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「ああ、ひとまず難は逃れた。想定していたよりも、大分苦戦してしまったがな」
まだ醒めきらない意識の中で、ハレはシンの声を聞いた。
「そうですね。あのモナトという人、前に会った時よりも強くなってる感じがしました」
今度はノアの声だ。一体自分は何処にいて、今は何時なのだろう、とハレは考えようとする。意識の海から浮かび上がろうとするハレの足は、何者かに掴まれて、それ以上の浮上を許されなかった。まあいいか、とハレは諦めて、暗闇の漂流へと戻る。
「確かに、何処にでもいる有象無象というわけではなさそうだったな。結果的には、シンが張っていた予防線は正解だったというわけだ」いつも通りに嗄れている、これはクーランの声だ。
「いや、まさか本当に大精霊の力を借りる事態になるとは思っていなかったよ。然し、前回――エンデラの森を写真に収める為にこの大陸を訪れた時、念の為シルフとの契約を結び直しておいてよかった」
大精霊、シルフ……、一体シンたちは、何の話をしているのだろうか。そもそもこれは現実なのか、それとも自分はまだ夢の中にいるのだろうか。ぼんやりとした頭でハレは考える。
「も~いつになったら出ていけるのかってうずうずしてたよ~。もっと僕を頼ってくれても良かったのに~」
今度はハレの知らない声だった。随分陽気な喋り方だけど、どんな奴だろうかとハレは思う。なんとなく気が合いそうだ、というような予感をハレは抱く。
「すまないな。奴らとの戦いは、多分これからも続いていく。こちらの手の内は、出来るだけ隠しておきたかったんだ」
「それって、僕は隠し玉ってこと? 奥の手ってこと~? しょうがないな~。ま、僕って強いからな~」
「変わらないな、お前は」
シンと何者かの会話に耳を傾けながらも、ハレの意識は再び、深い眠りの海の中へと落ちていった。それだけの疲労と眠気が、ハレの身体には蓄積していたのだ。この場所は随分と寝心地も良い。シンが誰と話していたのか、ということは、目が覚めてから確認すればいいだけのことだ(言わずもがな、次に目覚めるまでにハレはそのことを忘れてしまう)。
次に目を覚ました時、ハレはとある民家の一室で、ベッドに仰向けになって倒れていた。一体自分はどれだけの時間眠っていたのだろう。窓から差し込んでくる光の感じから察するに、外は既に昼を回っているものと思われた。気を失う前に起こったことを、ハレは寝ぼけた脳裏に思い浮かべる。
山間にオラシオンを見つけた自分たちは、崩れた壁の抜け穴から、集落内に侵入をした。そこで夜明けの月光の二人組を見つけて、こっそりと後をつけて……。そうだ、そのうちの一人はトーマだった。彼を追いかけた先で、自分はバロンと共に、トーマと戦って――。
まだぼんやりとしている視界に、黒い長髪の少女が映り込んでくる。ノアだ。
「あ、ハレさん。目が覚めたんですね。おはようございます」
「ノア」と言いかけながら身体を起こそうとすると、その全身を無数の細かな痛みが駆った。ああそうだ、自分はトーマとの戦いで、結構な傷を負っているのだった、とハレは思い出す。
「ハレさん!」痛みに顔を顰めたハレに、ベッド脇のチェアに腰掛けていたノアは編みかけの裁縫道具を放り出して駆け寄った。「まだ無茶をしないで。お医者様を呼んで、傷の具合を診てもらいますから」
「大丈夫」とハレは呻くような声で答えながら、介抱しようとするノアの小さな手を優しく払い除けた。戸惑いながらも、ノアはその手を引っ込める。敵襲に気付いた手負いの獣のようにゆったりとした動きで、ハレはベッドの上にその半身を起こし、その場に胡坐をかいた。
ハレの意識の大部分は、もうかなりはっきりとし始めていた。鮮明に思い出すことは出来ないが、自分たちはトーマたちと戦い抜き、(勝ったかどうかは定かではないものの)彼らはオラシオンを出ていったはずだ。その辺りから自分の記憶が不明瞭になるということは、ここは多分、まだオラシオンなのだろう。
「ノア、ここは……」
確かめようとして口を開いたハレに、廊下を通りかかったらしいバロンが気付いて声をかける(部屋と廊下の境目に扉はない)。「ハレ、おきた」
次いで、バロンの後ろからシンが顔を覗かせる。「おお、目が覚めたか」
