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今から二十三年前。オラシオンに暮らすネルビアンコの夫婦の下に、一人の赤子が誕生した。子宝は夫婦の悲願だった。父の深緋色の髪と、母の常盤色の瞳を受け継いだこの男児に、父はアーロンと名付け、夫婦はアーロンを、大変によく可愛がった。二人の愛情を受け、アーロンは健やかに成長を重ねていった。
「アーロン、もう起きなさい。約束があるんでしょ」
一階の調理場から自分を呼ぶ母の声を、アーロンは夢見に聞いていた。頬には先ほどから繰り返し、何かに突かれるような感触が伝わっている。寝ぼけ眼を開くとそこには、象牙色に輝く小さな光球が浮遊していた。
「分かったよイリス、もう起きるよ」
イリスーーそれはアーロンが連れている、竜や鯨のような姿を持つ精霊の名前だった。
オラシオンに『精霊術』という技術は存在しない。オラシオンに暮らすネルビアンコは皆、精霊術を習得せずとも、生まれた時から精霊の姿や声を見聞きすることが出来た。そして物心がつく頃になると、性格の合う中精霊、或いは小精霊の一、二体ほどが、ネルビアンコの傍には居付くようになり、そのまま生涯を共に過ごすことが殆どだった。通常人種の間では凡そ『精霊契約』に相当する行為が、このオラシオンでは当然の文化として行われていたのだ。
精霊は時と場合により、本来の(イリスの場合は竜や鯨のような)姿となってパートナーの人間に力を貸し、その必要がない時は、現在のイリスのように小さな光球の姿を取って、パートナーの周りを浮遊していることが殆どだった。また、この状態でも精霊の声を聞くことはパートナーの人間には出来た。
「母さん、遊びに行ってくる!」
元気よく家を飛び出していくアーロンを、「気を付けていくんだよ。村の外には出ないように」と母は常々見送った。
子供は村の外に出てはいけない。それは古くから続くこのオラシオンのしきたりの一つだった。その理由についての詳細を、大人たちは語りたがらなかった。それを子供に語ることもまた、村のしきたりによって禁じられたことの一つだったからだ。アーロンはそのことを知りはしなかったが、そのような雰囲気を察してはいた。アーロンは頭の良い子供だった。
「モナト、ユニ! おはよう」
村の中央に位置する広場が、いつもアーロンたちの待ち合わせ場所だった。
「おはよう、アーロン」と静かな目をした柳茶色の髪の少女――ユニが答えた。
「遅いよ、待ちくたびれた」ペールラベンダーの長髪をした少年――モナトは、少し文句ありげに言う。ユニの傍には紅蓮の光球が一つ、モナトの傍には浅緑の光球が二つ、それぞれ二人の周りを遊ぶように浮かんでいた。ユニの使役する精霊・フラムと、モナトの使役するレニとリタだ。
「ごめんごめん。母さんの畑仕事を手伝っててさ」
「ホントは寝坊だろ」「アーロン、寝癖ついてる」二人に続けざまに言われると、アーロンは頭の後ろを掻きながら、誤魔化すように笑った。「へへ、バレた?」
「バレるも何も、お前を起こすおばさんの声が、隣の家から聞こえてくるんだよ」
アーロンより少し早く生まれたモナトと、少し後に生まれたユニの二人は、アーロンの幼馴染だった。オラシオンには学校がない。必要な知識や教養は、親や周りの大人たちが教えるのがこの村の子育てだった。親の仕事の手伝いがない日、三人はよくこうして集まっては、喋ったり遊んだりして交友を深めた。
「今日は何して遊ぼうか?」アーロンが尋ねると、「どうせチャンバラごっこでしょ」とモナトが返した。チャンバラごっこはここのところ、アーロンとモナトの間で流行っている遊びの一つだった。
「歌の練習」ユニが抑揚のない声で言う。「発表会まであと少しでしょ」
発表会――。一年に一度、オラシオンで行われる聖祭のスケジュールには、幾つかの班に分かれた子供たちが、村の皆の前で歌や踊りを披露する発表会が組み込まれていた。アーロンたち三人はその発表会の場で、オラシオンに伝わる、先祖に捧げる祈りの歌を歌う予定になっていたのだ。
「歌ね~」とアーロンは腕を組みつつ、悩ましい表情でそれに答える。「歌うの自体はいいんだけどさ~、練習中にクロムたちに見つかって、またバカにされんのも癪なんだよな~」
「それこそ得意のチャンバラで、アーロンとモナトが追い払ってよ」
「無理無理!」とアーロン。
