第13話 偽の米俵
南谷の曲がりは、昨日と同じように静かだった。
静かすぎた。
竹藪の葉が風に擦れ、細い音を立てている。道の片側には浅い溝。反対側には斜面。荷車が少しでも傾けば、車輪を取られる場所だった。
久住宗介は、荷車の後ろを歩いていた。
荷台には、米俵に見せかけた俵が三つ積まれている。
中身は藁と、食えぬ米屑。
本物ではない。
だが、遠目には米に見える。
その偽物を見せて、敵を誘う。
そう決めたのは、片瀬弥四郎だった。
荷を作ったのは喜兵衛。
道と戻る手順を考えたのは宗介。
戦うのは宇平次と足軽たち。
宗介は、何度も自分に言い聞かせていた。
自分は戦いに来たのではない。
荷の動きを見るために来た。
水の置き場を見るために来た。
怪我人が出た時、荷車の空きを使えるようにするために来た。
それでも、怖いものは怖かった。
竹藪の奥から、いつ刃物が飛び出すか分からない。
昨日、川向こうで男が短い刃物を抜いた瞬間を思い出すだけで、喉が乾いた。
「止まるな」
宇平次が低く言った。
荷車を押す若者が、無言で頷く。
笠森の足軽が二人。
槙尾から来た男が一人。
南谷の半助。
そして宗介。
人数は多くない。
多すぎれば罠だと分かる。
少なすぎれば、本当に食われる。
その間を選んだつもりだった。
槙尾から来た男は、三郎兵衛と名乗った。
無口な男だった。
新蔵の配下だという。槍を持ち、周囲を見る目が鋭い。笠森の者とはまだ距離があるが、勝手に動く気配はない。
宗介は、それだけで少し安心していた。
「曲がりまで、あと少しです」
半助が囁いた。
「昨日、襲われたのはあの先」
宇平次は頷いた。
「荷車は止めぬ。敵が出たら、決めた通りだ」
宗介は胸の中で手順を繰り返した。
敵が前に出れば、荷車は曲がりを抜ける。
敵が横から来れば、偽の俵を一つ落とす。
深追いはしない。
人が傷を負えば、荷車の空きへ乗せる。
水は荷車の左側。
合図は竹筒を二度。
撤退の合図は三度。
単純にした。
複雑なことは、怖くなった時に飛ぶ。
怖くても動けるように、少なくした。
それでも、頭の中はいっぱいだった。
荷車が曲がりに入る。
ぎし、と木が軋んだ。
牛はいない。
今回は人が押している。
牛を使えば、本物の米運びに見えたかもしれない。だが、牛が暴れれば終わる。南谷の牛をまた危険へ出すのも避けたかった。
「軽いな」
荷を押す足軽がぼそりと言った。
「黙れ」
宇平次が短く叱る。
宗介の背中に汗が流れた。
軽い。
そう、軽いのだ。
米俵にしては軽い。
敵に気づかれるかもしれない。
だが、重くしすぎれば押す者が疲れる。逃げる時に遅れる。湿った米屑と藁で調整したが、本物と同じにはならなかった。
その時、竹藪の奥で鳥が飛んだ。
一羽。
二羽。
宗介の足が止まりかけた。
「止まるな」
宇平次の声が飛ぶ。
荷車は進む。
藪が揺れた。
今度は風ではなかった。
「米を置いていけ!」
男の声。
次の瞬間、三人の男が藪から飛び出した。
昨日と似た粗末な姿。
だが、動きは昨日より速い。
槍を持つ者が一人。
鉈を持つ者が一人。
もう一人は縄を持っていた。
荷車を止めるつもりだ。
「左!」
宗介は叫んでいた。
「縄持ち、左!」
自分でも、なぜ見えたのか分からない。
男の目が荷車の車輪へ向いていた。
米俵ではなく、車輪。
荷を奪うだけでなく、荷車ごと止める気だ。
宇平次が即座に反応した。
「佐太、左!」
足軽の佐太が槍を向け、縄を持った男の前へ出る。
三郎兵衛は無言で右へ回り、槍持ちを牽制した。
荷車は止まらない。
宗介は荷台の後ろに手をかけた。
「押せ! 曲がりを抜けろ!」
「敵だぞ!」
若い足軽が叫ぶ。
「止めたら囲まれる!」
宗介の声は震えていた。
だが、声は出た。
藪からさらに二人、姿を見せた。
全部で五人。
多くはない。
だが、こちらを斬るには十分すぎる数だった。
宇平次が短く叫んだ。
「一つ落とせ!」
決めていた手順だ。
