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怪我人の処置などが落ち着いてきた頃合いを見計らって、ノアとバーンズはデュラン邸を後にした。時刻は十六時を少し回ったところだった。借り家へと戻ると、テーブルに突っ伏してハレは眠っていた。その隣ではバロンが、心なしか悲しげな表情を浮かべてハレの背中を見守っている。ひとまずは、トーマを捜してデュラン邸を飛び出した後、姿の見えなかったハレが無事だったことに二人は安堵した。
バーンズがハレを起こしてやると、「あ、ああ、ごめん。寝ちまってたのか、俺」と彼は謝った。それから彼はいつになく覇気のない声で、トーマを追った先で起こったことを、ぽつりぽつりと話し始めた(トーマがネルビアンコであることを、ハレたちはバーンズに伝えてはいなかったので、ハレはこの時そのことについても併せて話した)。報告の内容も然ることながら、かつてなく衰弱した様子のハレに、ノアは驚きと共に、悲痛を禁じ得なかった。
「……だもんで、悪ィ。ちょっとばかしキツくてよ、すぐに報告に行く気にはなれなかった。まだ混乱してるけど確かに言えんのは、トーマが俺たちを裏切った、――いや、裏切ってたってことだ」
重い沈黙が、丸テーブルを囲んだ三人とバロンの前に横たわった。鉄の塊がするみたいな沈黙だった。ハレを励ます為の言葉を、ノアは見つけられなかった。少しは成長したと思っていた自分が、肝心なところで非力であることをノアは呪った。一分ほどの沈黙の後で、バーンズが口を開いた。左手をハレの頭に乗せながら、「つらかったな、ハレ」とバーンズは言った。ハレは何も答えなかった。バーンズは続ける。
「今回のことを、トーマがいつから考えていたのかは最早分からないが、その兆候には俺も全く気付いてやれなかった。年長者である俺が、もっと気を配ってやるべきだったんだ。すまない。……だが、既に起こってしまった事実を変えることは出来ない。前か後ろのどちらかには、俺たちは進み続けるしかないんだ」
その場にしゃがみ込むと、バーンズは俯いたハレの表情を覗き込んで言う。「ハレ、お前はこれからどうするつもりだ?」
再び暫く黙りこくったあとで、ハレは力なく首を振るって、「分からねえ」と漏らした。
「……とりあえず、ファンテーヌに戻ってシンに今回のことを報告するよ。その後どうするかは、……少し……、考えさせてくれ」
分からない。それもその筈であるとノアは思う。ハレの心は傍から見ても折れていた。ハレの姿はノアの脳裏に、祖母の家から飛び出した直後の自分の姿を思い起こさせた。全てを奪われた(と錯覚してしまっている)状態に置かれると、人は自分がどこまで頑張れるのかということを見失ってしまう。通常の思考回路へと回復する為には、傷の深さとその人物の心の強さに依って、相応の時間が必要となる。
デュランに頼んで、ハレたちはカオスライトをペンダント状に加工してもらうこととなった。数日後、予備も含めて六本のペンダントをデュランから貰い受けると、ハレたちはナボネブラを発った。泥の海を抜けて、土を踏んで歩けるようになるところまで、デュランとチコが二艘の小舟で送ってくれた。別れ際、未だ暗い面持ちだったハレに、デュランは言ってくれた。
「なあ坊主、若ェうちは好きなだけ悩めばいい。だがよ、変なことだけは考えるんじゃねえぞ。命を粗末にするような奴に、俺はカオスライトを託したつもりはねェからな」
ルドニークを経由して、ハレたちは大陸西側の海岸に面した港町を目指した。ルドニークではバーンズが、クラスィア大陸で起こったことの顛末を一通の手紙に認めて、シンへと送ってくれた。やがて辿り着いた港町から、スチルバティクス行きの定期船に乗ってハレたちはこの大陸を後にした。
「この地ではまだ調べておきたいことがある」ということだったので、ハレたちはバーンズとは港町で別れた。道連れの人数もハレ、バロン、ノアの三人へと減ってしまい、一行の間に漂う物悲しい空気感は、いよいよノアの頑張りだけでは隠し切れないところまで来てしまった。「もう大丈夫だ」とハレは言ったが、(確かに一時期よりは回復した様子ではあったものの)その語調はどう聞いたところで、大丈夫な人間のそれではなかった。
