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エンデラの森の黒き魔女  作者: 暫定とは
四章『混沌』
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 一帯の原生林は真っ白な濃霧に抱かれている。視界は五メートル前後でホワイトアウトしてしまい、それより先の風景を視認することは、ハレたちには出来なかった。

「酷い霧だな」

 額の汗を左手で拭いながらそう言ったバーンズに、「『常霧(とこぎり)の森』と呼ばれるだけのことはありますね」とトーマは返した。トーマもまた、その額にはじんわりと汗を滲ませている。

 「二つ名は伊達じゃないってことか」とバーンズが言うと、トーマは無言で頷いた。

 一時間と少し前、ハレたちはこの地に足を踏み入れていた。『ネブラ湿地林(しっちりん)』――常霧の森と呼ばれることもあるこの湿林は、クラスィア大陸北側の沿岸部を覆う巨大な干潟の上に形成された、所謂(いわゆる)マングローブの一種である。ハレたちがこれまでに見たこともないような種類の、鬱蒼とした緑を密に茂らせるほか、時節を問わず深い霧に覆われているのがその最大の特徴であり、異名の由来ともなっていた。

 干潟。つまりハレたちの足元はその凡そ殆どが、海水及び河川からの微量な淡水を含んだ泥土だった。所によっては水位が上がっていて、泥水と呼んだほうが適当な箇所も存在する。この泥の地面への対応策として、ハレたちはルドニークで仕入れた、皮製の長靴を各々足に履いていた。履き心地は決して良いものではないし、履いていたところで歩きづらいことには変わりないのだが、バーンズがこれを用意してくれていて本当に良かったとハレは感じていた。これがなければ今頃は、自分たちの足がどうなっていたかということは想像するまでもない。


 ルドニーク出発から六日をかけてアレーナ砂漠を踏破したハレたちの眼前には、鼠色の岩肌が大部分を占める巨大な山脈が現れた。クラスィア大陸の最高峰である岩山をその中心に抱(いだ)く『ロカッチャ山脈』だ。東西に伸びる山脈を西に回避するような進路を取って、ハレたちはクラスィア大陸の北側へと足を踏み入れることとなった。

 ロカッチャ山脈によって南北に隔てられるクラスィア大陸の北側は、乾き切った砂海(さかい)が覆う南側とは打って変わって、湿度が高く、原生的な森林風景が広くを占める地域であった。海からの湿気を伴った風の流れを、岩の山脈が分断することが、この両極端的な気候の違いを生み出しているとされている。

 北上すること更に数日。やがてハレたちはこの熱帯のマングローブ、ネブラ湿地林へと辿り着くこととなる。日照を遮るものがない砂漠ほどではないものの、一定以上の高さで推移する気温と、異常な高さの湿度によって、一帯はじんわりとした蒸し暑さに塗(まみ)れていた。

「なあバーンズさん、こんなところに、ホントに人間が住んでいるのかよ?」

 うんざりとした声色で、額に水滴を滴らせたハレが言った。水滴が湿気によるものなのか、汗によるものなのか、最早ハレ本人にも分かっていない。そしてハレ以外の三人に関しても、それは同じことが言えた。ハレたち一行の着用する衣服は、軒並みしっとりとした水分を含んで、肌にぴっちりとくっついてしまっている。まるでこの環境に適応する為に生まれた、もう一枚の皮膚みたいにだ。易しくはない不快感を、それはハレたち四人に齎した。

 「確かに、とんでもない湿気だな」とバーンズ。「然しこんなところだからこそ、近年になるまで収束地点が発見されなかったのかも知れない。相当な物好きでもなければ、こんなところを探そうなんて思いもしないだろうからな」

「それもそうだ」

 死んだ目で頷くハレの頬を伝って、一滴の雫が顎へ、そしてぬかるんだ地面へと滑り落ちていく。聞いたことのない種類の鳥の鳴き声が、湿林の奥地から聞こえてくる。ハレは一旦立ち止まると、上空を仰ぎ、高くなった体温を外に吐き出すようなつもりで、溜め息を吹き出した(当然のように体温は少しも下がらない)。頭上に広がる木々の枝葉(しよう)は、霧に遮られてその天辺が見えなくなっている。

 この地では魔物に関しても、それ以外の動植物に関しても同様に、特殊な気候に適応するべく進化を遂げた独自の生態系が築かれているのだと、先刻トーマは話していた。不愉快な鳴き声を上げる鳥も、多分そこには含まれるのだろう。その姿をハレには想像することが出来ない。異様に大きな嘴(くちばし)を持っているかも知れないし、虹色に輝く羽毛を持っているかも知れない。どうせならその両方が良いとハレは考える。鳴き声は威嚇の為のものだろうか、求愛の為のものだろうか、ぼうっとした頭でハレは思索する。勿論答えは分からない。然し答えが分かったところで、それがどうだと言うのだとハレは思う。それがこの蒸し暑さから、自分を解放してくれるというわけでもないのに。

