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珍しく深酔いをしたバーンズが、デュランの家のテーブルに突っ伏して眠ってしまったことは、トーマにとって好都合だった。借り家二階のバルコニーで一通の手紙を書き終えると、トーマはそれを、バルコニーの手すりに止まる鳩の口へと咥えさせる。空はぼんやりと白み始めていた。木々の枝葉に隠れてしまって、月の在り処は分からない。然し、彼の衛星がこの空の何処かで今も光を放っていることを、トーマは知っていた。
「よろしく頼む」
手紙を咥えた鳩を、トーマは上空へと放つ。鳩は鳴かずに飛び立った。トーマは背後の室内を確認する。階段を昇ってくる者の気配はない。一階にはハレとノアの二人が寝ている筈だった。この家の二階には今、自分一人しかいない。
ハレとつるむようになるよりも前、自室や図書室に引きこもって、本ばかり読んでいた頃のことを思い出す。あの頃も自分は一人だった。然し、それを苦痛には感じなかった。苦痛を感じずに済む術に長けていたとも言える。あの能力は何処へ行ってしまったのだろう。この自分が、一人であることを苦痛、孤独だと感じる日が来るなんて。
ほう、と溜め息を吹き漏らす。それは諦めでもあり、決意でもあり、ただの呼吸でもあった。テーブルに置かれたランプの灯りを落とす。暗い室内に戻ると、柔らかな外からの光は一層に際立って見えた。
霧はまだ出ていない。トーマは静かに階段を下った。
「いつまで寝てるつもりだ、ハレ。シスターマリーの授業に遅れるぞ」
例によって、電撃でも走ったかのようにハレは飛び起きる。部屋の中に差し込む光の感触から、今がまだ日の出前の薄明であることを悟ると、寝ぼけ半分、文句ありげにハレは言った。「どうしたよ、トーマ。悪戯の質が悪すぎるぜ」
「悪戯じゃない。少し、話がある」
普段とは調子の違うトーマの声色に、ハレの意識は半分ほどが覚醒した。重い身体をどうにか起こし、トーマに連れられるがままに、ハレは借り家の二階へと上がった。
「お前もあの孤児院の世話になってる以上、名目上はバルド教の教徒なんだ。礼拝くらいたまには付き合え」
この時間に行う礼拝と言えば、トーマを含むバルド教徒が毎朝欠かさず行っている、昇陽への礼拝だということくらいは、バルド教の教理に関心のないハレにも分かった。
トーマに従って、ハレはバルコニーに出る。やはりまだ日は昇り始めてはおらず、外はぼんやりと薄暗い。午前四時から五時の間と言ったところだろうか。
霧の晴れた朝の空気はひんやりとしており、ハレはこれを、鼻からいっぱいに吸い込み、そして同じく鼻から吐き出した。睡眠によって体内に蓄積された重苦しい空気を、外の空気と入れ替えるみたいにだ。
この家のバルコニーに出たことは、ハレはなかった。そこに小さな丸テーブルと一脚の椅子があることも勿論知らなかったし、テーブルの上にランプと羽根ペン、白い便箋が置いてあることに関しても同様に知らなかった。そしてその存在を、ハレは不審に思うこともしなかった。ハレが――取り分け寝起きのハレが、それらの物品について不審がったりはしないことを、トーマは知っていた。
寝ぼけ眼を擦りながら、ハレはバルコニーを囲う柵まで歩いて、その手すりへと手を付いた。正面の――東の空へと視線をやって、一応はお祈りの句を読み上げようと、ハレは試みた。「その御身を……、御身を以て……、何だっけ?」
ハレの隣までやってきて、トーマは同じく手すりに手をやると、ハレの続きを引き取った。
「その御身を以て、我らの界に光の恩恵を与え賜りし太陽神。その到来に無比の万謝を献呈す。今日も其が威光の導きにより、我らの界が清められ、正しき道を歩まんことを」
トーマが目を閉じて手を合わせると、「右に同じく!」と言いながら、ハレも同じように目を閉じ合掌した。「そんなお祈りがあるか」とトーマに睨まれると、「まあまあ、名目上だし」とハレは歯を出して笑った。