「クロムに敵いっこないさ。こないだの稽古の時だって、あいつ師匠の剣を叩き落としちゃったんだぜ。師匠も褒めてたしさ。俺なんか怒られてばっかりなのに」
クロムはアーロンより四つばかり年上の少年で、この当時、オラシオンのガキ大将的な存在だった。身体と声が大きく、やんちゃだったクロムに逆らおうとする者はいなかった。真面目ぶった儀式や風習を嫌い、それに素直に従うアーロンたちは、クロムの悪戯の格好の的だった。
「そーらーを、さーさーえ、だいちーを、はぐくーみー♪」
「――やあやあアーロンくん、今日もお歌がお上手でちゅね~」
「げ、クロム……」
この日も、モナトの家の裏手で歌の練習をしていたところを、結局アーロンたちはクロムに見つかって、その取り巻きの二人と共に、村中を追いかけ回される羽目になった。
「お前らの下手くそな歌聞いてると、ムカムカするんだよ! 捕まえろー!」
「やっべ、逃げろ二人とも!」
追いかけっことなるとユニは強かった。身体が小さく小回りが利いたし、相手が女子だからと、追いかけるほうの気も緩むからだ。クロムがユニに密かな好意を寄せていたことも、その理由の一つとしては挙げられる。が、結局最後には全員が捕まって、悪戯を受けるのが毎度のことだった。
「さて、今日は何をしてやろうか」
とはいえ小さな村の中、大人の目もある環境下での悪戯だ。本当に喧嘩するときなどを除いて、クロムは一方的に暴力に訴えるようなことはしなかった。そして身体的に弱者であるユニは、捕まっても悪戯の対象となることはなかった。クロムたちが行う基本的な悪戯の内容は――、
「た、頼む! 脇の下だけは……! 脇の下だけはやめてくれ……!」
「脇の下だ! やれ!」
「アイアイサー!」
くすぐりだった。それが始まるとアーロンは、身体に巻き付けられた縄が解けんばかりの勢いで笑い転げた。モナトは表情を歪めに歪めて、どうにか笑うことだけはしないように耐えた。笑えば笑うほど彼らのくすぐりがヒートアップしていくことを、モナトは学習していたからだ。どちらかというと突発的な発想や、目の付け所が秀逸なアーロンとは対照的に、積み重ねてきた知識や経験を、堅実に活かすのがモナトの頭の良さだった。
十分間ほどくすぐられると、大抵アーロンたちは解放され、クロムと取り巻きの二人は立ち去った。好き好んでこそはいないものの、追いかけっこの部分も含め、アーロンたちにとってそれはそれで楽しい時間の一つだった。
「でっかい魚! 父さんが釣ってきたの!?」
その晩、夕食に出た巨大な魚の塩焼きを見て、アーロンは驚愕した。
「そうだぞ! こんなのを十匹もだ! みんなにも配ってきた。喜んでくれてたよ」
アーロンの父は漁師だった。オラシオンには通貨はない。村の中には農園があり、そこで働く者もいれば、アーロンの父のように村の外に出て、漁をする者も、狩りをする者もいる。そして取れた野菜や魚、肉などの食材は、村の皆で分け合うというのが、このオラシオンの決まりだった。
「いいなあ。俺もはやく大人になって、父さんの仕事を手伝いたいよ」
「そう慌てるな。あと五年の辛抱だろ」
当時、アーロンは十歳であった。オラシオンでは十五歳を以て成人とされ、親の同伴の下で村の外に出ることが許される。その日がアーロンには待ち遠しかった。村の中だけでの生活は、自然と子供たちに(特に男児には)村の外への憧れを抱かせたのだ。
「その五年が長いんだよ。ねえ父さん。どうして子供は村の外に出ちゃいけないの?」
「うーん」と父は眉間に皺を寄せる。「色々と危ないんだよ。危険な魔物もいるし、この山は結構複雑な地形をしてるからな。道に迷ったりでもしたら、村に戻ってくるのは簡単じゃないんだ」
「じゃあ、どうしてご先祖様はこんな場所に村を作ったの? 山の下で暮らすんじゃダメだったのかな?」
再びのアーロンの質問に、「それはね」とバケットを食卓に運ぶ母が答えた。木製のテーブルに皿を置くと、母は部屋の天窓を指さしながらこう言った。
「ここが、神様に一番近い場所だからだよ」
神様。アーロンの母はよくその言葉を口にした。その語が一体どのような存在を指しているのか、アーロンにはいまいち理解が出来なかった。本などで描かれる全知全能の存在としての神様のことを、アーロンは知っている。が、母の口から度々現れる『神様』という言葉には、もっと具体的な意味が込められているような気がアーロンにはしたのだ。ただ単に、子供の質問をはぐらかす為に言っている、という風には、どうにもアーロンには思えなかった。
