70
「そろそろ目を覚ましたらどうなんだ、お二人さん」シンの呼び声に、ハレとノアは目を覚ます。
プリマギアの内部へと潜り、ノアを助けたところでハレの記憶は途切れていた。何故ここにシンがいるのだろう、ここはエンデラの森ではないのか、などと考えながら、ハレはぼんやりとした目を開く。ハレの眼前には、同じくぼうっとした様子で眠たそうに瞼を擦る、ノアの姿があった。
ノアがハレの存在に気付く。二人は右手を握り合ってすらいた。急速に頬を赤らめながら、慌てて身体を起こしつつ、繋いだ右手を二人は離した。「す、すみません!」とノアが謝る。辺りを見回して状況を確認する仕草をしながら、ハレは慌てふためいた様子で言った。
「え、えーっと、シン! なんだ? シスターマリーの授業に遅れるって?」
「言ってない」呆れたような口調で、シンは答える。
どうやらハレとノアは、森の地面に横たわり、そこに座したバロンの膝を枕に眠ってしまっていたようだった。誤魔化すように咳払いをしながら、二人は立ち上がる。
「あー、うん。良い朝だな、うん」とハレが言うと、「昼過ぎだ」とシンが答える。
「そうだな、うん。良い昼、実に良い昼だよ。天気だって良い!」
繰り返し頷くハレの右手から、ぼとりと何かが落下する。バロンがそれを拾い上げて、ハレへと差し出した。「なんだそれは」と疑問符を付けずにシンが問う。
空は青々と晴れ渡っていた。ハレたちが意識を失ってから、時間はそれほど経っていないようだった。ノア、バロンは共に無事だし、どういうわけだかは分からないが、ここにはシンもいる。プリマギアらしき精霊は落ち着きを取り戻した様子で、シンの傍らに佇んでいた。ここにある世界は、ひとまずは平和だった。涼やかな風が森を通り抜けて、ハレたちの間を優しく過ぎ去った。
落としたものを――クマのワッペンをバロンの手から受け取りながら、ハレは微笑む。「サンキュー、バロン」
満足げな笑みをその頬に浮かべながら、ゆっくりと一度だけ頷いて、バロンは答えた。
「バロン、ハレたちマもった。ハレ、ノアをたすケた。戦いおワった」
一拍を開けて、バロンは言う。「ハレ、オ疲れサま」
右手の親指を突き立てて、ハレは笑った。「おう!」
「迷惑をかけてしまったみたいだね。すまなかった」と、プリマギアは謝った。彼女の声はハレたちの脳内に、テレパシーのように響いてきた。
我に返り、平静さを取り戻したプリマギアは、ヘドロから解き放たれて(恐らくは)本来の姿へと戻っていた。魔女の異名を持つからには、人間らしい姿を想像していたハレはそのギャップに驚いた。プリマギアの本来の姿は、紫紺の光を放ち、九つの尾を持つ巨大な狐だったのだ。利口な犬のようにちょこんと座ってはいるものの、その体勢でも地面から耳の先端まで、三メートル強ほどはあるように、彼女の背丈は見えた。
どうやらこの後の段取りを、(ハレたちが気を失っている間に)シンはプリマギアと共に、予め煮詰めていたらしい。「改めて、ノアとプリマギアに俺から提案がある」と前置きをした上で、シンは次のように言った。
「プリマギアは目覚めた。第五フォルス――闇のフォルスというらしいが、その流れは今後正常な状態へと戻り、それに伴ってノアの体調も回復していくことが見込まれる。然し、夜明けの月光の活動がこれで終わったとは思い難い。ここにプリマギアを置き去りにして、彼女が夜明けの月光に利用されることは避けるべきだと俺は考えている。その上で、ノア」
「はい」とノアは頷いて答える。
「精霊術師である俺を仲介として、プリマギアと契約を結んでみる気はないか? 大精霊のサポートがあれば体調は更に安定する可能性もあるし、これは主に俺側のメリットだが、プリマギアをいつでも呼び出して、その無事を確認することも出来るようになる。今後はノアも精霊術を学べば、再び夜明けの月光が現れた場合に、何の抵抗も出来ずに連れていかれるというようなことはなくなるだろう。少なくとも、ノアとプリマギアがバラバラに存在しているより、幾らかは安全なはずだ」
