第三十八章 マスター
184:00:00(8:15pm)
「いらっしゃい......」ドアの上側から、聞こえてくる入店音、硝子がぶつかり合って、まるで風鈴のような音をこの店内に響かせていく。店内に響くその音の残響を感じながら、俺はカウンター席に腰かけた。そして俺はこの店の店主”マスター”に話しかける。彼はテーブルの向こう側で退屈そうにグラスを磨いていた。「久しぶりだな?マスター」俺の声に対して一息ついたタイミングで彼は反応を返す。「マスターか......そう呼ばれるのも久しぶりだな。それでお前がどうしてここに来た?お前はもうここには来ないだろうと思っていたが......」「......そうだな、確かに俺は諦めるつもりだった。しかし、どうやら運命と言う名のいたずらは俺を逃がしてくれないようだ。」
しばしの沈黙がこの空間に流れていく。その沈黙には重ったるい滲みなんて感じない、ただ自然と息を吸い込む余裕があるような沈黙だった。俺はこのカフェの店内、この隠れ家的と呼ぶべきこじんまりとした感じでありながら、まるで草原の上にでも立っているような開放感を併せ持っている、このカフェの特有の雰囲気が好きだった。そしてその雰囲気がそのままだったことは、まるでこのカフェに行く足が遠ざかっていた俺の今までを肯定してくれているみたいだった。
「それで注文は?」「珈琲を一杯。」しばらくたってマグカップの中で湯気を立ち昇らせている珈琲が運ばれてきた。その珈琲を見て、俺は懐かしいとその湯気に漂う香りを味わっていた。そして冷めないうちにそのマグカップの縁に唇を添わせた。嗚呼、変わらない。そう思っていた俺は、その刹那、その珈琲の後味が俺の知っている珈琲とは微妙に、いや絶妙に異なってしまっていることに気づいてしまう。「マスター?豆を変えたのか?」そんな問いかけにマスターは黙っているまま、そしてそんな俺の問いかけの所為でこの店内にしみったれた沈黙が現れて、その沈黙の所為でこの珈琲は台無しになった。
嗚呼、やっぱり駄目だったな。
「そうだ、どうしてここに来たのか、だったな。」俺はこのしみったれた沈黙を誤魔化すように、この沈黙とは対照的な声を発していく。そして俺はここに来るまでの間に、予め用意していたスーツケースをカウンターの上に置いた。「これは?」「依頼料だ。」俺はスーツケースの留め具を外し、その中身を彼に見せつけた。彼はこの中身を見たその瞬間、その表情には明らかな狼狽が浮かんでいたのが見て取れた。
そのスーツケースの中には、目一杯にお金が詰め込まれていた。その中身を暫くの間、茫然と眺めていた彼はスーツケースの中の札束の塊を一つを取り出した。そしてそのすべてが本物であることを、確かめた彼の瞳は揺れて動き、彼の札束を持つ手はわなわなと震えていた。「なあ、この金額、お前、正気じゃないな?」彼のその言葉に俺はため息を吐く。「正気?別にお金に正気も狂気もありはしないだろ?あるのは損得勘定だけ。」「損得勘定?どうしてそんな風に言ってのけることが?......まさか?」「その質問に俺は肯定も否定もしない。そんなことはお前への依頼には関係のないことだからな。ただ、このスーツケースに入ったお金は俺の依頼の遂行の是非に問わず、お前のものにしてくれて構わない。」彼はそのスーツケースを閉じて、俺を真っすぐ見つめていた。そんな彼に見せるように俺は懐から写真と絵を取り出した。一枚は白装束の服を身に纏いし男。彼は右手にナイフ、左手に拳銃を握りしめている。そして二枚目には、俺の契約者である、彼女の姿が写っていた。
「必要なものはこの二人に関する情報だ。」「情報?」「この人物に関係する情報であるなら、なんでも構わない。」俺の言葉に彼は戸惑いを見せていた。たぶん、彼は俺の依頼に肩透かしを食らったような面持ちなのだろう。その写真に写る彼女は、どこにでもいる大学生に見える。そして、その絵に描かれた男はあまりにも特徴的だから、簡単に調べ上げることができるとでも思っているのだろう。案の定、彼は俺の前で不敵に笑って見せた。
俺はそんな彼の目の前に、一枚の紙切れを差し出した。「それは?」「これはこの依頼の成功報酬だ。これはお前にとって喉から手が出てしまうほど欲しいものだろう。」その紙切れに書かれていたのは、一枚の地図の断片。彼がその断片を見た瞬間、彼の瞳の色が変わる。「どうして、その居所を持ってッ?......嗚呼、そうか。だからお前は、今の今までお前自身の役割から解放されていたんだ。」「・・・」「流石、名探偵と呼ばれて......」「黙れッ!」「そうだった、その言葉はお前にとっての禁句だった。」
珈琲はもう冷めきっていて、夜の静寂が漂っているのを感じて、俺は時計を見る。今の時刻はもう22時15分にさしかかろうとしていた。「期限は明日のこの時間までだ。俺の知っている情報、そして俺の連絡先は、その写真の裏側に書いてある。そしてくれぐれも慎重にこの依頼を遂行を望む。」そう言い残した俺は席を立ち、珈琲の代金を置いて、この店を後にした。
次回 182:00:00
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