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無機質な鼠色をした岩の山肌は、見た目の荒々しさとは裏腹に、どちらかというと静けさを、見る者に深く印象付けた。否、そこにあるのは無から生まれる、音声としての単純なる静閑さではない。圧倒的な質量から放たれる、厳かで物々しい沈黙だ。手に触れた岩盤から伝わってくるその沈黙は、意識しなければどうということはない。然し、一度意識を向けてしまうと、そこにある威圧的な存在感に、ハレは戦慄を禁じ得なくなった。
眼下には深い谷の底を、一筋の河川が轟音と共に走っている。猛然怒濤の川から響くその音は、殺気立った獣たちの咆哮のようにも聞こえた。
足場は安定しているとは言い難い。今にも崩れ落ちそうではないし、極度に狭まっていると言うほどでもないが、大人二人が並んで立てば、それ以上はないという具合だ。ここが岩山の断崖であることを踏まえれば、この道を安心して通行の出来る人間というのは、存在しないか、存在したとしても稀だろう。そこに当てはまる可能性のある人物像としては、この断崖の道を通り慣れた地元の住民であるとか、人生に絶望しており死を恐れる必要のない人間であるということが、条件としては挙げられる。そしてこの場所は、人里からは遠く離れた(殆ど)未開の地。ここを通り慣れているような人物は、基本的にはこの世界の何処にも存在しない。詰まるところ、この道を恐れることなく通行出来る人間がいるとすれば、それは――。
(恐ろしい)とシンは思う。自分たちが今立っている足場から崖の下までの落差は、少なく見積もっても五〇メートルはあるように見える。足を踏み外したら最後、その先に待っているのは死、その外にはない。
四年前の旅の中で、自分は良くも悪くも様々なものを得た。そして得たものの数と同じだけ、良くも悪くも様々なものを失った。得たものの一つとして挙げられるのは、友との絆や研究といった、人生に対する希望だ。それと同時に失ったのは、何事をも恐れることのない、人生への無関心だった。
人生に無関心だった自分にとって、何かを恐れるということはただの無駄でしかなかった。そしてそれを理解する必要すら、あの頃の自分にはなかった。人に嫌われる寂しさ、何かを失ってしまう喪失感、死への恐怖すらも、自分は知らなかったし、今後も知ることはないだろうと思って生きていた。国王に拾われていなければ死んでいた筈の、探求心が服を着て歩いているだけの幽霊のような存在――シンは自分のことを、そのように考えていたからである。
何も恐れることのない自分は強かった。恐怖は時に迷いや隙を生む。今まさに、この断崖を歩くことに対しての恐怖は、シンの足に微かな震えを齎してもいた。それでは自分は弱くなったのだろうか。シンは自分自身へと問う。
(四年前の自分なら、或いはこんな崖の淵も、恐れることなく歩いたかも知れない、が――)
シンの答えはノーだった。自分は弱くなってなどいない。寧ろその逆で、絆を知り、生き甲斐を知り、恐怖を知った自分は強くなったのだ。かつての自分とは、或る種異なる方向性に於いて。そしてその方向性が、かつての自分が見据えていた場所よりも正しい強さへと向かっていることも、シンは知っていた。四年前の旅が自身に与えた良き変化を、シンは誇らしく感じていた。
「シン、大丈夫か?」
シンの前を歩くクーランが、額に汗を浮かべるシンを見かねてそう言った。「あ、ああ」とシンは返しながら、自分が随分と強張った表情をしていたことに気付く。「大分歩いてきたか? 流石に堪えるな」
以前よりも素直に弱みを見せるようになったシンを微笑ましく思いながら、「ずっとこんな悪路じゃ無理もない」とクーランは柔らかな口調で、然しいつも通りの嗄れ声で答えた。「次に休めそうな場所があったら、少し足を止めて休もうか」
「賛成~! もうクタクタだぜ」先頭を歩くハレが手を上げると、「私も少し疲れてしまいました」とノアが続いた。
前方に見える、少し足場の開けた場所を指さしながら、「あそこまで歩いたら休憩にしよう」とシンが言った。三人は各々、シンへと返事をしながら頷いた(バロンは身体が大きすぎてこの狭路を歩くことが出来なかった為、ドルミールとなってハレの腰から提げられている)。
