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今から五年ほど前のことになる。当時、トーマは十一歳だった。
「あのさ」
いつものように孤児院の図書室で本を読み耽っていたトーマの下へ、彼は突然やってきた。
「――お前、ネルビアンコなのか?」
深緋の髪をした彼の存在を、トーマは何となく認知していた。三年ほど前、帝都の傍で行き倒れていたところを、誰かに拾われてここに運び込まれ、そのままこの孤児院に居付いた男だ。自分の七つ年上で、名前は確か、アーロン。
「……」
アーロンの質問に、トーマはすぐには答えなかった。その告白が、或いは命取りになることを、トーマは当時からよく理解していたからである。静かな視線で、アーロンの常盤色の瞳を見つめながら、トーマは記憶を遡る。
自分は最近、誰かにそんな話をしただろうか。いや、そんなはずはない。この爪のことを知る人間は、この施設内では一部のシスターを除いて他にはいない。シスターの口からその情報が漏れるなどと言うこともあり得ないはずだ。何故、この男がピンポイントで自分に質問をしてくるのかは分からないが、せいぜい質の悪いハッタリか何かに違いない――。
「なんだよ、それ」と視線を本へと戻しながら、トーマは答える。「いま、良いところなんだ。悪いけど話なら後にしてくれないかな。ネルビ、何とかってのもよく分からないし」
「とぼけるなよ」とアーロンは言いながら、トーマの隣の椅子を引くと、そこに座った。辺りを見回し、この図書室に自分たち以外の人間が居ないことを確かめると、深く潜めた小さな声で、アーロンはトーマへと囁いた。
「俺もネルビアンコなんだ」
その言葉を、トーマはやはり無視しようとした。が、出来なかった。この三年間、トーマがアーロンから感じていた不思議な違和感と、その情報はトーマの中で、ピタリと繋がってしまったからである。食堂で顔を合わせる時や、廊下ですれ違う時、教室での授業中など、トーマは孤児院生活に於ける様々な場面で、ふと気が付くとアーロンと目が合っていることがよくあった。そしてその視線に、トーマはアーロンの意思と言うよりも、自分の中から湧き起こる〝意識〟を感じてやまなかった。そこに存在しないはずの匂いを、トーマは確かに嗅ぎ取っていたのだ。が、気のせいだろうとトーマは思うようにしていた。何者とも、如何なる関わりをも持たないこと――それが当時のトーマにとって、この世界を生きていく為の、たった一つの冴えたやり方だったからだ。
トーマが質問に答えないでいると、アーロンは勝手に喋り始めた。「つらいよな。ずっと手を隠してなきゃいけないのって。これから先もそれがずっと続いていくと思うと、なんていうのかな、時々すごく悲しい気持ちにならないか? どうして自分がって、俺は思っちゃうよ」
すぐにアーロンに心を開くことは、トーマはしなかった。これまでの人生、トーマはずっと無関心という名の鎧で、自分の身を守り続けてきた。十一歳になる頃には、それを全く苦痛に感じなくなるほどにだ。苦痛にすら無関心に、トーマはなっていた。とはいえ当時、やはり十一歳の子供だったトーマだ。唐突に現れた理解者の存在はトーマにとって、真っ暗だった世界に鮮烈に差し込んだ、一筋の光芒のようでもあった。
「俺は長い間知らなかったんだ。爪が白いことが普通じゃないことだって。だからそれに気付いた時はもう、最悪だった。死んでやろうかとも考えたけど、それじゃ奴らの思う壺だろ。だから俺は、絶対に死んでやるもんかって思うことにしたんだ。それがどれだけ惨めでも、どれだけ生き恥を晒すことでも」
トーマは返事をしないまま、アーロンの話を聞いていた。その本心はと言うと、まるでもう一人の自分が喋っているのかと錯覚するほどに、トーマはアーロンと同じ気持ちだった。それは喜びだけではなく、トーマの胸に酷い痛みをも齎した。無関心の鎧が、内側から破壊されようとしているのが、トーマにははっきりと分かった。
「ずっと悔しかった。何も悪いことなんてしちゃいないのに、どうして自分がこんな目に遭わなくちゃならないのかって。不当な差別だと頭では分かっているのに、力がないから、それに屈するしかない自分が、悔しくて悔しくて、堪らなかった」
そう言いながら、アーロンの脳裏にはどうやら、孤児院に来るまでの記憶が思い起こされているらしかった。彼がどんな経験をしてきたのか、トーマには分からない。が、悔しさに震える彼の声も、零れ落ちようとする彼の涙も、トーマには自分のもののように思えてならなかった。自分がずっと言いたかったことを、誰かに話したくて仕方のなかったことを、彼はきっと、自分の代わりに喋ってくれているのだと、トーマには思えた。
「だからここに来て、お前を見つけた時、生きてきて良かったって思ったんだよ。お前の傍でなら、俺はまだ生きていけるって思ったんだよ。こんな風に思うのって、おかしいのかな? それも、俺がネルビアンコだからなのかな?」
