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「あれでいて強いんです。ハレもノアも、彼らの仲間のトーマも」
ノルダ邸の裏手にある崖の上から、シンはノルダと共に、グィオン荒野を見渡しながら語り合っていた。丁度、会話が一段落を付こうとしていた。
「分かるよ」優し気な笑みを浮かべて、ノルダは頷く。「私くらいの年になるとね、目を見れば大体のことは分かる。良いことも、悪いこともね」
ノルダが言い終えたその瞬間、遥か遠方のエンデラの森から、紫紺の光が天高く立ち上がった。その現象を視界に認めると、二人は共に表情を消して、視線を交わ合った。
果たして森で何が起こったのか、シンには分からない。それはノルダも同様のようだった。然し、確実に良くないことが起ころうとしているのを、シンは本能的に察知した。焦りに思考を奪われながら、「ノルダさん、すまないが……」とシンは言った。
静かにゆっくりと頷くと、「ああ、お行き」とノルダは答える。
「確かにあの子たちは強い子だ。だがもう少しだけは、大人の手助けが必要と見える。私らの身は私らで守る。心配しなくていい」
ノルダの言葉に頷き返すと、シンは崖へと走り、その淵から勢いのままに跳び下りた。空中で〝飛天〟を起動させ、着地の直前にフォルスを噴出し、枯れた大地へと滑らかに着地するなり、荒野へとシンは滑り出す。強かな祈りを、その胸の内には宿しながら。
(生きていてくれよ、ハレ、ノア……!)
ノアの意識は闇の中にあった。ここが何処で、今が何時なのか、ノアには分からなくなっていた。最後に見た景色がなんだったか、ノアにはもう思い出すことは出来ない。呆然と佇む誰かの顔を、自分は闇の中から見送ったような気がする。自分が闇の中に落ちていくことを受け入れられない、というような表情を彼はしていた。
あれは誰だったっけ。大切なことのような気がする。でも、どうでもいいことだったような気もする。
ここはとても居心地が悪い。けれど、足掻いてまで脱出する気力は湧いてこない。だんだんと居心地が良くなってくるような気もしてきた。多分ここで、自分はこのまま闇に溶けるのだろう。それでいい。その為に、自分は生まれ、これまで生きてきたのかも知れない。
十五年の人生へと、ノアは思いを馳せる。思えば余りにも、それは苦しい彷徨であった。
山奥の家に生まれ、両親はなく、祖母が私の親代わりだった。あそこには何もなかったが、あの家で祖母と、馬のカミナと過ごした時間は割に幸せだったと思う。ある日突然、それは終わった。夜明けの月光に家を焼かれ、祖母は殺された。カミナと共に山を下り、宛てもなくひたすらに彷徨った。人と出会う度、どんどん疑心暗鬼になった。そこからの記憶は、思い出すこともただただ苦痛だった。
誰かがノアの心に囁く。思い出したくもないことは、思い出さなくていい。思い出せないようなことは、すべて忘れてしまえばいい。安らかな闇の中で、永遠に眠り続ければいい。ここにはどんな痛みもない。どんな苦しみもない。誰もあなたを傷つけたりしない。
少しだけ待って、とノアは言う。もう少しこの記憶を辿っていけば、何か決定的な出会いがあったような気がするのだ。カミナから落ちて、修道院に辿り着いて、それから……。
闇の果てに見える小さな光へと、ノアは手を伸ばす。ノアの手を、別の誰かが握り締める。
「そんな出会いはない」
そうかも知れない、とノアは思う。でも、そうだとしたらあの光はなんだっけ。闇の底へと沈みながら、ノアは誰かの名前を呼ぶ。もう思い出せない、あの人の顔も、あの人の声も、あの人の優しさも。でも、彼がこの心に触れた痕は、きっといつまでも消えることはない。一筋の涙が零れる。その全てが、闇に飲み込まれていく。
「……ハレ……さ、ん……――」
ハレの意識は闇の中にあった。夢のような浮遊感の中で、ハレはぼんやりと真っ暗な空間を見つめていた。頭は思うように働かない。ここが現実なのか、夢の中なのか、ハレには分からなかった。
(シスターマリーの授業に遅れるぞ!!)