 幅広の川が大雨の日に形成してしまった淀みの部分みたいに、ハレの思考は進んでいく様子を見せない。ハレの頭に浮かんでくるイメージはただ、自分の脳みそが炎天下のアイスクリームみたいに、どろりと溶けていく映像だけだ。

「ハレ、はぐれると危険だ。あまり離れないほうが良い」

 前方から自身を呼ぶバーンズの声に、ハッとしてハレはそちらを向き直った。一行の姿は既に霧の向こうへと消えかかっている。「おーう、いま行くぜ~」と覇気のない声で答えながら、ハレは駆け足でバーンズたちへと合流した。

 「はぐれても探さないからな」とトーマが意地悪く言うと、「心配で泣きながら探すくせによ。素直じゃねーなァ、トーマさんは」とハレは返した。「言ってろ」とトーマ。にしししし、とハレは歯を出して笑う。

 「気温自体は砂漠や火山ほどではありませんが、こっちはこっちで堪えますね」眉間に皺(しわ)を寄せてつらそうなノアが、小さな口から言葉を零すみたいに言った。「まるで水の中でも歩いているみたいです」

 「少し休むか? ノア」とトーマが尋ねると、「あ、いえ! 大丈夫です」とノアは広げた両手をトーマに向けて見せた。「ただ単に暑いだけなので。ここのところはお陰様で、体調も安定しています」

 「そうか」とトーマは溜め息と共に吐き出すと、汗でずり落ちた眼鏡のブリッジを指で押し上げてから、グローブを嵌めた右手の甲で、額の汗をぐい、と拭った。

「いずれにしても、水分補給はこまめにな。ここでなら砂漠と違って、俺とカレントは幾らでも水を出現させられる。遠慮しないで好きなだけ飲め」

 柔らかな笑みをその頬に浮かべると「ありがとうございます」とノアは答えた。

 こういう時、精神力的な意味合いに於いて、一番強いのは案外ノアかも知れなかった。これまでの人生に於いて、彼女が身を置いてきた(というよりも置かざるを得なかった)環境が、彼女の精神をより強固で強靭なものへと研鑽(けんさん)させてきたのであろう。砂漠を歩いている最中も、ノアは報告の意味を持たせた最低限のものを別にして、ハレなら言葉にし続けていないとおかしくなってしまいそうな愚痴の数々の、凡そ殆どを零すことはしなかった。勿論、人一倍に気遣い屋なノアの性格もが、そこには関与しているのであろうが。

 それにしても、とハレは思う。「珍しいじゃねーの。トーマがノアの心配なんてよ」

 トーマをからかうつもりで、ハレは言った。「黙れ」とか「一生言ってろ」というような種類の言葉が返ってくるだろうと、ハレは無意識に想定していた。が、(想定とは異なる)余りにも素直で屈託のないトーマの返答に、ハレは虚を突かれることとなった。

「ノアは仲間だ。仲間を心配するのは当然だろ」

 始め、トーマが冗談で言っているのではないかとハレは疑った。然し、冗談として発言しているのであれば余りに笑えない種類のものではあるし、ハレが確認してみたところ、トーマの顔に冗談めいた色はなかった。本気、もとい当たり前のこととして、トーマは言ったのだ。その言葉に、ハレはトーマの変化を垣間見た。

 何か特別の事情でもない限り、トーマが自ら『仲間』とか『友達』といった単語を使うことは基本的にない。トーマはどちらかというと、そういう種類の言葉に暑苦しさを感じるタイプの人間だった(少なくともハレから見れば)。そんな彼が、今は他人を心配し、その理由を仲間だからだと躊躇うこともなく言ってのけている。それも、出会った時には連れていくことにすら消極的だったノアに対してだ。

 「ふ~~ん?」とハレはニヤニヤとした笑みを浮かべながらも、内心そのことを喜ばしく思ってもいた。自分にとってはトーマもノアも、等しく大切な仲間ではあるが、自分の独断で旅に同行させたノアを、トーマが当時どう思っていたのか、そして今はどう思っているのかということについて、ハレには知る由がなかったからだ(そしてそれはたった今明らかになった。ハレにとって祝福すべき方向性を以て)。

 「なんだよ」とトーマは鬱陶しそうにハレを睨む。「別に~?」とハレは飄々(ひょうひょう)として答える。「トーマも丸くなったなと思ってよ!」

 数秒間黙して、トーマは思案を巡らせた。トーマがこういう時に考えるのは大体、どうしたらハレのからかいを最小限に抑え込めるか、ということだ。今回も例外ではない。眼鏡のブリッジを押さえながら「否定はしない」とだけトーマは答えた。