ノアがそれに答えるよりも先に、「で、でもよ」とハレが口を挟んだ。「二人が一緒にいたからって、やられちまう時はやられちまうだろ。一か所に集まってたら、余計に狙われやすくもなるかも知れねえ。本当に大丈夫なのかな」
シンの話に、ハレは反対というわけではなかった。或る程度の信憑性や説得力も、シンの言葉にはあった。然し、戦いが終わった今、ノアには複雑すぎる悩みは捨て、当たり前の日常を手に入れてほしい――それもハレの、切実な願いではあったのだ。そして現実的に考えるなら、シンの提案とハレの願いを両立させることは、凡そ不可能と言っても過言ではなかった。
ハレは今後の人生に於いても、シンやルチカ、バーンズたちと、個人的には深い関わりを持っていくのであろうことを、心の何処かに予感していた。そしてその関わりは、それ自体が喜ばしいことである反面、素直に祝福することの出来ない、新たな苦悩や戦いを生むであろうということも。そこにノアを巻き込むことは、ハレはしたくなかったのだ。ノアとプリマギアが契約を結べば、それは一段と困難なものになる。
「二人が狙われるようなことがあれば」とシン。優し気な笑みをハレへと向けると、彼は続ける。「お前が二人を守ってくれるだろ、ハレ」
口元を綻ばせて頭の後ろを掻きながら、「そりゃそうだけどよ」と答えつつ、最終的な判断はノア自身に委ようと、ハレはノアへと視線を送った。すべてを受け入れるような柔らかな笑みをその頬に湛えて、ノアは一つ頷くと言った。
「シンさんにお話を持ち掛けられずとも、私からシンさんにお願いするつもりでした。昔から、この身体の何処かが、ずっと誰かと繋がっていて、時折元気をもらったり、疲労を吸い取ってくれるのを感じていたんです。ここへ来て分かりました。それはプリマギアさんだった。私は彼女と一緒に生きたい。プリマギアさんが、それを受け入れてくれるなら」
精霊言語を習得していないハレやノアの声は、プリマギアの耳には届いていない。シンはプリマギアへと視線をやると、「ノアもそれがいいと言っている」と彼女に告げた。プリマギアは頷くと、狐の状態から姿を変え、紫紺に輝く小さな光球となって、宙へと浮遊した。
改めてノアを向き直ると、シンは続ける。「先程プリマギアともその内容で合意していた。あとは二人で、直接話してみるといい」
ノアが頷くと、紫紺の光球はノアの胸へと吸い込まれるように消えた。闇の大精霊・プリマギアをその身に宿していることを示すように、ノアの身体からは紫紺の光が、薄らと煙のように立ち上り、その瞳は同じく、紫紺の輝きを放ち始めた。この状態なら、自分の声が直接プリマギアへと届くことを、ノアは感覚で理解する。自身の胸に右手を当てながら「不思議……」とノアは呟くように言った。
「初めてこうして繋がるのに、ずっと前から知っていたみたいな感覚です」
プリマギアが答える。(ずっとお前を見ていたもの。姿は見えなかったけど、会いに来ようとしてくれているのは分かった。ここまで来てくれてありがとう、ノア)
その姿はノアの中へと消えてはいるものの、声は先ほどまでと同様に、ハレやシンの脳内にも伝わってきた。
首を振るってノアは答える。「私は何も。ハレさんやバロンさん、みんながここへ連れてきてくれたんです。シンさんも、今はいないけれど、トーマさんも」
「それは違うぜ、ノア」とハレ。「ノアがここまで来られたのは、ノア自身が、ここに来たいと願ったからだよ。そんでもって、滅茶苦茶大変な思いをしながらも、最後までそれを諦めなかった。それは誰のお陰でもない、ノア自身の頑張りが実を結んだ結果だぜ。俺たちはそれに付いてきただけさ」
ハレの言葉に、ノアは虚を突かれたように目を丸くした。「そうだろ」とハレが笑うと、シンとバロンは優し気な笑みを浮かべつつ、ハレの言葉に同意する、といった具合にノアへと頷いた。その瞬間、ノアの心の中で、ずっと張り詰めていた幾つかの琴線が、前触れもなく一斉に弾けるのがノアには分かった。