兎角、アーロンには知識が必要だった。が、制限された環境の中で、知識を得る術は限られていた。そしてまた、自分が知識を欲しているという事実を認識する為の能力すら、この時のアーロンにはなかったのだ。村にある本はどれもこれもが、古びて何処かしらのページが読めなくなっている、童話や伝承の本ばかりだったから。
「母さん、村の外には何があるの? 山を下りれば、俺たち以外にもこうやって暮らしている人間がいるの?」
食事を終え、ベッドで夢うつつになりながら、アーロンは母に尋ねる。
「遠い遠い昔、山の下の世界は滅んでしまったの。だからもう、この世界には私たちしかいないのよ。今日はもう遅いわ。お休みなさい、アーロン」
遠い遠い昔――、それは一体いつのことなのか。『世界』とはなんなのか。人間が暮らしていなかったとして、村の外には、山の下には一体何があるのか。この世界は、一体どこまで繋がっているのか。十歳の、そして眠りの床に就いたアーロンの頭では、それは到底考えられる事柄ではなかった。空の果てまで続いていく世界へと思いを馳せながら、アーロンは深い眠りへと落ちた。
「お休みなさい、母さん」
村の西側にポツンと佇む大きな平屋は、『偏屈者のホド爺』が取り仕切る剣術道場だった。取り仕切る、とは言っても、道場に通っているのはこの時、アーロンとクロムの二人のみだった。
遥かなる山の上に佇み、外界との繋がりを持たないこのオラシオンには、剣術というものは凡そ殆ど必要がない。野生動物を狩る時は、遠くから弓矢で狙い撃つのが基本であったし、そうでなくても簡単な槍の使い方を覚えていれば、この山の上での生活に困ることはなかった。そのような環境下でも「来るべき時の為に」と剣術を磨くホドは、村の人々からは或る種、煙たがられる存在だった。そんなホドの下にアーロンが通うのは、胸の内でライバル視していたクロムへの対抗心からだった。クロムが通う理由は、というと、アーロンはその詳細を知らなかった(聞いても教えてもらえなかった)。
「アーロン、四分半の遅刻だ。正座を三十分」
「すいません! でも聞いてくれよ師匠! 母さんの畑仕事を手伝っててさあ!」
息を切らしながら道場に駆け込み、弁解をしようとするアーロンを無視して、ホドは繰り返す。「正座を三十分だ。一時間でもいい」
頭は切れるがお調子者でもあったアーロンは、厳格な性格の持ち主だったホドからしばしば叱られた。そしてそれは、アーロンを目の敵にするクロムにとっては、丁度いい笑いの種だった。
「ザマないな、アーロン」ホドには聞こえないよう小さな声でそう言って、クロムはアーロンに嘲笑的な笑みを向ける。然し、曲がりなりにも剣術の達人であったホドの視覚や聴覚は、年齢による衰えというものを全く感じさせず、クロムもまた、繁くホドには叱られた。
「クロム、お前も昨日は村中で悪戯ばかりだったそうだな。アーロンと一緒に正座三十分だ」
「ウッソだろ師匠、勘弁してくれよ~」
とはいえ剣術の腕に関しては、アーロンについてもクロムについても、ホドは一目を置いていた。アーロンはまだ十歳であったし、稽古にも真剣に取り組むことが殆どなかった為、評価が難しくはあったものの、覚えは悪くなく、所々でそのセンスを光らせていた。一方のクロムはというと、当時十四歳にして、ホドでも驚きを隠せないほどの才能の片鱗を見せることが度々あった。が、ホドは二人への好評を、殆ど口にすることはしなかった。「まだまだ甘いな、精進しろ」がホドの口癖だった。
「アーロンは十歳になった。クロム、お前はもうじき成人だ。二人とももう少し落ち着きを持て。ただ斬り伏せることが剣術ではない。静と動。その双方を身に着けてこそ、真の剣術士と言える。これは座学で学べることではない。身体に染み込ませることでしか習得し得ぬことだ。身体に染み込ませる為にはただ、鍛錬を積むことだ」
稽古は週に二回、朝から日暮れ前まで行われた。稽古の日の帰り道、アーロンには必ず立ち寄ると決めている場所があった。村の中央を走る小川のほとりに住む、コリンの家だ。
「おお、来たね、アーロン。焼けてるよ」
コリンはアーロンの七つ年上の女性で、アーロンの憧れの人でもあった。アーロンの稽古が終わる時間に合わせて、コリンはいつもおやつのパイを焼いてくれていた。
「うーん、いい匂い。やっぱこれだよ、稽古の後はさ」
「何を偉そうに。作ってるのはあたしだよ」
