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エンデラの森の黒き魔女  作者: 暫定とは
五章『相克』
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 一体何がどうなっているのか、アーロンには分からなかった。

 『この世界には自分たち以外の人間は居ない』。そんな母の言葉を信じ続けていたことが、アーロンが世界を正しく理解することを妨げていたのだ。

 あの日、父を殺し、自分を麻袋に閉じ込め、この孤独な放浪へと追いやった二人組は、(暗闇で顔つきなどは分からなかったものの)少なくともオラシオンの人間ではなかった。砂浜に打ち上げられた後に出会った、あの優しい青年の皮を被った狂人もまた、オラシオンの人間ではない。

 狂人から逃げ果せた後にも、アーロンは幾人かの旅人や、馬車に乗って移動する人々と遭遇することがあった。が、放浪の中で出会う人は皆、アーロンを見て気味悪がるか、爪を剥がそうとするか、酷ければ殺そうとした。直接的な否定をしてこない人も、少なからず拒絶し、アーロンを受け入れてくれる者は誰一人としていなかった。

 砂浜に上がって一年ほどが経った頃、爪を隠しておけば最初から拒絶されることはないということに、アーロンは気が付いた。偶然拾って取っておいた使い古しのグローブを嵌めてから、アーロンの旅は少しばかり易しいものとなった。

 それからは人に出くわすと、アーロンは都度、彼らの爪を観察した。一年弱に渡る観察の結果、アーロンは自身と同じ白い爪を持つ人間が、あの砂浜から続く陸地、或いはオラシオンを除く世界中に、恐らくは存在しないという結論に至る。その結論と、これまでに出会ってきた人々の発言や行動に含まれていた数々の謎を紐づけて、アーロンはそこから幾つかの仮説を立てた。

 第一に、(これは最早確定事項として)この世界には自分たち以外にも大勢の人間がおり、寧ろ自分たちのような白い爪を持つ人間は少数派である。第二に、自分たちの持つ白い爪は、その希少性からか、白い爪を持たざる人々の間では価値のあるものとして取り扱われる(然し不思議なことに、同時にそれを恐れ、気味悪がり、または見て見ぬふりをする者も中にはいる)。第三に、故郷オラシオンに住む大人たちは恐らく、それらの事実を知った上で、子供たちには隠蔽している。それどころか、それらの事実を全くの嘘で塗り隠し、子供たちに与える情報には制限をしている。これは恐らく子供たちを、延いてはオラシオン自体を危険から守る為だろう。とはいえ何処かのタイミングに於いては、子供たちにもそれらの事実を伝える必要があるはずだとアーロンは考えた。大人たちが死に、事実を知る者が村からいなくなれば、爪や命を狙われる危険があることを知らずに山を下りようとする者が現れるからだ。では一体いつ、子供たちはそれを知ることになるのか。アーロンには思い当たる節があった。オラシオンに於ける成人――十五歳の誕生日を迎える、その前後の期間だ。あの雨の日、クロムの様子がおかしかったことにもそれで説明がつく。

 これらの仮説に行きついた際、アーロンの中に湧き上がった感情、それは怒りだった。自分たちの利益の為だけに父を殺し、またアーロン自身にも何度も牙を剥いてきた、白い爪を持たざる人々への怒り。それに加え、山の上の小さな村に閉じこもり、安全な生活と引き換えに、一族の矜持と、子供たちが与えられるべき選択の自由を切り捨てるオラシオンの大人たちへの怒り。母に嘘を吐かれていたことによる悲しみというものは、アーロンの中には殆どなかった。これらの仮説に行き着いた時、アーロンは十四歳になっていたのだ。父が殺されたあの日から、三年の月日が流れていた。


 三年間に渡る放浪の中で、街や村の傍を通りかかるというようなことも、アーロンには何度かあった。それらの街や村に入ることは、勿論アーロンはしなかった。入ればどんなことをされるのか、想像するのは難しいことではなくなっていた。

