↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
エンデラの森の黒き魔女  作者: 暫定とは
四章『混沌』
PR
48/77

48

 二度寝から目覚めたハレに対するトーマの態度は、いつも通りのそれであった。あまりにも何事もなかったかのようにトーマが振舞うので、あれは夢だったのだろうかとすらハレは思った。念の為二階のバルコニーを確認すると、そこにはやはりテーブルと椅子が一つずつ、先程と同じ顔をして並んでいる。然し、テーブルの上にあったはずのランプ、便箋、羽根ペンはなくなっていた。あれはトーマの私物だったのだろうか。だとしたら彼が片付けたということで頷ける。

 この日は朝の七時より、デュランの自宅にてクルトゥーラ迎撃作戦に参加する者たちへの作戦伝達が行われるとのことだったので、ハレたちもこれに参列した。ナボネブラに暮らす、恐らくは全ての男たちがそこには揃っているようであった。アーツを連れている人物も、中には二名ほどいる。作戦参加者は総勢で四十一人だと、デュランはいつもの怒鳴り声みたいな声量で言っていた。そこにはハレとトーマ、そしてバーンズも数えられている。

「――とまあグダグダと色んなことを喋ったが、実際には戦況は刻々と変化する。予定通りには運ばないことのほうが多いだろう。いつも言うことだが、最後はテメーの勘を信じろ! そして死ぬな! いいか、俺たちは全員で生き延びる!! 以上だ!!」

 作戦伝達の最後を、デュランはそう締め括った。「おう!」と威勢の良い返事で、男たちはそれに答えた。

 クルトゥーラとの戦いは、作戦名の通り迎撃だった。地響きの季節がやってくると、地脈穴の奥深くから繋がる地底回廊に、ナボネブラの住民はクルトゥーラ戦の為の戦闘設備を拵える。クルトゥーラを誘導する為の地形の形成に始まり、弱点である頭部を狙う為の櫓(やぐら)の建設、迎撃兵器及び物資の搬入。ナボネブラのメインとなる武装は、据置型の大型弩砲(どほう)と大砲の二種だった。

 迎撃場所までクルトゥーラを誘導し、弩砲と大砲で一斉に砲撃。クルトゥーラが怯んだところに近接武器による追撃を加え、尾に備えられた結晶腺を削ぎ落す。これが、迎撃作戦の大まかな流れだった。

 誘導班、砲撃班、追撃班と三つに分かれた班のうち、ハレとトーマは追撃班、バーンズは砲撃班に、デュランによって配属された。午前八時、作戦行動は始まった。

 迎撃地点へと案内されたハレたちは、そのスケールの大きさに驚いた。そもそもクルトゥーラ迎撃の為の戦闘設備は、普段は立ち入ることの出来ない地脈穴の奥地から続く、地底回廊の内部に作られている。この地底回廊が、クルトゥーラ自身が通行の為に掘ったものなのか、クルトゥーラの登場よりも昔からあるものなのかは分からないとデュランは語った。

「確かに言えるのは、このアホみたいな広さの回廊が、遥か南のルドニ地方まで続いてるということ。そして憎(にっく)きクルトゥーラが、半年に一度ここを通って、ルドニ火山の地下深くへと移動するってことだけだ」

 四十メートルほどの幅と、それよりも高いであろう天井を、地底回廊は有していた。所によっては更に広がっている部分や、若干狭まっている部分などは多々あれど、概ね同じ幅と高さを保ったまま、回廊はハレたちの視界の遥か遠方にまで続いている。

 「なんて言ったらいいか分かんねえけど、……自然ってすげえな」唖然とした表情でハレが言うと「自然、スごイ」とバロンが復唱した。

 迎撃地点は回廊の曲がり角に設定されており、クルトゥーラがやってくる方角に対して正面の高台には、ひと際巨大な大砲が設置されているのが地に立つハレたちからも見えた。ほか、回廊を左右から挟み込むような形で建てられた、横長の足場を持つ櫓の上には、大砲や弩砲が並べられている。ハレたちはこの櫓の影に身を潜めて、クルトゥーラの登場を待つこととなった。

