↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
エンデラの森の黒き魔女  作者: 暫定とは
五章『相克』
PR
61/77

61

 それから数ヶ月の後。アーロンが十一歳を迎えて少し過ぎた頃、すべての発端となる一つ目の事件が起こった。

「お父さん、ちょっと遅いね」

 ある日の夜の六時頃だった。夕食に出す野菜のスープを煮詰めながら、アーロンの母はそう言った。確かに、とアーロンは思う。

 アーロンの父は普段、日暮れ時の五時頃までには仕事を切り上げて帰ってきた。日の暮れた山中は真っ暗闇も同然で、視界が利かなくなるからだ。どれだけ遅い日でも、父の帰宅が五時半を回ることはなかった。が、この時はまだアーロンも、アーロンの母も楽観的であった。

 「ちょっと探してくるよ」リビングのテーブルで読んでいた本をパタリと閉じて、アーロンは椅子を立ち上がり、玄関へ向かった。

「気を付けていくんだよ。村の外には出ないように」

 小川に沿って形成される通りを下りて、アーロンは父を探しながら、村の出入り口の方面へと向かった。然し、出入り口の門までやってきても、結局父の姿は見つからなかった。どうしたものか、とアーロンは考える。

 父は仕事柄、帰りがけに村の皆の家に立ち寄って、その日獲れた魚を配って回ることがある。その過程でもしかすると、何処かですれ違ってしまっただけであり、父は既に家に戻っているのかも知れない。そう考えたアーロンは、来た道を引き返そうとした。その瞬間――。

「……ぉ……、ぁ……」

 村の外から風に乗って、何者かの声がアーロンの耳には届いた。父の声だ、とアーロンは直感的に判断した。父は多分、もうすぐそこまで帰ってきているのだ。この時、アーロンの脳裏を一つの邪念が突っついた。ほんの少しだけなら、村の外に出てみてもいいのでは、と。

 辺りを見回してみる。日は暮れかけていて、一帯に人影は見当たらない。自分を叱るような人間は、少なくともここから見える位置には存在しない。父は多分、すぐそこにいるのだ。一人で迎えに来た自分を見て、きっと驚くに違いない(父は母に比べて、しきたりに対しての意識も薄かった)。モナトとユニにも自慢できる。クロムだって自分を見直して、もう悪戯をしてこなくなるかも知れない。そして心臓は、引き返すなと訴えるように高鳴っていた。

(……よし)

 門にかけられた松明を一本拝借して、アーロンは門をくぐった。生まれて初めて、アーロンは村から外に出たのだ。そしてこの一歩こそが、その後のアーロンの運命を決定づける、終わりの始まりだった。

 高揚感に包まれながら山道を下ったアーロンはまず、想定していた距離を越えて歩いても、父の姿が見えないことに不思議を感じた。不思議は徐々に不安へと変わり、不安は恐怖へと変貌した。来た道を戻ろうかと考えていた矢先、松明の火が強風に煽られて消えた。その直後、アーロンは視界の奥に別の炎の灯りを見つける。父に違いないと考えて、アーロンは転ばないように注意しながら、灯りのほうへと向かった。その先で目にした光景に、アーロンは言葉を失って立ち尽くした。

 草木が少し開けた場所に、父は居た。衣服のあちこちが切り裂かれ、泥土(でいど)に塗れた肉体を、ロープに縛られた状態で。その表情は、アーロンがかつて見たこともないほどに怯え切っている。体格のいい二人の男に、父は囲まれていた。灯りの正体は、男の一人が手にしたランタンによるものだったのだ。

「た、頼む……! つつ、妻と、こっ、子供がいるんだ! 命だけは――」

「でかい声出すんじゃねえ! 静かにしやがれ。黙って言うことを聞くんだ。今ここで殺されてェのか!?」

 男の一人に槍の切っ先を突き付けられたことで、父はパニックを起こしたらしい。狂乱し、縄から逃れようともがきながら、父は獣の雄叫びのような声を上げた。そんな父を大人しくさせようとしたのか、慌てた様子で男が突き出した槍の先端が、父の心臓の辺りを貫いた。胸から赤黒い血をどろりと溢し、声にならない声で呻いた後、父の身体は動かなくなった。

 余りのショックに、視界がぐらりと揺らぐのを覚えながらも、アーロンはよろめいたりして物音を立ててしまわぬよう、必死で耐えた。全身の汗腺が好ましくない種類の汗を噴出する。自分の体温が急激に低下するのがアーロンには分かった。男のたちの話し声が、呪いの呪文のようにアーロンの耳の中に入り込んでくる。

