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「一人にしてほしい」とハレが言ったので、ノアは船での移動中、可能な限り船室には近づかず、共有の休憩スペースや、デッキの上で時間を過ごした。一人で居る間、ノアはつい余計なことを考えてしまうことがあった(考えている間、ノアはそれを余計なことだと思ってはいない)。そしてノアもまた、ハレとは別の観点から、やはり自責の念に駆られていた。
自分がハレたちと出会っていなければ、二人にはアビスシルクとカオスライトを探す必要はなかった。アーロンを探す過程で万に一つ、マドラインに立ち寄るということくらいならあったかも知れないが、少なくともそのタイミングが、夜明けの月光の襲撃とかち合うことは避けられたはずだ。であれば彼らはあそこでアーロンに会うことはなく、トーマがネルビアンコであることを、アーロンの口から聞かされることもなかったはずである。そして恐らくはその先の旅路に於いても、アーロンの手がかりを見つけることのないままに、二人は目的の達成を諦めることを余儀なくされ、孤児院へ帰ることとなっていたのではないだろうか。いや、きっとそうだ。それこそが、あの二人が辿るべきだった、本来の旅の道筋だったのだ――ノアにはそう思えてならなかった。何よりも、そのほうが現実的なのだ。そのような結末を迎える確率のほうが、現在のような(わけの分からない)状況が生まれる確率よりも、圧倒的に高かったはずなのだ。
自分の存在が、その確率を歪めてしまった。自分というイレギュラーが、彼らの旅路を歪めてしまった。カミナと共に彷徨っていた頃、誰かに言われた言葉が脳裏をよぎる。
『疫病神。お前みたいな奴は生きている価値もない。生きていたって周りを不幸にするだけなのに』
悲しみと悔しさに蹂躙され、一人ぼっちのテントの中で、その夜ノアは大声で泣いた。その言葉が事実だから泣いたのか、事実と異なることで罵られたから泣いたのか、あの時ノアはは分からなかった。然し今ならば分かる。あの言葉は事実であり、疑いようのない真実だ。自分は疫病神で、生きている価値はない。そして生きている限り、周りに居る人たちを不幸にする。
否、そう言われた当時とは変わっていることが、ノアの中には一つだけあった。それは彼女がもう、その事実から目を背けようとしたり、その事実によって悲しんだりする必要がなくなったということだ。ハレやトーマと過ごした時間は、ノアにそのような変化を齎していた。
(疫病神だからなんだ。周りを不幸にするから、なんだ。疫病神にだって――)
小さく一つ頷くと、ノアはデッキを離れ、船室へと向かった。ハレがそれを拒もうとも、ハレに話さなければならないことがノアにはあった。
(――生きようと足掻く権利はある)
この世界は閉じているとノアは思っていた。そんなことはないのだと自分に教えてくれたのはハレだ。だからノアは、生きようと足掻く自分の旅に、これ以上ハレを巻き込みたくはなかった。自分の為に憔悴していくハレの姿を、ノアはもう見たくなかったのだ。
彼の笑った顔が見たい。彼に笑っていて欲しい。その為なら自分は、どんな運命をも受け入れる。これはノアの驕りであり、我が儘だった。そのことをノアは理解していたから、そこに言い訳をするつもりもなかった。船室の前までやってくると、ノアは木製の扉を小さく二度、ノックした。
「ハレさん、入ってもよろしいですか?」
少し遅れて、「あ、ああ」とハレが答える。ノアが船室の扉を開くと、ハレはベッドに腰かけており、その傍らにはバロンがいた。ハレの目は、少し充血していた。
「……私、ハレさんにお話ししなければならないことがあって」
ベッドサイドの丸椅子に腰かけて、ノアはハレと向かい合う形を取った。ハレの緑青色の瞳を覗き込むと、ノアは切り出した。「私のことで、ハレさんとトーマさんにご迷惑をおかけしたこと、改めて謝らせてください。そして、お世話になったことにお礼を言わせてください。ありがとうございました」
