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エンデラの森の黒き魔女  作者: 暫定とは
幕間二話『流転』
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 ルチカが最初の目的地をリヴィールに決めた理由は、大きく二つある。

 一つ目の理由は、以前の旅でここを訪れた際、様々な文化が混ざり合い、良い意味で混沌とした雰囲気を持つこの街に、ルチカは強い魅力を感じていたからである。

 ヒマロス大陸で最大の流域面積を持つリヴィール川。古の時代よりこの川に沿って栄えてきた、異なる文化を持つ無数の民族によって、この河口の港街は形作られた。文化の一部は混ざり合いながらも、その多くが、今もそれぞれの風合いを色濃く残している。そして今や(ヒマロス大陸の海の玄関口と呼ばれることもある)このリヴィールには、海の向こう側の文化もが、常に新鮮な状態で届けられる環境が兼ね備えられているのだ。地形と時代のこのような背景が、今の混沌としたリヴィールの街を造り上げてきた。これから先の未来についても、同じことが言えるといっていいだろう。

 コンサバティブであり、アナーキーでもある。或る時にはニュートラルだが、また或る時にはエキセントリックにもなり得(う)る。それはファッションのみならず、食文化やライフスタイル、物事の考え方についても同様にだ。この街が自分に与えるであろう、刺激的な影響をルチカは求めていた。

 そしてもう一つ、ルチカがリヴィールに来た理由は、世界的に有名なファッションデザイナーのクリスに会う為――もとい彼女に弟子入りする為だった。

 彼女がリヴィールに別荘を持っており、たまの休暇を飼い猫のニャブと共にこのリヴィールで過ごすことは、或る程度意識的に(職業的か、あるいは使命的といってもいい)ファッション雑誌を読む人間なら、大抵は知っている。

 彼女の動向をくまなくチェックしたルチカは、この年の五の月初旬から中旬にかけての数日間を、彼女が別荘で過ごすことを推知し、そのタイミングに合わせてコントゥリを発った。上手くいく保証はなかったが、幸運なことにリヴィール到着の翌日、朝の市場を気まぐれに散策していたルチカは、早くも彼女を発見することとなった。

 帽子とサングラスで変装してはいたが、嫌というほどの高身長とスタイルの良さで、それが彼女であるとルチカには一目で分かった。不躾とは思いながらも彼女の後をつけ、彼女が別荘に入っていくところで、ルチカは声をかけた。

「弟子を取れるほど暇じゃないのよ、アタシ。悪いけど他をあたって頂戴。カワイイお嬢ちゃん」

 初めて会った時の印象は、雑誌に載る際のコピーの通り、『冷徹にしてストイック、妥協知らずの仕事〝ウーマン〟』といった感じであった。

 一筋縄ではいかないと思いつつも、ルチカはまったく絶望しきったわけではなかった。むしろ断られるのは想定内だ。相手はスター。こちらはどこの土から採れたかも知れぬ、まるっきりの芋娘(いもむすめ)。たった一度の交渉で上手くいくなどとは、ルチカとてハナから思ってはいなかった。

 翌朝ルチカは午前五時から、クリスの別荘前で頭(こうべ)を垂れて、彼女が現れるのを待った。十一時になって家を出てきたクリスは目を丸くしたが、すぐにルチカの前を去っていった。

「お願いします! 弟子にしてください!」

「……嫌よ。アタシ休暇中なの。邪魔しないで」

 明くる日も、

「クリスさん、お願いします!」

「はいはい。お仕事はマネージャーを通して頂戴ね」

 明くる日も、

「弟子にしてくれるまで、ここを動きません」

「そんなこと言って、いつもアタシが帰ってくる時間にはいないじゃない」

「お腹も空くし、眠くもなるので」

「あなたって、真面目なの? 馬鹿なの?」

「馬鹿真面目です」

 明くる日もルチカは、頭を下げ続けた。午前十一時に、クリスが決まって家を出ることが分かったルチカは、十時五〇分頃から家の前で、彼女が出てくるのを待機するようになった。

「弟子にしてください! お願いします!」

「はいオハヨー」

 ベリーショートにした髪を、クリスは虹のようにカラフルに染めていた。雑誌に載る時や人前に出る時には、一八〇センチを超えるスタイルの良いスリムな身体に、上下ともに白く、パンツがベルダウンのスーツを彼女は纏い、同じく白いエナメルのハイヒールと合わせていることが多い(余談だが彼女に乳房(ちぶさ)はない)。

 リヴィールの街で外出をする時の彼女は、黒のキャップとサングラス、白いパーカーのフードで顔を隠し、グレーのスキニーと緑のスニーカーを履いていることが多かった。どのような服を着ても様になっているということは、敢えて言うまでもない。ルチカにとって『特筆すべき』と言えるようなことは、そのような格好をクリスがしていると、一見して彼女が男性なのか女性なのか、判断に迷うというようなことくらいだった(彼女の性別に関しては『どちらとも言えない』というのが正確なところだが、ルチカを始めとするクリスのファンや、クリス自身は基本的に、彼女を女性として扱うのが常であった)。

