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その日の夕方ごろになって、ハレたちはシンの指示に従って、渓谷からは進路を外し、山脈側に現れた木々の生い茂る林へと足を踏み入れた。視界から崖がなくなったことにより、ハレたちの肉体を包んでいた不穏な緊張感は緩和され、一行の口数は昼間と比較して多少増加した。とはいえ人の手が入っていない自然の林は雑然としており、或る程度の傾斜もあった為、歩行はそれまでと変わらず難航した。ハレはバロンを(自らの意思によって)活動体化させ、二人は隣に並んで歩いた。
シンは予め用意していた地図と、港町で購入した縮尺の大きい地図を、慎重に見比べながら進路を取っていた。エンデラの森を写真に収める際にもシンは現地を訪れてはいるが、「グランフォール渓谷地帯を訪れたことはなかった」と昨日も話していたように、このルートを通るのは今回が初めてなのだという。とはいえそれもそのはずで、ハレたちは現在、出発前にシンから持ち掛けられた提案をもとに、エンデラの森そのものではなく、森の付近にかつては存在していたとされる、或る集落を目指しているのである。
かつては存在していたとされる――、この言葉が示すのは、当該の集落が現在に於いては存在していない、ということではなく、現在に於いて存在しているのか、また過去に於いても存在していたのかどうかすら分からない、ということだ。
「なあ先生、本当にこんなところに、人が住んでいるのかよ?」
ハレがそう言うと、「ハレさん、ナボネブラを探す時にも同じことを言ってましたよ」とノアが笑った。「そうだったっけか?」ハレは誤魔化すように笑う。ハレたちはこの時、先頭からシン、クーラン、ノア、バロン、ハレの順に隊列を組んで歩いていた。前方から、シンは足を止めてハレの質問に答えた。
「それが分からないから、確かめる為に足を運ぶんだ」
両の手を腰に当てると、シンは首を九〇度曲げて上空へと視線をやる。木々の枝葉に覆われて空はよく見えないが、少なくとも快晴という風ではなかった。高所なだけあり空気は澄んでいるが、林の中はぼんやりと薄暗い。
「こんなところだからこそ、これまで人目を避け続けてこられたのかも知れない。住む場所が世間に知られているかどうかは、彼らにとって死活問題だからな」
出発前夜のシンの言葉を、ハレは思い出す。エンデラの森に行く前に、立ち寄っておきたいところがあるのだと、あの夜シンは切り出した。その集落の噂が本当なら、自分たちにとって有用な何かしらの情報を、その場所で得られるのではないだろうかというのがシンの読みだった。
『集落の名はオラシオン。遥か昔、通常人種から逃げ果せた生き残りが、放浪の果てに辿り着き暮らしたとされる、ネルビアンコの隠れ里だ』
ハレが情報源を尋ねると、シンは言葉を濁した。ただ、間違いのない筋からの情報ではあるとシンは言った。半信半疑ではあったものの、シンがそう言うのならそういうことなのだろうし、もし本当にそんなものがあるのならば、確かにそれは自分たちにとっては(夜明けの月光やアーロンの動向についての)、有用な情報を得るチャンスかも知れない。そう考えたハレは、シンの提案を受け入れた。
シンが歩き出したのに合わせて、その背中を追うように自らも歩き出しながら、「ネルビアンコの隠れ里ね~」とハレは言った(余談だが、シンはハレたちへの同行に際していつもの白衣を部屋に脱ぎ置き、今は黒地に白い雲の紋様が描かれた武道着を着用していた。シンにとっては幼い頃から着慣れたいつも通りの服装だったが、これまで白衣のシンばかりを見てきたハレたちにとって、その姿は新鮮だった)。
「トーマも、そのオラシオンって集落の生まれだったりすんのかな? 俺、トーマが孤児院に来る前のことって全然知らねーや」
「意外だな」とシン。「お前たち二人からはなんというか、多くを語る必要もないほどに、お互いのことは知り尽くしている、というような印象を受けたが」
「私もです」とノアが続く。「通じ合っている、というんでしょうか。まさに相棒って感じで、見ていて羨ましかったです」
