第三十三章 どこにでもいるあなたへ
私は死んだ。私の頭の中にはそのことに疑いようのない、そんな記憶があったから、私は否応なしに死んでいるということを自覚させられてしまった。ここはどこなのだろうか?私は死んだというのに、今の私の状況は生きているときと、あの気持ちの悪い不自由さに縛られているときと、全く同じような閉塞的な意識を携えたままで、私はここに存在してしまっているようだ。辺りを見渡すと、そこには壁に立てかけられた鉄格子、床に倒れた棚、ズタズタに引き裂かれた病室のベットがあった。私にはその鉄格子も、その棚も、そしてその病室のベットにも見覚えのような感覚、既視感があった。しかし、その既視感を否定するかのように、彼らはその状態(姿)を示していた。
私は目の前に現れた男を思い出した。彼は悪魔だ。彼は私をその持っていたナイフでもってズタズタにして、その体全体の傷のために私は死んでしまったんだ。そして私の意識は、その傷から這い出た痛みが刈り取ってしまったんだ。私の視線の先にあった右腕、その右腕は綺麗だった。どうしてだろう?私の腕はもっと醜い姿だったはずだ。私は前へと向き直る。そこにあった既視感の否定。私はその否定の正体に気づいた。そうだ、この鉄格子はこんなだらしない姿を晒してなんていなかったはずだ、この棚はもっと誇らしげにその姿を称えていたはずだ、そしてこのベットはもっと綺麗で、そしておぞましかったはずだ。
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私は鉄格子のなかに自分の居場所を見出した。この場所は私にとってとても居心地のいい場所だった。この場所には義務があった。いなければならないという必要に迫られた義務が...そしてこの場所は一人一人の居場所が、第三者から与えられていた。私はその公平性がとても気持ちがいいと感じていた。牢獄に入れられた時点で、存在に対する価値は均一化されてしまう。変わってしまうのは時間の長さが大きいか小さいかでしかない。そう、そんなことは今を生きる私にとって関係のないことだった。死ぬか、閉じ込められるか。その違いでしかなかったんだ。そもそもみんな罪を抱えてこの地獄を生きているんだ。いつ爆発して消えて無くなってしまうのかすらわからないで、未来なんて言う希望に踊らされて、過去なんて存在しない虚構に逃避して、そこにある罪のイメージに他責して、そうしてできた存在の形に投影した影を喰らって生きているんだろうよッ!
脱獄編 第5話
私の瞳にうつるのは悪魔だった。彼女の名前は、土井中条。彼女は私の左腕を鋭利な何かでめった刺しにした。切断された私の左腕は私の瞳の前で、この漆黒の大地へと落ちて、その虚構の海に漂っていた。その腕の切断面からは私の血が止まることを知らないで流れ続けていた。彼女は笑っていた。その悪趣味な嘲笑いを見た私に湧き上がったのは恐怖だった。私はその表情にあてられて引き攣っていた。瞳の前の彼女はその笑みを大きくして言って、そしてこらえきれないで笑い出した。その笑い声の気持ち悪さは、私が今まで聞いたどんな笑い声よりも気持ちの悪いものだった。その笑い声はだんだん大きくなって...そして気づかぬうちにその声は私が聞いたことのある声へと変わっていた。そう、それは私の声だった。どうして?どうして私は笑っているの?私じゃない。私は笑いたくなんかないのに...私は悟った。これが気持ち悪さの正体だということに...。それは私の感情を伴って私の心に入り込んでいた。それは私の記憶の中に現れ始めた。そしてその記憶の一つ一つにこびりついていた感情を反転させていった。その記憶の中で彼女は言った。「お前あの時の出しゃばりか。フフフ。死に急いだ愚か者、道理で爪が甘いわけだよ。」彼女は退屈そうに言った。「もうお前の能力は見たんだよ。面白味もない能力、あいつらの力の誤魔化しなんてさ。馬鹿みたいじゃないか。」その言葉に私の心は怒りに染まる。