宗介は荷台の外側に積んだ偽俵の縄を掴んだ。
落とす。
そう決めていた。
だが、手が動かなかった。
俵は偽物だ。
中身は食えない。
それでも、米俵の形をしたものを道へ落とすことに、体が一瞬ためらった。
「宗介!」
宇平次の怒声。
宗介は歯を食いしばった。
偽物だ。
人が本物だ。
「落とします!」
俵を押す。
どすん、と道端へ落ちた。
藁が少しはみ出したが、外からは米俵に見えたはずだった。
敵の一人が目を向ける。
鉈を持つ男がそちらへ走った。
「米だ!」
やはり食いついた。
だが、縄持ちの男は止まらなかった。
荷車を狙っている。
米ではなく、荷車。
宗介の胃が冷えた。
この男は、ただの飢えた賊ではない。
荷の道を分かっている。
「縄持ちは止まってません!」
宗介が叫ぶと同時に、佐太が槍を突き出した。
縄持ちの男は身を引く。
そこへ三郎兵衛が横から踏み込んだ。
槍の柄で男の腕を打つ。
縄が落ちた。
宇平次が前へ出る。
斬ったのではない。
体当たりに近い勢いで、男を藪の方へ押し返した。
「荷車を出せ!」
荷車が曲がりを抜けた。
車輪が溝に寄る。
半助がすぐに右側へ回った。
「右、落ちる!」
「左へ押せ!」
宗介も押した。
力は足りない。
だが、押さずにはいられなかった。
手に木の感触。
泥で滑る足。
胸が苦しい。
車輪が溝の縁を擦った。
ぎし、と嫌な音がした。
落ちる。
そう思った瞬間、若い足軽が肩で荷車を押し戻した。
車輪が道へ戻る。
「抜けた!」
半助が叫んだ。
だが、終わっていなかった。
落とした偽俵へ走った男が、縄を解こうとしていた。
中を見る。
見られたら偽物だと分かる。
分かれば、怒る。
怒れば、追ってくる。
「二つ目は落とすな!」
宇平次が叫ぶ。
「もう罠は分かったはずだ!」
その通りだった。
次の偽俵を落としても、もう食いつかないかもしれない。
なら、残りは荷車を本物らしく見せるために残す。
荷車は坂の上へ進む。
背後で怒号が上がった。
「藁だ! 米じゃねえ!」
「騙しやがった!」
宗介の背中が凍った。
来る。
絶対に来る。
「三度!」
宇平次が叫んだ。
撤退の合図。
半助が竹筒を叩く。
かん、かん、かん。
乾いた音が三つ、道に響いた。
「戻る! 深追いするな!」
宇平次の声が重なる。
佐太と三郎兵衛が下がりながら槍を構える。
敵は追ってきた。
だが、怒りで足並みが乱れている。
偽俵の中身を見た男が、藁を蹴り飛ばして叫んでいる。その間に荷車との距離が開いた。
作戦としては、効いた。
だが、宗介の胸は苦しかった。
騙した。
腹を狙う敵に、食えない米を見せた。
相手が敵だと分かっていても、飢えた顔を見てしまうと、胸のどこかが痛んだ。
その迷いを見透かしたように、喜兵衛の声が頭に浮かんだ。
米俵は命だ。
偽物でも粗末に扱うのは気分が悪い。
本当に、その通りだった。
「宗介! 前を見ろ!」
宇平次の声に、宗介ははっとした。
荷車の前方、道の横からもう一人が飛び出した。
隠れていた。
先に出た五人とは別の男だ。
手に短い槍。
狙いは荷車の前を押す若者。
「伏せろ!」
宗介は叫んだ。
若者が反射的に身を縮める。
槍が頭上をかすめた。
その瞬間、半助が横から飛びついた。
戦うというより、しがみついた。
二人は道端へ転がる。
「半助!」
宗介は駆け寄りかけた。
だが、宇平次が怒鳴る。
「荷車を止めるな!」
「でも!」
「止めるな!」
足が止まった。
宗介は唇を噛んだ。
ここで止まれば、全員が詰まる。
それは分かっている。
だが、半助が転がっている。
見捨てるのか。
頭が真っ白になりかけた時、三郎兵衛が動いた。
槍を短く持ち、半助にしがみつく男の肩を打つ。
刃ではなく、柄。
男が呻いて手を離す。
佐太が半助の襟を掴み、引きずり起こした。
「歩けるか!」
「腕が……」
半助の左腕から血が流れていた。
深いか浅いか、宗介には分からない。
ただ、歩ける。
佐太が半助を支え、荷車の後ろへ走る。
「空き!」
