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湿林の泥水は奥地へと進むにつれて、少しずつ水位を増していった。それに比例するような形で、泥に足を取られるハレたちの進行速度は遅くなっていく。やがて文字通り泥のような足取りとなっても尚、ハレたちは前に進むほかなかった。長靴の高さも限界に近付き、靴の中への水の侵入を諦めかけていた矢先、ハレたちの前には突如として、木材で出来た人工の足場が現れた。足場はハレたちの進行方向である湿林の奥地に向かって、道を形作って続いている。ルドニークを出発して以来、久々に目にする人工的な建築物に、ハレの心は安堵を覚えた。
「ハレ」足場に上ろうとするハレに、先に上っていたバーンズが左手を差し伸べる。バーンズのごつごつとした手を掴みながら、「ありがとよ」とハレは答えて、足場へと上がった。
「ほい、ノア」次いで、ハレはノアへと手を差し出す。黒いレースのグローブを嵌めた右の手で、ノアはハレの手を掴んだ。「ありがとうございます」
足場へとノアを引き上げると、ハレは長靴の爪先を足場の木材に叩きつけて、その全面にびっしりと纏わりついた黒い泥をガシガシと落とした。「簡単にゃ落ちねーな、こりゃ」
その後方ではバーンズが、トーマを足場へと引き上げている。水位が上がってきた時点でドルミールへと戻されたバロンは、今はハレの腰に括り付けられた、革製のホルダーへと収められていた。
「ま、なんとか首の皮一枚繋がったってとこか」
腰に手を当てて溜め息を吐き出すと、ハレはそう言った。「ですね」とノアが返す。一行の声色はいずれも疲弊していた。慣れない泥水内での歩行は、想定していた以上に大きな疲労を、ハレたちの肉体と精神に与えたのだ。
バーンズとトーマの沈黙を不思議に思ったハレが振り返ると、二人は揃って無言を貫き、天を見上げていた。ハレは二人に倣ってみるが、そこに見えるのは自分たちに覆い被さるように茂る大量の植物と、変わらずに真っ白な濃霧だけだった。
暫しの静止を以て前方を向き直ったトーマは、無にした表情で静かに言った。「バーンズさん、この音」
「ああ」と天を向いたままのバーンズが答える。
(音……?)
再びハレは首を直角に曲げて空を仰ぎ、今度は目を閉じて耳を澄ましてみた。ノアも同じようにして瞼を閉じる。十数秒間そうしていると、バーンズとトーマが耳にしたものと同じ音が、二人の耳にも届いた。
遥か遠く、或いは地下深くから轟く、恐らくは巨大な何かを、別の何かに叩きつける音。それは轟音と呼ぶに相応しいものであった。距離が離れているからだろう、ここでは音は微かにしか聞こえないが、音の発生源へと近付いたのなら、耳を裂くような音量であろうことはハレにも想像がついた。大体三〇秒ほどの間隔を以て、音は断続的にハレたちのいる場所へと届けられている。その間隔の正確さから考えるに、この轟音は今に始まったものではない。自分たちがここを訪れるよりもずっと前から、この場所に届けられているものと考えるのが適当だ。つまり、自分たちは今、その発生源に向かって進んできたということになる。或いは、発生源がこちらに向かって移動してきているという可能性もないではないが、音の大きさとネブラ湿地林の環境条件から考えると、このような轟音を発生させながら泥の海を移動する物体が存在するとは考えにくい(が、本当にそんなものがあるのなら、それはそれで脅威ではある)。そして、ハレたちの前には道は一本しかなかった。恐らくはこの先に存在するのであろう集落に暮らす人々が拵えた、木材で組まれた泥の海の上を往く道だ。造りは割に頑丈で、ハレが跳ねても足場はビクともしなかった。周到な人物が指揮を執って、この地を開拓したのだろうということが伺える。
ハレは道の先へと視線を向けた。他の面々も同じように、この道の先へと目を向ける。白霧は相も変わらずに、五メートル以上の視界をハレたちに与えてはくれない。
「……ま、後には退けねえわな」
トーマたち三人へと目をやると「行こうぜ」とハレは言った。皆が頷く。「歩きやすくはなったが、これまで以上に気を付けて行こう。何か不自然な点があれば、すぐに足を止めて知らせてくれ」とバーンズは静かな、然し強かな口調で三人へと告げた。
ハレたちが集落へと辿り着いたのは、この日の夕刻のことであった。結局、足場を歩いている最中、不自然と言えるような出来事は何も起こらなかった。ただ一つ、歩みを進めるにつれて、轟音の音量が増していくということを除いては。
集落に到着する一時間ほど前から、轟音と共に地響きが起こり、ハレたちの足元を揺るがすようになった。音はどんどん大きくなっていき、やがてハレたちは(音が鳴っている間には)大声での会話を余儀なくされることとなった。遂に集落へと辿り着いた時、(分かってはいたものの)ハレたちは驚愕した。何故、このように鬱蒼とした霧の森で、何故、わざわざ木材で足場を組んでまで、何故、断続的に強烈な地響きと轟音に襲われるこんな場所で、わざわざ暮らす人々がいるのか、と。そしてその答えは、ここがまさしく地脈の収束地点が存在する場所だから、ということに他ならなかった。
