第11話 見せ火
西の山の向こうに見えた火は、夜が明けても宗介の頭から離れなかった。
小さな火が三つ。
いや、雲の動きと木々の陰でそう見えただけかもしれない。
けれど、笠森城の者たちは皆、それを見ていた。
敵か。
槙尾か。
賊か。
それとも、別の誰かか。
朝の城庭には、いつもより重い空気があった。
竈の火は細く保たれ、粥の湯気が立っている。南谷の者たちは水を運び、足軽たちは柵の修繕を続けていた。市松は板切れに、昨日増えた印を描き足している。
西尾根。
南谷の曲がり。
渡し。
水。
飯。
縄。
それだけ見ると、まるで子供の落書きのようだった。
だが、その落書きが今の笠森城の外側を支えている。
「宗介」
片瀬弥四郎の声がした。
若い城主は門の近くに立っていた。宇平次、喜兵衛、善助もいる。空気が硬い。
「昨夜の火について、槙尾より知らせが来た」
弥四郎の前には、槙尾の使者ではなく、若い走りの者が膝をついていた。息が荒い。山道を急いできたのだろう。
「西の尾根よりさらに向こう、古い炭焼き場の辺りに火が三つ。槙尾のものではないとのことです」
宇平次が顔をしかめた。
「では、賊か」
「そう見るべきかと」
使いの者が答える。
「槙尾では、今朝から西の見張りを増やすとのこと。笠森にも合わせて人を出してほしいと」
宇平次の目が鋭くなった。
「来たな」
喜兵衛も渋い顔をした。
「見張りを増やせば、その分、飯も水も増える」
宗介は黙っていた。
火が三つ。
人がいるなら、腹もある。
腹があれば、飯の跡がある。
水を汲む跡がある。
灰が残る。
踏み荒らした道ができる。
ただ火が見えるだけで慌てて人を出せば、こちらの腹が削られる。
「宗介」
弥四郎がこちらを見た。
「どう見る」
全員の目が宗介へ向いた。
何度経験しても、慣れない。
自分は軍師ではない。
敵の狙いなど分からない。
ただ、飯と水のことだけは考えられる。
「火だけでは分かりません」
宗介は答えた。
「ただ、火が三つあるなら、そこに人がいるはずです。人がいるなら、飯を炊くか、水を汲むか、薪を集めるかします」
「当たり前だな」
宇平次が言う。
「はい。その当たり前が見えるかどうかです」
宗介は地面に枝で簡単な図を描いた。
西の山。
炭焼き場。
笠森。
槙尾。
渡し。
「本当に大人数がいるなら、煙だけでなく、道も荒れます。水場に跡が残ります。薪を集めた跡も出ます。逆に、火だけ見せて人が少ないなら、こちらを西へ寄せたいのかもしれません」
喜兵衛が低く言った。
「見せ火か」
「はい。そういうことがあるかどうか、俺は知りません。でも、火は少ない人数でも増やせます」
宇平次が腕を組んだ。
「西へ人を寄せて、別の場所を狙うか」
弥四郎の目が渡しの印へ落ちる。
「渡し」
宗介は頷いた。
「昨日見た渡しには、使われた跡がありました。西の火に引かれて人を出せば、渡しが薄くなります」
「では、槙尾の求めを断るか」
宇平次が問う。
「断れば、槙尾はこちらを疑う。西の道も薄くなります」
喜兵衛が唸った。
「出せば腹が減る。出さねば道が薄くなる」
「だから、人を増やすのではなく、場所を変えます」
宗介は図の西尾根を指した。
「西尾根には予定通り二人。ただし、長く留めない。槙尾にも、火の周りの飯炊き跡と水場の跡を見てもらう。笠森は渡しを薄くしない。南谷の曲がりも残す」
宇平次が眉を寄せた。
「つまり、西へ釣られすぎるなと」
「はい」
「だが、本当に西から来たらどうする」
「知らせが戻るようにします。戦わせるのではなく、知らせる。西尾根の飯と水は半日分だけ。戻らなければ、何かあったと見る」
弥四郎は少し黙った。
若い顔には迷いがあった。
当然だ。
西に火が見えた。
槙尾が見張りを増やすと言った。
そこで笠森が人を増やさなければ、臆したようにも見える。
だが、全部に応えれば、笠森の腹がもたない。
「宇平次」
「はっ」
「西尾根には予定通り二人。だが、火を追わせるな。炭焼き場までは行かぬ。見て戻る。槙尾へは、笠森は渡しも警戒するゆえ、人を西へ偏らせぬと伝えよ」