自分はずっと頑張ってきた。夜明けの月光に対する恐怖を律し、身体を蝕む苦しみに耐え、険しい旅の道のりを乗り越えてきた。然し、それはあくまでもハレたちの協力があってこそのものなのだから、その頑張りに甘えてはいけない、疲れを見せてはいけないのだと、ノアはこれまで、ずっと自分に言い聞かせてきたのだ。ハレの言葉は、日陰でその身を潜めていたノアの努力へと、暖かい光を当ててくれるみたいだった。これまでにしてきた努力のすべてが、その言葉だけで報われるような気が、ノアにはしたのだ。
その喜びと、彼らの優しさへの感激に、胸中の感情がぐちゃぐちゃに混ざり合うのを感じながら、ノアは泣いた。啜り泣き程度で済ませるつもりだったその涙は、ノアが自分でも信じられないほどの速度と勢いを以て波のように押し寄せると、ノアの涙腺を瞬く間に決壊させた。乳飲み子のように大声を張り上げて、ノアは泣きじゃくった。その身体が膝から崩れ落ちる前に、ノアの中から再び現れたプリマギアが、ノアの身体をふわりと優しく包み込むように支えた。
一体何処からこんな量の感情が湧いてくるのか、ノアには分からなかったし、こんな風に泣かなければならないほどに自分が我慢を重ねていたことも、ノアは知らなかった。向き合えば耐えられなくなるから、多分あの家を焼かれた時から、自分の感情と向き合うことをずっと避けてきていたのだろうとノアは考える。
そんな自分の感情と久方ぶりに向き合い、それを噛み締めたノアは、そこへ優しく声をかけてあげたくなるような気持ちだった。「よく頑張ったよね」、「ずっと蔑ろにしてきて、ごめんね」と。そして、こんな自分にもその機会を与えてくれたハレにはやはり、感謝してもしきれない――ノアは改めて、そう強く思った。
五分ほど泣くと落ち着きを取り戻し、「すみません、取り乱してしまって」とノアは恥ずかしそうに笑った。「契約ですよね。私は何をしたらいいんでしょうか?」
シンが答える。「契約に同意し合った精霊と人間が、互いに誓いを立て合うというのが、一般的な精霊契約の形式だ。誓いが守られなかった場合、或いは人間側の死を以て、契約は解除となる」
「誓い……ですか」
神妙な面持ちになって地面を見つめるノアに、シンは笑いながら言った。「難しく考える必要はない。プリマギアと契約することで何がしたいのか、もっと簡単に言うなら、意気込みみたいなものでもいいんだ。誓いはあくまでも形式的なもので、こうであるべきという決まりはない」
「分かりました」とノアは頷くと、そこから更に黙考した。その間に、プリマギアは再びノアの身体へと宿った。一分ほどで黙考を終えると、満足そうな微笑みを浮かべて、「よし、決めました」とノアは言った。す、と息を吸い込むと、ノアは続ける。
「私、恩返しがしたいんです。ここにいる皆さんには勿論、ルチカさんやバーンズさん、それに、今回の旅に協力してくださった沢山の人たちに。言葉や気持ちでの感謝は当たり前として、その恩返しの最終的な形って、差し出がましいかも知れないけれど、旅を経て健康な状態になれた私が、私自身の願いを叶えていくことなのかな、とも思っていて。尚且つ、その私の活動によって、この世界を少しでも、良くしていけたらいいなって」
穏やかな視線をハレへと向けると、ノアは言う。「ハレさんが目指す、差別や迫害のない世界を、私も一緒に追いかけます。その為に、私はこの命の全てを懸けて全力で取り組みます。これが、私の誓いです」
心の中でプリマギアが頷くのが、ノアには分かった。
(では、ハレと共に差別と迫害のない世界の実現を目指すノアを、私は支え、悪しき者共から守り抜こう。……契約成立だ)
ノアとの契約を結び終えると、プリマギアは再び、泉の中へと姿を消した。曰く、永い間凍結されていたことによって、闇のフォルスの流れは現状その殆どが消えかかってしまっているらしく、大精霊であるプリマギアには、それを正常な状態に形成し直す必要があるらしい。機会があれば詳しく聞かせてくれ、とシンは興味深そうに言っていた。正直に言って、何が何だかハレにはちんぷんかんぷんだった。が――。
「何はともあれ――」組んだ両手を天へと向けて、ハレは身体全体でぐい、と伸びをすると言った。「ひとまず一件落着、ってとこか?」