「あれは……」
額に汗を滲ませながら、バーンズは集落の入り口から見て真正面に存在する、小高い丘を見つめて呟いた。一帯の地を覆う黒い泥とは打って変わって、丘の表面は白く、岩石らしき質感を持っていた。岩石として考えるとそれは途轍もなく巨大であり、端から端まで目測でも一〇メートル強はありそうであった。一見して神々しくもあるその光景は、超巨大な丸い岩石が、その地中から頭の天辺だけを覗かせているようにも見えなくはない。一行の立つ足場はその一部が、岩の丘へと渡れるようにもなっている。
「とりあえず、デュランって人を探してみっか!」
ハレの言葉に従って、一行は集落の奥地へと進んでいった。
集落はその全体が、やはり泥の海の上に組まれた、木で出来た足場によって構成されていた。この森の木々を使用しているのであろう木材は、その表面にくすんだ黄土色を持っている。集落の外と比べると、心なしか霧は薄まっており視界は良好に感じられた。先の巨大岩石を凡そ中心にして、集落は五〇メートル四方ほどに広がっており、民家と思しき小さな木造の建築が、足場の上には十数棟ほど立ち並んでいた。ジャンヌが語っていた言葉を、ハレは脳裏に思い浮かべる。人呼んで――。
「人呼んで『水上の集落』。デュランは集落のことを『ナボネブラ』って呼んでいたよ」
アシリアの古語でナボネブラとは、濃霧の中心地、或いは濃霧の発生地、というような意味を持つとも、ジャンヌは言っていた。その名前は集落のリーダーであるデュランが考案し、命名したのだという。もし仮に自分が集落を作るとしたら、一体どんな名前を付けるだろう、とハレは考える。ウルトラハレタウン、いや、グレートハレビレッジなんてのも良いかも知れない。無意識に、ハレの表情は綻んでいた。
約三〇秒間隔で訪れる轟音と地響き、そして何処からか聞こえてくる鶴嘴で岩を打つような採掘音を除いては、集落はしんと静まり返っていた。どうも、近場で採掘をしているような様子はない。では一体、音は何処から聞こえてくるのか。あれこれと考えを巡らせるうちに、ハレたちは集落の最も奥まった部分に建つ、一際大きな二階建ての民家へと辿り着いた。玄関脇の表札には、アシリア文字で『デュラン』とある。どうやらここが、デュランの住居ということで間違いなさそうであった。
「ごめんくださーい」
玄関の扉を二度ノックしながら、ハレは言った。返事はない。しばらく待ってから、ハレは声量を倍にして再度「ごめんくださーい!」と呼びかける。すると今度は一秒と待たずに、家の中から耳を劈くような怒号が響いた。「開いてるっつってんだろうが!! 勝手に入りやがれ!!」
全身の筋肉を強張らせて目を見張りながら、ハレは声の主の姿を、恐ろしく太い腕と脚を持つ屈強な大男だと想像した。サングラスをかけていたのなら尚更それらしい。自分が彼の幼馴染なら、グリズリー、もしくはマッスルガイという愛称で彼を呼ぶだろう。然し自分は彼の幼馴染ではない。ビッグボスか、或いはエンペラーと呼ぶのが的確であろう。
肉体は硬直させたまま、脳内だけを高速回転させるハレの肩に手を置いて、バーンズは静かに頷いた。真顔の表情を一ミリも動かすことが出来ないまま、ハレは玄関の前をバーンズへと譲った。「失礼する」と普段よりも更に厳格な声色で言いながら、バーンズは玄関扉を開いた。
室内はベンチ型の椅子が並べられた集会所のようになっていた。入り口から向かって左手側の奥には、一段の段差の上に教卓のような机が設けられており、学校の教室のようでもある。教卓に備え付けの椅子に座して、男は凄まじい速度でペンを走らせていた。
ハレの想像は概ね当たっていた。黒い肌を持つデュランの腕と脚は、湿林に生える樹木の幹と同等か、それ以上に太い。ぴっちりとした黒い半袖のTシャツは、彼の肉体の強靭さを一層に際立たせている。スキンヘッドだったのはハレにも想定外だったが、真っ黒いサングラスを彼はかけていた。口周りの黒い髭は、彼の豪快な性格を印象付けることに一役買ってはいるものの、その形は割に綺麗に整えられている。
ハレたちには目もくれず、彼は大急ぎでペンを走らせたまま、「ワーグナーか!? 用なら夕方以降にしろと言ったはずだ!! 急ぎじゃなかったらぶっ飛ばすぞ!!」とガラガラに掠れた声で怒鳴った。彼がこちらを向いたのは、彼の近くまで歩み寄ったバーンズに、「俺たちはルドニークのジャンヌさんに紹介されてここへ来た。あなたがデュランさんか?」と尋ねられてからのことだった。
視界の端に映る人影が知らない人間のものだということに気が付くと、ゆっくりと顔を上げながらデュランは立ち上がった。一八〇センチを超える高身長のバーンズと並んでも、彼の背丈は更に大きく、二メートルは優に超えているように見える。身長のみならず、鍛え上げられた肉体は宛ら筋肉の鎧のようでもあり、その風貌はまさに熊そのものだった。サングラスの向こう側から鋭い眼光でバーンズを睨み付けながら、デュランは言った。
「なんだァ? てめェら……」




