メタファー → コギト#2
車のボンネットの上に落ちた何か。「うわッ!」彼は反射的によけようとしてハンドルを切った。急ブレーキと急ハンドルによって私たちの車は大きくバランスを崩してしまう。そして、この凍結した路面が災いし私たちの車は反対車線に乗り上げてその先のガードレールに突っ込んだ。次の瞬間、車のボンネットから噴き出した黒煙、それはたちまち私たちの車を覆いつくした。
「ねえ...どうしてこんなことになるの?」彼は胸から艶やかな液体を垂れ流していた。彼の胸には鋭利な何かが突き刺さっていた。それはガードレールだったものだった。それは衝撃によって鋭利な刃物のようになって彼を守るはずだったエアバックを切り裂いて、彼の胸に深々と突き刺さっていた。彼は茫然とその突き刺さったその刃物を見ていた。彼の手は力なくぶらんと垂れ下がり、彼の足はこの衝撃でズタズタに引き裂かれ、彼の瞳はこの残酷な今を映し出していた。彼の手が動きだした。その手は震えていた。そしてその手は彼の胸のあたりを漂いながら彼に突き刺さったその刃先に向かう。彼はそこにあったものに触れた。その突き刺さっている刃先に...その瞬間、彼は現実を呑み込んでしまった。「どうして?あなたの約束は?今という名の奇蹟を私たちの軌跡にしようなんて言ったあの言葉は嘘だったの?わからないからこそ幸せだって言ったあなたの言葉は嘘だったの?」彼は私の方を見た。その顔は苦しそうで、悲しいようで、それでいてどこか安堵しているような顔だった。「ごめん...な...俺は...どうや..ら、約.束を破っちまうらしいな。」「だめだよ、そんなのってッ!そんなの嫌だよッ!私はまだあなたに何もできないで、あなたに頼りっぱなしで、あなたに甘えて依存して、はじっめからあなたにずっと迷惑をかけ続けていたのに..どうしてあなたなの?どうして私じゃないの?こんなの悪夢よ。私が見ているただの夢でしょう?ねえ、夢だって言ってよ。こんなの現実なんかじゃないって、こんなの今なんかじゃないってッ!」私の声が今に木霊した。私へと跳ね返った声が私自身を心をめった刺しにしていく。その声はナイフを携えていた。それは彼の体に深々と突き刺さったあのナイフだった。純白のガードレール。それを持った彼らが私をその刃先でもってめった刺しにする。私の足をズタズタに、私の腕を削ぎ、私の首筋に、そして私の胸にッ!「私なんて死んでしまえば、よかったんだ。こんなことになるなら、私の死に彼を巻き込んでしまうのなら、彼の静止なんて無視して不幸のまま死んで消えてしまえばよかったんだ。今更、不幸が幸せなんて感じるなんて馬鹿だったんだな、私はあまりにも無知な馬鹿野郎だ..」
次の瞬間、この海の中で溺れていた私の腕を誰かが掴んだ。「誰?」「俺だッ!蒼汰だッ!」彼は私の腕をしっかりつかんで離さない。私はわからなかった。どうしてあなたはいつも私を、こんなどうしようもない私を助けてくれるのだろう?こんな死体を助けたって意味なんてないのに...次の瞬間、私の体は引き上げられていた。
砂浜で横になっている私たち、周囲には誰もいない。空には星々が輝き、海は行ったり来たりのささやきを繰り返す。彼はただ黙って空を見上げていた。私も黙って星を見ていた。しばらくたって、空の向こうに、地平線の彼方に流れ星が落ちた頃、彼が私に訊ねた。「世界で最も自由なものって何だと思う?」あたりに沈黙が満ちた。しかし、この沈黙は彼が問いかけたことによって生まれたものだった。私は星を眺めながらその問いについて思いを巡らせていた。