「承知」
「喜兵衛」
「はっ」
「見張りの飯は半日分。余分は持たせるな。ただし、水は切らすな」
「承知」
「宗介」
「はい」
「渡しの縄を切る役を、今日決める」
宗介は背筋を伸ばした。
「はい」
弥四郎は図の渡しを見た。
「見せ火であれ、本物であれ、こちらが慌てれば負ける。腹と道を同時に見よ」
若い城主の言葉に、宇平次が少しだけ目を細めた。
喜兵衛も頷いた。
宗介は胸の奥が熱くなった。
弥四郎は、ただ宗介の言葉を借りているのではない。
自分の判断として、道と腹を見始めている。
それが分かった。
昼前、西尾根へ出る見張りが決まった。
笠森からは足軽の佐太と、南谷の善助。
槙尾からは二人。
善助は道を知っている。佐太は足が速い。
宗介は二人に小さな包みを渡した。
干し飯少し。
味噌を塗った小さな握り一つ。
竹筒の水。
布の端には、笠森の印として二つ結びを作ってある。
「半日分です」
佐太が包みを持ち上げた。
「少ないな」
「半日で戻るためです」
「戻れなかったら」
「戻れない時は、飯より先に知らせが要ります」
佐太は嫌そうな顔をした。
「怖いことを言う」
「怖いので、言っています」
善助が包みを腰へ結びながら言った。
「水場は細いんでしたな」
「はい。湧き水は使えますが、あてにしすぎないでください。水を汲みに下りる時は、一人だけ。二人で下りると足場が悪い」
「心得ました」
「火は焚かないでください」
「寒くても?」
「寒くても。火を焚けば、見張りが見張られます」
佐太が舌打ちした。
「面倒だな、見張りってのは」
「面倒です」
宗介は頷いた。
「でも、見えないところで面倒を省くと、城の中で大事になります」
佐太は何も言わなかった。
だが、包みを捨てず、しっかり腰に結び直した。
その頃、渡しには宇平次が向かっていた。
足軽二人。
南谷の若者一人。
それに宗介もついた。
正直、行きたくはなかった。
だが、渡しの縄を切る役と合図を決めるなら、現場をもう一度見ておく必要がある。
善助は西尾根へ回っているため、案内は南谷の若者、半助だった。
半助は口数が少ない。
昨日、南谷から城へ米を運んだ若者の一人だ。
途中、宗介は半助に聞いた。
「渡しは、南谷の者もよく使うんですか」
「使います。薪を取りに行く時、川向こうの畑を見る時」
「縄を切れば困りますね」
「困ります」
半助は短く答えた。
「けれど、敵が渡るなら、切らねばならんのでしょう」
その声は硬かった。
宗介は頷いた。
「はい。ただ、切るかどうかを決めておかないと、もっと困ります」
「誰かが勝手に切ると?」
「はい。逆に、誰も切れないこともあります」
半助は前を見たまま言った。
「田へ行けなくなる」
「分かっています」
「分かっても、切る時は切るのでしょう」
宗介は答えられなかった。
半助は責めているのではない。
ただ、事実を言っている。
守るために切る縄は、村の暮らしも切る。
宗介の胃が重くなった。
渡しに着くと、川は昨日と同じように流れていた。
いや、少し水が増えているようにも見える。上流で雨が降ったのかもしれない。
杭に結ばれた縄は濡れ、昨日見た擦れ跡がさらに目立っていた。
宇平次は周囲を見回した。
「人の気配はないな」
足軽の一人が川向こうへ目を凝らす。
「今は見えませぬ」
宗介は水際へ近づいた。
泥に跡がある。
新しい足跡か、昨日のものか。
自分では見分けきれない。
だが、半助がしゃがみ込んだ。
「これは新しい」
「分かるのか」
宇平次が聞く。
「昨夜の雨で少し泥が柔らかくなりました。その上についた跡です」
半助は指で足跡の縁をなぞった。
「二人か、三人。川向こうから来て、戻ったように見えます」
宇平次の顔が険しくなった。
「偵察か」
「かもしれません」
宗介は川向こうを見た。
西の火。
渡しの新しい足跡。
やはり、火だけ見ていてはいけない。
「縄を切る役を決めましょう」
宗介は言った。
宇平次は頷いた。
「切るのは佐吉にする」
佐吉。
南谷からの帰り道で肩を斬られた足軽と同じ名かと思ったが、別の男だった。こちらの佐吉は年嵩で、腰に鉈を差している。