「なんだよ、改まって」どこか草臥れて力のない声で、ハレは返す。「そんなこと気にしなくていいんだって」
小さく首を横に振るうと、「違うんです。ハレさん」とノアは言った。少しの沈黙があった。ノアにとって、それは緩んでしまいそうになる決心を固め直す為の沈黙だった。数秒の後で、「ハレさん、私はもう大丈夫です」とノアは言った。
「え?」とハレ。ノアは続ける。
「私はもう、一人でも歩くことが出来る。私、自分が誰かとこんな風に話をしたり、世界中を旅したり、料理をしたり、野菜を収穫したり、魔物を捌けるようになることなんて知らなかったんです。私には何も出来ないと思っていた。でも違いました。人は何にだってなれるし、自分の足で何処へだって行くことが出来る。この数ヶ月間の旅の中で、私はハレさんからそのことを教わりました。ハレさんは、自分は何もしていないって言うかも知れないけれど、私には分かるんです。あなたはいつも、どんな時でも私の前に立ってくれて、この世界の歩き方を、私に教えてくれたから」
心底嬉しそうな笑みを、ノアはその頬に浮かべていた。ノアの言葉に、ハレは思い出す。自分たちと出会った頃の彼女が、周りの全てを疑わざるを得ず、殆ど微笑みすらも浮かべなかったことを。そして、そんな彼女を自らの手で守りたいと思った時のことを。
「シンさんへのご報告が済んだら、私は一人でエンデラの森を探そうと思っています。いえ……、一人で探します。だからハレさんは、私のことは気にせず、ファンテーヌでもアルバティクスでも、何処か心の落ち着けるところでお休みください。今のハレさんには、多分休養が必要なのだと思います。私に言えることではありませんが、アーロンさんやトーマさんのことを考えるのは、それからでも遅くないと思うんです。私のことは、……忘れてくださったって構いません」
ノアの語りへの驚きに、ハレは言葉を失った。彼女の言葉にはこれまでにない、はっきりとした語意が含まれていたからだ。言葉によって表されるものも、言葉によって隠されるものも、そこにあるものは全て、誰かからの借り物ではない、彼女自身の言葉と声だった。アーロンやトーマのことを考えることで頭がいっぱいで、旅の道中、彼女の内面に訪れていた著しい変化に、ハレは気付いていなかったのである。
無言で呆然とするハレに対し、「私、こう見えて成長しているんですよ」とノアは言った。「ハレさんに隠れて、護身術の特訓なんかもしているんです。って言っても、夜明けの月光みたいな人たちと戦うことになったら、多分敵いっこないんですけど」
へらり、とノアは笑って見せた。その笑みはハレの心臓の真ん中を、じんわりと少しだけ熱くさせた。
「……お二人に出会っていなければ、私はそもそもあの修道院で、ユニさんとフラムさんに連れ去られていた筈なんです。ハレさんたちにここまでしていただいたんですから、最早この期に及んでまで、この命惜しくはありません」
仕方のなさそうに、何処か寂しそうにノアは言う。気高い言葉とは裏腹に儚げな彼女の微笑みは、見る者に哀愁すら感じさせた。それから再び強い語調になって、「でも、もう諦めるつもりもないんです」と彼女は言った。
「お二人に出会って、私、強くなれたと思うんです。戦いはともかくとして、精神的な面で。だからもう、彼らの言動に屈したりはしません。私は一人でも、絶対にエンデラの森を見つけ出します。私自身の力で、私自身の運命を変える為に。そこに彼らの邪魔が入るなら、私は戦います。負けてしまったのなら、その時はその時。彼らが私の力を悪用する前に……」
薄い唇を一瞬内側に引っ込めてから、ノアは言った。「この舌を噛み切って、死にます」
彼女の瞳は少しだけ潤んでいた。然しその言葉には、強かな決意の炎が燃えていた。或いは火の粉を噴き上げながら、それは何よりも赤く燃えた。激しく燃える心の猛火。そこから巻き上がった火の粉の一粒が、ハレの心にも微かに触れた。結果的にはその一粒が、ハレにとってのきっかけとなった。