誰かの声にハッとして、ハレは慌てて身体を起こそうとする。が、まるで何かに押さえつけられているみたいに、ハレの身体は動かなかった。鉄の重りでもつけられて、海の底に沈められているみたいだとハレは思う。そしてまた、ハレの思考は澱んでいく。
誰かがハレの心に囁く。何も考えなくていい。これ以上頑張らなくていい。ここでは誰かに利用されることも、裏切られることもない。穏やかな闇の中で、永遠に眠り続ければいい。もう、誰かを助けなくていい。この場所では誰も傷つかない。誰も苦しまない。
そいつは最高だな、とハレは考える。でも、さっきの声は誰だったっけ。トーマが自分を起こす時によく使っていた文句だったけど、トーマの声ではなかった気がする。トーマはあんな風に、自分を怒鳴って起こしたりはしなかったはずだ。
記憶が薄れていく。トーマのことも、ノアのことも、ハレには思い出せなくなっていく。そこへもう一度、その声は響いた。
(シスターマリーの授業に遅れるぞって! 頼む! 起きてくれ!)
その声に、ハレは聞き覚えがあった。瞼を開くと、横たわったハレの目の前には、山吹色の微かな光が浮遊していた。
(これか、これだな! この黒いのがお前を眠たくさせてるんだな!)
そう言いながら、山吹色の光はハレの腕と脚に巻き付いていた黒い靄を、その身を以て断ち切った。ふわりと身体が軽くなるのと共に、意識がはっきりと冴えていくのがハレには分かった。
ハレは立ち上がると、目の前を漂う山吹色の光へと目を凝らした。踊るように舞いながら、光は言った。
(よーし、起きたね! 頼むから二度寝なんてしないでくれよ~、俺ももうここには居られなくなるからさ!)
聞き覚えのあるその声は、よくよく考えてみれば自分の声、そのものだった。奇妙な感覚に首を傾げながら、ハレは尋ねる。「お前は……、俺か?」
一瞬戸惑ったように間を開けてから、光は答える。(違う違う、似てるけど違う。話せば長くなるし、俺が誰かはどうだっていいんだ! そんなことより、ホラ!)
上方を指し示すように、光はハレの頭上付近で、上下に繰り返し揺れ動いた。人間で言うなら、顎や指で天上を指すような具合にだ。ハレが上方を仰ぎ見ると、そこには微かな光が見えた。ハレがその光の意味を見出そうと意識すると、光は自然と広がっていき、そこに別空間の風景を描き出した。そこに見えたのは、先ほどまでハレが居たはずの、エンデラの森の中心に位置する泉の光景だった。そこではバロンがたった一人で、ノアの姿をしたプリマギアと対峙していた。
「バロン!」
バロンの存在に気付いたハレへ、光が更に語り掛ける。
(そうだよ。いま、バロンが一人で戦ってるんだ。あいつを助けてやってくれよ。ノアの姿は見えないけど、まだ確かに生きてる。今ならまだ助けられる。もうひと踏ん張りなんだよ! やれるよな、ハレ!)