「にしても、とんでもねー景色があるもんだな。旅に出てから色んなところを回ってきたつもりだったけど、世界は広いわ」
休憩地点の高台から、目の前に広がる光景を見渡してハレは言った。「本当ですね。こういうのを絶景というんでしょうか」ハレの隣に並んだノアが、関心した様子で返す。
ハレたちが断崖を進んでいる岩の山――ブルント山脈は、その天面に緑豊かで平坦な地形を有するテーブルマウンテンである。山の側面はところどころに、谷底のペトラ川に向かって流れ落ちる大小様々な滝を有しており、これはブルント山脈が有する水源の豊富さを物語っていた。ペトラ川を挟んだ対岸には、こちら側と同様のテーブルマウンテンが、傲然と聳え立っている。
恐ろしく高い崖と崖。その崖から落ちる無数の滝。崖に挟まれ、幾つもの滝の流れを汲みながら、蛇行しつつも逞しく走る河川の光景はまさに圧巻であり、ハレとノアは暫し黙して、この高台からの景色に思いを馳せた。遥か上空では、獲物を求める一羽の鳶が円を描いて飛んでいる。時折、鳶は高音の鳴き声を谷中に響かせた。果たしてそれが何を意味するのか、そんなことはハレたちには分からない。ただ、この景観が人間の五感へと齎す美しい整合性に、その鳴き声が一役を買っているということ――それだけは確かだった。
「グランフォール渓谷地帯」
荷物を下ろしたシンは、そう言いながらノアの隣にやってくると、片手を腰に当てて景色へと目をやった。「一度見てみたいとは思っていた。確かにこれは、絶景と認めざるを得ないな」
三人が揃って口を噤み、滝と川の立てる水音に耳を澄ませていると、ハレの腰に携えられていたバロンのドルミールが、突如として音と光を放ちながら巨人の姿へと変化した。そのまま当たり前のように自身の右後ろに立ったバロンに対し、ハレは軽く身を屈めて反応した。「び、びっくりさせんなよ。ていうかバロンお前、やっぱり勝手にその姿になれるんだろ!」
バロンは首を振るう。「勝手ニ、なレない」
「そんなことが可能なのか? バロン」シンが興味深そうに問うと、バロンは再び首を振るった。「バロン、でキない。ハレ、バロンに景色見セたいト思った。ダから、バロンおおきクなッた」
「そういうことか」とシン。「ハレさん、優しいです」とノアに言われると、微かに頬を紅潮させながら、「まあ、思ってねーことはねーけどよ」とハレは頭の後ろを掻きながら照れ臭そうに笑った。微笑みながら頷いた後で、シンは正面を向き直ると、「あちら側の山は」とペトラ川を挟んで対岸の山を指差して言った。
「或る年代まではカートス山脈と呼ばれていたらしい。地層の研究が進むうちに、ここブルント山脈とあちら側のカートス山脈が、かつては一つの山脈であったことが判明し、今では向こうも纏めてブルント山脈とする考え方が一般的だ。元々豊かな水源を有していたブルント山脈が、地割れによって巨大な谷を生み、流れ込んだ水がこのペトラ川を形成。川と滝の流れが長い時間をかけて崖の壁面を少しずつ削り、現在のような姿になったと言われている。アシリア三大絶景の一つ、なんて言われることもあるが、偶発的な地割れがなければ、単なる山の頂上だったってわけだ」
言い終えたシンがハレたちのほうに視線をやると、ハレとノアは顔を見合わせて、何か意味ありげな笑顔で頷き合っていた。「何かおかしなことを言ったか?」とシンが尋ねると、「いやさ」とハレは嬉しそうに笑って答えた。
「トーマみたいだな、と思ってよ。そんで、ルチカと一緒に居た時にも、ルチカとドボロがトーマのこと、シンみたいって言ってたのを思い出してよ」
谷間を吹き抜けてきた陣風に、菜種油色をしたハレの癖毛がふわりと翻ると、彼の笑顔の無邪気さは一層に際立って見えた。彼らが辿ってきた、そしてこれからも辿っていくであろう運命を思うと、シンはそこに愁情を抱かずにはいられなかった。然し、ハレの声色は上機嫌で、そこに寂しさを含んではいなかった。ハレの中で、トーマに対して出した答えに揺るぎがないことを、そんなハレの声は示唆してもいる。その事実はシンの心に、少なくはない安堵を齎した。
