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レヴィ教授の環境魔導学  作者: 紅茶


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パンデミック

 王立救護院は、すでに野戦病院と化していた。


 レヴィが意識を失ったセリアを背負い、隔離病棟の扉を開けた時、そこに広がっていたのは地獄絵図だった。


 廊下の壁際にまで簡易ベッドが並べられ、うめき声と、あのべちゃりという絶望的な嘔吐音が絶え間なく響いている。


 誰もが慌ただしく作業に従事し、どうやら周囲に目を向ける余裕もない。



 床には拭き取る暇すらない汚物が散乱し、鼻をつく強烈な酸の臭いが充満している。少しの間、立ち尽くすレヴィの存在に気がつく者すらいなかったが、薬品のトレイを抱えてたまたま通りかかった一人の医師が、ようやくレヴィとその背中に背負われたセリアに気がついた。


 彼の白衣は、吐瀉物と汗でひどく汚れていた。その目は充血し、疲労と恐怖で焦点が定まっていない。


「……レヴィ先生!? その背中の子は、まさか……」


「私の助手です。彼女もやられたした。どこか、寝かせられる場所を」


 言うより早いか、応じた医師が病室へと案内を始める。

 歩きながら、状況も的確にレヴィへの報告を行う。


「今はもう、街中の人間が救護院に運ばれてきます」


 地域ごとの町医者はパンク寸前。

 救護院は、本来であれば国政を担うか、それに準ずるもの、その家族が主な対象だが、現在はその制限を払い、受け入れを行なっているとのこと。

 病室だけでは足りず、会議室、職員の休憩室、廊下、その他利用できる場所は全て利用しても、もはやパンク寸前とのこと。

 レヴィは案内された空いているベッドにセリアを寝かせながら、強く唇を噛んだ。


 最悪の推論が、現実のものとして王都を呑み込もうとしている。


 スライム壊死ガス――いや、もはやただのガスではない。


 異常繁殖した『極小の泥スライム』のようなものが、下水網の蒸気と共に気化し、目に見えない微粒子となって地上へ噴出しているのだ。それを吸い込んだ者は、肺から胃腸にかけて直接スライムに寄生され、内側から溶かされていく。


 セリアが発症したのも、下水に近づいたからではない。すでに王都の空気が、巨大なスライムの胃袋へと変貌し始めていたからだ。


「……すぐに大量の経口補水液を用意してください」


 レヴィは振り返り、静かな声で医師に告げた。


「すいません、実は備蓄がもうほとんどなく……」


「私が直接丞相に掛け合って製造ラインを確保します」


 無意識に奥歯を強く噛み締める。

 正直、少しだけなめていた。

 いや、そうではない。

 自身の知識に自惚れていたのだ。

 未知の病原ならいざ知らず、専門である魔物、それもよく知ったスライム由来ともなれば、すぐに解決できるだろうとタカをくくった。

 もう少し慎重に考えれば、最悪に備えて準備の指示だってしていたはずだ。

 それなのに、こんな切迫した事態になるまで研究にかまけていたなんて。


「塩分、糖分、そして清潔な水なら、中央にはそれこそ腐るほどありますから」


 特効薬の一つすらすぐに用意できない己の無力さに、胸の奥が焼けるように痛む。それでも、今はこれで一秒でも長く時間を稼ぐしか、彼らを生かす道はなかった。


 レヴィは自身の左腕を強く押さえた。

 先ほど注射した『天敵』が、静脈の中で荒れ狂うように脈打っている。


 自分が、こうして平気でいられるのは、打ち込んだ『天敵』のおかげだろうか?


 自分自身がまだ発症していないのは、体内に取り込んだこの微小な獣たちが、侵入してくる極小スライムを水際で食い殺しているからか?


 であれば、対処療法などせず、さっさと患者に打ち込んでしまうほうがよいのではないか。


 だが、この急造の抗体がいつまでもつかは未知数。

 それに、そもそも根本的な疑念がある。


 ――私は『天敵』を打つ前から、発症していなかった。


 最も濃いガスを吸い、最も汚染された泥に直接触れていたにもかかわらず、私は三日間、何の後遺症もなく過ごしていたのだ。


「彼女を……セリアを頼みます。私が、絶対にしなせません」


 それだけ言い残し、レヴィは血の匂いと酸の臭いが充満する救護院を飛び出した。


     *


 王城へと続く大通りは、未曾有のパニックに陥っていた。


「ごふっ、おえぇ、腹が……ッ!」

「い、いや、なによ、この斑点……!」


 道端でうずくまる者、血を吐くように粘液を吐き出す者。原因不明の伝染病の噂は瞬く間に広がり、逃げ惑う人々の悲鳴が、街中に響いている。


 馬車が横転し、荷物が散乱する石畳を、レヴィは顔をしかめながら駆け抜けていた。


 早急に王城へ赴き、国庫を開かせなければ王都は滅びる。


 焦燥感に駆られ、大通りの交差点に差し掛かったその時だった。


「落ち着いてください! 症状のある方はこちらへ!」


 混乱の渦の中心で、よく通る凛とした声が響いた。


 レヴィは足を止め、目を疑う。


 倒れ伏す人々の間を駆け回り、水筒の水を分け与え、的確に介抱して回る一団がいた。


 純白の外套に、磨き上げられた銀の甲冑。


 数日前の生態調査の折、森で出会った『聖堂騎士』の小隊だった。


 次々と市民が倒れる猛毒の瘴気の中にあって、彼ら騎士たちは誰一人として咳き込むことすらしていない。まるで彼らの周囲だけ、清浄な空気が保たれているかのようだった。


「……彼らは、まだ発症していないのか……?」


 しかし聖堂騎士は、王城護衛の聖騎士とは異なり市井で暮らす。

 

 清貧を良しと、質素倹約に務める。

 休日は自ら貧民街に赴き、炊き出しや清掃などの慈善活動に勤しむ、別の角度の異常集団。


 レヴィの細められたレンズの奥で、理性の光が鋭く瞬く。


(であれば、真っ先に感染するのでは……)


 屈強な肉体を持っているから? いや、違う。スライムの消化酵素に物理的な頑強さは無意味だ。


 では、魔法による防御か? それも違う。彼らの鎧からは、確かに防御魔法を感じるが、それで防げるのなら、こんな事態には陥らないだろう。そもそも結界など張っていれば、真っ先に魔力枯渇で倒れているはずだ。


 彼らは「ただ健康なだけ」なのだ。


 この異常なパンデミックの中で、全く影響を受けずに、平然と動けている。


 レヴィの脳内で、無数の仮説が浮かんでは消えた。


 勇者のパレード、下水道の異常繁殖、気化したスライム、そして――森で出会った無傷の騎士たちと、今現在『無傷』な自分。


 バラバラだったピースが、レヴィの中でひとつの不気味な輪郭を描き始めようとしていた。



   *



 生理食塩水の製造と輸送を、彼らに頼むことにした。

 先日の『迷いの森』のこともあり、最初は警戒されたが、()()()()()()()を示すと、驚かれたが事態を理解し、全て指示通り手配してくれることになった。

訂正

魔法騎士→聖堂騎士

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