第十九章 裏切者ーC #2
殴り合いの大げんか、これはその末路。
「どうして自ら死を選ぶんだッ!」彼は僕の服の襟をつかんでにらみつける。「しょうがないじゃないか。」僕は空を仰ぎながら力なく答える。その小さい声は彼に届かなかったようだ。「小さくって聞こえねえよッ!そんな声ッ!」彼の声にはやるせない怒りが滲んでいた。その滲んでいた感情にあてられて僕の心臓の鼓動は高鳴って、失意に沈んでいた声に焦燥が混じって、その勢いのまま僕は言葉を紡ぎだしていく。「だからッ!もうしょうがないじゃないかッ!彼女は死んだんだッ!僕が殺したんだッ!なのにどうして僕は生きているんだ?どうして僕は彼女のいないこの世界で今生きているんだッ!彼女は自由にあんなにも夢を見ていたっていうのに、彼女にとってこの世界は天国だったのに、今の僕は、僕にとってこの世界は地獄なんだよ、地獄になってしまったんだッ!そんなの嫌だよ、それはまるで彼女を否定してしまっているように、そして生きていた彼女を踏みつけているように、僕は感じてしまうんだよッ!ほら、僕の背後の人影が今動いたのが見えたでしょう?そうだ、彼女は死んでなお生きているんだ。そうだ、彼女は縛られているんだ、この僕のせいでッ!だから、死なないといけない。死んで開放しないといけない。彼女を彼女が抱え続けた苦しみから自由へと解き放たなければならない。そう、僕は彼女のためならなんだって捧げるのさ、今までもこれからも、今だって、そして命だってッ!」
その時、彼が僕の右頬を思いっ切り殴った。「そうやってお前は彼女の気持ちを、祈りを、裏切るのか?そうやってお前は彼女との今までを裏切るのか?そうやってお前は過去のお前自身を、彼女を見ていたその瞳を裏切るのか?そうだ、お前はほかでもないお前自身を裏切ろうとしているんだッ!開放だって?馬鹿なんじゃないのかッ!彼女は死んだッ!死んだんだよッ!もう、この世界に彼女はいないんだッ!何が人影だよッ!ふざけるなッ!お前は現実から目を逸らしているだけだ。彼女がいまだ生きているという幻想を見ているだけだッ!彼女が死んだままの幻想的な死体としてお前を見下している様を、お前はただ想像しているに過ぎないんだよッ!」彼は今にも泣きだしそうな顔をしている。どうしてお前がッ!そんな顔をそんな表情を浮かべているんだよッ!「この独りよがりの馬鹿野郎がッ!死んじゃあ”お終い”なんだよッ!お前はただ見てみたいだけなんだろッ!彼女が見ていた絶望をッ!そこには意味も価値もないのにッ!俺たちは最終的に死ぬんだ。死んでこの思考も、今までの記憶だって、その記憶にある味だって、臭いだって、感情(心の動き)だって消えていくんだッ!だけど、そんなのは当たり前のことだ、避けられない運命だ。なのに、お前はこの運命から今までずっと目を逸らしていたんだ。わかっていたはずだろ、そう当たり前のこととして受け入れていたはずだ、なのにありありとしたそのリアリティがお前の目の前で繰り広げられて、それを直視したお前は、その生々しさを目の当たりにしたお前は、嫌になってしまったんだろッ!すべてが、そしてこの世界が、のうのうと生きているこの世界がッ!そうだ、お前はただ逃げているだけなんだ。だからお前は彼女の葬式だってお前は来なかったし、あの取り調べの時だって本当のことを話すこともできないで、そして何も言わずに彼女が死んだこの歩道橋の下の大通りに飛び込んでお前はその命を散らそうとしているッ!どうしてそんなことができるんだッ!
