36
東アンモス平野は深い暗闇を抱いている。一帯はすっかりと日が暮れて、完全なる夜だった。そのお陰、と言うべきか、フォルス灯の明かりが橙色に照らすファンテーヌの街へと、ハレたちは迷うことなく辿り着くことが出来た。
トーマの巻取り時計は午後の八時を指している。夜闇と燈火が鬩ぐ水の都は、昼間の華やかさとは一味違った風雅な面持ちで、ハレたちを迎え入れた。
日が落ちて完全に暗くなるような時間まで、ハレたちが歩き続けることは珍しい。二時間ほど前(辺りはまだほんのりと明るかった)、到着が夜遅くになってしまいそうだから、もう一泊野営をして明日の朝ファンテーヌに入ろうかと、ハレたちは話をしていた。然し、スチルバティクスで貿易船を降りるよりも少し前から崩れ始めたノアの体調と、地平線に見え始めていたファンテーヌとの距離を鑑みて、ハレたちはファンテーヌまでを、今夜中に歩き切ってしまうことに決めたのだ。
長い溜息を吹き出すと、「やーっと着いたぜ」とくたびれた様子でハレは言った。次いで、ハレはノアへと尋ねかける。「ノア、大丈夫かよ?」
カレントの背中に背負われたノアは、軽く咳き込んでから答える。「頭が少しぼーっとしますが、大丈夫です。ご迷惑をおかけしてすみません」
水棲生物を思わせる体躯を持つカレントの肉体が、触れるとひんやりと冷たいことをハレは知っていた。発熱したノアをカレントに背負ってもらっているのもその為だ。
「迷惑なんかじゃねえよ。楽にして、自分のことだけ考えてな」
「ありがとうございます」とノア。「カレントさんも、ずっと負ぶってくださってありがとうございます」
「気にするな」とカレントはいつもの(水中で聞くような)くぐもった声で答える。
こくり、と小さく頷くと、ノアは長い睫毛を持つ両の瞳をぱたりと閉じて、小さな吐息を漏らした。呼吸の音がぜえぜえとしていて、体力が消耗しているのが分かる。かなり無理をしている、とハレは思う。
ノアは他人に気を遣いすぎる性分だ。「大丈夫か」と聞かれたら、ある程度きつい状態でも「大丈夫です」と答えるのがその常である。そんなノアが、「頭がぼーっとする」と自ら申告するということは、実際に彼女を襲っている症状は、頭がぼーっとするという程度のものではないだろう。意識が朦朧としている、或いは、激しい倦怠感に襲われていると見てもいい。何にせよ、他人に気を遣っている余裕もないほどに、彼女は疲弊しているということだ。
ハレはトーマへと目をやった。その視線には「急ごう」という意思が込められている。トーマもそれを察してか、何も言わずに頷くと、続けて言った。
「この時間じゃ宿には泊まれない。シンさんの部屋に行ってみよう」
「ああ」とハレ。背後のドボロが頷く。
マドラインを出発する前、ハレたちはマドラインの役場から、シンに宛てて鳩を飛ばしていた。アビスシルクを入手した旨と、いつ頃を目安にファンテーヌに戻れる予定だ、という内容を認めて。とはいえ、具体的に何日の何時に戻る、ということが伝わっているわけではない(そもそもそれが分からないから目安の時期を伝えているのである)。夜の八時なら出掛けていたり、寝ていたりする可能性は低いだろうが、突然の帰還にシンは驚くかも知れない。然し、そんなハレの心配は杞憂に終わった。
「来ると思っていた」と玄関を開けるなりシンは言った。「アンタはエスパーか何かかよ」とハレは薄い笑みを浮かべて返す。
が、実際にシンの部屋に入ってみると、彼が本当にハレたちの帰還を推知していたかの如く、そこには既にハレたちの夕食と、ソファには就寝時に使う為の毛布が用意されていた。部屋の中には小さなランプの明かりが灯されているほか、窓の外からは街灯の光が入っており、仄明るかった(カーテンは開いている)。
「どうして俺たちが戻ってくるタイミングが分かったんですか?」とトーマが尋ねると、「それよりも」とシンはカレントに背負われるノアを指差した。「まずは病人を寝かせた方がいいんじゃないか?」
「尤もです」とトーマは頷き返す。
「俺のベッドを使うといい」とシンが言ってくれたので、カレントはシンのベッドへと、ノアの身体をゆっくりと降ろした。「すみません」と掠れた声でノアが言う。彼女の顔は真っ赤になっていた。ハレはノアの額に手を触れてみる。そこには酷い熱が生じていた。