古びてくすんだ黄色っぽいエプロンを提げたシンは、スライスしたバケットを乗せた大きなプレートを両手に持っており、それを何処かに運んでいるようだった。エプロンを着けてバケットを運ぶのが、彼は世界で一番似合わないかも知れない、とハレは一瞬考えて笑いそうになる。が、不思議なことに一秒そこらで、そんなシンの姿はハレの視界に、逆にしっくりと来るようになった。お母さんみたいだ、とハレは思うと、改めて細やかな笑いを零した。
珍しく恥ずかしそうにして、「おかしいか?」とシンは頭の後ろを掻きながら言う。「いや、よく似合ってるよ」とハレが答えると、シンは少しだけ満足そうに笑った。
次の瞬間、今度はシンの背後から、小さな男の子が顔を覗かせる。十歳になるかならないかくらいだろうか、ハレの姿を確認すると、「あ! 兄ちゃん起きた!」と大声で嬉しそうに彼は言った。
次いで、ドタドタと廊下を駆ける足音が響いたかと思えば、男の子の後ろから、更に小さな(四、五歳ほどの)男の子が現れる。彼もまたハレの姿を見るや否や、その場で飛び跳ねて喜びながら、「起きたー! 起きたー! ガイナの兄ちゃん起きたー!」と歌うように言った。
「ガイナ? ガイナって――」
ハレが尋ね終わるよりも早く、大きいほうの男の子はハレが寝ている部屋へと入ってくると、ベッド脇の本棚から一冊の本を取り出すなり、彼はそれをハレの顔面へぐい、と突き付けながら目を輝かせて言った。「ガイナ! 冒険戦士ガイナ! 兄ちゃん知ってる!? すっげー強くて! めちゃくちゃカッコいいんだ!」
顔を離して本の表紙をよく見てみると、それはハレにも見慣れたハードカバーの蔵書だった。冒険戦士ガイナ、とその題目にはある。冒険戦士ガイナと言えば、ハレも愛読する冒険小説の一つだ。男の子と同じように目を輝かせながら、ハレは答える。「知ってるに決まってんだろォ? ――この世に悪がある限り!」
ハレの声に、二人の男の子の声が重なる。「それを断ち切る正義もまたここにあり!」
キャッキャとはしゃぐ二人の男の子と、ハレは嬉しそうにハイタッチを交わす。自己紹介もまだなのに、と思いながらも、ノアはシンへと微笑みかけた。差し伸べるように片手を広げて、シンは仕方のなさそうな笑みでそれに応えた。
「目が覚めたみたいだね」
ハレたちの下へ、一人の小柄な老婆がやってくる。ハレが座るベッドの前までやってくると、「どうやら私ら皆、あんた方に助けられたようじゃ」と低く掠れた声で言うなり、老婆は深々と頭を下げた。
「このオラシオンを代表して礼を言う。……ありがとう」
突然の出来事に焦った様子で、「ちょ、ちょっとおばあちゃん! 俺たち、礼を言われるようなことなんて……」とハレは言いながらベッドから立ち上がり、シンへと助けを求める視線を送った。「え、えーっと先生、これは……?」
ハレへと頷き返しながら、シンは一旦プレートを廊下の台の上に置き、ハレたちのいる部屋へと入ると、簡単に事情を説明した。
「こちら、オラシオンの族長のノルダさん。ここはノルダさんの自宅。二人はこの家に暮らすこの村の子供で、大きいほうがナン、小さいほうがボーだ。どうやらオラシオンはこの一年ほど、アーロンら夜明けの月光の、実質的な支配下に置かれていたようだ。村の人たちはそれまでの生活を奪われ、強制的にアーロンたちの指示に従わされていた。昨晩俺たちがここに潜入して――まあ潜入自体は失敗に終わったが――モナトたちを追い払ったことで、結果的にはこの村の人たちは、その支配から逃れることが叶った、ということらしい」
そんなことになっていたのか、とハレは思いつつ、もう別の本を読むことに夢中になっている二人の子供たちへと視線を向ける。外からは柔らかな日差しが差し込んで、二人の小さな背中を温かく照らしていた。敢えて何ということもない、ありふれた光景ではある。然し、それがこれまでこの地では失われていたかと思うと、ハレは居たたまれない気持ちになった。
シンは続ける。「予定通りに行ったかどうかと聞かれたら微妙なところだし、オラシオンを助けられたのも偶然と言えば偶然だが――」その視線は、やはり二人の子供たちの、可愛らしい背中へと向けられていた。シンもがそこには微笑ましさを感じずにはいられないらしい。心からの笑みをその頬に浮かべながら、シンはその続きを引き取った。
「――戦ってよかったよな。ハレ」
純粋な子供たちの、無邪気なる笑い声。それは何物にも代えがたい特別な輝きを持っている。自分たちの抱える複雑な問題は一旦心の隅に寄せ置いて、ハレは二人の子供たちが放つその美しい輝きを、胸がいっぱいになるまで受け止めた。心の真ん中がじんわりと熱くなるのを感じつつ、ハレはシンへと静かに頷き返した。