両親を早くに亡くしたコリンは、この小川のほとりの家で、一人静かに暮らしていた。小さなウッドデッキに腰掛けて、ランタンの灯りと暮れていく空の下、小川の流れる音を聞きながらパイを食べるのが、週に二回の、二人の決まり事だった。
「剣術とは、ただ斬ればいいというもんじゃない。身体に染み込ませるんだ」顎鬚を擦るジェスチャーをしながら、わざとらしいがなり声でアーロンが言う。「何それ、ホドさんの物真似?」とコリンは笑う。
「そ。今日も叱られちゃったよ。落ち着きがないってさ」
「まあ、アンタには落ち着きはないかもね~」
「でもさ、毎回毎回怒ることないだろ? 俺ってそんなにダメかな?」
「それ、本気で考えてる?」
「いや、全然気にしてない」
指についたパイのかすを舐め取りながら、コリンは微笑んで言う。「難しく考えないのは、アンタの良いところだよ」
「じゃ、ダメなところは?」アーロンの問いに対し、コリンは暫し黙して考えた後で、次のように尋ね返した。「何を身体に染み込ませるんだって、ホドさんは言ってた?」
「うーん……、忘れた」
「そういうところでしょ」
ざっくばらんな物言いの割に、コリンは観察眼に長けていた。普段からよくよく物事を見ており、何かを尋ねれば的を射た回答をした。そして時たま、独特の謎めいた発言をした。そういう彼女の掴み処のないところに、アーロンは惹かれていた。
「アーロン、月明かりに気を付けて帰りな」
「どうして?」
鈍く銀色に輝く満月を指さして、コリンは言う。
「あれは意思を持ってこっちを見てる、誰かの目だからさ」
親を早くに亡くすことは、このオラシオンでは珍しくなかった。ネルビアンコは短命だったし、その上繁殖能力は高くない。年老いてようやく子供を授かり、成長を見届けられずに死んでいく親は多かった。コリンの親もその例外ではなかった。五十代にもなって現役で剣を振るうホドのほうが、よっぽどに稀有な存在だったのだ。
(遅刻遅刻……! また師匠に叱られる~!)
雨の日だった。ぬかるんだ地面に気を付けながら剣術道場に辿り着くと、道場の前でクロムが立ち尽くしていた。雨ざらしで道場に背を向けて立つクロムの姿はいつもより小さく見え、その表情は呆然としていた。
「クロム? 何してんだよ道場入るぞ。風邪ひくぜ」
アーロンが話しかけながら顔を覗き込んだところで、ようやく我に返ったらしい。ハッとしてアーロンと目を合わせたクロムだったが、すぐに視線を逸らすなり、「今日はいいや」と寂しげな声で彼は言った。
「……帰る」
そう言って立ち去ろうとするクロムの肩を、アーロンは訳も分からずに、慌てて掴むと問うた。
「帰るって、稽古はどうするんだよ! 師匠に叱られんぞ」
次の瞬間、恐ろしく強い力でアーロンの手を振り解きながら、「ガキのお前に何が分かるんだよ!」とクロムは怒鳴った。今まで何度となく悪戯をされ、何度となく彼と木剣を交えてきたアーロンだったが、そのアーロンですら驚くような強さの、それは力と声だった。と同時に、ただ力任せに稽古や悪戯をしているように見えていた彼が日頃、いかに自分たちに合わせて力を調節してくれているのかということを、アーロンはこの時初めて知った。
暫しの沈黙の後、「ごめん」と一言だけ告げて、クロムはアーロンの前を去った。クロムから謝罪をされるのも、アーロンにとっては初めてのことだった。驚きと不可解さに、アーロンはそれ以上、その背中を引き止めることは出来なかった。
この日の稽古中、ホドはクロムについて、一言も語ることはしなかった。ホドが何も言わないということは、聞かないほうが良いことなのだろうとアーロンは判断し、自分から尋ねることもしなかった。それがアーロンにとって必要な情報ならば、アーロンにとって最適なタイミングで提示してくれる。ホドはそういう男だった。常に手厳しく、強情ではあるものの、そんな頑固で真面目なホドのことを、アーロンは師として心から信頼していた。
帰りには雨は小降りになっていた。コリンの家に着くと、彼女はデッキに立って雨に濡れていた。その姿は、今朝のクロムと何処か重なった。不思議なことは続くものだ、とアーロンは思う。パイはいつも通りに焼けていた。
「今日はみんなちょっと変だ」とアーロンが言うと、「色々とあるものなのさ」とコリンは言った。
「大人になるってことはね」
次の稽古で顔を合わせた時には、クロムの機嫌はよくなっていた。この日の数日前に、クロムが十五歳の誕生日を迎えていたことにアーロンが気付くのは、それからしばらくの月日が経った後のことであった。




