66
森は静かなる怒りに唸っていた。風に揺られる木々のざわめきが、その唸りを引き起こす主な要因だった。が、風が止もうとこの森には、地の底から何かを求めて啼く誰かの声が、絶え間なく響き続けているのだろうとハレには思えた。
森は普通、怒りとか悲しみのような感情を抱くことはない。然し、この森は確かに怒っていた。ハレにそう感じさせるのはきっと、この知覚することの出来ない何者かの啼き声だった。風と木々のざわめきは、それを象徴化した怒りのパッケージに過ぎない。その怒りの主体となっているのはどうやら、この場所で散り、血肉となり、骨となり、この地に溶けた人々とプリマギアが遺した『無念』だった。
グィオン荒野――水の流れがなく、一切の植生を許さない広大な枯れ土の大地。所々がひび割れたこの荒れ野の真っただ中に、突如として現れる緑豊かな森。不可解、とシンが言っていたのをハレは思い出す。確かにこの荒れ野に根を張るには、凡そ場違いで、不可解な森であると、ハレは木々の梢を見上げて思う。
古の時代、謂れなき迫害の魔手に追われた黒き爪の一族と、その祀神たるプリマギア。逃走の涯に辿り着いたこの荒れ野に封じられた魔女・プリマギアの呪いによって生まれたとされるエンデラの森。その入り口に、ハレたちは立っていた。周辺の空気がうねっているのがハレには分かる。うねりの中心となっているのは多分、この森の奥地にあるといわれている、魔女の眠る泉だった。
「ノア、大丈夫か?」右後ろに立つノアを振り返って、ハレは尋ねる。
「大丈夫です。少し頭がボーっとしますが、行動には支障のない程度です」
「分かった。きつくなるようならすぐに言ってくれ」
「はい、ありがとうございます」
次いで左後ろのバロンへと視線を向けると、「バロンもいけるよな」とハレは尋ねた。「バロン、いけル」とバロンは頷いて答える。
バロンへと頷き返しながら、ハレは正面を向き直る。この先には、アーロンが居るはずだった。強者だけが放つ独特の空気が、森の奥から風に乗せられてやってくるのをハレは感じていた。それはハレの精神に、少なくはない緊張と高揚を齎した。
深く息を吸って吐き出すと、ハレは首から提げたゴーグルに、柔らかく手を触れた。孤児院に居た頃、トーマと共にくすねて貯めた小遣いで買った、ハレの大切なゴーグルだ。そのゴーグルに触れることで、ハレはトーマの存在を、今も間近に感じることが出来た。
(トーマ、見ていてくれるよな)
見ていてやるから早くしろ、というトーマの声が、胸の奥から聴こえてくるような気がした。意を決し、ハレは両の手で頬を叩きながら、「ヨッシャ!」と吼えるような声で言った。
「行こうぜ、バロン、ノア! この世の悪を断ち切りによ!」
ノアとバロンの返答を背に、ハレは森へと足を踏み入れる。ハレたちを迎え入れるように、木々の枝葉が左右に開き、森の奥地へと誘う道が形作られていく。分厚い雲に覆われて、空はどんよりと曇っていた。
森の中は外から見た印象の通りに鬱蒼としており、息づく植物も多種多様ではあったが、そこには或る程度の整合性が認められた。植物たちが意思を持って、互いが美しく見えるよう工夫を凝らしているようにもそれは見える。どうやら魔物は生息していないらしい。木々の隙間からは時折、ウサギや鹿などの哺乳類が顔を覗かせた。森の中に点在する小さな池には、虫や魚の生態も見られた。森が有する情景は凡そ、『調和』と形容するに相応しかった。
道に迷うようなことは、ハレたちにはなかった。ハレたちが行くべき方向を示すように、植物が道を開けてくれたからだ。その滑らかで不可思議な植物たちの誘導は、(自然現象に干渉するという意味で)アーツや精霊がフォルスを使役するのとは根本から仕組みが違うもののように、ハレには思えた。そこにはきっと、法則や術式というようなものは存在しない。ハレの知る言葉で言うのならば、それはまさしく魔法、そのものだった。
多分、導かれているのはノアなのだろうとハレは思う。アビスシルクとカオスライトがなければ或いは、植物たちは伝承に伝えられる通り、逆の行動を取っているのかも知れなかった。それを試してみること(装飾品を外してみること)は、ハレには恐ろしくて出来なかった。自由自在に動く植物がどのような力強さで襲い掛かってくるのか、分かったものではない。
「聞こえる」
或るところで、ぴたりと足を止めたノアがそう言った。ハレは無言でノアを振り返る。
「聞こえませんか? 誰かが、呼んでいるような声」
ハレは耳を澄ませてみる。しばらく待ってみても、ハレの耳には如何なる声も聞こえなかった。首を振るってハレは答える。「俺には聞こえねーな。バロンは?」
