侵食
「王都全体がスライムの胃袋に沈む――」
その最悪の宣告の余韻が冷めやらぬうちに、レヴィは乱暴に白衣の裾を翻した。
「先生!?」
セリアの制止も聞かず、レヴィは実験台の上の採取キットをひったくり、血相を変えて研究室を飛び出した。
慌ててメモ帳を放り投げ、彼女もその後を追う。旧校舎の薄暗い廊下を、レヴィの足音がけたたましく鳴り響く。普段の飄々としたマイペースな彼からは想像もつかないような、切羽詰まった背中だった。
「待って、どこに行くんですか!?」
「王立救護院。最初に下水道で倒れた作業員の様子を見る」
「えっ、でも、今から行ったって……」
走りながら、レヴィは忌々しげに舌打ちをした。
「私の予想が外れていることを祈るよ」
*
王立救護院の隔離病棟は、消毒液と血生臭さが入り混じった異様な空気に包まれていた。
レヴィは魔導学部の身分証を見せつけ、半ば強引に廊下の奥へと踏み込む。そこには、口元を厚い布で覆った担当医が、疲労困憊の顔で壁にもたれかかっていた。
「環境魔導学部のレヴィです。先日運ばれた作業員の容態を見にきました」
「……ひどい状態です。通常の中毒症状じゃない」
医師は力なく首を横に振った。
「高熱と激しい嘔吐が止まらないんです。解毒魔法も浄化魔法も、ましてやポーションもまるで効果がない。それに、皮膚の広範囲に奇妙な火傷のようなものが……」
その言葉を聞いた瞬間、レヴィの瞳の奥で、冷たい理解の光が点った。
「……やはり」
レヴィは医師を押し除けるようにして、重い鉄扉を開け放つ。
途端に、むせ返るような強酸の匂いが鼻をついた。下水道で嗅いだあのガスと全く同じ匂いだ。
「う、あぁぁ……」
ベッドの上で、三人の作業員が苦悶に身を捩っていた。
一人が激しく咳き込み、身を乗り出してベッド脇の洗面器に胃の内容物を吐き出す。
だが、その音は奇妙だった。水のような液体ではない。ベチャリ、ベチャリと、泥が落ちるような重い音が響く。
セリアは思わず口元を押さえた。
洗面器に吐き出されていたのは、半透明でゼリー状の、ぶよぶよとした『何か』だった。
「……先生、これ……」
「……」
レヴィは無言のまま作業員に近づくと、汗まみれの腕を覆っていた毛布をそっとめくった。
「ひっ」
セリアの喉から、ひきつった悲鳴が漏れる。
作業員の腕には、赤黒い斑点が無数に浮かび上がっていた。
いや、ただの斑点ではない。皮膚の表面がドロドロに溶け崩れ、まるで『粘液』のように変質してしまっているのだ。斑点というよりは、肉そのものがスライムに侵食されているような、おぞましい光景だった。
「……火傷でも、病気でもない」
レヴィの低い声が、唸り声だけが響く病室に落ちる。
彼は手袋越しの指で、その気味が悪い斑点の縁をそっとなぞった。
「これは『消化斑』だ」
「消化、って……」
「下水で吸い込んだガスが、肺から血流に乗って全身に回っている」
セリアは全身から、血の気が引く思いがした。
消化?
全身を巡る?
身体の中にいる極小のスライムが、少しずつ身体を溶かしていく。
想像しただけで目眩がし、今にも朝食を吐き出しそうな悪寒を感じた。
「彼らの体内に入り込んだ『スライムの胃液』が、今も働き続けているんだよ」
レヴィは、洗面器に溜まった半透明の粘液を見下ろした。その瞳には、もはや焦りではなく、恐るべき生態系の暴走を直視する学者の冷静さが宿っていた。
「彼らは毒にあてられて吐いているんじゃない。内臓を溶かされて、スライムの養分として『抽出』されている最中なんだ」
セリアが顔面を蒼白にして後ずさる。
「彼らが完全に『溶け切る』のが先か、私たちが中和剤を作るのが先か……。時間との勝負になるね」
*
救護院を出る際に、レヴィは医師を呼び止め、対処療法を伝えた。
「今のところは、胃の中の消化液の濃度を強制的に下げて、スライムごと物理的に外へ洗い流すしかない」
患者たちにとって、それがどれほどの苦痛を伴うかなど想像に難くない。拷問にも等しいその処置に、医師が息を呑んでたじろぐのが分かった。
それでもレヴィは、一切の躊躇いを捨て、悲痛な決意と共に叫んだ。
「吐き出しても構わない、吐いた量以上の水分を強制的に流し込み続けてください」
体内の酸性度を強制的に下げ、胃の中に巣食うスライムの粘液を物理的に洗い流す。原始的だが、今すぐできる唯一の延命措置だった。
その代わりではないが、医師からも一つの情報がレヴィに与えられた。
医師の深刻な面持ちに、レヴィは良くない知らせであることをすぐに悟った。
「実は、同様の症例が、彼らが運ばれる前にも見られたのです」
聞けば、それは二週間前。
貧民街にて、十数名の住民が原因不明の病で倒れたらしい。
救護院は無償の医療機関。
数名の医師を派遣し治療にあたったが、労力むなしく、倒れた者は救えなかったとのこと。
貧民街は、下水道に隣接する形で形成されている。
その意味するところは、明白だった。