「おいおい、殺しちまったら棲み処まで案内させられねえじゃねえか。やっと掴んだ尻尾だってのに」

「あぁクソ。悪い、あんまりでかい声で叫ぶからよ。でもホラ、死んでも爪は持ち帰れるだろ?」

「まあな。……って、ダメだこりゃ。土が詰まってるやがるし、ボロボロで売り物になりゃしねーよ」

「冗談だろ? ああ、また振り出しかよ」

「ま、ないよかマシだ。回収するぞ」

 男の一人は背中に背負ったリュックサックを下ろすと、その中からペンチによく似た鉄製の工具を取り出した。地に伏したアーロンの父を足蹴にして仰向けにするなり、二人はその特殊な工具を使い、アーロンの父の爪の一枚一枚を、左手の小指から順番に剥がしていった。

「オエ、汚(きた)ねえ」

「黙ってやれ。洗えばそこそこの値は付くだろ」

「小遣い稼ぎに来てるわけじゃねぇんだぜ? こっちは命懸けだってのによ」

 彼らが何をしているのか、また何の話をしているのか、アーロンには一切理解が出来なかった。そして理解する気にもなれなかった。目を伏せて吐き気を我慢することで、アーロンは一杯一杯だった。目の前で起きていることが本当に現実なのか、アーロンには分からなかった。ただ、音を立てずにこの場を離れる必要があることだけは明らかだった。

「はー、爪の綺麗なネルビアンコのガキが、どっかに転がっていないもんかね。生身で売ったら、一生遊んで暮らせるって聞くぜ」

 その言葉を聞いた瞬間に、アーロンの心は破綻した。ネルビアンコという言葉の意味は分からないが、どうやらその語が指すところには、自分も含まれているのであろうことはアーロンにも分かったからだ。後ずさろうとしていた足が思わずよろめいて、アーロンは草を踏む音を立ててしまった。音に気付いた男の一人と目が合った。そこから先の記憶は曖昧で、気が付いた時にはアーロンは、海を渡る船の貨物室で、麻袋の中に閉じ込められていた。


 逃げようとして走り出したところまでは、アーロンには思い出すことが出来た。真っ暗闇の山道を、闇雲に走って下ったような記憶もある。不思議と捕まった時の記憶はない。転んで頭でも打って気絶したか、それより前にショックで気を失ってしまったのか。兎にも角にも確かなことは、このままでは碌(ろく)なことにならないということだけだった。

 固く結ばれた麻袋をどうにか脱出して貨物室を出たアーロンは、人生で初めて、海というものを目にすることとなる。それは本で読み憧れた海とは程遠く、希望と絶望の間で揺れる自身の心から、希望だけを根こそぎ奪っていくような悲しき水の塊であった。

 幸いにも日中で視界は良好であったが、三百六十度を見渡しても、陸地らしき影は見当たらない。このまま船に乗っていれば、あの男たちに何をされるか分かったものではないし、海に飛び込んだところで、生きてオラシオンに帰れる保証はない。焦りを感じつつ考えあぐねていたところを、アーロンは男たちに見つかり、一か八かと海に飛び込んだ。海まで追ってくることは、男たちはしなかった。然し、山で生まれ育ったアーロンは泳ぎを知らなかった。

 大海の真ん中で、沈んでしまわぬようにアーロンはもがいた。たまたま流れてきた樽にしがみついて、アーロンは海の上を漂流した。夜が来て、先行きの見えない状況と体温の低下に精神が耐え切れなくなった頃、アーロンは再び、眠るように気を失った。


 次に目を覚ました時、アーロンは見知らぬ砂浜に打ち上げられていた。命が助かったことによる喜びというものは、アーロンにはなかった。ただ夢の中であってほしい。そんな願いを胸に抱きながら、内陸に向けて、アーロンの宛てのない放浪は始まった。

 砂浜に打ち上げられた日の夜、人生で初めて野草を食べた。その数日後、人生で初めて泥水を飲んだ。それから多分一ヶ月くらいの期間で、人生で初めて火を起こしたし、人生で初めて虫を食べた。人生で初めて動物を殺し、人生で初めてそれを捌いた。時間の流れはどんどん曖昧になり、希望と絶望が何度も何度も心の中を荒らし尽くしていった。

 オラシオンを離れた時から、精霊イリスはアーロンの呼び掛けに応じなくなっていた。イリスの気配を感じることも、アーロンには出来なかった。アーロンは本当に一人ぼっちだった。

 自分が何をしたいのか、何処へ向かっているのかを考えることが、意味のない不安感を呼び込むだけだと気付いてからは、アーロンはそれらのことについて極力考えないようにした。今はただ、生き続けること。それがアーロンにとっての最優先事項だった。絶望や死からは何も生まれない。希望と生は、いつか何かを自分に齎してくれるかも知れなかった。