光の正体が何者なのか、やはりハレには分からない。然し、少なくとも自分たちの味方らしいことはハレには分かった。そしてその光はハレに、何処か親しみをも感じさせた。まるで自分たちの旅を、ずっと前から見守ってくれていたような。
光へと親指を突き立てながら、ハレはウインクして答える。「モチのロン!」
闇の地を蹴ると、ハレは海底から浮上するような具合で、頭上の光へ――バロンへと向かって飛んだ。その途中、山吹色の光を振り返ると、ハレは言った。
「何処の誰だか知らねえが、起こしてくれてありがとよ! 行ってくらァ!」
光は答える。その声はもう、あちら側へと戻っていくハレの耳には届かなかった。然しその必要はなかった。その意志のバトンはもう、ハレの手の中へ確かに引き継がれていたのだから。
(君らのこと、これからもずっと見守ってるから。だから頼むぜ、バロンのこと。君があいつと生きていく世界を、守ってくれ――)
光の世界へと、ハレは浮かび上がる。その寸前で、こちら側へと突っ込まれたバロンの手を、ハレは握った。ハレの手を握り返したバロンが、渾身の力でハレを引っ張り上げる。勢いあまって横転したバロンの手を握ったまま、ハレの身体は森の地面へと叩き付けられた。ぜえぜえと息を切らしながら、ハレは立ち上がると、バロンへと目配せをした。バロンが微笑む。「ありがとよ、バロン」とハレは笑みを浮かべながら言う。
バロンがハレに答える前に、ノアの姿をしたプリマギアが、バロンへと鉄槌を下す。素早く起き上がって体勢を立て直すと、バロンはそれを両手で受け止めた。衝撃に空気が揺れ動くのが、離れた位置にいるハレにも分かった。
ハレはプリマギアを仰ぎ見る。黒いヘドロに覆われた、巨大なノアを模ったそれは、全身に煙のような紫紺の光を纏わせていた。その姿は、存在するだけで世界の法則を歪めてしまうほどに禍々しく見え、ハレはそこに戦慄を禁じ得なかった。彼女の中に蓄積された憎悪や怨恨が、彼女をこのような姿に変えてしまったのだろうとハレは推察する。
「ハレ!」とバロンが叫ぶように呼ぶ。
「ノア、まダこの中にイる。バロン、コいつの気ヲひくカら、ハレ、ノアを助ケて!」
プリマギアの拳を、バロンは手から噴出させた土のフォルスで打ち返す。衝撃に仰け反ったプリマギアの胸の中心部を指さして、「アそこ!」とバロンは言った。バロンの指が指し示す先へと、ハレは視線をやる。ヘドロの質感が他とは異なり、比較的柔らかそうな部位がそこにはあった。バロンは続ける。
「ハレ、あそコから出テきた。多分、ノアもあそこにイる!」
ゆったりとした動きで体勢を立て直したプリマギアは、振り被った右の拳を、今度はハレへと目掛けて振り下ろした。バロンが地に手をついて、地中から土の障壁を出現させる。障壁は一瞬で崩れ去ったが、プリマギアの拳の勢いを僅かに和らげた。ハレの下へと駆け付け、ハレを守るように立ち塞がると、バロンはまたしても両の手で、プリマギアの拳を防ぎ止めた。黒いヘドロが零れ落ち、バロンの頭へと降り掛かる。ヘドロは酸を含んでいるらしく、バロンの頭からは焼けるような音と共に、白い煙が立ち昇った。
「バロン!!」
バロンを呼びながら、ハレはその横顔を仰ぎ見る。痛みに歯を食いしばりながらも、その横顔はいつになく力強く、そして心強かった。バロンはこんな顔もするのか、とハレは思わず感心する。その瞬間、バロンの頬を一粒の涙が伝った。
「……ミド」バロンは言う。「え?」とハレは尋ね返す。ダムが決壊するかのように、両の目から大粒の涙をボロボロと零しながら、バロンは続けた。
「ミドの声がキこえタ。いツも、チょっとしか聞こエなかったミドの声が、やっと聞コえた」
プリマギアの拳に、更に力が加わる。バロンの足が土の地面を抉って沈み込む。腕に込める力を正確にコントロールしながら、バロンは更に続けた。
「バロン、ミドのこと守レなかった。ジークとの、約束だっタのに……。だカら、ハレは、ハレとノアのことは――」
先と同じ要領で、掌から放出したフォルスでプリマギアの拳を打ち返しつつ、バロンは咆えた。
「――絶対に守ル!!」
これまでになく頼もしいバロンの姿に感銘を受けながらも、(そうか、あの声は)とハレは納得した。バロンへと頷きながら、ハレはプリマギアを向き直る。
「バロン、お前が頑張ってくれてるのに、俺が倒れてるわけにゃ行かねーよな! こっちは頼むぜ! 俺は――」
言いながら足にフォルスを集中させると、プリマギアの胸の中心を目掛けて、ハレは跳躍した。例え痛みと苦しみに、この身が朽ち果ててしまおうとも。例えどんなに深い闇が、その先に待っていようとも――。
「――ノアを助ける!!」