その行為は彼女の希望だった生を救いようのない愚かな行為によって絶望の姿へと貶める愚かな行為だッ!その行為は何もならない独りよがりの行為。そう、ただ今のお前のための行為。他でもない卑怯な行為、今を生きているすべてを否定し拒絶して自分自身を完全に拒絶してすべてから隔絶してしまう行為だ。そう、お前はそうしてやっと自分を肯定できるんだろ?そうしないとお前はお前自身を許せないんだッ!そうだ、お前はただ自分自身を認めるためにこの世界を巻き込んで死ぬんだ。お前はお前自身を贄にこの世界を、この彼女のいない世界を殺すんだッ!そう、それがお前の納得、お前の心に流れている穏やかな心の正体なんだろッ!そうだ、お前の心は死んでいるんだッ!凍り付いて動くことのできないそんな心じゃ何も感じることなんて出来ないで、何も考えないままでいれるんだろうよッ!そして、お前はその心とお前の肉体との差異が嫌になったんだろッ!そう、そしてお前はその心に合わせようとしているんだッ!それは彼女が纏っていた感覚だ、死んだ人間が纏うべき感覚だ、そしてお前が纏うものじゃない。どうして、纏うことができる、どうして生きているのに死ぬことができる、どうしてお前は生と死を併せ持っているんだッ!そんなのは卑怯だ、卑怯でしかないんだッ!だからお前は死を選んだって言うのかよッ!」
俺の言葉を聞いた彼はもうすべてを諦めた色のない瞳をしていた。「どうしてだろうな?考えてみてもわからない。ああ、そうかたぶんこれは奇蹟だ。ようやく僕はここにきて神を信じようって気持ちが芽生えたよ。そう、神がもしいるのなら、すべてを超越し無から有を生みだした神がもしいるのなら、この心はその神が創ったんだ。じゃなきゃ、僕は死を選ぼうだなんて、彼女を殺してしまうだなんて、そしてこの心に流れている罪の証でさえ、感じることはなかっただろうよ。
この感覚はいつもだった。そして、この感覚がいつしかこの僕自身になっていたんだ。そして夢の中で、悪夢の中で良い夢の中で僕はいつも死んでいた。そう、死んでいる様を俯瞰で、まさに神の視点で見ていたんだ。そう、この僕の世界において僕の心は神そのものだったんだよ。そう、これは暗示なんだ。そして暗示という名の運命はいつも僕の死に様を見せてくれていた。彼女に首を絞められる自分、彼女に撃ち抜かれる自分、そして彼女の手に持つナイフによってめった刺しにされる自分。辺りに散らばる血、その色はいつも真っ黒だった。どうして?血は赤いはずだ。僕はその固定観念を持っていたはずだった。なのに、その夢のなかじゃあその血の色は気になることはなかった。むしろ、それが当然のように感じていた。僕はいつもその夢から覚めると、首を引っ搔いてそこから流れる血を見ていた。その血はいつも艶やかな赤だった。僕はその色がいつしか嫌になっていた。はやくあの約束の色に、漆黒になってほしいと感じてしまっていたんだ。おかしいって?僕も最初は気づかなかったんだ。そう、その気持ちに気づいたのは僕の首から流れ落ちた血がその色に変わったあの時だった。
彼女が死んで、彼女が僕の夢から消えて、代わりに現れたのは一人の男だった。彼の名前は土井中条。彼は悪魔だったんだ。彼の誕生をきっかけに僕の世界は大きく変わってしまったんだ。そう、彼は特異点だった。その特異点は世界消滅のカウントダウン、その始まりだった。僕の頭が、記憶が消滅していく。真っ白に、純然たる白に食い破られていく。感情が消えていく。味覚も味も、僕が僕だって自信をもって言うことができるすべてが消えていく。その苦痛は、その気持ちの悪さは、おぞましさは今まで僕が体験したことのないものだった。耐えることなんて出来るわけがない。生きているのに、死んでいくこの感覚はッ!そう、だから僕は死にたいんだッ!僕が僕であるために死にたいんだ。今死ねば、彼女のために死を選択することができるなら、僕は僕のままこの命を使い果たすことができるんだッ!止めてくれるなよッ!もし、お前がまだ僕の親友でいたいなら、そのままこの手をこの右手を離して、殴るのをやめてくれよッ!そして、信じてッ!この僕を、この僕のことをッ!」