二人の言葉に、思わず頬が緩むのを憚ることはせず、「へへへ、やっぱり? 実は前々から俺もそう思ってたんだよね~」とハレは言いながら、リュックのポケットに入れ込んである、一枚の写真を取り出した。リヴィールで遭遇したおかしな写真屋から、四〇〇ベイで購入した自分たちの集合写真だ。
写真へと視線を落としてみる。ふざける自分と、怒鳴るトーマ。いつもの二人がその写真の中央には並んでいた。正確には、『いつもの二人だった二人』だ。自分とトーマ、かつての二人の関係性を、その写真は少ない情報で、然し正しく写し取っていた。
自分たちの関係性を、ハレはずっと理想的な交友関係だと思っていた。そう在るべくして在った関係性。お互いがそうであることを望んだ二人が、望んだままに手に入れた関係性。然し、そう思っていたのは自分だけだったのかも知れない、とハレは省みる。
多くを語る必要はないと思っていた。お互いのことを知り尽くしていると思っていた。通じ合っていると思っていた。相棒だと思っていた。見ていて羨ましくなるような関係だと、ハレは前々から思っていた。そんな自分の前から、彼は姿を消してしまった。
それが何を意味するのか、ハレには未だ分からない。ただハレの心を何度も駆るのは、自分にはもっと彼のことを考えることが出来たし、彼と話すべきこともあったのだ、という後悔。必ずや、彼を連れ戻すという決意。彼が姿を消した日の朝、彼が紡いだ幾つかの言葉。彼と会って、直接話がしたいという願い、などというものだった。
『俺は、ハレを信じている。そのことを、いつも忘れないでくれ』
別離に際して、あの言葉は自分を信用させる為に吐いた嘘だったとトーマは告白した。事態の直後はショックに落ち込んでおり、ハレはその真偽を考えることすらも出来なかった。が、冷静さを取り戻して考えてみると、本当にそうなのだろうかという疑問が、ハレの中には残った。
あの明け方の会話がなかったとして、自分はトーマが裏切ることなど考えもしていなかったし、寧ろ明け方の会話があったからこそ、トーマの姿が見えなくなったことに対して違和感を覚えることが出来たとも言える。明け方の会話をしていなければ、トーマは自分に気付かれることなく、もっと安全に離脱することが出来たはずなのだ。トーマの過去こそ知らないハレだが、トーマの性格と計算高さに関して理解をしているつもりはあった。その一方で、トーマはトーマでハレの性格と頭の悪さを理解していたはずである。
ハレがトーマを疑ってすらいないことを、トーマは知っていた。その上で、彼は明け方の会話をするという選択をした(とハレは推察する)。そしてあの言葉が本当に『ハレを信じ込ませるための嘘』だとするならば、そこに違和感を覚えたハレに離脱の現場を目撃されたトーマは、逆に墓穴を掘った形であるということが言える。ともすればそれは彼にとって、無駄な嘘だったということになるのだ。ハレの知る限り、彼は意味もなくそんな無駄を踏むような男ではない。
(本当は全て計算尽くで、お前は俺に違和感を覚えさせる為に、わざと朝の会話をした……)
写真の中の彼の表情を、ハレは細めた目で伺ってみる。
(……違うか? トーマ)
当然、答えは返ってこない。怒りの形相でハレを怒鳴りつける写真の中のトーマは、ほんの少しの反応もしない。
『トーマは全て計算尽くだった』――それはハレの願いでもあった。然し仮にそうだったとして、あの言葉が嘘か本当か、結局のところは分からない。本人に会って問い質すほか、正答を知る術はないのだ。だからこそ、ハレは今のところは、あの言葉を本当だと思うようにしていた。
信じていると彼は言ったのだ。例えそれが嘘だったとしても、自分には多分、その言葉と向き合う必要がある。そして自分にはトーマと違って、相手の思考の裏をかいて行動をすることなど出来はしない。馬鹿正直な自分に出来るのは、『信じている』と言った相棒に、『信じている』という行動で返すことだけなのだ。
「ハレ」暫し思想に耽っていたハレは、自分を呼ぶシンの声で我に返った。顔を上げると、シンたちとの距離は思っていたよりも開いてしまっている。慌てて写真をしまいながら、「お、おう!」とハレは答えた。
