感染
隔離病棟からラボへ戻る道中、こころなしか、王都の空気はすでに微かな酸の臭いを帯び始めているように感じた。
事態は一刻を争う。
作業員の命は、もう幾ばくも保たない。
貧民街の住人が、発症してから命を落とすまでは七日ほどだったとのこと。
作業員たちが倒れて、既に二日。
栄養状態を考えれば、もう少し伸びるかもしれないが、事態が切迫しているのは確かだ。
ラボに飛び込むなり、レヴィは厳重に施錠された『禁忌指定区画』の保管庫を開け放った。
いくつかの試薬を試したが、用意した検体に対して、有効打となりそうなものは見つからなかった。
*
それから、特に進展がなく三日が過ぎた。
助手のセリアには、不要不急の外出は避けるように伝え、買い出し等の雑務に出る必要がある時は、ガスマスクの着用と、必要な衛生処置を義務付けた。
レヴィはラボにこもりきり、作業に没頭した。
買い出しから戻るセリアから、外の様子の報告を受ける。
感染が拡大。
町中に吐瀉物が散乱し、救護院には人の山。
「もう、めちゃくちゃ、ですよ」
流石のセリアにも疲れが見えた。
感染源となる下水道から、各家庭の排水溝へとガスが立ち昇っているとのことで、家の中にいても、洗い場やトイレから感染してしまう。
「今は、対策として、家中の排水溝を、コンクリートで、ふさいでいるそうです」
レヴィは作業を続けながら、買い出しから戻ったセリアへ背中越しに思いつきを語った。
「……こういうのはどうだろう」
分厚い鉛の扉が鈍い音を立てて開く。レヴィは冷気の漂う奥の棚から、厳重にロックされた手のひらサイズの金属ケースを引きずり出した。
「これって……」
息を切らすセリアの前で、レヴィは一本の古びたアンプルを取り出した。中には、蠢くような黒い砂粒が浮遊する液体が入っている。
「泥スライムの天敵」
アンプルの中の砂粒は、まるで飢えた獣のように、絶え間なくガラスの壁面にぶつかっては離れを繰り返していた。それは微細な捕食者。本来なら自然界に存在しない、生態系の獰猛な破壊者。
「便宜的に、特定外来種、と名付けた」
由来の分からぬ生き物で、かつてレヴィが、勇者と行動を共にしていた時に見つけた生き物の一部。
分類しようにも、現在どの生物種にも属さず、もちろん魔物とも異なる、砂粒状の生命。いや、生命とも違うのかもしれない。
特性としては、とにかく獰猛で、他のどの生物にも攻撃性を示す。
かつての実験で、少量を採取してきた海水に投じたところ、海水内の全ての微生物を死滅させた。
毒を以て毒を制する。学者としては下策中の下策だが、今は理屈を捏ねている余裕はない。
「まさか、それを、人に……?」
セリアの声が震える。
「流石にいきなりは打たないさ」
「で、ですよね、人間に打ったら、どうなるか分からないですし」
「うん。何が起きるか予想もつかないからね」
しかし、言葉とは裏腹に、レヴィは振り返ることなく、淡々と注射器と培養液の準備を始めた。ガラス器具の触れ合う冷たい音だけが、ラボに響く。
彼は迷うことなく小瓶から青い液体を吸い上げ、アンプルの中身と混ぜ合わせた。砂粒生物の活動を一時的に抑え込むための抑制剤だ。
さらに、注射器の針を自身の指先にチクリと刺し、滲んだ数滴の血をシャーレの上で砂粒と絡ませる。顕微鏡を覗き込み、血中での反応を瞬時に計算していく。
その淀みない手つきは、明らかに「人体への投与」を前提とした調整作業だった。
「せ、先生、何をするつもりですか?」
「ん? ああ、僕自身に打ってみる」
「は!? いきなりは打たないって、言った、じゃないですか!」
「『患者たちには』ね。瀕死の彼らを実験台にはできないよ」
話しながらも、準備の手を止めない。