アーロンを探して連れ帰りたい。ただそれだけを考えて孤児院を旅立ったあの日のことを、ハレは思い出す。あの日、自分はアーロンの行方を知りたい一心だった。いま、その望みを叶えた自分が思うことはただ一つ。旅立つ前、アーロンの不在を嘆いていた頃のほうが、今よりもよっぽど幸せだったということだ。知らないほうがいいことも、この世界にはあるのだということを、ハレは痛感していた。
「一人にしてほしい」とノアに頼んで、ハレは船での移動中、基本的に船室に籠っていた。今は誰とも話したくない。そういう気分だったのだ。誰かといれば気を遣わせるし、遣わせた気に対して、正しい言葉と正しい笑顔で対応をすることすら、今のハレにはままならなかった。それが一体どういうものだったのかすら、ハレには分からなくなっていたのだから。
本来であれば、自分は考えなくてはならなかった。一体いつからトーマは悩んでいたのか、そしてどのタイミングで、彼が裏切りの決心をしたのかということを。然し、ハレの心は良くも悪くもあらゆる方面から、その考察を拒絶した。
それを考えたところで何になるのか。既に困憊している精神状態を更に悪化させるだけではないのか。仮に自分の精神が健康な状態だったとしても、その考察を完結させることが出来るのか。自分に導き出せるどのような根拠を以てすれば、その考察は完結するのか。考察を完結させたところで何になるのか。そもそも自分はこの旅を、このまま続行するべきなのか。旅を続行しないのであれば尚のこと、こんなことを考えることには如何なる意義も存在しないのではないか。
狭い船室で硬いベッドに腰かけたハレは、膝に肘を付き頭を抱えて、ぐるぐるとそんなことを考えていた。大海に巣食う澱みのように、うねりを持って進まない思考と、ぼんやりとした吐き気だけがハレの中を占拠していた。そんな中、それは唐突に発生した。
ハレの腰のホルダーに収められていたバロンのドルミールが、突如として光と音を放ち出したかと思えば、活動体である巨人の姿へと形を変え、彼はハレの向かいに立ったのだ。俯いていた顔を上げて、ハレは少しだけ驚いた。
「……お前、勝手にその姿になれたのかよ」
ハレの質問に、バロンは少し考えた後で答えた。「勝手に、なッてなイ。ハレ、バロン呼ンだ」
自分がバロンを呼んだ。バロンはそう言っている。実際には、自分はバロンを呼んではいない。然し、波長の合ったアーツと使役者の間では、テレパシーのような感覚で或る程度の意思疎通を行うことが出来るようになっている。ともすれば自分は寂しさのあまり、無意識下に於いて他者の(或いはバロンの)存在を求めていた、ということだろうか。目の前にバロンが現れた瞬間に、僅かながら心が軽くなったこともまた、ハレにとっては否定の出来ない事実だった。
自分の弱き心の叫びに、バロンは応えてくれたということである。自身への情けなさと、バロンへの有り難さに、ハレは目頭がじんわりと熱くなるのを感じながらも、「ああ」と震える声で言った。
「呼んだかも知れねえ。ありがとよ、バロン」
バロンは頷くのみで、何とも言わなかった。ハレはそれで良かった。
今一度、ハレは自分の思考が動くかどうかを試みる。然し、やはり上手い具合にはいかなさそうだった。
頭の中でハレの思考を司る、もう一人の小さなハレ。彼の目の前には大きな壁が立ちはだかっていた。歩き出そうにも行く手を阻まれて、それ以上を進むことは彼には出来ない。小さなハレは壁伝いに歩いてみようとする。が、それも束の間、十数歩を歩く間には、彼はそこが一枚の壁が立ちはだかる広野ではなく、四面を白い壁に囲まれた、狭い部屋の中であることに気付かされる。自分はここから一歩たりとも、外へと出ることが出来ないのだ。
諦めて、小さなハレは木製のチェアに腰をかける。少しだけ懐かしい感じがした。天を仰いでぼんやりとしていると、真っ白い部屋に少しずつ色が付いて、それがあの孤児院で十三歳の時に与えられた、自分の部屋だということをハレは悟る。梯子の上のロフトベッド。物が散乱して、机としての役割を果たしていない机。散らかった衣類。破れた壁紙。あの部屋のにおい。
