敵の飯包み。灰原の味噌。荒い塩。商人の道」
市松は顔をしかめた。
「増えすぎだろ」
「俺もそう思う」
「でも書くんだろ」
「書く」
市松はため息をつき、板を地面に置いた。
炭が走る。
丸。
線。
飯包み。
川向こう。
塩。
味噌。
商人。
下手な印が、また一つ増えていく。
笠森城はまだ小さい。
米も少ない。
兵も少ない。
けれど、見えるものは少しずつ増えていた。
敵にも腹がある。
敵にも道がある。
敵にも飯を分ける者がいる。
ならば、その腹を読まなければならない。
宗介は竈の火を見た。
薄い粥の湯気が上がる。
その湯気の向こうに、川向こうの灰原が見えた気がした。
第14話─了
新しい戦国転生短編を投稿しました。
『呂布の武と郭嘉の知を授かって戦国に転生した俺、信長の負け戦をひっくり返す』
https://ncode.syosetu.com/n4580mf/
本作とは少し違う、武と知で戦場をひっくり返す派手めの戦国転生ものです。
よろしければ、こちらも読んでいただけると嬉しいです。