「日も傾きかけてきた。そろそろ野営出来る場所を探そう。少し歩く速度を上げるぞ」
「あいよ! 先生!」
小走りで、ハレはシンの背中を追う。これ以上考えても仕様がない。ハレは思考回路のスイッチを切り替えて、目の前の景色から野営に適した地形を探すことへと意識を向けた。
「――止まれ」
先頭を往くシンが、地面と水平に右腕を伸ばしながら言った。太陽は殆ど沈んでしまって、ハレたちはランタンに火を灯して歩いていた。もう少し歩いて平坦な土地がなければ、野営の為の地形をバロンに整えてもらおうか、と話していた矢先のことであった。
「どうしたんだよ?」ハレが問う。
「静かに。ハレ、ランタンの明かりを消してこっちに来い」
言われるがままにランタンの火を落とし、ハレは足音と息を殺して、シンのいる前方へと歩み出た。シンが無言で指を差す斜面の上方へと、ハレは視線を向けてみる。
木々が邪魔になってしっかりと視認は出来ないが、そこには小さな赤い光が見えた。光は不規則な揺らぎを持ってもいる。恐らくは松明に灯された火だ。
地形はその辺りから傾斜が緩やかになっているようであり、松明と思しき明かりの向こうには、横並び状に地に打ち立てられた丸太が形成する、背の高い柵のようなものも見えた。柵は左右に広く及んでおり、ハレたちのいる場所からはその果ては見えない。然しながらその柵が、人間が暮らす場所とそうでない場所を、視覚的、或いは物理的に区切る為に存在するものであろうということはハレにも分かった。そして、人里離れたこのブルントの山中に、唐突に現れる人工の柵が区切るべきものなど、殆どこの世界には存在しないと言ってもいい。ハレたちが探し求める、ネルビアンコの隠れ里、ただ一つを除いては。
「――オラシオン……! 本当にあったんだ……!」
驚きに目を見張りつつも、ハレは絞った声でそう言った。次いでシンへと視線を向けると、ハレは尋ねる。「でも先生、なんだって隠れる必要があるんだ? さっさと入って、人がいるなら話を聞いてみようぜ」
シンはしばらく何も言わずに、集落の出入り口と推定される松明の辺りを注視していた。そこに何かがあるのかと、ハレもその辺りへと目を凝らしてみる。数秒間そうしていると、炎の揺らめきだけではなく、その炎を灯す松明自体が、時折微かに揺れ動いていることにハレは気が付いた。松明は地面に設置されているものではなく、人の手に持たれたものだったのだ。
「なあ、ハレ。飽きっぽそうなお前が、よくもここまで愚痴も溢さずに頑張ってきているな、と俺は思っているんだが、山道ばかり歩きっぱなしで、実際のところ辟易としているんじゃないか?」
辟易、という言葉の意味こそ分からないが、どうやら心の内を言い当てられたらしいことはハレには分かった。ハレの返事を待つことはなく、シンは続ける。「その上、こんな山の中の集落で情報収集なんて言ったって、恐らくは地味で退屈で、しかも実のないものだろう、なんて考えているんじゃないかと推察する。……実のところ、俺もそうだった。ここでの成果には、俺もあまり期待はしていなかったんだ」
あまり期待はしていなかった。つまり、これまでは期待していなかったものの、今では期待が出来るようになった、ということである。シンの語調からは、どこかしら高揚感のようなものが感じられた。
ハレは考える。シンは多分、あの集落の入り口付近に何かを見たのだ。止まれ、と彼が言ったその前後から、ハレがランタンの明かりを落とし、ここにやってくるまでの間に。それが再び現れて、ハレの目にも映るその機会を、シンは待っているようだった。
「でもな」とシン。「少なからず、有用な情報は得られそうだ。お前にとっても――」
丸太で出来た柵と柵の間、物陰になった集落の入り口から、何者かが姿を現す。物音一つ立てないその身のこなしからは、その人物の用心深い性格が伺えた。木々を挟んだ向こう側に、その風貌を認めるなりハレは驚愕した。
「――退屈しのぎくらいにはなるかも知れない」
白地に青いラインの入ったローブを、その人物は纏っていた。
(夜明けの月光……!)