 何もない平野を彷徨い続けてひと月半が経った頃、アーロンは放浪を開始してから初めて、自分以外の人間に出会った。

「おい! 大丈夫か?」

 昼前のことだった。明け方から歩き始めたアーロンはこの時、一本の木の根元に寝転がって、ぼんやりとしながら疲れを大地に還していた。彼は馬に乗った旅人だった。アーロンに清潔な水を飲ませ、甘酸っぱい木の実を食べさせると、「乗っていくか?」と男はアーロンを馬に乗せてくれた。驚くべきことに、一ヶ月以上誰とも会話をしていなかったアーロンはこの時、声を発することが出来なくなっていた。

 夕方ごろに馬を降りると、男はその場にテントを張って焚火を起こした。

 「ミルクは飲める?」と尋ねられて、アーロンは震えるように頷き返した。小さな鍋にミルクを注ぎ、火にかけて温め、それを二つのマグカップに分けると、「はい、どうぞ」と男はアーロンに、そのうちの一つを差し出した。「熱いかも知れないから気を付けて」

 湯気立(ゆげだ)つミルクに息を吹きかけ、口に含み、喉へと流し込んだ時、アーロンの中で何かが壊れた。十一歳だったアーロンの心身は、この時既に、殆ど限界を迎えていたのだ。大声を張り上げてアーロンは泣いた。アーロンが泣き止むのを、男は夕食の支度をしながら、何も言わずにじっと待ってくれた。数十分の後、ようやく泣き止んだアーロンに、「大変な思いをしたみたいだね」と、男は優しい声で言った。膝に顔をうずめて、微かにしゃくりあげながら、「母さんに会いたい」とアーロンは言った。

 それから夕食が出来上がるまでの間、アーロンはぽつりぽつりと、これまでにあった出来事を男に話した。雲一つなく、星の綺麗な夜だった。男はアーロンに質問をしたりはしなかった。ただアーロンの話を聞いて、「そうだったのか」、「それはつらかったね」と静かに優しく頷いてくれた。

 夕食には蒸し鶏と、玉ねぎのスープを彼は作ると、それをアーロンにも分け与えてくれた。アーロンにとって、久方ぶりのまともな食事であった。

「ほんとにありがとう。これからも、どうにかやっていける気がしてきたよ」

「よかったら僕と一緒に来いよ。僕の夢は世界一周なんだ。いつかどこかで、君の故郷のオラシオンって村のことも分かるかも知れない」

 「本当にいいの?」とアーロンが尋ねると「勿論さ」と男は微笑んだ。未来への光明が、この時のアーロンには見えた気がした。

 彼の作った蒸し鶏は本当に美味しかった。玉ねぎスープを飲んだ直後、アーロンの視界は急速に回転し、間もなくして暗転した。意識を取り戻した時、アーロンは男のテントの中に横たわり、後ろ手にロープで縛られていた。何が起こっているのか、アーロンにはまだ分からなかった。男は自身の鞄を漁っていた。アーロンの起き上がろうとする物音に気が付くと、アーロンに背を向けたまま、彼は言った。

「あれ、目が覚めちゃったみたいだね。薬の量が足りなかったか」

 こちらを振り返った男の手には、ペンチ型の工具が握られている。ショックと恐怖に、アーロンは思わず失禁した。昼間のように、声はまた出なくなっていた。歓びに表情を醜く歪めながら、男は言う。「逃げようなんて思わないでくれよ。僕はもう、こんな根無し草みたいな生活はうんざりなんだ。今朝その爪を見た時は運命だと思ったよ。ようやく僕の努力が報われる時が来たんだってね。神様は僕を見捨てちゃいなかった。その爪があれば、僕はもうこんな惨めな思いをしなくて済むんだ。さあ……――」

 神様。よくよく思えばその言葉が、アーロンは好きではなかった。何かにつけて、母がうわごとのように言っていたあの言葉。もしそんなものが本当にいるのだとしたら、その神が自分に課した運命はあまりにも惨(むご)い。しきたりを守らなかったことを怒っているのか。その代償として与えられるには、この悲しみは酷く重過ぎる。

「――そいつを僕に寄越してくれ……!」

 豹変した男は、勢いよくアーロンへと掴みかかった。優しかった昼間の彼の面影は、もう何処にも見当たらない。ガタガタと震える身体でどうにかテントを脱出し、アーロンは走った。そして再び、孤独な放浪へと身を投じた。この無慈悲で救いのない世界が何処まで続くのか。アーロンはもう、そんなことを知りたくはなくなっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。