あの窮屈で小汚い部屋が、ハレは大嫌いだった。ここには何もない。ここに居る限り、自分は居なくなったアーロンのことを、何一つとして知ることが出来ない。世界がどんな姿をしているのかを、垣間見ることすらない。
あの日、この部屋の窓から自分は旅立った。窓の外の世界へと、小さなハレは意識を向けてみる。そこから先に広がる世界の姿を、ハレは脳裏に思い浮かべる。
恐ろしく悪いことを考える奴らがいること。生きた魔物を叩き切る真剣の感触。地下に広がる水脈の風景。黒い爪を持って生まれたが為に、謂れのない差別に苦しむ人がいること。水の都で為される素晴らしい研究。アーツにも良い奴がいるってこと。海の広さと、煌めいた時の美しさ。隕石商はインチキばかりだってこと。性別にこだわらない人の面白さ。写真の腕前が性格のまともさとは比例しないこと。珊瑚が作り出す摩訶不思議な地形。巨大な塔を中心とした、特大規模のギルドの街。そこに暮らす人たちの表情の豊かさ。やっとの思いで見つけたアーロンが、恐ろしく悪いことを考える奴らの親玉だったこと。白い爪を持つネルビアンコという種族のこと。アーツと共に戦うことの楽しさ。アーツという人知を超えた発明品の素晴らしさ。砂漠を歩いている時の絶望感。泥の海を歩く時の更なる絶望感。気の良い姉御にはやさぐれた弟がいること。人を見かけで判断してはいけないこと。深淵を編んだ絹の柔らかさ。混沌を抱いた石の美しさ。好きになった人が、世界の誰よりも綺麗だってこと。掛け替えのない友との絆。その友の裏切りが心に齎す、どうしようもなく激しい苦しみ。
窓際に立ってみても、ここに居るだけではそれらの事実の欠片をも、自分は伺い知ることが出来ない。この部屋の窓から見えるのはただ、孤児院の別棟と、帝都アルバティクスの街並みと、ほんの少しの空だけだ。それがハレは嫌いだった。然し、それでもいいのかも知れないと今のハレには思えた。こんな苦しみを、知らなくて済んだのならどんなに良かったか、と。
これは正しい答えではない。そんなことはハレ自身が誰より分かっていた。それでも今は、ハレはそう思わずには居られなかった。こんな風に考える自分だから、トーマは見限ったのかも知れない。仕方ないじゃないか、自分はトーマみたいに色んなことを知っているわけじゃないし、トーマみたいに強いわけでもない。でもそれも言い訳に過ぎない。トーマだって苦しんでいたんだ。きっと、自分なんかよりもずっと深く、そしてずっと昔から。
「トーマ、イなくなッた」
ハレの心を読んだかのように、バロンが唐突に口を開く。「カレントも、イなくナった」
そう。トーマもカレントも、自分たちの前から姿を消してしまった。
「ハレ。なンで、トーマ、いなクなった。なんデ、カレント、いナくなッた」
何故。そんなことは自分にだって分からない。いや、本当は分かっているのかも知れない。その答えから、自分はきっと目を背け続けているだけなのだ。
「俺が……」
言葉にすると余りにも残酷で、それは鋭利な刃物のように、ハレの心に突き立てられた。その恐ろしさに、ハレは涙を零して震えるほかなかった。ハレは考える。こんな苦しみが、これ以上の苦しみが、この世界にあって堪るものか。こんな孤独が、この世界にあって堪るものか、と。
「俺の力が、足りなかったんだ。バロン、……ごめん。ごめんな。俺が……、俺が不甲斐なかったから」
いつの日か世界中を笑顔に出来る、そんなギルドを作りたい。トーマはどんな気持ちで、その言葉を聞いたのだろうか。トーマのことを、俺はもっと考えなければならなかった。あいつの話を、もっと親身になって聞いてやらなければならなかった。俺にとって、それはまだ遠い世界の話だと、心の何処かで思ってしまったんだ。トーマにとっては十六年間をそこで生きてきた、現実の世界の話だったというのに。
ハレのすすり泣く声だけが、船室をしばらく包み込んだ。「バロン、ハレに泣かなイでほシい」と、バロンはつらそうな声で言った。「うん」とハレは答える。それから再び長い沈黙を挟んだ後で、バロンは尋ねた。
「不甲斐なカった、どウいう意味」




