example 1
「あんた、いい加減にしなさいよッ!」「わかった。わかったから。」俺は電話越しから聞こえてくる、その怒号に辟易するような面持ちで、でも表面上は申し訳ないように取り繕っていた。やっぱり電話は好きだ。電話なら相手の顔を見ないで話すことができるから。もちろん、相手の顔色を窺わなければならない、そんな会話の時はこの利点なんて意味を失ってしまうけれど、でも考えてみれば相手の顔を見て話す、そんな場面が普段生きている中において、どれくらい存在していただろう。俺は自然に誰かと会話をするときは、相手の顔を見てしまう。でも、それは当たり前のことで、その行為に意識的でも、自覚的でも無かった。その証拠に、俺は会話をした後、会話をした相手の顔を表情を覚えていないことがある。話した内容、相手の声、その内容に俺がどう思ったのか、そんなことばかりに意識が向いてしまっているんだ。でも、それで俺が不自由を感じたことなんて今まで一度も無かった。一体どうしてなんだろうか?考えれば考えるほど、俺は不思議に感じてしまう。俺は会話なんてしているつもりで、俺は会話なんてしていなかったんじゃないかなんて、そう思ってしまう。俺はこんなことに、俺が意識するまでには不思議ともすら感じてすらなかったことに、俺は気味の悪さを覚えた。俺は誰でもよかったんだろうか?
例1 友達
ある日、俺が図書館で本を読んでいると、彼が話しかけてきた。「何を読んでいるの?」彼は俺の友達だった。彼は普段、この図書館の中にいたから、俺は彼が俺の背後から声をかけてきたことを、何も不思議に思わない、いつものことだって思いながら振り返る。すると、そこには顔のない誰かがいた。そして俺の近くとも、遠くとも言えそうで言えない、そんな場所から聞こえてくる声が、まるでその何もない顔に無いはずの口の姿を浮かび上がらせていた。その口の姿は、まさしく彼の面影だった。
俺はその口を見て、そこから聞こえてくる彼の言葉を聞いて、会話をしているつもりで、会話が成り立っているって、そう思っていた。だけど、傍から見ればなんて滑稽なんだろう。こんな会話に意味なんて無いのに。「ねえ、何を読んでいるの?」俺は持っていた本をその口だけの顔に見せつけていた。そして俺はこの本が何なのか、この本はあなたが紹介してくれた小説、この小説の今読んだところまでの感想、そして、「ありがとう。たぶん、俺はお前がこの本のことを教えてくれなかったら、表紙で選り好みしてしまう俺は一生この本を読むことは無かったのだろうって思うから。」なんて、そんな声がこの場所に冷たく響き渡っていた。どこに行くわけでもなく、ただ、この場所の静寂の輪郭を際立たせるアクセントのように、俺の声なんていう音が死んでいった。そしてその音に込められていた言葉は彼に届かない。その、耳のない顔の横をただ過ぎ去ってしまうだけだった。そう、あの”ありがとう”も、この小説の感想も、すべて俺の独り言だった。そして俺はそのことに気づかない。俺はただ気持ち良く話し続ける。「ねえ、俺からも紹介したい小説があるんだけど...」そう言って俺は、俺の座っていた椅子の前の机に置かれていた一冊の本を取り上げる。そして、俺はその小説を彼の前に突き付けた。しかし、彼は退屈そうな声を出す。「ごめん。その小説はもう読んでしまったんだ。」
僕はこの時、初めて彼の顔を見た。そして気づいてしまう。そこにいたのは、バケモノなんだってことに。口しかない怪物だってことに。そう、彼は友達なんかじゃない。いつから、俺はこんな奴と会話をしていたんだろう?「どうして?」「・・・」「どうして、そんな嘘を吐くのッ!あなたがこの小説を読んでいるわけがないのにッ!」俺が彼の正体に気づいてしまったからなのだろうか、その怪物にあった彼の口はもう消え失せていた。だから、もう彼の声なんて、しない。「そもそも、おまえが小説なんて、読めるはずがないんだよッ!そんな瞳も、耳も口も存在しないのっぺらぼうのお前が、一体どうしてここにいるんだろうなッ!」
俺が確かに感じていた気味の悪さは、己を埋め尽くす怒りでもって消え去ってしまった。この怒りは、この化け物に対しての怒り、それともこんな化け物を友達なんて思ってしまっていた自分自身に対するやるせなさ、それとも今までを否定されたこと、今までを裏切られたことへの憎しみ、そしてこの気持ちを晴らしたい、そんな気持ち、渇望、湧き出る勢い、まるで殺意。人を殺してはいけないよ。人を殺してはいけない。でも、この化け物なら、こんな”人で無し”なら殺してしまったって、誰も何とも思わないだろう。もし、こんな行為に悲しむ誰かがいるなら、それも人で無しなんだろう。そんなことを思っていた俺は、その化け物に近づいていく。「・・・」「嫌なら声に出してみろよッ!声を出せるものならなァ!」静寂がどんどん強くなっていく。今この場所に存在していた音は、心臓の鼓動だけ、そう俺の心臓の音だけだった。「顔のない化け物がッ!よくも俺の友達のふりを、まさに彼の雰囲気を纏うことができていたものだよッ!でも、残念。そんなものは所詮演技、ただの茶番。こんな会話に意味がないように、お前の存在も意味がないんだ。」俺の手にかかる力が一層大きくなっていく。今、この場所に存在していた音は、何もない。心臓の鼓動すら感じられない。音が消えた?それとも、俺の耳が無くなってしまったの?その時、のっぺらぼうの顔に口が現れた。その口は大きく何かを叫んでいた。だけど、俺はもうわからない。何も聞こえてないから。そして俺はその叫んでいるその口が気持ち悪く見えてしょうがなかった。まるで俺の耳が聞こえなくなったのを待っていたとでもいうように思えてッ!その気持ち悪さが、この手にかかる力を一層強くして、そして次の瞬間、その化け物は俺の前で横たわった。俺の手から零れ落ちて、そのまま仰向けに倒れていった。俺は茫然とその化け物が横たわる姿を見て、そして...その化け物の顔にはさっきまでは無かったはずの彼の顔が...その刹那、俺の瞳の前が真っ暗になった。視界が消えた?それとも俺の瞳が無くなったの?
周囲が何も見えなくなったこの俺に近づいてくる誰かの存在を感じて、俺は身構えてしまう。俺は嫌な予感を感じてしまっていた。その予感はまさに既視感。そして、その既視感は現実になる。(嫌だ...死にたくないッ!)「嫌なら声に出してみろよッ!声を出せるものならなァ!」俺は自分自身の顔を思い出すことができなくなっていた。その代わりに俺が確実に思い描くことができたのは、この瞳が無くなってしまう最期、確かに見た彼の死に顔だった。首が絞められていく。なんて苦しいのだろう。
こんなに苦しかったなら、声なんて出せるはずがなかったんだ。やっぱり、俺はもうずっと前から会話なんてしていなかったんだ。そんな人でなしだったんだ、俺は...
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