「きコえない。ハレのおなカの音イがい」
「ばっかバロン、そういうことは言わなくていいんだよ」
泉に近づいていくにつれて、ノアにだけ聞こえる声ははっきりとしたものへと変わっていくようだった。更にしばらく歩いたところで、それが耳ではなく、脳内に直接語り掛けてくる何者かの声なのだとノアには分かった。そしてその声の主が、恐らくはプリマギアなのだということも。然し、何を言っているのかを聞き取ることだけが、ノアには出来なかった。声は酷いノイズを含んでいた。
やがて、ハレたちは広場のように木々の開けた、森の中心部へと辿り着いた。一帯は神聖な静けさに包まれており、広場の中央には五メートル強ほどの直径を持つ泉が、青白い水面に風の波紋だけを描いている。泉の前には白いローブに身を包んだ一人の男が、ハレたちに背を向けて立っていた。フードは被っておらず、深緋色の長髪がそこには明らかになっている。足元の地には、白銀に輝く一本の剣を、男は刺していた。
ハレたちが近付いていくと、或るところで男はこちらを振り返った。あらゆる痛みと憎しみを越えた常盤色の瞳で、その男――アーロンはハレたちへ、睨むような視線を送った。
「待ちかねたぞ、ハレ。そして黒き爪の巫女よ」
アーロンが言葉を発するのに合わせて、周囲の空気がピリピリと振動するのがハレには分かる。それはハレの全身に微かな鳥肌を立てた。
「アーロン……」ハレは呟くようにその名を呼ぶ。
「ハレ」とアーロンはそれに答えるように言った。「無用な争いはやめておこう。俺とてお前に何の思い入れもないわけではない。不必要な血を、今この場で流す必要はない」
アーロンのその言葉が、和解を求めているわけではないことは流石のハレにも分かった。改めてハレへと鋭い眼光を向けると、アーロンは続きを引き取った。「巫女を引き渡せ。そして今すぐここから消えろ。その女が苦しむところを見たくなければな」
ノアを守るように彼女の前に立つと、「断る」とハレは語調を強めて言った。
「アーロン、お前が変わっちまったことはもう分かった。いや、俺と出会う前から、お前の本来の在り方がそうだったってことも、今は分かってる。ここに来る前、オラシオンって村に寄ってきたんだ。お前の生まれ故郷の村なんだってな。族長のノルダさんに、お前が村に居た頃のこと、村を出た後のこと、全部聞いたよ」
見定めるように目を細めると、然し変わらずに見下した口調で、「あの死にぞこないが……」とアーロンは言った。
「お前のしてきた思いがどれだけきついものだったか、軽々しく『分かる』なんて俺には言えねえ。ずっと昔から今も続く迫害の歴史を、許してくれとも俺には言えねえ。ただよ……」
アーロンへ真っすぐな眼差しを向けると、ハレは続ける。「俺、本気で世界を変えようと思ってんだ。差別や迫害のない、誰もが当たり前の笑顔や幸せを、当たり前に掴み取ることの出来る世界に。すぐには信じてもらえねえと思うし、世界を変えるのにだって滅茶苦茶時間はかかると思う。でもどれだけ時間がかかったとしても、いつの日か絶対に、俺はこの世界を変えてみせる。だからよ……、考え直しちゃくれねェか、こんなこと。お前ともトーマとも、俺はもう戦いたくねえんだ」
沈黙が、ハレたち四人を包み込んだ。重く濁った沈黙だった。ハレとアーロンは互いに見つめ合って、その瞳に宿る感情を確かめ合った。そして理解した。この思いを、自分たちは両者ともに、譲ることは出来ない。背に腹を変えられないのと同じように、大切に育ててきた信念を、別のものと摩り替えることは出来ないのだ。アーロンも、そしてハレも。
「生憎だな」と、言いながらアーロンは地に刺した剣を抜いた。「俺も、世界を変えようと思っている。ネルビアンコだけが優位に立ち、通常人種が終わりなき痛みと恐怖に怯え続ける世界にな。邪魔をするというのなら、……ハレ、例えお前とて容赦はしない。今……――」
一瞬だった。白いローブを脱ぎ去ったアーロンの懐から現れた白く小さな光球が、アーロンの胸へと吸い込まれていったかと思えば、象牙色の輝きにその身を包んだアーロンは、一瞬でハレとの距離を詰め、ハレの胸に強烈なエルボーを打ち込んだ。
「――ここで散れ」
激痛によろめいたハレの腹部に、アーロンは続けざまに蹴りの一撃を放った。フォルスによる肉体の強化を伴った力強い蹴りに、ハレは勢いよく後方へと吹き飛んでいく。とっさに伸びたバロンの腕が、ハレの身体を包み込むように支えだ。その一秒ほどの間に、アーロンは今度はノアへと詰め寄ると、象牙色のフォルスで生成した透明の球体にノアを閉じ込めていた。フォルスでその場に階段を作り出すと、アーロンはノアを閉じ込めた球体を引き連れて、階段をゆっくりと上っていった。階段は、泉の中央直上へと続いている。