レヴィは傍らに、下水から持ち帰ったばかりの検査瓶を引き寄せた。内部には、あの薄黄色の『スライム壊死ガス』が淀んでいる。彼はゴム栓に手早く穴を開けると、そこに細いチューブ付きの吸入マスクを接続し、いつでも毒ガスを吸い込める状態にセットした。
「とはいえ、もう背に腹は代えられない」
抑制剤で勢いを落としたとはいえ、未知の生物を直接体内に取り込むという狂気の沙汰。さらに、その効果を確かめるために自ら致死性の毒ガスを吸い込もうというのだ。
だが、シャーレから顔を上げたレヴィの瞳に迷いはなかった。彼は学者として、最も効率的で、かつ自身で責任が取れる手段を選んだだけなのだ。
「私なら、多分大丈夫。抗体として成立するか、試す価値はある」
言うが早いか、レヴィは捲り上げた自身の左腕に、注射器の針を深く突き立てた。
プランジャーが押し込まれ、黒い砂粒の混じった液体が静脈へと消えていく。直後、微かな痙攣が腕の筋肉を走ったが、レヴィは顔色一つ変えずに吸入マスクを手に取った。
「これでガスを吸い込んでも『消化』されなければ、第一段階はクリアというわけだ」
自らの命をチップにした実験を前にしても、彼の声は恐ろしいほどに落ち着いていた。
「……セリアくん、右の棚から遠心分離機を頼む」
指示を出したレヴィだったが、背後からの応答がない。
「……セリアくん?」
手を止め、振り返る。
セリアは実験台に両手を突っ伏すようにして、荒い息を吐いていた。
「……ごめんなさい、先生。さっきから、ちょっと気分が……」
「セリアくん? 顔色が……」
彼女の顔は、死人のように蒼白だった。額からは異常な量の冷や汗が流れ落ち、呼吸のたびにヒュー、ヒューと喉の奥から異音が鳴っている。
「なんだか、胃の奥が……熱く、て……」
ガシャン、と彼女の肘が当たり、ビーカーが床に落ちて砕け散った。
セリアは口元を両手で激しく押さえ、そのまま床にうずくまる。
「げほっ、ごほっ……う、あぁ……っ!」
激しい嘔吐。
しかし、指の隙間からこぼれ落ちたのは胃液ではない。ドロリとした半透明の黄色い粘液だ。
ベチャリ、ベチャリと。病室で聞いたあの絶望的な音が、自分たちのラボの床で響き渡った。
「セリア!!」
レヴィが血相を変えて駆け寄る。
セリアは苦悶に顔を歪めながら、震える手で自身の白衣の袖を握りしめた。
「こ、これって……まさか……」
掠れた声とともに捲り上げられた細い腕には――赤黒く変質し、ドロドロに皮膚が溶け始めた『消化斑』が、すでに無数に浮かび上がっていた。
「……っ!」
レヴィの息が止まる。
彼女の体が、内側から『スライム』に喰われ始めている。
なぜだ?
彼女は買い出しの際、ガスマスクの着用と衛生処置を徹底していたはずだ。ならば、今の外の空気から感染したとは考えにくい。
……三日前だ。あの地下水路で、彼女は少し離れた安全な足場から、ランタンで水面を照らしていただけだった。だが、あの時すでに、目に見えない極小のスライムが気化し、空間を満たしていたというのか。
高濃度のガスを直接吸った作業員が二日。少し離れた場所にいた彼女が、三日間の潜伏期間を経て発症したとすれば、計算は合う。
だったら、防護服とガスマスクをつけていたとはいえ、直接汚泥に触れ、最も濃いガスの淀みに手を入れていた私の方が、なぜ無事なのだ?
今しがた『天敵』を打つよりも前から、私の方が先に重症化して倒れているはずではないのか。
思考が空回りし、底知れない悪寒が背筋を駆け上がる。
「せん、せ……」
微かな声に、底なしの推論に沈みかけていたレヴィはハッと我に返った。
熱を帯びた虚ろな瞳が、すがるようにレヴィを見上げている。
助けを求めるように伸ばされたセリアの手が、力なく床に落ちる。
完全に意識を失った彼女を前に、レヴィは血の滲むほど強く、自身の拳を握りしめた。




