第12話 米の道図
笠森城の庭に、板が増えた。
最初は、米を数えるためだった。
次に、水桶を分けるため。
火消しの水を見分けるため。
南谷の預かり米を間違えないため。
見張りの飯を持たせるため。
そして今度は、城の外の道を描くためだった。
市松が抱えてきた古い板は、割れていた。
片側は黒ずみ、ところどころ虫に食われている。だが、炭で印をつけるには十分だった。
久住宗介は、その板を土の上へ置いた。
横に立つのは片瀬弥四郎。
宇平次。
喜兵衛。
南谷の庄屋と善助。
少し離れて、槙尾から来た安西新蔵もいた。
西の見せ火。
渡しの偽りの男。
切った縄。
それらを受け、槙尾から改めて使者が来たのである。
新蔵の顔には、昨日より余裕がなかった。
それでも、笑みだけは崩さない。
宗介はそれが少し怖かった。
「では、始めます」
宗介はそう言って、炭の欠片を持った。
まず、板の上に小さな四角を描く。
「ここが笠森城です」
次に、その南に丸を描く。
「南谷村」
さらに西へ線を伸ばす。
「西尾根の知らせ場」
下へ曲がる線。
「南谷の曲がり」
川を表す波線。
「渡し」
北側に薪場の印。
城内に井戸の印。
蔵の印。
竈の印。
字ではない。
絵とも言い切れない。
丸と線と、下手な印ばかりだった。
だが、そこにいた者たちは、誰も笑わなかった。
この数日で、丸と線が人を動かすことを知っていたからだ。
「敵は、門だけを見ていません」
宗介は言った。
「米の通る道、水のある場所、荷車が詰まる場所、人が慌てる火。そこを見ています」
宇平次が低く頷いた。
「西へ火を見せ、渡しを抜こうとした」
「はい」
宗介は西の見せ火の印と、渡しの印を炭で結んだ。
「こちらが西ばかり見ると、渡しが薄くなる。渡しが抜かれれば、南谷の裏へ回られます。南谷が荒れれば、城へ米も人も来なくなる」
南谷の庄屋が苦い顔をした。
「村の者も、昨夜は眠れませなんだ」
「分かります」
宗介は頷いた。
「だから、南谷だけに見張りを任せても駄目です。南谷の者は田も見なければならない。子供や年寄りもいる。見張りばかり出せば、村が先に疲れます」
新蔵が口を開いた。
「槙尾も同じにございます。見張りを増やすほど、畑と炭場から手が抜ける」
その声には、探りではなく実感があった。
小領主の家中。
兵と百姓の境目が薄い者たち。
見張りを一人増やすことは、働く手を一人減らすことでもある。
弥四郎は板をじっと見ていた。
「では、どこを守る」
「全部は守れません」
宗介は即答した。
もう、この言葉を口にするのに躊躇はなかった。
笠森城には全部を守る力などない。
それを認めなければ、守れるものまで失う。
「守るのではなく、崩れにくくします」
「申せ」
弥四郎が促す。
「まず、西尾根は昼だけ。二人ずつ。火を追わない。敵を見たら知らせる。戦わない」
宇平次の顔が少し渋くなる。
だが、何も言わなかった。
「南谷の曲がりは、荷車が詰まる場所です。ここには昼と夕方に人を置く。荷が動く時だけ厚くする。荷がない時は少なくていい」
「常に置かぬのか」
宇平次が問う。
「常に置けば、飯が減ります。人も疲れます。荷が動く時に厚くする方がよいと思います」
「敵が荷のない時に来たら」
「その時は知らせる役だけ置きます。戦わせません」
宇平次は唸った。
戦うためではなく、知らせるため。
それは、彼にとってまだ飲み込みにくい考えなのだろう。
だが、反論はしなかった。
「渡しは」
弥四郎が聞く。