 梯子をかけられた櫓の高さは、一〇メートル程はあるように見える。これがデュランの話の通り、クルトゥーラの頭の高さに設定されているということならば、自分たちは今までに見たこともないような大きさの魔物と、間もなく対峙するということになる。ハレの心臓の鼓動は無意識に逸った。クルトゥーラのものと思しき足音が、ゆっくりとこちらへと近付いてくる。自分の身体が微かに震えていることを、トーマに指摘されて初めてハレは気が付いた。

 「震えてるぞ。怖気づいたか?」ハレを挑発するように、トーマは言う。「やってみる前から諦めるなよ」

 「うるせー」片方の口角だけを上げて、ハレはそれに答える。「……武者震いだよ」

 始めに、迎撃地点の凡そ中心地へと、誘導班の六名が走って現れた。班長のザックが、張り裂けんばかりの声量で叫ぶ。「誘導成功! 負傷者無し! クルトゥーラ出現、間もなく!!」

 「了解! 誘導班、撤退!!」と高台の砲台に立つデュランが、同じく凄まじい声量でそれに答えた。誘導班が櫓の影に下がったのを確認すると、デュランは続ける。「続いて迎撃班! 出現に備えろ!!」

「応(おう)!!」

 デュランを含め、櫓や高台に上った総勢二十四名の迎撃班の面々が、各々決められた配置につく。戦闘配備を整えた迎撃隊の前に、ついにクルトゥーラは現れた。

 一〇メートル余りの高さに加え、頭から尾の先までで三〇メートルはありそうな全長。超巨大な肉体を支える強靭な四肢(しし)と、全身を覆う鎧のような黒い鱗。鰐を思わせる正面に長い口を持つ頭部は、その両脇に二本の角を携えてもいる。螺旋を描いて天を衝(つ)くそれは、深き山に棲(す)む久遠(くおん)を生きた山羊の角のようでもあった。角の下から覗く紅(あか)く鋭い眼光は、こちらに敵意を向けるようでもありながら、また迎撃隊の存在を慈しみ、憐れんでいるようにも見えた。「小さな人間が幾ら寄り集まろうが、自分の敵ではない」、「我が往路(おうろ)が持つ崇高な使命からしてみれば、人間如きの邪魔立てなどは意に介するに値しない」とでも言うような。

 迎撃隊の中央まで躍り出て、クルトゥーラはその歩みを止めた。正面の高台に立ったデュランは、静かな、然し強かな眼差しで、クルトゥーラの紅き瞳と睨み合う。デュランは考える。偏(ひとえ)にこの時、この瞬間の為に、自分はまたこの半年間を生き延びたのだ、と。

(テメーのその余裕こいた表情。俺はその表情が死ぬほどムカつくんだ。特大の一発ぶち込んでやるから、精々惨めに足掻いて見せろ。抗って見せろ。痛みに歪むテメーの表情と啼(な)き声が、ただそれだけがこの世界に、俺が生きていく意味をくれるんだからよ)

 胸の底から湧き上がる憎しみは、デュランの形相を強い怒りの色に染め上げていった。本当は、クルトゥーラを殺してしまいたい。愛する妻の、そして何人もの仲間の命を奪ったこの獣(けだもの)を、地獄の底に叩き付けてやりたい。消えることのない憤怒(ふんど)の劫火(ごうか)で、このデカブツが灰塵(かいじん)と化すまで何度も燃やし尽くしてしまいたい。どうやって鳴こうが、許しを請おうが、幾度死のうが、蘇ろうが、何度でも何度でも、俺はお前を殺してやりたい。お前が憎い。

 デュランの寡黙なる怒りの炎は、彼の隣で特大大砲の点火役に就いていたバーンズにも伝わった。そしてバーンズにはその怒りが、未来永劫収まることのないものであることを理解せずには居られなかった。然しデュランの戦いは、そしてその砲撃は、彼の怒りによって行使されるべきではなかった。彼の統率力と、或いはチコへの愛にもよって、それは行使されるべきだったのだ。バーンズはそのことを知っていた。

 デュランの右肩に、バーンズは左の手を乗せる。「デュランさん」

 信じられないほどに強い力が、その肩には入っていた。溜めに溜めたデュランの息が吹き出されるのと同時に、肩の力が抜けていくのがバーンズにも分かった。或いはその溜め息には、デュランの魂の一部もが含まれているのかも知れなかった。

