第三十三章 扉の先の彼女
「あなたは誰?どうしてここを、この扉を叩いたの?」扉の向こうから、聞こえてくる声は、か細いような、それでいて、ちゃんと誰かにこの言葉を伝えたいと願うような、明瞭とした声だった。僕はその声に戸惑う。こんな場所で、こんな現実とは思えないこんな場所で、体温を感じることのできる声が聞こえてしまったから。そう、それは紛れもない人の、たぶん少女の声だった。「こんにちは......」そう僕は恐る恐る、その声に向き合った。すると、その声は、目に見えて明るくなった。そう、それはまるで僕がここに来たことを待ってくれていたみたいだった。一体どうして、僕はその声に、その声を、こんな好意的に感じることが、感じていることができてしまうのだろう?嗚呼、そうだ、この声は、彼女に似ているんだ。僕を助けてくれた彼女、五月雨丹の声に......
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「急でごめんね、来てもらってありがとう。」僕はこの名前が嫌いだった。この名前は僕の嫌なところ、どうしようもない僕のことを知らしめていたから。僕にとって名前は呪いだったんだ。その名前が呼ばれるたびに、僕は僕のこころを直視してしまったから。醜いこころ、不完全なこころを......だけど、僕は名前を変えることはできなかった。そう、これは契約だったから。だけど、あまりにもこの名前が嫌だった僕は思い込むことに、思い込んでしまうことにした。別の荒唐無稽な意味に、僕を本当の意味で表してくれているような、そんなような漢字の名前だって、思い込んでしまうことにしたんだ。そう、僕の名前は尺解放。
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「僕の名前は......」つまずいた言葉...あたりに満ちる沈黙。「僕はゼクス......っていうんだ。」その言葉に彼女はさも自然なことのように問いかけた。「ゼクス?本当に、それがあなたの名前なの?」彼女は僕のことを見透かしたかのように告げた。僕はその言葉を聞いたその瞬間、誤魔化してきたすべて、僕が意図的に隠して、見ないようにしてきた、そのすべてのベールが剝がされてしまったって思ってしまっていた。「どうして......そう思ったんだ?」「えっと......そうね。”なんとなく”、そう思ったの。」「なんとなく?」「まあ、何がなんとなくなんだって言われてしまえば、私にもわからないんだけどね...あはは。」彼女はその扉の向こう側で、この扉越しでも、明らかな愛想笑いを浮かべていた。
「あなたの名前は?」僕はその扉の向こうへ問いかける。すると、途端に声は無くなって、まるで初めっからこの場には誰もいないような静寂が流れて...「えっと、私、ワタシの名前、は......あれ、なんだっけ?嗚呼、ごめん。もう、わからないや。」彼女の声が震える。それはまるで何かに怯えているみたいだった。「嗚呼、私、本当にどうしようもないね。私、自分の名前すらわからないで、それでどうして私はあなたに名前を訊くことができたの?」彼女はまるで誤魔化すように、言葉を捲し立てる。「それで、あなたの名前を、直感みたいな理由で、ケチつけて、本当馬鹿なんじゃないの?たぶん、あの感覚は、ただの妬みね。こんな名前すら定かじゃない私が、あなたのことを、こころの無意識で羨んだことの表れだったんだよッ!」「・・・」「ねえ、もう私の事なんてもういいでしょう?こんな私なんてもう...」彼女の声は今にも消えていってしまいそうな、そんな声を吐いていく。僕は、そんな彼女の声を、今にも消えてしまう、そんな声を聴いてしまったから、もう黙ってなんていられなかった。「ごめんなさい。」「...どうして?どうして、あなたが謝るの?」「...僕はあなたに嘘を吐いてしまったんだ。あれは僕の名前じゃない。あなたの直感は...正しいよ。僕は嘘を吐いたんだ。僕は僕の名前が嫌いだから、嫌いだったから...見え透いた嘘を。そして、その嘘があなたを傷つけてしまって...本当にごめんなさい。」彼女は扉の向こうで沈黙を称えていた。僕は言葉を捲し立てる。「もう、僕は嘘を吐かないよ。あなたを僕の勝手で、あんな嘘で傷つけてしまったから...」彼女は黙ったままだった。僕もこの言葉を零してから、しばらく黙っていた。「今から僕は、あなたに僕の本当の名前を、吐くよ。」僕はそう、扉の向こうへ告げる。そしてまさに、僕は彼女に僕の本当の名前を告げようとした、その時だった。「やめて。」なんて声が、扉の向こうから発せられた。「どうして?」僕は彼女に問いかける。すると、彼女の声色は、初めて彼女の声を聴いた時の声色に戻っていた。「ねえ、私たち似ているって思わない?」「似ている?」「私はあなたを傷つけてしまったって、そしてあなたも私を傷つけてしまったって、そう思っていたでしょう?」「確かにそうだけれ......」「なのにッ!どうしてッ!あなただけ許されようとしているのッ!私を、私だけの心を、そんなわだかまりのままにしようとなんてするの?」「そんなつもりじゃなくて......」「いいの。ごめんなさい。もし、私があなたなら、私だってそうしただろうから。だけど、お願い。あなたは今のままでいて、私が私の名前を思い出すまで、私に嘘を吐いたままでいて?」しばらく沈黙した後、僕は「わかった。」、そう一言呟いた。続けて僕は「じゃあ、あなたが名前を思い出すまで、僕はあなたのことをなんて呼べばいい?」そう訊ねると、彼女はいたずらそうに笑っているような声色で告げた。「じゃあ、イブ。イブって呼んでよ。」
そう、これが扉の先の彼女との出会いだった。
おまけ
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「いばら姫...」僕がこの扉の中央にあしらわれたレリーフを見て、そこにあった文字、まるでこの部屋の名前のように書かれているその言葉、” 瞳覚まし時計”が彼女の名前なんじゃないか?なんて思いつきが、その言葉を僕に呟かせたその刹那、扉の向こうから悲痛な、何かが破裂するような、そんな声が、今を劈いた。「やめてッ!そんな言葉で私を呼ばないでッ!」僕は戸惑ってしまっていた。それは、この場の静寂が唐突に終わりを告げたことに、そして彼女の、まるで悲しみとやるせなさとを誤魔化すような憤りに重ねるような言葉が、僕の心を貫いたことに...「......ごめんなさい。僕はそんなつもりじゃ...」「ああ、それは、そんなの私の、私じゃない。私なんかじゃないッ!」彼女は叫びながら、この扉を殴りつけていた。何回も、何回でも執拗に響くその音はどんどん強くなっていく。僕はその音を聞いて、その音を前にして、動けなくなっていた。
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読んでくださってありがとうございます。
次回予告 (仮称)
テレビ台の下
静止して、今
一時停止の天国
起きて、これから
次回 第三十三章 停滞した空気、渦に巻き込まれた時間、まさに動かない時計