「仮縄です。普段は外す。使う時だけ結ぶ。切る役、合図、誰が結ぶかを決める。勝手に使わせない。南谷の者が使う時も、印を残す」
半助が少し顔を上げた。
昨日、渡しで縄の話をした南谷の若者である。
「村の者が畑へ行く時も、印ですか」
「はい」
宗介は答えた。
「面倒ですが、誰が渡ったか分からないと、敵が混じっても気づけません」
半助は唇を結んだ。
「……分かりました」
不満はある。
当然だ。
自分たちの川を、自分たちの好きに渡れなくなる。
だが、昨日の偽の男を見ている。
あれを見た後では、ただ嫌だとは言えない。
「水場はどうする」
喜兵衛が問うた。
「西尾根の湧き水は細い。見張りは竹筒を持つ。湧き水は足りない時だけ。渡しの川水は飲ませない。飲むなら煮る必要がありますが、火が目立つので避ける。南谷の井戸は、村の者を優先します」
「見張りが喉を渇かせたら」
「笠森から持たせる水を増やします。ただし、重くしすぎない。半日で戻る前提です」
新蔵が板を見ながら言った。
「飯は各々、水は融通。そういう取り決めでしたな」
「はい」
「しかし、急ぎの時に槙尾の者が笠森の水を飲んだら」
「印を残します」
宗介は言った。
「後で揉めないためです。誰が、いつ、どこで、どれだけ使ったか。細かくは無理でも、分かる形を残す」
新蔵は笑った。
「水にも帳が要るとは」
「水が切れると、人は米より早く荒れます」
喜兵衛が横から言った。
「それは昨夜、見た」
新蔵は喜兵衛を見た。
そして、軽く頭を下げた。
「承知しました。槙尾にも、水の印を置きましょう」
話はまとまりかけていた。
だが、その時、宇平次が腕を組んだまま言った。
「待て」
全員の目が向く。
「道を守る話は分かる。飯も水も分かる。だが、守ってばかりでよいのか」
宇平次の声は低い。
「敵は渡しを抜こうとした。火で釣ろうとした。こちらはそれに対して、見張りと印を増やしているだけだ。いつまで受ける」
足軽たちの目が動いた。
彼らの中にも同じ思いがあるのだろう。
殴られたなら、殴り返したい。
米を奪われたなら、取り返したい。
一俵を失ったことも、まだ胸に残っている。
宗介も、その気持ちを否定できなかった。
だが、追えば勝てるのか。
宗介には分からない。
分からないことを、できると言うわけにはいかない。
「追うなら、飯が要ります」
宗介が言うと、宇平次が苦い顔をした。
「また飯か」
「はい」
宗介は板の外側へ、炭で小さな丸をいくつも描いた。
「追う者が何人か。どこまで行くか。戻る道はどこか。怪我人が出たら誰が運ぶか。水はどこで飲むか。飯はどれだけ持つか。そこを決めない追撃は、道で崩れると思います」
「敵を討つ話を、荷運びのように言うな」
「荷運びより怖いです」
宗介は正直に言った。
「荷は文句を言いません。でも人は腹を減らし、喉が渇き、怖くなり、道を間違えます。怪我もします」
宇平次は黙った。
怒っているのか、考えているのか分からない顔だった。
弥四郎が言った。
「宇平次。追いたいか」
「追いたい、というより、このままでは舐められます」
「そうだな」
弥四郎は頷いた。
「だが、今の笠森に、外へ出て敵を追い散らす力はあるか」
宇平次はすぐには答えなかった。
足軽は疲れている。
門も柵も傷んでいる。
南谷の者を抱え、蔵も整理の途中。
敵の正体もまだ見えていない。
「……多くは出せませぬ」
「なら、多く出さぬ形を考える」
弥四郎は板を見た。
「宗介。敵が腹を狙うなら、こちらの腹を見せて誘うことはできるか」