宗介は叫んだ。
「荷車の空きへ!」
荷台には、まだ偽俵が二つ。
後ろに空きを残してある。
半助をそこへ押し上げる。
昨日と同じだ。
空きがなければ、半助を置いていくか、荷を降ろすしかなかった。
空きは逃げ道。
その言葉が、自分の中で重く響いた。
「水!」
半助が呻く。
「まだ飲ませるな。口を湿らせるだけ」
宗介は竹筒を取り、少しだけ水を含ませた。
手が震えて、こぼれそうになった。
「血は」
佐太が布を探す。
宗介は自分の袖に手をかけた。
今度は迷わなかった。
「切ってください!」
三郎兵衛が短刀で袖を裂いた。
宗介は布を受け取り、半助の腕を押さえる。
治療などできない。
ただ、血を止めたい。
強く押さえすぎれば痛む。
弱ければ止まらない。
分からない。
分からないまま、やるしかない。
「痛い」
半助が呻いた。
「すみません。少し我慢してください」
「謝るな……」
半助は歯を食いしばった。
荷車は進む。
背後の敵は、もう大きく追ってこなかった。
藪の奥へ下がっていく。
怒号だけが残る。
宇平次は追わなかった。
深追いは禁ずる。
弥四郎の命を守った。
笠森城の門が見えた時、宗介は全身の力が抜けそうになった。
だが、まだ抜けない。
門を通すまでが荷運びだ。
「門の真ん中を空けて!」
宗介は叫んだ。
「怪我人あり! 荷車を止めずに中へ!」
門の上から声が返る。
「荷車戻る! 怪我人あり!」
宇平次より先に、城内が動いた。
水桶は左右。
人は脇。
門の中央が空く。
おきぬが布を持って走ってくる。
市松が板を抱えている。
「誰が怪我した!」
「半助! 左腕!」
「印つける!」
「先に場所!」
宗介が叫ぶと、市松が慌てて頷いた。
荷車は庭へ入った。
半助を降ろす。
今度は、下ろす場所が先にできていた。
風を避けた壁際。
湯と布。
薄い粥。
完璧ではない。
だが、昨日より早い。
おきぬが半助の腕を見て顔をしかめた。
「深くはなさそうだ。でも血は止めなきゃね」
「お願いします」
「頼まれたよ」
宗介は一歩下がった。
膝が震えた。
その場に座り込みそうになる。
だが、片瀬弥四郎が近づいてきた。
「戻ったか」
「はい」
宇平次が膝をついた。
「敵は出ました。数は六。うち一人は荷車を止める役。縄を持っておりました」
弥四郎の目が細くなった。
「やはり荷車か」
「はい。米だけではなく、荷車そのものを止めに来ました」
三郎兵衛が続けた。
「槙尾へも同じ報告をします。あれは、ただの腹を空かせた賊ではありませぬ。荷の道を知っております」
弥四郎は頷いた。
「偽俵は」
宗介が答えた。
「一つ落としました。敵が中を見て、偽物と気づきました。残り二つは戻りました」
「敵は釣れたか」
「はい」
宗介は唇を噛んだ。
「ですが、半助が怪我をしました」
弥四郎は半助の方を見た。
おきぬが手当てをしている。半助は顔を歪めているが、意識はある。
「命は」
「たぶん、大丈夫だと思います」
宗介は自信なく言った。
「俺には、傷のことは分かりません」
「分からぬことを分からぬと言えるならよい」
弥四郎は静かに言った。
それから半助のそばへ行き、膝をついた。
「よく戻った」
半助は顔を上げようとした。
「若様……」
「動くな。腕を治せ。南谷の道を見る目は、まだ要る」
半助の目が少し揺れた。
「はい」
弥四郎は立ち上がり、宗介へ戻った。
「宗介」
「はい」
「偽の米俵は、敵に通じたか」
「通じました。ただ、次は同じ手は使えないと思います」
「なぜ」
「偽物だと知りました。次は荷より、人や荷車を先に狙うかもしれません」
宇平次が頷いた。
「縄持ちがいた。あれは荷車を止める役だ。道を塞げば、後ろが詰まることを分かっている」
「つまり、敵は学ぶ」
弥四郎が言った。
「はい」
宗介は答えた。
「こちらも学ばないといけません」
その言葉に、喜兵衛が蔵の方から歩いてきた。
「学んだことを板に残せ」
市松がすでに炭を握っている。