「謝るこたねえよ」とハレは言いながら、キッチンの方へと歩いていく。「シン、悪いけど水もらうぜ」
「好きに使ってくれ」とシン。「前に会った時よりも症状が酷いようだが、旅の最中もこんな様子だったのか?」
眼鏡のブリッジを押さえながら、トーマが答える。「いえ、あれ以来調子は良かったんですが、ここ数日で急速に」
少しの沈黙を設けた後で(その沈黙には頷きの意味も含まれていた)、「今日はもう病院は閉まっている。明日、朝一で診てもらおう」とシンは言った。
コップに注いだ水をハレがベッドの傍まで持っていくと、ノアはそれを受け取るべく、半身を起こしてベッドに腰掛けた。ハレが差し出したコップを、ノアは両の手で大事そうに受け取り、そこに注がれた水を、二口に分けて彼女はゆっくりと飲み干した。彼女の額には汗が滲んでいる。漆黒の前髪は、そこにぴたりと貼り付いてしまっていた。
空になったコップをノアから回収すると、ハレは再度、そこにたっぷりの水を注いで、ベッドサイドのミニテーブルへと置いた。ガラス製のコップと木製のテーブルが、ことん、と音を立てて遭遇する。その空虚な音の響きは、夜の静けさを一層に際立たせる種類の効果を持っていた。
「色々としていただいてしまって、すみません」
「謝る必要ねぇって。仲間を助けるのは当たり前だろ」
「ハレさん」とノアはハレへと視線をやった。その声色には感嘆の意味が込められている。苦しいときに他人に優しくされることの有難みというようなものが、ノアの胸には駆っていた。僅かに潤んだ瞳と、掠れたままの声で、「ありがとうございます」とノアはハレへと告げた。すると、ハレの心臓を誰かの指先が悪戯につついた。誤魔化すように視線を逸らすと、「いいから寝てろ」とハレは言った。その仕草は少しトーマみたいだと、ノアは思った。
「ノア」とシン。「症状が悪化していることについて、何か心当たりはあるか? 打てる手があるのならば、先に打っておくべきだと思うが」
シンの問いには、ノアは俯いて黙った。宛ら、心当たりはあるがそれを伝えるのは憚られる、といった具合だ。
ノアにとって避けるべきは、自分がそれを語ることで、殊更にハレたちの(特にハレの)心配を煽ることだった。然し、ことハレを前にして、今更隠し事などは出来はしないということも、ノアには分かっていた。例え自分が黙っていても、ハレは無理にでもそれを聞き出そうとするだろう。そうされてまで尚、頑なに喋らないほどには、自分はハレたちを信用していないわけではない。であればそれは始めから、自らの意思によって、自らの口から語られるべきなのだ。
板張りの床を見つめたまま、「おばあさまが言っていました」と、ノアは静かに口を開いた。
「前にもお話したように、私は黒き爪の巫女の末裔、ということらしいです。巫女には十八歳前後を基本として、能力が最も強まる適齢期というようなものがあるとされています。魔女プリマギアが封印されるよりも前、巫女の務めは十五歳から二十歳頃の娘が、常に複数人で行っていたといいます。勿論、当時はプリマギアの能力も安定していたし、巫女の能力を持つ者も多かったから、それによって体調不良などが発生することはありませんでした。ですが、これも以前にお話ししたように、現代に於いて、本来ならプリマギアが吸収、浄化すべき人々の負の感情は、プリマギアという制御を失った状態で、巫女の能力を持つ私に直接送り込まれる流れが作られてしまっています」
一拍の間を設けると、ノアは続けた。「私はいま、十五歳です。症状には以前から波のようなものはありましたが、今このタイミングで、それが極端に悪化していることに理由を付けるとしたら――」
俯いていた顔を上げて、ノアはシンの黒い瞳をそっと見つめると、次を言った。
「私の、巫女としての能力が強まっているから、というところでしょうか」
皮肉なものだ、とハレは思う。時代が時代なら重宝されていたのであろう、若き巫女だけが持つ特別な能力の高さこそが、現代のノアを逆に苦しめているのだから。そして、かつては彼女らを支えていたであろう周りの者による労いというようなものも、いまこの世界に於いては、その凡そ殆どが欠乏してしまっている。