宗介は一瞬、意味が分からなかった。
弥四郎の指が、南谷の曲がりに触れる。
「米を運ぶふりをする」
喜兵衛の眉が跳ねた。
「若」
「本物の米ではない」
弥四郎は続けた。
「空俵、藁、湿った使えぬ米。そういうものを荷に見せる。敵が米を狙うなら、出てくるやもしれぬ」
宇平次の目が鋭くなった。
「誘いですか」
「大掛かりにはできぬ。だが、敵の顔を少しは見たい」
宗介の胸が冷えた。
囮。
それは、自分の領分ではない。
戦の話だ。
だが、荷をどう見せるか、道をどう通すか、どこで詰まらせないか。
そこには段取りがいる。
「危険です」
宗介は言った。
「当然だ」
弥四郎は答えた。
「だから聞いている。危険を少しでも減らす形はあるか」
宗介は板を見た。
南谷の曲がり。
荷車が詰まりかけた場所。
藪から敵が出た場所。
その手前に、少し広い場所があった。
荷車を一度止められる。
人を散らせる。
水桶を置ける。
逃げ道も二つ。
「本物の米は使わないでください」
宗介は言った。
「空俵に藁を詰める。外側だけ米俵に見せる。重さは軽くなりすぎると不自然なので、湿った藁や使えない米屑を少し入れる」
喜兵衛が顔をしかめた。
「使えぬ米屑ならある」
「荷車は一台。米を多く見せすぎると、敵も多く来るかもしれません。二俵か三俵に見せるくらいがいいと思います」
宇平次が問う。
「守りは」
「足軽を荷のそばに見せすぎると、罠だと分かります。でも少なすぎると本当に取られます」
「難しいな」
「はい」
宗介は南谷の曲がりより少し手前に印をつけた。
「ここに水桶を一つ。怪我人が出た時のため。荷車には空きを残す。本物の荷でも偽の荷でも、怪我人を乗せられるようにしておく」
宇平次が小さく笑った。
「また荷車に空きか」
「はい。空きは逃げ道です」
その言葉に、喜兵衛が頷いた。
「一度、役に立った」
宗介は続けた。
「見張りは先に藪を見る。荷車は止めない。敵が出たら、荷を守るより人を戻す。空俵を落として敵の足が止まるなら、落とす」
「囮の荷を守りすぎるな、か」
「はい。荷は偽物です。人が本物です」
弥四郎が静かに頷いた。
「人が本物」
その言葉を、若い城主は繰り返した。
宇平次は腕を解いた。
「やるなら、俺が行きます」
「門は」
「半刻だけなら任せられる者がおります」
「無理はするな」
「無理はします。無茶はしませぬ」
弥四郎は少しだけ笑った。
「なら、無茶を止める役をつける」
全員の視線が宗介へ向いた。
宗介は思わず一歩下がった。
「俺は、戦えません」
「知っている」
弥四郎は言った。
「戦うためではない。荷を見るためだ」
「ですが」
「怖いか」
「怖いです」
即答だった。
宇平次が鼻を鳴らす。
「本当に正直だな」
「はい」
宗介は喉を鳴らした。
「でも、行くなら荷の段取りは見ます」
言ってしまった。
自分で言ってから、腹が重くなった。
行きたくない。
本当に行きたくない。
だが、荷車を囮に使うなら、荷の重さ、空き、逃げ道、水、印、戻る順を決めなければならない。
それを誰か任せにして、もし失敗したら。
また一俵では済まない。
人が死ぬ。
「なら決まりだ」
弥四郎は言った。
「ただし、これは敵を討つためだけではない。敵が米の道をどう見ているかを見るためだ。深追いは禁ずる」
宇平次が頭を下げた。
「承知」
新蔵がそこで口を開いた。
「槙尾からも一人出しましょう」
宇平次が鋭く見る。
「なぜだ」
「同じ敵なら、顔を見ておきたい。それに、笠森だけが罠を張ったとなれば、槙尾は後で話を聞くだけになります」