「俺ですか」
「お前は手が早い。だが、勝手には切るな」
「合図は」
宇平次は考えた。
「門の合図はここまで届かぬ。ここでは俺が命じる」
「宇平次殿がいない時は?」
宗介が聞くと、宇平次がこちらを見る。
「俺がいない時か」
「見張りを置くなら、いつも宇平次殿がいるとは限りません」
宇平次は少し不満そうにしたが、すぐ頷いた。
「なら、渡し番を決める。佐吉が切る役。半助は村の道を見る役。笠森の足軽が一人、川向こうを見る役。切る合図は、竹筒を三度鳴らす」
「三度」
宗介は繰り返した。
「一度だと何かの音と間違えます。二度でも不安です。三度、続けて」
半助が言った。
「竹筒なら、村の者にも分かります」
「では、それで」
宇平次が決めた。
「ただし、切る前に叫ぶ。『縄を切る』と。味方が渡っていれば、巻き込む」
宗介は頷いた。
決める。
たったそれだけで、いざという時の迷いが少し減る。
全部は消えない。
それでも、少しは減る。
その時だった。
川向こうの藪が揺れた。
全員が息を止めた。
宇平次が低く言う。
「構えろ」
足軽が槍を構える。
宗介は何も持っていない。
手が震える。
藪から出てきたのは、ひとりの男だった。
粗末な笠をかぶり、手には何も持っていないように見える。だが、腰の後ろまでは見えない。
「誰だ!」
宇平次が怒鳴った。
男は足を止めた。
「通りたいだけだ!」
「名を言え!」
「川向こうの灰原の者だ! 女房と子が南谷へ逃げた! 迎えに行きたい!」
半助が目を細めた。
「灰原の者に、あんな男いたか」
「知っているのか」
「見たことは……ない」
怪しい。
宗介でも分かった。
だが、本当に家族を探す者かもしれない。
戦の中では、怪しい者と哀れな者の区別がつかない。
男はさらに一歩踏み出した。
「頼む! 通してくれ!」
宇平次は即答しなかった。
宗介は男の足元を見た。
空腹か。
水を飲んでいるか。
荷を持っているか。
男の足は軽すぎた。
本当に家族を探すなら、何かしら持っていてもいい。
水筒も、袋も、何も見えない。
それに、こちらを見る目が違う。
縄を見ている。
杭を見ている。
人の数を数えている。
「宇平次殿」
宗介は小声で言った。
「縄を見ています」
宇平次の目が細くなる。
男はさらに声を張った。
「早くしてくれ! 子が泣いているかもしれぬ!」
半助の顔が揺れた。
南谷の者だからこそ、その言葉に弱い。
宗介も胸が痛んだ。
だが、そこで通せば、何を見られるか分からない。
「名前を聞いてください」
宗介が言った。
「女房と子の名も。南谷の誰の家へ逃げたかも」
宇平次がすぐに叫んだ。
「女房の名は! 子の名は! 南谷の誰を頼った!」
男は一瞬詰まった。
本当に短い間だった。
だが、詰まった。
「……お、女房は、たえ。子は、千代だ!」
「南谷の誰を頼った!」
「そ、それは……」
宇平次が低く言った。
「下がれ」
男の顔が変わった。
次の瞬間、藪の中で別の影が動いた。
「三度!」
宗介は叫んでいた。
佐吉が竹筒を取った。
かん、かん、かん。
乾いた音が三つ鳴る。
宇平次が吠えた。
「縄を切る! 味方は渡るな!」
佐吉が鉈を抜いた。
川向こうの藪から二人、三人と男が飛び出す。
先ほどの男も懐から短い刃物を抜いた。
やはり、偵察だけではない。
渡るつもりだった。
縄を使って一気にこちらへ来るつもりだった。
佐吉が縄を叩き切る。
一度では切れない。
濡れた縄は粘った。
「早く!」
足軽が叫ぶ。
二度目。
三度目。
縄がぶつりと切れた。
川の流れに引かれ、向こう岸の縄が跳ねる。
渡ろうとした男の一人が足を取られた。
水しぶき。
怒号。
宇平次が槍を構え、こちら岸へ近づく者を牽制する。
宗介は動けなかった。
怖い。
川の向こうで男たちが怒鳴っている。
刃物が見える。
足を滑らせた男が水に膝まで浸かり、必死に立ち上がろうとしている。
もし縄を切る役を決めていなかったら。
もし合図を決めていなかったら。
もし男の話に押されて渡していたら。