溜め息を吹きながら、ハレは丸テーブルに備え付けの椅子に浅く腰掛け、背もたれに寄りかかった。意識は既にはっきりと醒めている。が、肉体の内部には滞りと言うべきか、眠りが齎した倦怠感のようなものが残っていた。ポケットに両手を入れ込むと、覇気のない声で、トーマの後ろ姿にハレは問うた。
「で、何だよ話ってのは。まさか、礼拝させるために起こしたわけじゃないだろ?」
トーマはすぐには答えなかった。不可思議な沈黙が、二人の間にはあった。
沈黙には様々な種類のものがある。信頼した相手と過ごす、心地よい沈黙や、何かが終わっていく前の、予感めいた沈黙。この時の沈黙は、心地よい沈黙と予感めいた沈黙の、二つの側面を同時に持っていた。
胸がざわざわとする感覚が、ハレの中にはあった。然し、その不穏な胸のざわめきは、ハレにはどうしてか心地よく、また愛おしくすら感じられたのだ。その感覚は懐かしさにも似ていた。そんな不可思議で懐かしい沈黙を破って、「ハレ」とトーマは呼びかけた。
「――どうしたら、世界から差別や迫害はなくなると思う? この半分終わりかけみたいな世界を、お前ならどうやって変える?」
寝起きの人間を相手にする質問として、多分それは相応しいものではないとハレは考える。トーマとてそんなことは分かっている筈なのだ。バルコニーの手すりに肘をついて向こう側を見つめる彼の表情を、ハレの側から伺うことは出来ない。然し、彼の声に冗談めいた響きはなかった。それがきっと答えなのだ。
常識的には寝起きの人間にする質問ではなかろうが、トーマにとってのその質問はきっと、今この瞬間、この場所で、ハレに投げかけるべき種類のものなのだろう。であれば自分はその質問に対して、真摯に向き合わなくてはならないとハレは考える。が、実のところでその答えは、この数ヶ月間の旅の中で、既にハレの中に形成されかけていた。答えになりかけの何かを、ハレは整理し、構築し、それを言葉としてトーマへと差し出した。
「難しいこと考えるのは、お前の専売特許だろ。俺にゃ向かねえ。ただよ」
太陽が、東の空を昇り始める。ハレたちの居るバルコニーからは、丁度開けたマングローブの森と、薄く漂い始めた霧を挟んで、太陽の輝きを垣間見ることが出来た。それは美しい夜明けであった。
「この数ヶ月、色んなとこを旅して思ったんだ。俺は孤児院に拾われて、本当に幸運だったなってよ。俺やお前みたいに、下手したら行き場をなくしてる奴、もう既に行き場のなくなってる奴ってのは、世界中にごまんといると思う。その理由は人それぞれだろうけどさ。そういう人たちのための国を作るっていうアーロンの考えは、間違っちゃいねーと俺は思うんだ。そのやり方が飛躍しすぎちまってるだけでよ。俺ならどうする、って聞かれると難しいけど、それこそ国とまでは言わずとも、ギルドみたいなところから始めるのがいいんじゃねーのかな、と俺は思ってる。差別や迫害の対象となってしまっている人たちと、差別や迫害をなくしたいと考える人たちを集めて、暴力からの防衛を兼ねた、共同生活の拠点を作ってさ。そんな風に考える人がどれだけ居るのかは分からない。けど少なくとも、この旅で出会った人たち、そんなに踏み込んだ話は出来てねーけどよ。シンやルチカやバーンズさんは勿論、クリスさん、ピエトロさん、ヨーク、ジャンヌさんやデュランさんやチコなんかは、味方になってくれるんじゃねーかなと思うんだ。初めは少ない人数だって良い。少しずつ周りの人たちの意識を変えていって、いつかは世界中から、差別と迫害をなくせたら、って、俺は考えてる。ていうか――」
その続きを言うべきか、ハレは少し迷った。トーマの背中は沈黙を守ったまま、ハレの話の続きを待っているようだった。鼻息を吹き漏らした後で、ハレは続ける。
「――俺がやりたいんだよね、それを。簡単じゃねーと思うし、長い時間もかかると思う。でも、それを知ってしまった以上、旅が終わったら元通り、孤児院での生活に戻るなんてまっぴらごめんなんだ。恩着せがましく聞こえるかもしれねェけど、困ってる人の力になりてえ。お陰様で俺はこの十五年間、大体楽しくていつも笑って過ごしてきた。そういう当たり前の幸せや笑顔は、誰にだって与えられるべきなんだ。アーロンにもノアにも、トーマ、勿論お前にも。俺……、ギルドをやりたい。いつの日か世界中を笑顔に変えられる、そんなギルドを」