 静かに頷きながら、「分かってるよ、バーンズさん」とデュランは言った。それ以上を語ることはデュランはしなかった。同じくバーンズも、それ以上の言葉を必要とはしなかった。

 櫓の上から、何人かの迎撃班の視線がデュランへと注がれている。リーダーの次なる指示を望む目だ。視線を向けていない者もまた、同じくデュランの指示を待っているということは言うまでもない。今やデュランの家族は、亡き妻やチコだけではなかった。ナボネブラに暮らす人々の全てが、デュランにとって守るべき、そして愛すべき家族だった。父として、デュランには彼らに応える必要があった。

 デュランは声を絞り上げる。「迎撃用(よォ)ー意(い)!!」

 高台や櫓に備えられた、二〇門余りの大砲と弩砲の砲口が、一斉にクルトゥーラへと向けられる。未だ、クルトゥーラは動かない。ここに居合わせる全員の胸に、緊張が走る。

「構え!!」

 デュランの声を合図にして、弩砲隊が構えの姿勢を取る。大砲隊の各員が、ジリジリと赤い火を燻ぶらせる導火桿(みちびざお)を、砲身の火門(かもん)直上に構える。バーンズも同様に、左手に持った桿(さお)をデュラン足元の特大大砲の火門へと添えた。間もなくして、デュランは吼えた。怒号にも似たその声に続いて、全ての砲台から一斉に砲撃が放たれた。

「――撃てェ!!」


 迎撃作戦は成功に終わった。手負いとなったクルトゥーラは地底回廊をルドニ火山の方面へと逃げるように去っていき、迎撃場所には迎撃隊の面々と、追撃班の猛攻によりクルトゥーラの尾から剥がれ落ちた、百弱のクルトゥーラの結晶腺だけが残った。怪我人は幾らか出たようだったが、迎撃隊から死者は出なかった。

「ハレ! 無事か」

 高台から坂道を伝って降りてきたバーンズが、左手を上げながらハレに声をかけた。一帯には、弩砲から放たれて地に刺さった火矢(ひや)がパチパチと弾ける音が響き渡っている。

 「なんとかな。いや、正直ビビったぜ」とハレが言うと、「俺もだ。まさかあんなに巨大な魔物だったとはな」とバーンズは返した。ハレの周りを見回してから、バーンズは続けて尋ねた。「トーマはどうした?」

「さあ。途中までは一緒に戦ってたんだけど、尻尾でぶん殴られて、俺が吹っ飛ばされちまってよ。気付いた時には居なかった。多分、トーマも俺たちを探して、先に地上に戻ってるんじゃねえかな」

 まだ鈍い痛みの残る首の後ろを擦りながら、ハレは言った。「そうか」とバーンズが頷く。

 結晶腺の回収を担当する一部の人員を除き、デュランを含む迎撃隊の多くは、既に地脈穴を抜けて地上へと戻っているようだった。怪我人の処置や、損壊した武装の状況確認をする為だ。その流れに乗って、トーマも外に出ているのだろうというのがハレの読みだった。結果として、そんなハレの予想は外れた。

「ノア! チコ!」

 デュランの自宅一階の広間には、怪我人が集められていた。ノアはチコと共に、そこで怪我人の手当てに当たっていた。ハレの呼びかけに気が付くと、ノアは一旦作業の手を止めて、ハレの方へとやってきてくれた。

「ハレさん、バーンズさんも! ご無事で良かった。結構酷い怪我の方もいらっしゃるので、心配してたんです」

 「そうだったのか」ノアへと受け答えながら、ハレは広間の全体へと視線を転がした。

 ブロンドの髪、青い服。トーマの格好は普段、人混みの中でもそれなりに目立つ。然し、部屋の中に彼の姿は見当たらなかった。ハレはノアへと問う。「トーマを見なかったか?」

「いえ、私はまだ。てっきりハレさんたちと一緒だと思っていたのですが」

 トーマはここには居ない。ハレは黙して、今しがた通ってきた地底回廊の迎撃地点から、ミカーレ地脈穴、そしてナボネブラ地上の風景を、改めて脳裏に思い描いた。得られる答えは変わらない。その語が示す範囲が広がっていくだけだ。トーマはここには居ない。ここに来てようやく、ハレは現在の状況に異常を覚えた。