 「トーマさんは前から優しいですよ」とノア。「いつも、調理しながら魚の小骨を取ってくれていたり、夜中に寝袋から這い出たハレさんのお腹に服をかけてあげたりしているの、私知ってます」

 ノアの口から突如として飛び出た辱めに、無言で顔を赤らめながら、半開きの口を不器用に歪ませるほか、ハレにはなかった。「ハレ、トーマにそんなことまでしてもらってるのか」とバーンズが仕方のなさそうに笑う。堪え切れない笑いを口の端から零しながら「そんなこと言ったらハレが可哀想だろ、ノア」とトーマは言った。

 トーマのフォローをするつもりが、別の問題を発生させてしまったことに気付いたノアは、「あ、あれ!?」と目を丸くさせながら、裏返った声で言った。「す、すみませんハレさん! 私、そういうつもりで言ったんではなくてですね! ほら、ハレさん寝袋から這い出ても、自力で戻ってくる日もあるからご立派ですよ! すごいです!」

 「あ、ああ……」とハレは魂が抜けたみたいな声で答える。爆発しそうな笑いを堪えながら、「ノア、もうやめてやれ」とトーマが言う。

 以降もしばらく、ノアの的外れなフォローは続いた。ハレの魂が本当に飛んで行ってしまう前に、と止めに入ったバーンズの言葉によって、このやり取りは収束した。その後は時折現れる魔物を撃退しつつ、意気消沈したハレの良いところを皆で上げながら、一行はネブラ湿地林を進んでいった。ハレとトーマのやり取りについて、「リリとシンを見ているようで懐かしい」とバーンズは言った。

 「シンさんとトーマさんは少し似てますよね。リリさんという方も、ハレさんに似ているのですか?」とノアが尋ねると、「喋り方や見た目は全然違うけど、負けず嫌いなところはそっくりだよ」とバーンズは答えた。

 「バーンズさんの子供で、ドボロの本当のパートナーなんだよな。いつかは会ってみたいもんだぜ」と、その時には既に機嫌を良くしていたハレが言った。

 「会いに来ればいいさ」バーンズが微笑んで答える。「旅が終わって落ち着いたら、旅行がてら三人で遊びに来るといい。リリやルチカは、バロンにも会いたいだろうしな」

 バーンズの言葉に、ハレは後方に連れたバロンの表情を仰ぎながら、「だとよ、バロン」と告げた。いつも通り、バロンは半開きの口から並びの悪い歯を覗かせている。冬眠から目覚めた熊みたいな動作で、バロンはゆっくりと頷いて答えた。「バロンも、ミんナに会いたイ」

「ま、招待しておいて言うのもなんだが、土と遺跡以外には何もないところだけどな」

 自虐的に笑いながらバーンズがそう言うと、「それ、ルチカさんも言っていました」とノアが返した。


 (旅が終わったら)とハレは思う。

 そもそもこの旅が無事で終わる保証というものは、勿論ない。同様にその終わりの時期に関しても、殆ど読めてはいないということが言える。然し、この際時期は兎角として、仮にこの旅が無事で終わったとする。この場合の無事とは、この旅の主要メンバーである自分とトーマ、そしてノア、アーツであるバロンとカレントの、肉体的生存を意味している。そして旅の終わりとは即ち、プリマギアを目覚めさせることによってノアの病弱を克服すること、並びに、可能であるならばアーロンを説得し、夜明けの月光の活動を終息させること。この二点である。

 旅の終わり――その時自分たちの関係性は、如何(いか)なるものになっているのだろうか。

 ハレは普段、あまりネガティブな方向に物事を考えることはしない。然しこの数週間、取り分けトーマがネルビアンコであることが発覚して以来、ハレにはどうしてもそのことが気掛かりだった。嫌な予感というよりかは、虫の知らせにそれは近い。何か良くないことが起ころうとしているのを、ハレはひしひしと感じ取っていた。

 旅に出た時にはなかった何かが今、自分たちの間には確実にある。或いは、旅に出た時に立っていた場所とは、明らかに毛色の違うところに自分たちは立ってしまっている。それがどんな形をしていて、どんな色をしているのかはハレには分からない。それを確かめることをハレは恐れていた。ハレが想像するに、それは幾重にも分岐し、それぞれの先端が別々の方向を向いた矢印の集合体のようなものだった。自分たちのみならず、良くも悪くも様々な人物の意思が、それをそういう形にしてしまったのだろうとハレは推測する。それを呼ぶ術(すべ)は最早、混沌という言葉を除いて他にない。

 (旅が終わったら)とトーマは思う。

 旅の終わり――その時自分たちの関係性は、如何なるものになっているのだろうか。

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