背中が冷たくなる。
「退いた!」
半助が叫んだ。
川向こうの男たちは、こちらへ渡れないと見るや、藪へ戻り始めた。
宇平次は追わせなかった。
「追うな! 渡しを見ろ! 縄を拾えるか!」
佐吉が荒い息を吐いている。
手が震えていた。
「切りました」
「よくやった」
宇平次が短く言った。
佐吉はその場に座り込みそうになったが、踏みとどまった。
宗介はようやく息を吐いた。
膝が笑っている。
また何もしていない。
戦ってはいない。
ただ、三度と言っただけだ。
それでも、その三度で縄が切れた。
縄が切れたことで、敵は渡れなかった。
それは、たぶん、戦の一部だった。
「宗介」
宇平次が呼んだ。
「はい」
「よく見た」
「……男が、縄を見ていたので」
「俺も見ていたが、先に言ったのはお前だ」
宇平次は川向こうを睨んだまま言った。
「飯と水だけではないな。お前は、人の目も腹から見る」
「まだ、よく分かりません」
「分からぬままでも、役に立った」
その言葉に、宗介は返せなかった。
帰り道、切った縄の処理をどうするかが問題になった。
完全に渡しを失えば、南谷の暮らしが困る。
だが、すぐ結び直せば敵も使える。
宇平次は迷った。
半助は唇を噛んでいた。
「仮縄にしましょう」
宗介は言った。
「普段は外しておく。使う時だけ、こちら側で結ぶ。南谷の者が使う時は、笠森か南谷の見張りが立つ」
「面倒だな」
宇平次が言う。
「面倒です。でも、切りっぱなしだと村が困ります。戻しっぱなしだと敵が使います」
「どちらも困る、か」
「はい」
半助が小さく言った。
「それなら、村も助かります」
宇平次は頷いた。
「よし。戻ったら若へ申す」
笠森城へ戻ると、ちょうど西尾根の見張りも戻ってきていた。
佐太と善助の顔は険しい。
「火はありました」
佐太が報告した。
「だが、人は少ない。炭焼き場の跡に薪を集め、三か所で燃やしただけのようです。飯炊きの跡は少ない。水場にも、大勢の跡はなし」
宗介は息を呑んだ。
見せ火だ。
やはり、西へ引くための火だった。
弥四郎は両方の報告を聞き、しばらく黙った。
西の火。
渡しの男。
切った縄。
火に釣られすぎていれば、渡しを抜かれていたかもしれない。
若い城主の顔に、静かな怒りが浮かんだ。
「賊では済まぬな」
宇平次が頷いた。
「誰かが道を見ております」
喜兵衛が低く言う。
「米の道を、ですな」
弥四郎は宗介を見た。
「腹を狙われている」
宗介は頷いた。
「はい」
戦は、門の前だけで起きていなかった。
火を見せる。
人を動かす。
渡しを抜く。
米の道を断つ。
敵もまた、腹を見ている。
その事実が、宗介の胸を重くした。
「ならば、こちらも腹を見る」
弥四郎は言った。
「西の火に釣られぬ。渡しは仮縄。南谷の曲がりは見張りを残す。槙尾へも知らせよ。火は見せ火。渡しに敵あり、と」
「承知」
宇平次が答えた。
宗介は竈の方を見た。
薄い粥の湯気が上がっている。
水桶の印。
見張りの包み。
切られた縄。
小さな段取りが、今日は城を一つ救ったのかもしれない。
だが、安心はできなかった。
敵はもう、笠森の門だけを見ていない。
米の通る道を見ている。
水のある場所を見ている。
人が慌てる火を見せてくる。
宗介は泥のついた手を握った。
自分は刀を振れない。
だが、腹を狙う敵がいるなら、腹を守るしかない。
その夜、笠森城の板には新しい印が増えた。
西の見せ火。
渡しの仮縄。
三度鳴らす竹筒。
そして、米の道を狙う敵。
丸と線ばかりの頼りない印が、小さな城の命綱になり始めていた。
第11話─了
新しい戦国転生短編を投稿しました。
『呂布の武と郭嘉の知を授かって戦国に転生した俺、信長の負け戦をひっくり返す』
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本作とは少し違う、武と知で戦場をひっくり返す派手めの戦国転生ものです。
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