言いようのない遣る瀬の無さに、ハレは両の拳をそっと握り締めた。無力な自分を、ハレは不甲斐なく思う。力が欲しい。ノアは勿論、いずれはトーマやアーロンをも、助けることの出来る力が。
「なるほどな」
相槌の後に少しの黙考を挟んでから、「苦しいところに説明をさせてすまなかった。ゆっくり休んでくれ」とシンは言った。寝室にノアを残して、ハレとトーマ、そしてドボロは、シンと共にリビングへと移動した。
「簡単なものですまないが」と言って、シンはリビングのテーブルにハレたちの夕食を配膳した。前にも同じことを言っていた気がする、とハレは思う。この日の夕食はふっくらとした白パンと、蒸し鶏のサラダ、そして冷製のコーンスープだった。
「いつもすみません。何から何まで」と、食事に手を付ける前にトーマは言った。テーブルとセットの木製のベンチに横並びに座るハレとトーマに対し、向かい側のチェアに腰を掛けながら、シンは静かに首を振るった。
「気にするな。エンデラの森や夜明けの月光については、俺も色々と気になっていたところだったんだ。お前たちが動いてくれていて、俺のほうこそ助かっている」
シンがそれらの事柄を気にする理由について、ハレたちは詳細を聞かされてはいなかった。前回も、そして今回も同様に、今のところそれが語られる気配はない。ハレの頭はそれを気にかけるほど回ってはいなかったし、トーマに至っては、意図的に質問を避けていた。それを聞いてしまえば、ただでさえ難題な自分たちの旅の目的が、更に複雑化するような予感があったからだ。
そしてシンも、特に聞かれることがなければ(今のところは)それを語るつもりはなかった。シンにとって重要なのは(今のところは)、ハレたちと自分の利得が重なる部分に於いてのみ、自分の代わりに彼らに動いてもらうことだったからだ。余計な、そしてトーマの予想通りに複雑な情報を不用意に与えて、彼らを混乱させる必要はない。
二十一時過ぎにシンの部屋を訪れたハレたちが、食事を終えたのは二十二時前のことだった。満腹感に見舞われたハレは今にも眠りに落ちてしまいそうだったし、時間も時間だった為、ハレたちとシンはこの晩は、お互いに情報の共有は最低限の事柄に絞り、早々に眠りの床に就くこととした。
ハレたちはシンに、『ルチカとはリヴィールで無事に合流でき、アビスシルクも入手出来たこと』を(手紙にも認めたが改めて)報告し、一方のシンは『もう一つの装飾品・カオスライトを入手する為のヒントは手に入っている』ということをハレたちに告げた。
トーマはリビングのソファに寝転び、シンはチェアに腰掛け、ハレとドボロはノアの眠る寝室の床に座し、壁に背中を預けて眠った(アーツであるドボロは実際には眠らず、目を閉じて朝が来るのを静かに待つ)。自分は床でもいい、とトーマは言ったのだが、「疲れも溜まっているだろう」とシンはトーマにソファで眠ることを勧めて譲らなかったので、トーマは止むを得ず、その言葉に甘えることにした。
壁に寄りかかっていたはずのハレは明くる朝、ドボロの大きな手を枕にして、寝室の床に大の字になって寝転がっていた。一度こうなってしまった以上、誰が呼び掛けても、肩を揺すっても、いびきをかいたままハレは起きる気配すら見せない。
「いつもこうなのか?」とシンが聞くと、何とも言えない表情でトーマは頷いた。「でも特効薬があるんです」
「特効薬?」
得意気に頷くと、間の抜けた顔で眠るハレへと、トーマは静かに歩み寄る。何が起こるのかを察したドボロは、困ったような笑みをトーマへと向ける。シンに対して発するよりも幾らかぶっきらぼうな声色になって、トーマは言った。
「おいハレ、シスターマリーの授業に遅れるぞ」
先ほどまでの熟睡が嘘のように、ハレはパチリと目を開くなり、床から飛び起きながら「シスターマリー!?」と声を荒げた。呆れたような笑みを浮かべながらも、シンは納得の意味も込めて頷いた。激昂したシスターマリーの恐ろしさを、シンとて知らないわけではなかったからだ。
朝一でハレたちはシンと共に、王立学院に併設される病院を訪れた。前回ノアを診てくれた医師が、今回も診察を担当してくれた。様子を見る限り、どうやらその医師がシンとは顔見知りらしいことがハレにも分かった。医師から処方された幾つかの種類の薬を受け取り、ハレたちは病院を出ると、以前にもシンに飲み物を奢ってもらった、広いテラス席のある喫茶店へと赴いた。