「――うん」
「出来ました!」
ノアの裁縫が終わるのを、ハレは室内で子供たちと語らいながら待っていた。ここまでの道中であちこちが破れたり、ほつれてしまっていたハレの焦げ茶色のジレを、ノアは修繕してくれていたのだ。シンたちは今、一階で昼食の支度を手伝っている。時刻は十二時を少し回ったところだった(ハレが目覚めたのは十一時頃だった)。
ノアから手渡されたジレを受け取ると、ハレはそれを両手で広げ、全体にぐるりと視線をやった。
「流石に元通り、とまではいきませんが……、どうでしょうか?」
そう言って謙遜するノアに対し、ハレは目を丸くさせながら答えた。「いやいや、そんなことねーって。器用なもんだよ、あんなにボロボロだったのに。……ありがとな、ノア!」
屈託のない笑顔でそう告げるハレに、「喜んでいただけたなら何よりです」とノアは微笑んだ。
「喜びも喜び、大喜びよ! っと……――」
満面の笑みでジレに袖を通しながら、ハレは視界のどこかに微かな違和感を感じ取った。「……んん?」その正体を追ってジレの裏側、腰の辺りの生地に視線を向けると、そこには小さく可愛らしい、クマのキャラクターのワッペンが縫い付けられていた。
「ノア、これは……」
「す、すみません! いま、手持ちがそれしかなくて……。あの、次に街に立ち寄ることがあったら、ちゃんとしたものを買って――」
「いいっていいって!」と、ハレはノアの提案を遮って続ける。「可愛くていいじゃん、このクマ! このままでいいよ」
「い、いえ、でも――」
「いいんだよ! ノアがつけてくれるもんなら、俺はなんだって嬉しいんだから」
そう言ってしまってから、それが少々恥ずかしい発言だったと気が付くと、ハレは勢いよく両の目を泳がせながら、慌ててそれを訂正した。「ああいや、なんだって嬉しいってのはおかしいか? ほら、変な意味じゃなくてだな! いや嬉しいは嬉しいんだけど、なんていうか~ホラ、言葉のあやって言うのか? とにかくあの~」
「わ、分かりますハレさん。分かります、大丈夫です」そう言ってハレを落ち着けようとはするものの、ハレと同様、ノアもその頬を微かに紅潮させて、ハレの顔を直視は出来なくなっていた。ふと気が付くと足元では、ナンとボーがそんな二人に対し、ニヤニヤとした視線を送っている。
「ヒューヒュー! 兄ちゃんと姉ちゃんラブラブー!」
強い力でハレの尻を叩きながら、ナンはそう言って部屋を飛び出していった。「ラッブラブー!」と甲高い声を上げながら、ボーがその後を追っていく。
「うるせー!」とハレは吐き捨てるように強気で怒鳴ったが、その後にはもう、何処に目を向ければいいのか分からなかった。数秒間の気まずい沈黙が流れた後、「み、皆さんのところに行きましょうか」とノアは歪んだ笑みを浮かべて言った。振動するように繰り返し、細かく頷いてハレはそれに答えた。「そうだな!」
「夜中、トイレに起きたボーに起こされてよ。外でガイナが戦ってる、村を助けに来てくれたって言うんだよ。何言ってんのか分からなくて、俺も窓から外を見てみたら、そこで兄ちゃんが、バロンと一緒に白い服の奴らと戦ってたってわけ! もうびっくりしてばーちゃんを起こしたよ」
昼食に出された川魚のシチューを頬張りながら、ナンは自慢げにそう語った。シン曰く、戦いが終わり、夜明けの月光がオラシオンを去った後、気絶したハレを抱えてどうしようかと考えていたところに、ノルダがこの家から出てきて、ここに上げてくれたのだという。
「でもよ、なんだって俺がガイナなんだよ。ま、言われて悪い気はしねーけどさ」
「だってさぁ!」と、ボーはキラキラとした目をハレに向けると言った。「ガイナは何度やられても、諦めないで立ち上がるんだよ! 兄ちゃんも昨日、何回も何回もやられてたけど、何回も何回も立ち上がってたでしょ! だからガイナだって分かったんだ!」
どうやらボーのほうは、本当にハレのことをガイナだと思い込んでしまっているらしい。子供らしい語りの熱量に若干気圧されながらも、「お、おう!」とハレは親指を突き立てて笑った。次いで自身の背後に立つバロンに、ハレは小さな声でこっそりと尋ねる。「俺、そんなに何回もやられてたか?」
「ハレ、いつモやられテる。でモ、いツも何回もタちあガる。だかラ、かっコいい」
バロンの言葉に、ハレは思わぬところを突かれて目を丸くした。とはいえ、それを素直に喜んでいいのかということについては、もう少し考える時間が必要そうだった。何せ、やられなければ立ち上がる必要もないからだ。