「何を書く」
宗介は深く息を吸った。
「敵六。縄持ち一。荷車を狙う。偽俵は一度効いた。次は効きにくい。曲がりの先にも一人隠れていた。荷車の空きで怪我人を運べた」
市松が必死に印をつける。
敵の印。
縄の印。
隠れた者の印。
怪我人の印。
偽俵の印。
下手だが、残る。
弥四郎はその板を見ていた。
「敵の顔は見えたか」
宇平次が答える。
「半分ほど。粗末な格好でしたが、動きは揃っておりました。飢えた賊だけではありません」
三郎兵衛も頷く。
「槙尾でも同じ見立てになるでしょう。誰かが後ろで束ねているかもしれませぬ」
後ろで束ねている。
その言葉が、宗介の胸に沈んだ。
ただの賊ではない。
米の道を見て、火を見せ、渡しを狙い、荷車を止める。
それを考える者がいる。
小さな笠森城は、思ったより早く、誰かの目に留まり始めているのかもしれない。
「若」
喜兵衛が言った。
「本物の米運びは、しばらく昼だけにすべきです。曲がりには先見を出す。荷車に空きも残す」
「そうしよう」
弥四郎が頷く。
「宇平次、荷の護りを改める。戦うためではなく、止めさせぬための護りだ」
「承知」
「宗介」
「はい」
「偽俵は、もう使わぬか」
「すぐには」
宗介は答えた。
「使えば、敵は疑います。ただ、敵は米だけでなく荷車を狙うと分かりました。今後は、荷車の車輪、縄、押す者を守る方が大事です」
「車輪か」
「はい。荷は担げても、荷車が壊れれば道が詰まります」
弥四郎は静かに頷いた。
「では、荷車も兵糧のうちだな」
「はい」
宗介は即答した。
「荷車も、縄も、車輪も、押す人も、全部です」
弥四郎は少しだけ笑った。
「お前の兵糧は広いな」
「広すぎて、困っています」
それは本音だった。
米だけで済むなら、まだよかった。
だが実際には、水、薪、道、縄、荷車、井戸、村人、見張り、怪我人、火消し、客の飯。
全部が繋がっている。
どこか一つが切れると、城の腹が苦しくなる。
夕方、半助の傷はひとまず落ち着いた。
おきぬが言うには、腕はしばらく使えないが、命に別状はなさそうだった。
宗介はそれを聞いて、やっと腰を下ろした。
竈のそばだった。
鍋には薄い粥が残っている。
湯気は細い。
米粒は少ない。
だが、温かい。
市松が板を持って隣に座った。
「偽米、効いたな」
「一度だけです」
「でも効いた」
「半助が怪我しました」
「でも戻った」
宗介は何も言えなかった。
戻った。
確かに戻った。
それを小さな勝ちと言っていいのか、宗介にはまだ分からない。
「宗介」
市松が板を見たまま言った。
「敵も、飯のこと考えてるんだな」
「うん」
宗介は頷いた。
「たぶん、考えてる」
「じゃあ、相手にも兵糧方みたいなのがいるのか」
その言葉に、宗介は背筋が冷えた。
相手にも、腹を見る者がいる。
米の道を見て、荷車を狙い、見せ火を使う者。
その可能性を、今初めてはっきり考えた。
「いるかもしれない」
宗介は低く言った。
「敵にも、腹を見ている者が」
市松は黙った。
竈の火が、ぱちりと鳴った。
笠森城の小さな庭に、夕闇が降りてくる。
偽の米俵は、一度だけ敵を釣った。
だが、その代わり、こちらも敵の目を見た。
ただ飢えているだけではない。
ただ暴れているだけではない。
米の道を狙う、誰かの意志がある。
宗介は椀を手に取り、冷めかけた粥を見た。
刀は振れない。
槍も扱えない。
だが、もし相手にも兵糧を見る者がいるなら。
これはもう、腹と腹の読み合いだ。
そう思った瞬間、粥の湯気がやけに頼りなく見えた。
第13話─了
新しい戦国転生短編を投稿しました。
『呂布の武と郭嘉の知を授かって戦国に転生した俺、信長の負け戦をひっくり返す』
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本作とは少し違う、武と知で戦場をひっくり返す派手めの戦国転生ものです。
よろしければ、こちらも読んでいただけると嬉しいです。




