スライムの胃袋
ラボに戻るなり、レヴィは実験台にスペースを作り、換気扇のスイッチを最大出力で回した。
持ち帰った汚水をフラスコに移すと、迷うことなく赤い試薬をピペットで数滴垂らす。
「先生、何してるんですか?」
「中和だよ。あの水路は今、強酸性の毒沼になってる。このままじゃ新しいスライムを入れても秒で溶けるからね」
レヴィはガラス棒で汚水をかき混ぜながら、今度は透明な液体を一滴投下した。
ジュワッ、と甲高い音を立てて汚水が白く泡立ち、フラスコ内の薄黄色の霧がわずかに晴れる。
「おっ、消えた……?」
「……いや、見て」
セリアが目を輝かせたのも束の間。
どろりとした奥の汚泥が中和剤を飲み込み、以前より濃いガスをブクブクと吐き出し始めた。それだけではない。
「え……嘘でしょ」
レヴィが持っていたガラス棒の先端が、飴細工のように溶け落ちていた。
「局所的な中和じゃ押し返される。ただの腐敗じゃない、泥自体が絶え間なく新しいガスを作り続けているんだ」
レヴィは溶けたガラス棒をトレイに捨て、背後の棚から試験紙のケースを引っ張り出した。
「あの……先生」
セリアが少し引きつった声で言う。
「死んだスライムと別の魔力が混ざって起きる、『スライム壊死ガス』ってありますよね。あれじゃないですか?」
「それだとしたら、空気に触れてすぐに酸化するはずなんだけど……」
言いながら、レヴィはピンセットで二枚の試験紙をフラスコの淀みへ差し入れた。
数秒後。引き抜いた試験紙を見て、レヴィの動きがピタリと止まる。
「先生……? どう、ですか……?」
「……すごいね。君の直感通り、『スライム壊死ガス』の特異反応が出てる」
レヴィは真っ黒に焼け焦げた試験紙をシャーレに落とし、神経質に眼鏡のブリッジを押し上げた。
「原因が分かったのに、なんでそんな怖い顔してるんですか……。ガスの中和剤を作ればいいんですよね?」
「……セリアくん、スライム壊死ガスは、空気に触れるとすぐ消える。下水道みたいに広い空間に、充満するようなものじゃないんだ」
「でも、充満してますよね?」
「ああ。消える速度を上回る異常なペースで、延々とガスが作られ続けている」
レヴィの低い声に、ラボの空気が一段冷たくなったように感じられた。
「このガスはね、本来スライムの体内にしかない『強力な胃液』なんだ。それが地下空間を満たしているということは――」
レヴィはフラスコ越しに、薄黄色の毒ガスを見つめる。
「原因はよく分からないけど、あの地下水路全体が、『巨大スライムの腹の中』と化しているんだ」
しかしセリアには、その深刻さがいまいち分からなかった。
それは仕方のないことで、専攻した学部とはいえ、まだ学び始めた学生の身分。
ポカンとした表情のセリアの様子をみて、彼女と自分の情報の非対称性を悟ったレヴィは、言葉をつけ足した。
「つまり、私たちが生身で地下水路に踏み込めば、獲物と同じように『消化』されるってことだ」
「……へ?」
「危なかったね。多分もう少し中に入ってたら、私たちはもう死んでたよ」
その意味を咀嚼して、徐々に危険性を理解したのだろう。セリアは最初、たちの悪い冗談だと思った。え、えへへ、何言ってんの先生冗談きついなぁと軽口を叩こうとしたが、レヴィの変わらず真剣な顔つきに、決して悪ふざけではないことを悟った。
「そして、このまま、ガスが地上に溢れ出せば……最悪王都全体がスライムの胃袋だ」
セリアの顔から段々と血の気が引いていった。