「諦めが悪いのはハレさんの良いところです」と、バロンを挟んで隣に座るノアが言った。「私も何回も、そんなハレさんの強さに助けられてきました」
「へへへ」とハレは口元を綻ばせる。「誰にでも出来ることじゃない。もっと素直に喜んでいいと思うぞ」口にスプーンを運びながらシンが言う。
「な、なんだよ急に皆して! 褒めたって何も出やしねーぞ!」心底嬉しそうに微笑みながら、ハレは何となく手に取った調味料をどさどさとシチューに振りかけると、スプーン一杯にそれをすくって、口の中へと放り込んだ。間もなくして、ハレの口内には燃えるような刺激が広がった。
「そいつはプルカの種をすり潰したスパイスだねぇ」とノルダ。「辛いモンのが好きだったかい?」
ピーマンの一種でもあるプルカは、アシリアでは激辛食材として広く知られている。中でもその種は辛み成分を大量に含有しており、基本的には一つまみ単位で使用するのがその常だ。「何も出やしない」と言ってしまった手前、その爆弾を口から出してしまうことだけはしないよう、ハレは死に物狂いで咀嚼した。やっとの思いで口の中のプルカシチューを飲み切り、食道を焼き焦がす業火を消すべく大量の水を流し込むと、数度の深呼吸を挟んだ後で、ハレは言った。
「いや~……、大好きなんだよね、辛いもの……!」
少ない食事を先に終えると、「食べ終わったら私の部屋に来ておくれ。あんた方の知りたいことを、私に答えられる範囲で答えよう」とノルダは言った。ナンとボーには、「お前たちは村の皆に事情を説明してくるように」と託けて。結局、ハレが激辛シチューを食べ終えたのは三十分ほど後のことだった。
昨夜、ハレをベッドに寝かせ、ノアを先に休ませた後、シンは自分たちの事情説明を主目的として、ノルダと或る程度の話をしたのだという。その中でノルダの口からは、夜明けの月光に関連して、これまでにこの村で起こった幾つかの事件についても語られたのだとか。
「思わぬ収穫があった」直接口にはしなかったものの、シンの言動はそう物語っていた。ノルダの話を、シンは途中で中断し、「明日の朝(つまり今ということになるが)、全員が揃った状態で詳しく聞かせてほしい」と願い出たのだという。その理由を、シンは次のように言った。
「ノルダさんの話は、ハレ、お前が一番最初に知るべきだと判断したからだ」
その言葉を聞いた時、ハレの頭の中には幾つかの点が浮かび上がった。今はまだどれとどれを繋げればいいのか分からない、曖昧で不明瞭な点だ。アーロン、トーマ、夜明けの月光、ネルビアンコ。そしてその隠れ里であるオラシオン。自分が探し求めてきた何かが、ここにはあるのだとハレは悟った。
食器を片付けると、ハレはバロンとノア、そしてシンと共に、廊下を抜けた先にあるノルダの部屋へと向かった。占い師の館を想起させる、妖しげな数珠暖簾を二枚くぐると、窓のない広間にハレたちは辿り着いた。部屋の奥の壁には先祖代々を祀っているらしい祭壇が設置され、祭壇には幾つもの蝋燭が立てられている。
祭壇の前で座布団に坐したノルダは、そこへ祈りの言葉を捧げていた。その言葉が終わるのをハレたちは静かに待った。ハレたちが普段使用するアシリア語とは、それは違う種類の言葉だった。多分、それはこの祈りの為だけに使われる特別な言葉なのだろう、とハレは感じる。ノルダから数歩の後ろには、ハレたちの為に用意されたのだろう座布団が四つ、等間隔で並んでいた。
祈りが終わると、ノルダは祭壇へ深々と辞儀をした。彼女が頭を垂れたまま、幾つかの静寂がこの部屋を過ぎ去った。頭を上げると、ノルダはハレたちを振り返り、座布団に座るよう手で促した。
「さてと、ハレとノアと言ったね。シンさんから粗方の事情は聞かせてもらった。これからあんた方にする話には、ちと受け容れがたい部分もあるかも知れない。然しね、これだけは覚えておいてほしい。ようくお聞き。神様は、乗り越えられる試練しか与えないのさ」
時計の針が巻き戻っていく。もう一つの宿命が時を刻み始める、二十三年の昔まで。まっさらだった砂の大地に、何かの影が浮かび上がってくる。魂だけになったハレは、それが何かを確かめるように近付いていく。覗き込んでみる。それは小さな足跡だった。足跡は、何処までもまっすぐに続いている。
「アーロンは、このオラシオンの生まれだった」
世界の何処かで、雷鳴が轟くのがハレの耳には聞こえた。