 間もなく十五歳の誕生日を迎えようかという頃に、アーロンは一人の理解者と出会った。彼は小さな漁村に暮らす青年だった。湖のほとりで休んでいたアーロンに、「どうしたよ。こんなとこで」と彼は声をかけてきた。何も言わずに立ち去ろうとしたアーロンを引き留めて、彼は自分自身のことを、取り留めもなく好き勝手に話した。

「仕事のない日はよ、この湖の傍で、なーんもせずにのんびり過ごすんだ。起きたらここへ来て、腹が減ったら魚釣って、塩で焼いて食う。日が暮れるまでに帰る。そんだけ」

 元々細い目を更に細めて、彼は笑った。随分と無邪気な顔で笑うものだ、とアーロンは思ったことを覚えている。その日の帰り際、彼は使い古した釣竿を一本、アーロンに譲ってくれた。魔物も少ない地域だったので、アーロンはしばらくの間、この湖の傍で魚を釣りながら過ごすことに決めた。

 一週間ほどが経ったある日、彼は再びやってきて、「あれ、まだいたか」とアーロンに言った。またどうでもいい自分の話ばかりをして、彼は帰っていった。釣りのコツも教えてくれて、釣った魚はアーロンに分けてくれた。悪意というものを感じさせない人間だったが、アーロンは簡単に心を開きはしなかった。そういう人間に、アーロンはこれまで何度も騙されかけてきたのだ。

 こちらが利用するだけして、ある日勝手にいなくなってやればいい。そんな風に思いながらアーロンは過ごした。気付けばここを訪れてから、一ヶ月以上が経過していた。どうしてか、この場所はなんとも居心地が良かった。

 この日、彼と会うのは六回目だった。この頃になるとアーロンも、時折自分のことを話すようになっていた。「その手袋はなんなんよ、寒がりなんか」と聞かれた時、アーロンの中で二つの感情が鬩ぎ合った。

 話さなければ危険な目に合うことはないのだから、わざわざ話す必要はない。他人に興味などなさそうな彼のことだ。言いたくないと言えば、恐らくは引き下がってくれるだろう。その一方で、爪のことを誰かに打ち明けてしまいたい気持ちも、アーロンの中にはあった。そして、彼ならば受け入れてくれるかも知れない、という期待も。心臓の鼓動を逸らせながら、アーロンは手袋を外し、これまでに自分の身に巻き起こったことの全てを、彼に話した。話し終えた時、自分でも信じられないほどに大量の汗を、アーロンはかいていた。

 「うちに来なや。村の皆も、きっと分かってくれると思う」と彼は笑って言ってくれた。例えそれが嘘でもいい、彼に連れられて行った先で、彼に殺されたって構わない。そう思ってしまえるほどに、彼と過ごす時間はアーロンに、久方ぶりの楽しみを与えてくれていた。と同時に、アーロンは疲れていたのだ。宛てもなく、行き着く先も見えない、何処までも孤独なこの放浪に。

 彼に連れられて辿り着いた彼の村で、殺されたのは彼だった。『悪魔を村に連れ込んだ罰』として、彼は磔(はりつけ)にされて焼かれ、そして死んだ。

 「お前はなんも悪くない、生きろや」十字架を背負って赤い火を全身に浴びながら、彼は最期にそう言って笑った。彼の笑った顔が、アーロンは好きだった。始めから彼を信じてやれなかったことを悔やんだが、その裏腹で、人間への疑心は募っていくばかりだった。


 漁村の青年と死別した後、アーロンは一度は心を奮い立たせ、一つの誓いを立てていた。この狂った世界には粛清が必要だ。いつの日か必ずオラシオンへ帰り、古き村に閉じこもる皆を扇動し、白き爪を持たざる人々に反逆をせねばならない、と。