 例えば帝都アルバティクスで、彼の姿を見失ったとする。ハレは慌てたり、取り乱したりはしないだろう。アルバティクスは広いし、行くべきところは幾らでもある。それがファンテーヌや、スチルバティクス、マドラインだったとしても同じことが言える。すぐには見つからなかったとしても、就寝時の宿屋には彼は姿を現すはずである。然し、ここはナボネブラだ。先に挙げた街のように広いというわけでもなければ、足を向ける可能性のある場所は限られている。

 地底回廊からデュラン邸までの道中、地脈穴や集落の隅から隅までを、ハレは探したというわけではない。ハレが見落としてしまっているだけで、トーマが実際にはその何処かにいたという可能性は、全くないということはないのだ。否、それを断じて否定するだけの自信がハレにはあった。トーマの気配そのものが、もうこの辺りには感じられないのだ。これは感覚的な問題なので、それを裏付ける根拠というものは世界中の何処にもない。然し、ハレにはそうだと言い切ることが出来た。トーマはもう、ここには居ない。

 トーマのことを考える。彼の表情を、彼の言葉を思い出してみる。その瞬間、ハレの胸には嫌な胸騒ぎが起こった。

『俺はハレを信じている。そのことをいつも忘れないでくれ』

 昨夜(ゆうべ)、いや、あれは今朝方のことだ。まどろみにすら達していない眠りの底から、自分はトーマによる呼び掛けで起こされた。彼に連れられて上った借り家二階のバルコニーで、彼がそんなことを言っていたのをハレは思い出す。元来の愚鈍な性格と、猛烈な眠気から気にすることこそしなかったが、今にして思えば、あれが予兆だったということが言える。あれでは、まるで――。

 頭で考えるよりも先に、ハレは走り出していた。後方から自分を呼ぶバーンズとノアには目もくれず、デュラン邸の扉を蹴破らんばかりの強さでこじ開けると、その勢いのままにハレは走った。追い付けるかどうかということは、走り出してから考えればいい。

(――まるで遺言か、別れの言葉じゃねェかよ……! トーマ!)

 先にも述べた通り、この集落には足を向ける可能性のある場所というのは多くない。然し、その人物が集落から出ていこうということを考えるのなら、その行く先はただ一つ。ひと月前、苦節極まる進路の果てにハレたちが辿り着いた、この集落唯一の出入り口だ。集落を出て、なお眼前に続く木材で組まれた足場の上を、ハレは駆けた。

 予想というものは、当たってほしい時には外れる癖に、当たってほしくない時には往々にして当たる。特に、自分のする予想についてはそのような傾向が顕著だという自負がハレにはあった。

 アーロンの時と同じだ。いつも自分は気付くのが遅い。いつも、助けたいと願った誰かの手を掴むことが出来ない。いつも、自分は見送る側に立っている。

「トーマ!」

 足場の終(つ)いに、彼は居た。その隣にはラベンダー色のおかっぱ頭をした男が立っている。モナトだ。モナトの両肩には前回と同じく、浅緑(あさみどり)に輝く羽根を持つ巨大な蝶が二頭、止まっている。トーマとモナトは共に、夜明けの月光の白いローブにその身を包んでいた。

 「どうして……!」とハレは零す。ああ、これもアーロンの時と同じ言葉である、とハレは思う。

 白いローブを纏ったトーマの姿は、様々な観点に於いてハレを考えさせる要素を孕んでいた。それ苦痛を伴う思考であった。アーロン。孤児院。アーツ。トラウマ。脱走。トーマ。ネルビアンコ。夜明けの月光。想像しうる全ての事柄が、降り出した雨のようにハレの脳裏にぽつりぽつりと跡を付けていく。そして全ての問題を紐づけてしまっているのは、自分だ。アーロンと知り合っていなかったら、トーマと親しくしていなかったら、あんな脱走計画を企てなければ、いま目の前で自分を苦しめるこんな光景を、自分は見なくて済んだというのに。