朝日に照らされるトーマの頬を、一筋の涙が伝った。青いグローブの指先で、トーマは零れ落ちる涙を拭い取る。ハレの側からはその様子を確認することは出来ない。言ってしまってから恥ずかしくなったハレは、頭の後ろをガシガシと掻きながら、いつもの調子に戻って誤魔化すように次を言った。
「ま、俺にゃまだまだやらなきゃならねーことも沢山ある! アーロンの野郎の目ェ覚まさせて、プリマギアを目覚めさせて、それからトーマとノアとドボロと、あとバロンもだな。みんなでドボロ号で旅するんだ! やるとしてもその後だな~。ッカー! 忙しすぎて困っちまうね!」
仕方のなさそうに溜め息を吐きながら、トーマはようやくハレのほうを向き直った。「お前、まだそんなことを覚えてたのか」と呆れた口調で言いながらも、その頬は微かな笑みに綻んでいる。
「まだとは何だ! 約束したからな! お前も絶対連れて行くからな!」
「……分かったよ」
ハレのいる丸テーブルの方までやってくると、トーマはそこに広げられた便箋の束の中から一枚を摘まみ上げて、再び手すりの方まで戻った。
朝の光は沼地の昏い藍天を、東側から緩やかな階調に染め上げていく。一つの世界の夜が明けようとしていた。夜が明ければ朝が来る。然し、輝きに満ちた朝が必ずやってくるとは限らない。どんよりと曇った朝もあれば、暗い土砂降りの朝だって、深い霧の立ち込める朝だってある。それぞれの朝にどういった意味を、そしてどういった運命性を見出すか、ということも、別の問題ではあるが確かに存在していることを決して忘れてはならない。
「なあハレ」
幅広の手すりを台代わりにして、トーマは機械のように規則的な、然し普段のトーマよりも幾分ゆったりとした所作で、手に取った便箋を折り紙の要領で折り始めた。
「なんだよ、改まって」ぶっきらぼうに答えながら、ハレは椅子から立ち上がる。トーマの隣まで歩くと、彼が満足そうな笑みを浮かべていることにハレは気が付いた。然し、その笑みには何処かしらに影があった。見る角度によって表情を変える不思議な肖像画のように、ハレにはトーマの横顔は見えた。彼は物憂げだったのだ。尋常ではないほどに。そのことにハレが気が付いたのは、それから暫くの月日が経った後のことだった。
一つ、一つとトーマが紙を折るごとに、隣から眺めるハレの目にも、その完成形が見えるようになってきた。紙飛行機。トーマは紙飛行機を折っていたのだ。本当に言葉にしなければいけないことを、その内側に隠すみたいに。
「一つ、覚えておいてほしいことがある」
やがて完成した紙飛行機を、あらゆる角度から一頻り、優し気な眼差しでトーマは観察をした。観察が終わると、視線の先にトーマは太陽を見据えた。腕を振り上げる。腕の運動と手首のスナップで、紙飛行機を空へと放ちながら、トーマは言った。
「――俺は、ハレを信じている」
美しく尖った先端を与えられた紙飛行機は、風を切り、朝日へと向かって真っすぐに飛んでいく。
「そのことを、いつも忘れないでくれ」
その時、ハレの心の中を澄んだ風が渡った。現実の風ではない、精神的な風が。
その風は、触れたものの時間を巻き戻す効果、或いは、触れたものに纏わりつく余計な事実を洗い流す効果を持っていた。世界が歪んでいることも、汚れてしまっていることも知らなかった、幼少の心に立ち返ったような錯覚がハレにはあった。あれはいつ頃のことだったろう。トーマと初めて言葉を交わした頃だったかも知れない。あのとき彼は十一歳で、自分は十歳だったとハレは思う。子供の頃の彼の姿が、いま、目の前にある彼の姿と、重なって見えたような気がした。
濃度を増してきた霧の中へ、紙飛行機は消えていった。あの紙飛行機は、朝日まで辿り着いただろうか。