その怒りは私の中にあった理性を捨て去ってしまった。彼女は私に言った。「私は消化試合をする趣味はないんだよ。フフフ。どうする?私たちの邪魔しないんだったら見逃してやってもいいぜ?」その言葉は契約の枕詞。もう私の存在はあいつにとっての邪魔でしかないのだろう。彼は遅かれ速かれ私をあの時のように殺すつもりだ。そうか、これが殺意。殺意は純粋無垢だったというの。本能、醜悪な心に限りなく近い、最も愚かな行為、そして最上の生への執着、それはその象徴であり終点だったんだ。「黙れッ!所詮人の分際でッ!」その殺意にあてられた私は叫んでいた。その叫びは死への片道切符に過ぎなかった。負ける。殺されてしまう。この殺意が見せる地獄によって私は、最悪な死を迎えてしまう。そんなのは嫌だ。嫌だから...「もういい。」そう、すべてどうでもいい。これが運命だっていうなら、私は私の存在なんていう習俗的な意味を捨て去り、今この時が存在に対しての答えとしての意味を成そうッ!「私は全身全霊をもってお前を殺すッ!もう出し惜しみなんてしない。今まで集めた信心も、私の存在の意味としての使命をも犠牲に捧げよう。」私はこんなに思いっ切り叫ぶことができたんだッ!そうか、これが解放かッ!フフフ、アハッアハハハハッ!私は私の犠牲でもってお前のその顔に浮かんだ気持ちの悪い笑みをズタズタに引き裂けるのならば後悔などないッ!私は賭けたよッ!すべてをお前のその気持ちの悪い笑みを、私にとっての気持ちの良い笑みに変えてしまうためになぁ!
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彼女は持っていた聖遺物”焔の聖剣”自分自身に突き刺した。彼女の選んだ選択が今を希望へと昇華させていく。その希望を胸に抱いた彼女は、その希望を信じ、生を、意味を、そして存在を再生した。空間が希望で満ち、それが時間をうねらせて、渦を成す。彼女を中心にその渦めいた光は収束し、その光でもって彼女は本来の姿を、正義を取り戻していく。この場を覆っていた影を消し去ってしまうほどの溢れんばかりの光、その光の中心に顕現せし、純然たる光を纏う天使が一人”イブ”またの名を慈悲の天使。その降臨の様を見ても未だ彼女は悪趣味な笑みを浮かべていた。彼女は自身の纏いし影を彼女へ向けて撃ち込んだ。しかし、イブはその攻撃をその光のベールで打ち払った。(これが本当の世界の形だったのね。この世界が、この世界こそが、私のいるべき世界だったのよッ!嗚呼ッ、なんて気持ちがいいのッ!この私の世界は、この世界の存在はッ!)彼女は祝詞を唱え始める。それは本来の祝詞。それは”誤魔化しの今”に致命的な綻びを生じさせた。そのひびが漆黒の渦とぶつかり、始まりと終わりを繰り返す。それは向き合う彼らの中央で拮抗した。それを見て彼女は笑う。(思っていたよりも弱くなってるッ!フフフ。このままあの時の雪辱を果たしてくれようかッ!)彼女は手を前にかざし、自分の胸から真なる聖剣を引き抜いた。その聖剣は光を纏っていた。その光は彼女の存在の価値、生きていることに対する意味そのものだった。彼女はついに天使が持つ業を克服した。生きる意味なんて持たない言い訳に過ぎなかった存在が自分自身の価値を自分自身で肯定せしめたのだった。言い訳は責任へと昇華した。盲目的不自由は、そして習俗は、真なる自由へと覚醒した。彼女の中に眠っていた神が呼び起こされる。彼女は神力”プロムナード”を発動したッ!(嗚呼ッ、神よ。そこにいたのですね。あなたは私の中で、私の記憶の中でずっと生きていたのですねッ!)彼女はその剣を力強く握りしめた。(もう大丈夫。私は死なない。死ぬわけにはいかないのよッ!この神の瞳の前でッ!)彼女を中心に空間がうねり渦を成す。その渦は感情を伴ってこの世界に伝播した。それは歓喜、そして慈悲、そしてそのすべてが原罪に、かの純粋無垢な感情へと還る。さあ、すべてを覆いつくせ、殺意よッ!