アーロンの目から涙が零れる。彼の涙に感化されて、トーマもまた、ずっと堪えてきた大粒の涙を、図書室の机にぼとぼとと零した。歯を食いしばり、大きくしゃくり上げながら、全くもってアーロンの言う通りだと、トーマは思う。自分たちは何も悪いことなどしていない。爪が白いというだけで、こんな目に遭う世の中なんて間違っている。自分たちがおかしいことなど、何一つとしてない。圧倒的におかしいのは、この世界のほうだ。
鎧から心が解き放たれるのを感じながら、トーマはアーロンの目を見つめると、「分かるよ」と涙に震える声で言った。「全部分かる。おかしくなんてない。俺も、ずっとそうだったから」
「だったら」とアーロンは言う。続く言葉に、トーマは再び、その心を鎧で覆わざるを得なくなった。光は消え、トーマの世界は再び、真っ暗な闇に覆われる。光など初めからなかったのかも知れない。或いは、全く違う方向を、その光は照らしていたのだとも言える。
「俺と一緒に、ネルビアンコの国を作って、通常人種に反旗を翻さないか? 俺、新しい世界を作りたいんだ。ネルビアンコが陰でこそこそ隠れることなく、堂々と生きていける、そんな世界を。ずっと仲間になってくれる奴を探してた。世界を変えないか? 俺と一緒に」
アーロンの表情は輝かしかった。それこそ、真っ暗だった彼の世界に、光が差し込んだとでも言うように。その表情からは、彼がそれを冗談で言っているのではないことが伺える。どうやら彼は本気だった。
自分より七つも年上の彼が、何故本気でそう考えるようになったのか、この時のトーマには分からなかった。が、はっきりと分かることが一つだけ、トーマにはあった。そのような世界の実現は、何かの間違いでもない限り、殆ど不可能であるということだ(実際のところアーロンはこの時、後に夜明けの月光のスポンサーとなる〝協力者〟からの提案を既に持ちかけられていたので、或る程度の勝算があるにはあった)。
かつてはトーマにもアーロンと同じく、差別のない世界を夢見た経験くらいはあった。シスターたちに協力を呼び掛け、自分が代表となり声明を出し、世界中のネルビアンコをかき集めて……、と。然し、この頃既にネルビアンコは、世界中に百人も存在しないとさえ言われていたのだ。世界をひっくり返すには、自分たちはもう少数派すぎた。トーマにとって、それはあくまでも夢物語でしかなかったのだ。
「こうして君と話が出来たことは嬉しいけど、それは無理だよ。余りにも無謀すぎる。……ごめん」
トーマが断ると、アーロンは「そうか」と寂しそうに俯いた。数秒の黙考を挟んだ後で、再びトーマへと顔を上げると、ダメ押しとばかりにアーロンは続ける。
「でも、興味くらいはないか? 差別や迫害のない世界に。ほんの少しでも、それを見てみたいとは思わないか?」
興味は、とトーマは考える。そんなものは腐るほど、トーマの中にはあった。が、それも過去のこと。それらの興味はこの時には、もう既に腐りきってしまっていたのだ。出来ない夢を見ることが、無関心の鎧を脆弱にすることをトーマは知っていた。新たに芽生えそうになる興味を抑え込みながら、トーマは席を立つ。
「興味なんて、ないよ。申し訳ないけど、君の力になれそうにはない」
そう言って、トーマは読んでいた本を持ったまま、図書室の出口へと向かって歩いた。同じく椅子から立ち上がったアーロンが、トーマの背中へと怒鳴るような声を浴びせる。
「目を背けるなよ! 現実から、何よりも自分自身の心から! 事実を別の何かで塗り隠したって、その本質が変わるわけじゃないんだぞ!」
扉の前で、トーマは足を止めた。アーロンの言葉に、トーマは背中を刺されるような気分だった。然し、自分自身の心を、これから先も守り続けていく為にも、トーマはもう叶わない夢を見ることはしないと決めていたのだった。アーロンを振り返ることはせずに、トーマは言う。
「現実を見ているから、興味がなくなったんだ。俺たちみたいな日陰者は、精々湿気たこの日陰の中で、ほんの少しでもマシに生きられるやり方を、出来の悪い頭で考え続けるしかないんだよ」
そう告げると、トーマは図書室を出て行った。それが正しいあしらい方だったのか、トーマには分からない。トーマはこの時、アーロンのような考え方の人間と、とにかくこれ以上関わりたくはなかったのだ。そして出来ることなら、同じネルビアンコとして、彼にも無謀なことを考えるのはやめさせたかった。だから敢えて厳しい物言いを、トーマはしたのだ。が、そんなトーマの思いとは裏腹に、アーロンはこの数日後、孤児院から姿を消すこととなる。ハレ曰く、白銀の光を放つ巨大な人影の肩に乗せられて。
が、それはまだ少し先の話。この時のトーマは、アーロンが孤児院から居なくなることは勿論、自分がアーロンの行方を気にする余り、アーロンと関係の深かったハレとの付き合いを持つようになることも、そのハレと共にアーロンを探す為、孤児院を脱出する羽目になることもまだ知らない。太陽の光も、月の光も届かない場所で、自分は幸福でも不幸でもない、必要最低限の人生を全うするのであろうということを、この時のトーマは疑いもせず、ただ純粋に信じていた。