ハレがこのような旅路を送ることになったことを、自分のせいだとノアは感じている。然し、ハレの見解はその逆だった。自分はノアのお陰で、アーロンへと辿り着くことが出来た。ノアとの出会いが、自分をアーロンの元へと導いてくれた。ハレはそんな風に考えていたのだ。ともすればハレにとっては、自分が今ここでアーロンやトーマを諦めてしまうことは、自分が守りたいと思ったノアの存在や、彼女との出会いを否定することと同義だった。ハレには決して譲ることの出来ないものが、そこにはあった。
頭の中の小さなハレは、どうしたものかと窓際に立つ。ここから見える景色は変わらない。この場所からは、アーロンの姿を見ることは出来ない。ここにいる限り、自分はノアと出会うことすらない。そしてトーマ。今度こそ、間違いのない手を伸ばして、闇の中にいる彼を助け出すことも、窓の外を眺めているだけでは勿論為し得ない。
窓の外にはすべてがある。然し、そのすべてはこれまでに何度も、深淵と混沌の狭間へと自分を突き落としてきた。これから先の未来だってきっと同じだろう。この旅は簡単ではない。だからこそ、ここから旅立つことをハレは悩まざるを得なかったのだ。
「俺は……――」
その時、窓の外を鳩が飛んで行った。一羽ずつの、白い鳩と黒い鳩だった。すぐに姿が見えなくなったが、ハレには分かった。あれはトーマと、そしてノアだ。彼らは何処へ行くのだろう。探求心と呼ぶには余りに純粋な何かが、ハレの中に起こった。『何処へ行くの?』そんな風に問いかけたくなるような。
その先に何があるのだろう。その先で彼らは何を見、何を聞き、何を感じ、そして何を選ぶのだろう。自分が踏み出すのを躊躇っている先の世界で、彼らは一体何処へと向かうのだろう。同時にハレには不思議だった。窓の外を見つめる少年は、何故窓の外を見つめているだけなのだろう。もしそこに居たのが自分なら、あの鳩の行方が気になって、すぐにでも飛び出してしまうというのに。
足元を見てハレは思い出す。ああ、そこに居たのは自分だった。そして始まりはいつだってそこにあった。アーロンを探して旅立った時もそうだ。探求心に駆り立てられると、走り出さずにはいられない。どんな痛みと悲しみが待ち受けていようが、芽生えてしまった「知りたい」という感情に勝るものはない。彼はそういう人間だった。
「俺はよ、ノア。バロン」
ハレは立ち上がる。その表情に迷いはなかった。ハレの視線が見据えるのはただ、エンデラの森で待っているだろうトーマとアーロン、二人の背中のみだ。
「――俺はもう諦めねェ。諦めるなんて器用なこと、俺には出来ねえって忘れてた。思い出させてくれてありがとうな、ノア」
ノアの背後の壁を見つめたまま、ハレは言った。「は、はい」と若干の戸惑いを見せつつもノアは答える。突如として訪れたハレの変化に、ノアの頭は理解が追い付かなかったのだ。
「エンデラの森に行く」とハレ。次いで、丸椅子に座ったままのノアへと視線をくれると、片方の口角のみで挑戦的な笑みを浮かべて、彼は続けた。
「もちろんついてくるよな、ノア!」
そこに居たのは、いつも通りのハレだった。悪戯な笑顔を基本の表情とし、その不思議な魅力で周囲の人々をも常に笑顔に変えてきた、いつも通りのハレの姿だった。彼の笑顔はノアの心に、いつだってこの上ない安寧と喜びを齎した。彼の笑顔が、ノアは好きだった。やはり彼が笑っていなくては、私たちの旅は始まらない――。
思わず頬が綻ぶのを、ノアはもう憚らなかった。自分がこんな風に素直になれることを、ハレたちと出会う前の自分にノアは伝えたくなった。柔らかく自然な笑みをそこに浮かべると、嬉しさに上ずった声で、ノアは答えた。
「――もちろん!」
少し遅れて、「バロンも」とバロンは頷いて言う。「おう!」とハレは右手の親指を突き立てて答える。
新たなる始まりを、ハレたちの旅は迎えようとしていた。この旅の最後の目的地である、この世の果ての地――終末の火の森に向けて。