「記憶じゃないかな?」「どうしてそう思うんだい?」「生きていると私はいつも無意識に過去を見ているわ。ついやってしまう癖だったり、習慣だったりもそうね。だけど、それは過去ではないの。私たちが見ているのは記憶という名の私が感じてきた先入観に侵された過去でしかないの。そう、私たちの過去は今が過去になった瞬間にはもう信じることのできない虚構になってしまうのよ。つまり今が、そして記憶が己の過去を証明はしてくれない。むしろ、突拍子もない今は私が見てきた過去を否定して、記憶を否定してしまうものよ。そう、だから私はこの世界をすべて否定することができる。私が見てきたもの、私の記憶それ自体がほかでもない私自身なのだから。そう、この世界が虚構だとしたら、偽りなのだとしたら真実は私だけなのよ。だから、私は私を私たらしめるこの記憶こそがこの世界の中で最も自由なんだと思う。」「そうか...」彼はそう呟いていた。彼はそれっきり何も言わないでただ黙っていた。「あなたは...?」誰かが彼に問う。その声は地平線の彼方より聞こえてきた声だった。私はその声に見覚えがあった。「俺はほかでもないあなただよ。この世界で最も自由なものはほかでもないあなただった。」
彼はボンネットから炎を上げて、真っ黒な黒煙を噴き出している車の中で私の顔を見据えていた。その顔は何かに懺悔をするように見えた「俺にとって、俺の見ていた世界で一番自由だったのはほかでもないあなただったんだ。俺はあの時、偉そうなことを言えるような人間じゃなかったんだ。そう、俺もあなたと同じ人間だったんだ。ただ臆病だったのさ。同族嫌悪って奴かな。俺はあなたが死にゆく姿を見て、考えるよりも先に身体が動いてしまったんだ。そして、あなたにかけた言葉はほかでもない俺がかけられたかった言葉だったんだ。そう、俺はあなたの中にあった俺に声を投げかけていたのさ。そう、俺は俺の記憶にあなたを触媒にして言葉を投げかけていたんだ。馬鹿野郎って。死んじゃあお終いだって。俺はあなたを抱きしめてなんかいなかったんだ。俺は自分自身を抱きしめていたクソ野郎だッ!だから、こんな末路になってしまったんだろうさ。俺の記憶は、俺の見ていた世界は、俺の見ているこれからの世界は、もう最悪さ。そしてその最悪は俺の過去に侵食して掌握してしまったんだよ。だけど、俺の瞳にはあなたが、俺とあまりにも似ていて、それでいて一度諦めたのに、立ち直ろうとしているあなたの姿が、この俺の絶望の世界にとっての希望に見えたんだ。まるであなたはこの世界を切り開くナイフだったよ。そう、あなたこそ、生きるべきなんだ。あなたは自由なのだから。死に、そして俺なんかに縛られる必要なんてないのさ。あなたはこの絶望の世界で何でもできる可能性を持つ希望そのものなのだから...」次の瞬間、私は彼から突き放された。助手席のドアは開いていた。私が外に突き出された瞬間、車が爆発した。吹き飛ばされる私、私が最後に見たのは彼の安心させるような笑みだった。
~~~
私は意識を取り戻した。ここはあの二車線道路、私の背後には炎上している車があった。私はその車を呆然と見ていた。私には、彼がいない私にはどうすればいいのかわからなかったから。しばらく私が茫然としていると、背後から誰かが立ち上がる音がした。私は振り返る。そこには、車へ落ちてきた何かがあった。それは一人の少女だった。彼女はユリのマフラーを巻いていた。私は彼女に見覚えがあった。そう、彼女は私だった。彼女はかつての私だったんだ。彼女は首を鋭利な刃物でめった刺しにされていた、そうだこの傷は、この傷痕はッ!その時、目の前の死体がこちらを見て笑った。そして私の首にはナイフが突き刺さっていた。それはダガーナイフだった。そうか、始まりと終わりは一緒だったのか。
読んでくださってありがとうございます。