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悪魔は私に向かって走り出した。「さあッ!殺してみろよ!あの時のように、この私をッ!殺せるものならなッ!私はもう逃げも隠れもしないッ!さあ、この神の御命において贖してしまえよッ!この悪魔がッ!」私は手に握られた聖剣を振り下ろした。その剣から溢れ出る感情を伴った攻撃、その炎は地面に当たった瞬間、数多の槍の形へと変わり、その槍はその悪魔を全方位にかけて覆いつくした。「この炎に焼かれて堕ちろッ!」しかし、その悪魔は背後からの槍をすべてよけて、そして前から来た槍は悪魔が纏った黒い渦の拳でもって中和し、そしてそのままの勢いで叩き落した。悪魔が近づいてくる進行速度は変わらない。私は剣を振り下ろしながら、何重にも重ねた槍の包囲網を創り出していった。しかし、悪魔はその攻撃をすべて見切り、私に近づいてくる。「チッ、もどかしい。」私は光翼を展開し、そこから光の羽根を十枚取り出した。それは空中に漂い、私が剣を振り下ろしたタイミングで弾丸のように悪魔へと向かっていく。そしてその羽根は、槍を叩き落そうとした悪魔の右手を切断した。悪魔の右手が地面に落ちる。その様は私がかつて切り落とされた左手の様で...私は思わず笑ってしまった。あの悪魔がやっていたような悪趣味な笑みをッ!
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右手を失った悪魔はバランスを崩した。今だッ!私は剣を振り下ろし、その炎の渦で彼女をめった刺しにする。「とどめだッ!くらえ。聖なる炎に焼かれて堕ちろッ!」私はそう叫びながら、すべてをこの一撃に込めて、必殺の一撃を放つ。その攻撃はすべてを焼き尽くす光を纏いながら、黒い渦を消し飛ばし、そのままの勢いで、その悪魔に大いなる一撃を喰らわせたッ!「フフフ。」思わず笑みがこぼれてしまう。ようやく私は、かつての私自身に、過去の私に打ち勝つことができたんだッ!そう思ったから。しかし、悪魔を覆いつくしていた炎が悪魔に収束しようとしたその時、その渦の動きが止まった。嫌な予感がした。それは絶望の既視感だった。
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悪魔の姿が消えた。どうして?私は唐突な出来事に思考を一瞬手放してしまった。その思考の隙を悪魔は見逃さなかった。私の全身が鋭利な何かでぐちゃぐちゃにされた。「あぁぁぁッ!」私は思わず右手を見る。しかし、それは綺麗なままだった。あの痛みが伴うような傷は存在していなかった。あれは幻覚?それとも幻触?私の戸惑いを嘲笑うかのように、彼女は私の瞳の前を歩いていた。私は聖剣を何度も振り下ろす。しかし、悪魔はその攻撃を素通りするように真っすぐこちらへと近づいてきた。「なんで。私の攻撃がどうしてッ!」「フフフ。所詮、あなた達は言い訳に過ぎないってことよ。」「黙れッ!黙れ、黙れッ!天使でもないお前が知ったようなことをッ...」「うるさくってみとっもねえなッ!わかっていたはずだろッ?この運命はさッ!お前はここで死ぬ、そんな退屈な存在でしかないんだ。わかっていてなお、無駄な足掻きをして、どうだったかな?満足かい?フフフ。俺の正体も気づくこともできないで残念だよ。本当に残念だ。」彼はナイフを持っていた。どうして、お前がこのナイフを持って...そうか、生きていたんだな...セプターッ!
私はそのナイフで全身をめった刺しにされた。私のエンジェルヘイローが八つ裂きにされていく。嫌だ。死にたくない。死にたくないッ!私はようやく生きることに希望を持てたのに、生きている価値を感じることができたというのにッ!どうして!どうしてよッ!どうして私が死ななきゃならないっていうのッ!「どうしてって?そんなのわかっているはずだろ?」私はいつの間にか公園のベンチに座っていた。私の瞳の前には悪魔が立っていた。
続く
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