伸びをやめると、ハレは自身の思考回路に、何某かの蟠りが残っていることに気が付く。「……あれ? 何か忘れてるような気が……」
「一件落着さ、オラシオンに戻ろう」とシンが答える。これ以上の面倒ごとはやめてくれ、という意味合いも、その語調には込められていた。
「うーん」と違和感に首を捻ってから、ハレは蟠りの正体を思い出した。「あ!」と大声を張り上げると、ハレは続けた。「アーロンの奴! 結構ギリギリまで追い込んだのに逃げられたんだった! 追いかけてとっ捕まえてやる!」
今にも走り出しそうな勢いのハレに、「やめておけ」とシンは首を振るって言った。
「アーロンがまともな逃げ方をしていれば、もう追い付けっこない。〝飛天〟を使うのも危険だ。プリマギアの目覚めによってか、今この辺りはフォルスの流れが極度に乱れているし、万が一、何かの間違いで奇跡的に追い付けたとしても、今の状態じゃ返り討ちに遭うのが関の山だ」
それでアーロンを追いかけたい気持ちがなくなるわけではなかったが、シンの言うことは尤もだった。精神の元気さと健康さに対して、悲しいかなハレの肉体はボロボロだったのだ。その後もぶつくさと文句を言いつつも、ハレはアーロンを追うことを諦めて、一行は再び、オラシオンへと来た道を戻った。西の空へと傾きかけた日が、ハレたちの背中を橙色に照らしていた。
「そういや、先生はどうしてこっちに? もう今朝の記憶も結構滅茶苦茶なんだけど、オラシオンで待っててもらったんだよな?」
道中、ふと気になったハレが尋ねると、「紫の光が恐ろしい勢いで立ち上るのが、オラシオンからも見えてな」とシンは答えた。「まさかと思って駆け付けたが、丁度すべてが終わったところだった。プリマギアとノアの契約仲介をすることは出来たから、完全な無駄足にはならなかったがな」
「シン、ヤさしい」とバロンが言うと、困ったように眉間に皺を寄せながらシンは言った。
「年齢のせいか、お調子者の誰かさんのお陰か、俺もここのところ、随分と心配性になった。トーマの苦労が身に染みるよ」
〝飛天〟を使うことはせずに、風だけが通り過ぎるグィオン荒野を、ハレたちはしばらくは歩いて進行した。先ほどシンが言ったように、フォルスの流れが乱れている中で〝飛天〟を使用することが、どのような弊害を生むか(前例がない以上)分からないという不安もあったし、それを除いてもハレたちには、旅と戦いが一段落を迎えた今、その余韻に浸りたい気持ちも少なからずあった。
これまでのこと、そしてこれからのことについて、誰からともなくぽつりぽつりと零すように話しながら、ハレたちはゆっくりと、オラシオンへの道を辿った。
「で、ノアさんよ。身体の具合はどうよ。そんなにすぐには変わらないか?」心なしか嬉しそうに、ハレが尋ねる。
自身の肉体を巡るあらゆる要素を入れ替えるように、ノアは一度、澄んだ空気を大きく吸い込んで吐き出した。非常にすっきりとした顔つきを見せると、「いえ」と小さく首を振るって、彼女は答えた。
「当たり前すぎて気にしていなかったのですが、ずっと肩に乗っていたものが下りたみたいに、身体が随分と軽くなりました。自分は何もしてないって、またハレさんには言われちゃうかも知れませんが、やっぱり私一人では、何も出来ていなかったと思います。だから――」
仰々しく頭を下げたりは、ノアはもうしなかった。その代わりに、ハレの一番好きな笑顔を見せて、彼女は笑った。
「――ハレさん、シンさん、バロンさん。私を助けてくださって、本当にありがとうございました!」
たったそれだけで、ハレは救われるような気持ちになった。トーマのこと、アーロンのこと、問題が未だ山積みである以上、自分が何かを成し遂げたとは言い難いが、少なくとも彼女の笑顔を、一つ増やすことくらいは出来たと言ってもいいのではないか、と。そして、その笑顔の為だったというのならば、つらく苦しいこともあったが、その度に諦めず立ち上がり、ここまでやってこられて良かった、とも。
夕闇の空に、星々が仄かな明かりを灯しはじめる。ノアへと親指を突き立てて見せ、ハレは笑った。「おう!」