 アーロンの計算に狂いがなければ、アーロンはこの頃、十五歳の成人を迎えているはずだった。そしてその誓いこそが、自分にとっての成人――大人になるということなのかも知れないとアーロンは考えた。あの日、クロムも同じ気持ちだったのかも知れないと、雨の中に佇む彼の姿を、アーロンは思い起こした。

 が、それから二ヶ月ほどの後、アーロンの放浪はとうとう終わりを迎えようとしていた。高所から滑り落ちて脚の骨を折る大怪我を負った上に、悪天候が続き食糧を探すことが困難になっていたのだ。飢餓は限界に達し、骨折の痛みはアーロンから、あらゆる意欲と感情を奪っていった。このままではオラシオンに帰ることさえもままならない。諦めることを受け入れること。それがこの時のアーロンにとっては、多分唯一の安らぎだった。

 目を閉じると、心なしか痛みが和らいだ気がした。自分の意識がここではない世界へと引っ張られていくのが、アーロンには分かった。命の終わりとは案外快いものなのだな、とアーロンは考える。然し、世界がそれを許しはしなかった。

「おい! 大丈夫か!? しっかりしろ!」

 仰向けに地に倒れるアーロンの傍へ、一人の少年が駆け寄って呼びかけた。微かな呼吸と心音を確かめると、少年はアーロンを立ち上がらせ、肩に背負い、何処かへと向かって歩き出した。深淵に落ちていく意識の中で、溜め息交じりの彼の声だけが、平原に吹く柔らかな風のように、アーロンの鼓膜を優しく叩いた。

「大変だな……、田舎者は」


 目が覚めた時、アーロンは巨大な施設の一室で、ベッドに仰向けに寝かされていた。身体の汚れは綺麗に拭き取られ、服は清潔なものに着替えさせられている。骨折した脚にはギプスが巻かれ、寝ている分には痛まなかった。ベッドサイドのテーブルには果物が入ったバスケットと、グラスに注がれた透明な水、そしてアーロンがいつも嵌めているボロボロのグローブが並べられていた。

 グローブの存在に気が付いたアーロンは、反射的に自身の手指を確認する。白い爪を持つ両の手が露わになっていることを確かめると、アーロンは慌ててグローブを手に取り、両の手に嵌めた。

 果物と水に手を付けることは、アーロンはしなかった。出来なかったのだ。自然界から自分自身の手で得たものでなければ、アーロンの身体は受け付けなくなっていた。本能は喉から手が出るほどに、それらを欲しているのにも拘らずだ。

 やがて一人の女性が部屋にやってきて、ここは安全な場所なのだとアーロンに説明した。アーロンの身体は酷く衰弱しているので、果物と水を摂るべきだ、ということも。また騙されるのかもしれない、とアーロンは考える。然し、彼女が自分を騙そうとしていようがいなかろうが、最早この怪我で、自分はここから逃げ出すことは出来ない。そう判断したアーロンは、諦めて果物と水を口にした。そのすべてが、驚くほどに美味しかった。

 彼女は自身をシスター長のガーベラだと名乗り、この場所を、首都アルバティクスのバルド教修道院に併設された孤児院だと教えてくれた。アーロンがそれらの言葉の意味を正しく理解するのは、もう少し先のことになる。とはいえ、差し当たっては四年余りの放浪の末、アーロンはこの時、この場所で、穏やかなる日常に身を置くことを、ようやく叶えることとなったのであった。


 初めのうちは自分からの発言を控えていたアーロンだったが、いつの頃からかシスターたちや、自身と同じくこの孤児院に暮らす子供たちと、必要最小限の会話くらいはするようになっていった。安全で規則正しい生活を送る為の幾つかのルールが孤児院にはあったが、それらを遵守することはアーロンにとって難しいことではなかった。