しかし、その言葉は彼には届かない。そこにいたのは悪魔。その悪魔は僕を見て不敵に笑って見せる。「どうしてッ!」「ようやく思考を手放したなッ!フフフ。その顔を待ってたよ!」彼は僕の体にその手に握りしめられていたダガーナイフを突き立てた。辺りに散らばる闇。それは僕の命だったもの。だけど、その色を見て僕は死んでいたということに、もうずっと前に死んでいたということに気づかされてしまった。そう、僕はあの夢の中で死んでいたんだ。だから、安心したかったんだ。だから、僕ははやくこの血を、この真っ黒な血を見たかったんだ。そうか、ようやく僕は死ぬことができるんだ。もう、死ななくていいんだ。このまま、永遠の”眠り”に...ここまで考えたところで僕の心に湧き上がる予感。それは嫌な予感。そう、それは大いなる直感、それは永遠の夢始まり、永遠の死の始まりを告げる予言だった。嫌だ。死にたくない、死にたくないッ!「無駄なんだよッ!お前は諦めて死ねッ!そして、永久の閉塞へ堕ちろッ!」
俺の目の前で彼は首を彼自身の指で抉り、そこから垢黒い液体を噴き出して死んでいった。その血は、あたりに散らばって彼女が死んだ歩道橋の真下を黒く染め上げていく。その姿を見て俺は彼の言っていたことを理解してしまった。嫌だ。死にたくない。彼みたいになりたくない。その時、俺の背後を思いっ切り誰かが殴りつけた。俺は背後を振り返る。そこにいたのは俺自身だった。
「お前は理解していなかったんだ。死は俺達にとってとても密接な概念で、決して理解することのない概念だ。そう、生きている限り、死を味わうことはできない。死は心を止める行為だ。そう、実際に見てしまったら、そこには何もない虚無があるだけなんだ。」俺は目の前で不敵に笑って見せる。「お前は言ったよな?そうやってお前は彼女の祈りを、気持ちを、今までを、彼自身を裏切るのかってさ。だけど、考えてみろよ。本当に彼は裏切っていたのか?むしろ、彼は彼女と寄り添っていたんじゃないのか?彼女のために彼はすべてを捧げていたんじゃないのか?そうだ、お前は彼に死んでほしくなかったんだ。そう他でもないあなた自身のために。そして彼は、彼女のために死ぬことができなかったんだ。そう、彼に残されていた時間はもう無かったんだ。どうしてだろうな。」そうか、俺が彼を引き留めてしまったから。その瞬間、俺は目の前にいた俺自身の首に手をかけていた。「違う。俺は卑怯者じゃない。卑怯者なんかじゃないッ!」その瞬間、俺の背後で何かが割れる音がした。そしてその瞬間俺の首を何かが切断した。それは漆黒のダガーナイフだった。それは俺の首を切り裂いた後、目の前の俺の右手に収まった。彼はそのナイフを力強く握りしめた。その握りしめたナイフは俺の絶望の形。そうそれは彼から溢れたあの垢黒い色をしていた。「どうやら、お前にとっての救いだったものは、お前を見捨てたようだなッ!」嫌だ。「ほかでもないお前自身の選択が招いた結末だ。」嫌だッ!「自業自得の行く末、死よりも残酷な苦しみがあるとしたらまさしく今のお前自身なんだろうさ。」死にたくないッ!「お前は彼の理想となって死んで逝けッ!」彼はその手に握りしめたそのナイフを振り下ろした、俺の目の前で繰り広げられる惨劇、俺が死んでいく。なのに、死んでいくことの実感が俺の心に湧き上がっているというのに、どうして俺は生きているんだ?嫌だ、何も考えたくない。でも、考えざるを得ない。生きているから、生きてしまっているから...
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「さあ、貶められたこの世界に救済を、そして取り戻そう俺たちの世界をッ!」その声に頷いた宇津野。宇津野、お前は僕たちと同じ痛みを共有できる仲間”同胞”なんかじゃなかったのか?初めから、僕たちを裏切っていたのか?
港「じゃあ、どうしてッ!どうしてお前はあの時助けたんだッ!」宇津野「なんのことだ?」港「あの時、予言が示した約束の刻、天使が降臨したあの時、どうして僕たちを助けたりなんてしたんだッ!」
「知っているだろ。俺は天使もそして俺自身も嫌いなんだ。天使は頼んでもいない、そしてできもしない神の復元を望んだ。その結果があの災禍だ。俺はそんな報いをお前たちが被るのは筋が通らないって思った、だから助けたんだ、それだけの理由さ。」港「それだけの、そんな理由で、お前はあの時、命がけで俺達を救ってくれたというのか?宇津野ッ!」その言葉に宇津野は答える。「俺はあの時何もできなかった。俺はただお前たちを呆然と見ていることしかできなかったんだ。そう、傍観者だったんだよ。そう、俺は何もできない自分が悔しかったんだ。」港(何を言っているんだ?宇津野?あの時、お前が動かなきゃあの災禍は、僕たちが抱えたあの罪は起こらなかったはずだった。あの災禍、ブラック・タイムは...。そう、あれはほかでもないお前が...)
続く
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