「そうか」とシンは静かな声で言う。会話はそこで途切れた。それから十五分程度の休息を取った後で、ハレたちは再び、断崖の道を歩き出した。
アシリア四大陸の中でも頭一つ抜けた面積を誇り、その広大な陸地に九つの大山脈を持つパラム大陸。スチルバティクスから出る定期連絡船を利用したハレたちが、この大陸に上陸してから一週間が経過しようとしていた。
パラム大陸の西側には、アシリアの人類史的に見ても殆ど人が立ち入ってこなかった未開拓地が広がっている。勿論、未開拓地に港町はない。つまり、まさにその未開拓地を目的地とするハレたちには、一度は東側に存在する港町から上陸をし、陸路を通って西側を目指す必要があった。そして、他の大陸では一般的な移動手段として利用される馬車の業者も、陸地面積のほぼすべてが山脈に覆われるパラム大陸には殆ど存在していない。ましてや未開拓地行きの馬車などというものがあるはずもなく、山道で〝飛天〟を使うことも出来ないハレたちは、徒歩での移動を余儀なくされていた。
また未開拓地へと踏み入るからには、ハレたちの進路は基本的に、険しいものの連続となった。そのうちの一つがここ、断崖の絶壁に挟まれた、滝瀑の連なる渓流――グランフォール渓谷地帯だ。
崖路の進行は翌日も続いた。通路はやや狭まっているところもあれば、少し広くなっていて歩きやすいところもあった。朝早くから歩き始め、昼を迎えるか迎えないかという頃になって、変わらぬ景色に飽きを感じ始めたハレは、昨夜の就寝前、日中の冷静な時にでも考察をしようと思っていたことを思い出した。昨日の休息時に発生した、意図しないバロンの活動体化についてだ。
ドルミールは基本的に、使役者が「活動体化せよ」という意思の元で、『手を触れる』、『手を翳す』などの身体的な接触、又は接触に近しい行動を取ることによって、活動体の姿へと変化する、と思われる(厳密な条件をハレは理解していないので、「と思われる」という表現になる)。
身体的な接触の部分に関しては、腰に提げているという点を以て、服を間に挟んではいるものの説明はつく。実際にハレはこれまでにも、グローブを付けた状態のトーマが、カレントを活動体化させるところを幾度となく目にしてきた。自分とトーマの行動の差は、手で触れているか腰で触れているかということにはなるが、現にバロンがそれで活動体化している以上、条件としてはクリア出来ているのだろうとハレは思う。それで自分が納得出来るのかどうか、ということは、この際別の問題なのだとハレは自分に言い聞かせる。
そして意思の部分についてだが、仮に『バロンにもこの景色を見せたい』と思ったことが活動体化のキーになっているのだとしたら、アーツという発明品の構造上、「それでいいのか」とハレは思う。実際に、ハレはバロンに景色を見せたいと思っていないわけではない。然しそれは意思というよりは、どちらかというとその時点では、『思い付き』程度の思考であり、バロンが勝手に(便宜上勝手にという表現になるが)活動体化していなかったとしても、ハレはその思い付きを元に行動し、数秒後にはバロンを活動体化させていたはずだったのだ。つまり自分とバロンのコンビに関して言えば、本来使役者が握っているべきだろうアーツの活動体化のタイミングを、アーツのほうが握りかけてしまっている、ということが言える(そのこと自体をハレは不名誉に感じたりはしていない)。
多分、バロンは他のアーツに比べて、使役者の思考を感じ取る能力に長けているのだろう。或いはそれは能力というよりかは、彼の性格によるものと言ってもいいのかも知れない。普通のアーツなら見過ごしてしまうような、使役者の些細な心情の動きを、バロンはきっとその優しさ、又は愛情によって、精密に感じ取っているのだ。そして昨日の休憩時、ハレの意思をいち早く感じ取ったバロンは、ハレが行動に移るよりも早く、自ら活動体となったのではないだろうか。
暫定的にそう結論付け、ハレは考察をやめた。多分これ以上考えても、自分の頭では納得のいく答えには辿り着かない。それにその結論は、ハレにとっては納得云々ということを差し置いても、「そうであればいい」と思えるようなものであったのだ(そしてその考察は概ね当たっていた)。