「モナト」

 トーマからの呼び掛けに応じて、モナトは一頭の蝶をトーマの背中へと移動させた。蝶の羽ばたきにより、二人の体はふわりと宙へと浮かび上がる。空中から、ハレへと見下すような視線をやると、トーマは言った。

「理由なんてないさ。本来自分がいるべきだった場所に、俺は帰るだけだ。こいつを持ってな」

 ローブの懐から、トーマは幾つかの黒い嚢(ふくろ)を取り出して見せた。ブヨブヨとした質感を持つ一方で、嚢はその表面に艶々とした光沢を持ってもいる。クルトゥーラの結晶腺だ。その中には、プリマギアを目覚めさせる為に必要となる二つの装飾品のうちの一つ、カオスライトが内包されている筈だった。そしてもう一方の装飾品、アビスシルクは既に、アーロンの手中にある。

 「お前、いつの間に……!」苦悶に表情を歪めた後で、ハレは怒鳴るように続けた。

「――いつからだ! テメー、いつからそいつらとつるんでいやがった! それにプリマギアを目覚めさせて、お前ら一体何しようってんだよ!!」

 「答える義理はない」とトーマ。「それに、いつからだろうがお前には関係のないことだ。お前は誰も助けられない。アーロンも俺も、そしてノアも」

「トーマ、てめえ……!」

 強く握り締めた両の拳が、悔しさにふるふると震える。トーマの言葉は紛れもない事実だった。自分は誰も助けられない。事実、目の前に居た人間をまた一人、助けることが出来なかった。

 少しずつ高度を上げながら、トーマは続ける。「俺たちは俺たちのやり方で、この世界を変える。お前が語る机上の空論に付き合うつもりはない。世界が変わるのを悠長に待っていられるのは、ハレ、やはりお前が通常人種だからさ。……ネルビアンコとお前たちの立場が入れ替わるその日まで、ギルドでも船旅でも、精々楽しむんだな」

 自分の中で何かが崩れていく感覚が、ハレにはあった。それを受け入れたくない一部の感情が、それが心を包み込むことを食い止めていた。噛み締めた奥歯が音を立てる。零れてしまいそうになる涙を堪えて、「だったら」とハレは言った。

「だったら今朝の言葉は、信じてるってのはなんだったんだよ! 忘れるなって言ったのも、全部嘘だったって言うのかよ!!」

 「ああ」とトーマは憐れむように細めた視線で、ハレを見つめながら答えた。「お前を完全に信用させるための嘘だよ。脱出の直前に邪魔されたんじゃ堪ったもんじゃない。念には念をと思ってな。ま、今にしてみればその必要もなかったかもな」

 「トーマ、そろそろだ」とモナトが言うと、「ああ」とトーマは答え、二人は空中で踵を返した。

 ハレの中で崩れていくもの、それは鏡かも知れなかった。心の中でトーマを映していた、一枚の鏡。そこにはこれまで、彼の笑った顔や、怒った顔、呆れたり悲しんだりする顔が映されていたようにハレは思う。彼が目の前に居なかったとしても、ハレは心の中にあるその鏡を覗き込むことで、いつでも彼に会うことが出来た。然し、割れてしまった鏡というのは多くのものを映さない。砕け散った鏡の破片に映るのは、氷のように冷たく、無の表情をしたトーマの残滓(ざんさい)だ。彼がどんな顔をして笑ったか、どんな顔をして怒ったか、じきにハレにも思い出すことが出来なくなる。

 「ああ、そうだ」と何かを思い出したようにトーマは言うと、今一度、空中からハレを振り返り、力なく俯くハレの後頭部に、最後の言葉をかけた。「――お前には礼を言わなくちゃいけない」

 その言葉が真に意味することが何なのか、ハレには分からなかった。あの時と――アーロンの時と同じ深淵に、素直に立たせてくれればよかったのに、とハレは思った。トーマの言葉は皮肉めいていて、然しどこかしらに、優し気な響きを含んでもいたのだ。

「俺をここまで連れてきてくれて、ありがとう。ハレ」

 心の中にぽっかりと空いた穴。そこから溢れ出す禍々しい感情。やがて襲い来る止(と)め処(ど)なき虚無。一体自分は何処にいて、これから何処へ向かえばいいのか。その応答はない。いつでも隣で答えをくれた相棒は、もうここには居ないのだから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。