「奢るから好きなものを頼め」とシンは言った。茶色と白を基調とした、小奇麗な制服に身を包んだウェイターに、シンは人数分のサンドウィッチと、自分のアイスコーヒーを頼んだ。トーマはアイスティーを、ノアは水を、ハレはヨーグルトドリンクを、それぞれ順番に注文した。
「お姉さん、ハチミツはある?」
ハレがウェイターに尋ねる。
「パンケーキ用のものが御座います」
「少しもらってもいい?」と続けてハレが聞くと、「ご一緒にお持ちいたします」とウェイターは微笑んだ。右手の親指を彼女に向けて突き立てて、ハレはニッコリと笑った。
ウェイターが席を離れてから数秒の沈黙の後で、「何に使うんだ?」とシンが尋ねた。トーマが答える。
「こいつ、ヨーグルトドリンクにハチミツをかけて食べるのが好きなんです。孤児院でもヨーグルトドリンクが出ると、パン用のメープルシロップを余分にくすねて、よくやってました」
「ちょっと待て」とシン。「シスターたちがメープルシロップの減りがおかしいって話してるのを聞いたことがあるぞ。あれはハレの仕業か」
呆れ顔で言ったシンに対し、「まさしく」と何故か自慢げになってハレは返す。「俺の噂もそんなところまで広がってるとはね~。人気が過ぎるってのも考えモンだなァ!」
広がっているのは孤児院の中だけだし、噂の内容は人気者ハレへの好評ではなく、メープルシロップ泥棒への不審だ、とシンは思いつつも、口には出さずにそれを飲み込んだ。まともに反応を返していては、いつまで経っても話が進まない。
「そういうことにしておこう」と、溜め息交じりにシンは言った。仕切り直すように咳払いを挟んでから、シンは椅子の隣に置いた、(朝、部屋を出る時からずっと持ち歩いている)銀色の金属光沢を放つ四〇センチ四方ほどのトランクを持ち上げると、それをテーブルの上へと置いた。
その瞬間、ハレの表情が歪んだ。
(なんなんだ、この感じ……。前にもファンテーヌに来た時、同じような感覚があったような……)
昨夜、ファンテーヌに到着する少し前から、ハレの頭には耳鳴りのような感覚が断続的に訪れていた。疲れが溜まっているだけだろうとハレは看過していたが、今朝になってもその感覚は、消えることなく続いていた。そして今、シンが持ち出したトランクを意識的に視認した途端、それは強烈に強まった。
「俺がお前たちに協力する理由を、まだ話していなかったよな」とシン。
決して嫌な感覚ではない。寧ろハレにとって、それは歓迎すべき感覚であった。それは胸の高鳴りにも似ている。が、胸を高鳴らせるような要素を認識して初めて発生するそれとは違い、これはハレの認識とは無関係のところで発生しているようであった。事実、ファンテーヌに近付くことや、このトランクを視認することには、ハレが胸を高鳴らせるような要素というものは含まれていない。何者かの意識が、そこには関与しているようであった。
何者かが、何らかの意図を持って、意識的にハレの頭と心に耳鳴りのような感覚を齎している。或いはハレの胸を高鳴らすべく、精神的な(或いは霊的な)拳を以て、その人物がハレの心臓を叩いていると言ってもいい。扉を挟んでこちら側のハレに、扉の向こう側からノックで呼びかけるみたいにだ。
「結論から言おう、ハレ」
新しい風が、ファンテーヌを吹き渡る。ハレの心を揺さぶるような強い風だ。しかし敵意を含んだものではない。まっさらなスタート地点へと、連れ戻されるような感覚をハレは得た。ここからもう一度、自分の旅は新しく始まるのだというような。
「ドボロと新型フォルスチェインは、ここに置いていってもらう。このトランクの中では、とあるアーツのドルミールが、新たな使役者との出会いを待って眠っている。名前はバロン。俺たちにとっては思い入れのある、大切なアーツだ。お前にはバロンを目覚めさせて、バロンと共に旅を続けてもらいたい。今度は新型フォルスチェインを必要としない、正真正銘、お前自身のアーツとして」
新たなる歯車が、運命に噛み合う。回転の速度が、僅かずつ速まっていく。真昼の空に紛れていても、月は注意深く、そして強かな眼差しでこちらを見つめている。