「すぐには動けまい。まずは闇の大精霊・プリマギアを目覚めさせる。お前の相手はそのあとだ、ハレ」
球体の中からは、ノアが何かを叫びながらその内壁を殴っている。壁に阻まれて声はぼんやりとしか聞こえないが、そもそもアーロンの攻撃をもろに受けて、立っているのがやっとのハレには、ぼんやりとしたノアの声すら聞こえていなかった。ただ、ハレに分かることは一つだけあった。こんなところで意識を朦朧とさせている場合ではない。アーロンを止めて、自分はあそこから、ノアを助け出さなければならない、ということだ。
光の階段を上りながら、アーロンは呪文のような言葉を唱え始める。ノアとアーロンが泉の中心へと近付いていくにつれて、泉の水面からは煙のように揺らめく、紫紺の光が湧き上がっていった。それに呼応するように、ノアは表情を苦悶に歪めていく。
「我が名はアーロン。黒き爪の巫女をここに捧げ、そなたを目覚めさせんとする者。闇の大精霊にして、深淵と混沌の魔女・プリマギアよ、我が声に耳を傾けたまえ。永き眠りの夜を超え、いま復讐の朝は来た。巫女の肉体を依り代とし、再びこの地に覚醒せよ」
紫紺の光は輝きを増していき、アーロンとノアを包み込むように浮遊した。球体の中で、ノアはぐったりと膝をついてしまっている。
「無辜のそなたらに罪を擦り付け、封印せしめた邪曲の者共を、この現世より駆逐するのだ。我らと手を取り――」
「――やめろ!」アーロンの言葉を遮ったのは、はっきりとした意識を取り戻し、アーロンとノアの上る階段を駆け上がってくるハレの声だった。驚きながら振り返ったアーロンは、ハレの右の拳がもう目前まで迫っていることに気が付くと、それを左手で受け流そうとした。が、僅かに及ばずハレの拳はアーロンの右頬に、見事なまでに美しい直線を描いてヒットした。
「がぁっ!!」
呻き声を上げながら、アーロンは泉の向こう側まで吹き飛んでいく。バロンの作り出した足場を伝って、ハレは元いた泉手前側の岸へと戻った。アーロンが生成した階段が消えていく。アーロンの呪文が中断されたことによってか、泉から湧き上がっていた煙のような紫紺の光は、完全に消えはしないものの、その勢いを落ち着かせて、水面の付近に浮遊するのみとなっていった。
「……なるほどな。……分かったよ、ハレ」
黒いグローブを嵌めた右手の甲で、アーロンは殴られた右頬を擦りながら立ち上がる。バロンの隣に立ったハレは、対岸のアーロンを、バロンと共に見つめていた。アーロンがそこに立ち上がると、泉の中心部直上に浮かぶ、ノアを閉じ込めた象牙色の球体を挟んで、ハレたちとアーロンは互いに睨み合うような形となった。
「イリス」とアーロンがその名を呼ぶと、アーロンの背後上空からは、背景色に擬態したカメレオンが姿を現すような具合で、一頭の精霊が現れた。魚のような二枚のヒレで宙を泳ぎ、マーメイドドレスを思わせる襞のある白い皮膚を靡かせ、頭部には鋭い二本の角を持った、竜や鯨にも似たアーロンの精霊――イリスだ。
「バロン、いけるよな」とハレは言いながら、首から下げたゴーグルを額へとかけ直した。ここ一番という時に、ハレがする所作の一つだった。「バロンいケる」とバロンはハレに頷き返す。ゴーグルから手を離しながら、ハレは静かな声色で唱えた。
「〝共鳴〟」
ハレの言葉に呼応するように、二人の身体からは煙のような山吹色の光が、溢れんばかりに迸る。二人の身体から放出される時が来るのを、その皮膚の内側で、今か今かと待っていたみたいにだ。
「そんなに死にたいというのなら、……ハレ。まずはお前から片付けてやる」
両刃の剣の剣先を、ハレへと向けながらアーロンは言う。腰の鞘から双剣を引き抜いて、ハレは答える。
「どいつもこいつも好き勝手言いやがる。俺は死なねえっつーんだよ! ノアを助けて、お前らの悪事をやめさせるまではな!」
双剣を両手に握り直し、泉の水面に土の足場を出現させながら、ハレはアーロンへと駆けた。「この世に悪がある限り、断ち切る正義に俺はなる!!」
アーロンの数メートル手前から跳躍すると、ハレは空中で双剣を振り被った。握った拳にフォルスを込めると、双剣の刀身は山吹色の光に包まれ、そこに新しい刃を生んだ。ジグザグと幾重にも折れ曲がった巨大な刀身は、枯れた大地を割って走る亀裂を想起させる。剣を横に構えたアーロンと、そこへ双剣を振り下ろすハレ――二人の術技は互いに打ち合い、穿ち合い、戦火の始まりを告げる烈しきゴングとなって、このエンデラの森に轟いた。
「〝地崖崩剣!!〟」
「〝極光壁!!〟」