「信じろと言われても難しい」
「だから、一人出すのです」
新蔵は笑みを薄くした。
「ただし、槙尾の者に飯は持たせます。笠森の飯は食わせませぬ」
宗介はその言葉に少しだけ安心した。
この男は、分かっている。
飯の負担を曖昧にしない。
それは信用の一部になる。
「では、槙尾の者にも同じ印を」
宗介は言った。
「どの荷が偽物か。どこで落とすか。どこまで追わないか。知らないと、勝手に動くかもしれません」
新蔵は頷いた。
「承知しました」
午後、笠森城の庭では、奇妙な荷作りが始まった。
空俵に藁を詰める。
外側に少しだけ米の粉をまぶす。
湿った使えぬ米屑を底に入れ、重さを出す。
遠目には米俵。
近くで持てば、少し軽い。
だが、走り寄って奪う敵には、すぐには分からないかもしれない。
喜兵衛は苦い顔でそれを見ていた。
「米俵を偽るとはな」
「嫌ですか」
「嫌に決まっておる。米俵は命だ。偽物でも粗末に扱うのは気分が悪い」
「すみません」
「だが、命を守るためなら仕方あるまい」
喜兵衛は縄を締めた。
「縄は本物と同じにする。ただし、内側に一本、赤土を塗っておく。こちらの者が見れば分かる」
「いいと思います」
市松が覗き込む。
「俺も印をつける」
「外から分かる印は駄目です」
「内側なら?」
「内側なら」
市松は俵の底に、小さな丸を三つ描いた。
「偽米だ」
「声に出さない」
「へいへい」
おきぬが竈のそばから見ていた。
「今度は偽の飯まで作るのかい」
「飯ではなく、荷です」
「似たようなもんだよ」
「食べられません」
「食べられない米ほど腹の立つものはないねえ」
その言葉に、南谷の庄屋が少しだけ頷いた。
宗介は胸が痛んだ。
食えない米を、米に見せる。
飢えた者が見れば怒るだろう。
だが、敵が米の道を狙うなら、それを逆に使うしかない。
夕方前、荷車の準備が整った。
偽の俵が三つ。
荷車の後ろには空き。
水筒が二つ。
小さな握りが人数分。
竹筒の合図。
撤退する場所。
空俵を落とす場所。
追ってはならない線。
すべて板に印をつけた。
弥四郎はそれを見て、短く言った。
「行け」
宇平次が頷く。
宗介も頭を下げた。
足は震えている。
喉も乾く。
だが、荷車は動き出した。
南谷の曲がりへ向かう道は、昨日よりも静かだった。
静かすぎて、嫌だった。
荷車の上で、偽の米俵が揺れる。
中身は藁と米屑。
だが、遠目には命の米に見える。
宗介はその揺れを見ながら、胸の奥が重くなった。
罠を張る側になった。
それが正しいのか、分からない。
ただ、敵が腹を狙うなら、腹を守るために腹を見せるしかない。
南谷の曲がりが近づく。
藪が揺れた。
風か。
人か。
宗介にはまだ分からない。
宇平次が低く言った。
「止めるな」
荷車は進む。
水筒はある。
空きもある。
戻る道も決めた。
偽の俵を落とす場所も決めた。
それでも、怖いものは怖い。
宗介は炭で汚れた手を握りしめた。
米の道を狙う敵に、米の影を見せる。
小さな笠森城が、初めて受け身ではない一手を打とうとしていた。
第12話─了
新しい戦国転生短編を投稿しました。
『呂布の武と郭嘉の知を授かって戦国に転生した俺、信長の負け戦をひっくり返す』
https://ncode.syosetu.com/n4580mf/
本作とは少し違う、武と知で戦場をひっくり返す派手めの戦国転生ものです。
よろしければ、こちらも読んでいただけると嬉しいです。