 シスターたちにも孤児の仲間たちにも、アーロンの過去を聞き出そうとする者はいなかった。孤児院に用意された服を着、孤児院に用意されたグローブを嵌め、シスターの言うことはよく聞いた。少なくともそうしていれば、誰かに危害を加えられることはないとアーロンは判断したからだ。この場所で二ヶ月間ほど生活を送ってようやく、ここは本当に安全な場所なのだとアーロンは確信した。

 孤児院の図書室に立ち並ぶ巨大な本棚の数々と、そこに蔵書された膨大な量の本を初めて見た時、アーロンは息が止まるほどに驚いた。無意識下で知識を欲していたアーロンは、この図書室で孤児院生活の大半を送ることとなる。自分という名の水瓶に、知識の水滴が次々と蓄積されていくのがアーロンにとっての喜びだった。と同時に、アーロンはこの図書室で、一つの大きな壁にも行き当たることとなる。白い爪を持つ人種『ネルビアンコ』についての記述をした本は幾らかあったが、そのネルビアンコが暮らす山奥の村、即ち、故郷オラシオンについての記述というものは、幾ら探せど、どの本にも書いていなかったのだ。どれだけ安全な生活と健康な肉体を手に入れようが、オラシオンの場所が分からなければ、オラシオンに帰ることは出来ない。オラシオンに帰れなければ、通常人種への反逆をすることもまた出来ない。これはアーロンにとっての新たなる課題となった。

 また、孤児院生活の中でアーロンに最大の驚きを与えたのは、自分以外のネルビアンコの存在だった。彼はアーロンの七つ年下で、眼鏡をかけた物静かな少年だった。彼もまた、アーロンと同じように両の手を青いグローブで隠していた。そして不思議なことに、彼の爪を見ることも、ましてや言葉を交わすこともなく、アーロンはそのことに気が付いた。彼のほうも同様に、アーロンが同族であることに恐らくは気付いていた。図書室で度々見かけたが、お互いに声をかけることはしなかった。

 変化のない日常の中、このままぬるま湯の生活を送るのも悪くはないと思うこともアーロンにはあった。が、その心に燻(くゆ)る復讐の灯火を絶やすことは、アーロンはしなかった。父を殺し、今もなお自分たちを脅かすこの世界を変えねばならない。いつの日か故郷へと帰り、村の皆と力を合わせ、通常人種への反旗を翻す。常盤色の瞳に、アーロンは未来を見据えていた。

 復讐の闇に捕らわれているだけだと、誰かは自分を見て言うかも知れない、とアーロンは思う。それでもアーロンは構わなかった。復讐が幾ら愚かなことだろうが、金儲けの為に弱者を虐げることのほうがよっぽどに愚かだ。自分たちが受けたものと同じだけの痛みを、この世界には返さなければならない。もしそれが闇に帰属する行為ならば、魂だろうが何だろうが、アーロンは闇に売り払うつもりでいた。


 ある日、図書室でいつものように読書に耽っていたアーロンのところに、一つの運命がやってきた。その出会いは衝撃的であり、暗雲を払い晴れ間を呼ぶ、神風のようでもあった。その少年の言動は、まだ無邪気だった頃の自分の姿を、アーロンに思い起こさせるようなものだった。

「ねえ、なんでみんなと遊ばないの?」

 ここが復讐の闇の中なら、その闇から自分を救い出してくれるのは彼なのかも知れない。狂った世界に狂わされた自分を変えてくれる、そんな人物がもしも居るのなら、それは彼なのかも知れない。緑青色に澄んだ少年の瞳は、どす黒く濁り切ったアーロンの心に、一筋の光明となって差し込んだ。

「友達になろうぜ。一人でいるより、多分楽しいよ。俺ハレ」

 差し出された手を、アーロンは握り返すことが出来なかった。突然の出来事に、返事を返すことすらも。ただ静かに一度だけ、アーロンは小さく頷いた。窓の外からは正午過ぎの日差しが、爽やかな風に乗せられてカーテンをはためかせていた。

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