「おはようございます。クリスさん、私を弟子にしてください」

 その日も、クリスは十一時に玄関に現れた。しかし出掛けるわけではないらしい。玄関を開けてすぐの段差に腰を下ろすと、彼女はポケットから煙草とマッチを取り出して、自身の隣に並べた。冬眠から目覚めた野生動物ような、非常にゆったりとした所作で、彼女は一本の煙草を取り出し、それを咥え、一本のマッチを摘み、箱に擦り合わせ、煙草に火をつけた。口を窄(すぼ)めて、長い息とともに白い煙を吹き出してから、クリスはようやく口を開いた。

「あなたも飽きないわねー。どんだけ暇なの?」

 顔を上げると「ルチカです」とルチカは名乗った。

「聞いてないわよ。あなた幾つなの?」

「十七になりました」

「十七の娘をほったらかして、親御さんはどこで何してるのよ」

「アンモス大陸の西端の村コントゥリで、父は土器造り、母は服作りで生計を立てています。両親を説得して、私はここに来ました。あなたの弟子になる為に」

 ブラウンの瞳を持つ切れ長の目を、クリスは丸くした。そこに宿っている意識は差し詰め、『コントゥリという辺境の村があることを認知しており、且つそんなところから一人で出てくる若者が(しかも女の子が)いることに驚きを隠せない』といったところだろうか。

「……あなたって、本当に馬鹿なの?」

「そうかも知れません」

 翌日は雨だった。ルチカの行動は変わらない。十一時を少し回ったところで、クリスは玄関から顔を覗かせた。

 今日も彼女は出掛けるわけではないらしい。それに煙草を吸うわけでもない。外に出るつもりこそないのに、十一時を回ったからには、もしやルチカがこの雨の中で頭を下げているのではないかと考えてしまい、クリスはそれを確かめずにはいられなかったのだ。弟子にしてもらえるかどうかを勝ち負けで表現するとしたら、(良くも悪くも彼女の意識の中に登場したという意味で)この時点でルチカの勝ちは、ほぼ決まりかけていた。ルチカも勝ちをほぼ確信していた。

 心底鬱陶しそうに表情を顰(しか)めると、溜め息交じりにクリスは言った。

「ほらいた。ああ、嫌になるわよ。あなたって子は本当に、本当の本当に馬鹿なのね。もう分かったから、そんなところで地面を見つめていないで、うちへ入りなさい」

 ずぶ濡れで玄関に入ったルチカを、「ニャ」と鳴いてニャブは出迎えた。クリス家の中は強盗に荒らされたみたいにごった返していて、足の踏み場もなかった。クリスはシャワーと服を貸してくれた。カウンターチェアに腰掛けたクリスは、ルチカの髪が乾くまでの間、雑多な質問をルチカにぶつけた。

「これまで何してたの」

「コントゥリの学校で、最低限の教養を学びました。十三歳から十四歳にかけての一年間、わけあって世界中を旅していたこともあります」

「あなたは何になりたいの」

「ファッションデザイナーです」

「あなたには何が出来るの」

「刺繍を少し。でも素人以下です。我流でやってきた母に、付け焼刃で教わった程度です」

 つまらなさそうに宙を見つめながら、「ふうん」とクリスは返した。それからチェアを立つと、ごった返す部屋の中で異色を放つ、嫌に整頓された棚(あとから分かったことだが、これは彼女の仕事道具がしまわれている棚だった)の中から、裁縫道具一式を取り出して、ダイニングテーブルの上に放(ほう)った。「見るだけ見てあげるわ。やってみなさい」

 紫の布と、金と赤の糸を手に取ると、ルチカは小一時間をかけて花の刺繍を縫った。花にも太陽にも見えるように、ルチカはそれを仕立てた。「これは何」というクリスの問いに、「花です」とルチカは答えた。完成した刺繍をじっくりと観察するように、クリスは一頻り見つめた。「ふうん」と犬が鳴くように、彼女は一度だけ言った。

「……腕は、まあ普通ね。細かいところは荒いけれど、概ね綺麗に出来ている。センスも悪くない。配色はとても良いと思うわ」

「ありがとうございます」

「でもね、何がやりたいのかが分からない。花なら花を、星なら星を、デザイナーなら縫うべきだわ。これはそのどちらにもなりきれていない。あたしたちは音楽家や画家ではない。小難しいことを表現する必要はないの。ファッションを芸術とするなら、その表現者はそれを着るモデルや、一般の民衆。あたしたちはね、裏方なのよ。楽器を準備する調律師と一緒。だからデザインに対して、深い意味やストーリー性を持たせる必要はない。ただ美しく、整合性の高いものを造ればいい」

 なるほど、とルチカは思った。何かの雑誌のインタビューで、彼女が同じようなことを語っていたのを思い出す。「デザイナーでありモデルでもある自分の立場は少々特殊だが」という言葉で、そのインタビューは結ばれていたと思う。

 うーん、うーんとしばらく唸った後で、「半年間」と諦めたようにクリスは言った。

「半年間だけ、あなたに時間を割いてあげる。延長は無しのポッキリ半年間」

「本当ですか!?」

「性別以外は嘘吐いたことないのよ、アタシ。でもね、ちょっとでも手を抜いたり、途中で芽が出ないと判断したら、その時点で切り捨てるわ。あなたはね、確かに悪くない原石だと思う。良き師匠とか、良きパートナーが才能の原石を磨くと言う人がいるけど、あんなのは嘘っぱちよ。アタシは誰にも磨かれたりしなかった。あなたもそうなさい。アタシは技術を教える。でもあなたを磨きはしない。あなたを磨いてあげられるのはあなた自身だけということを、忘れないでおくこと」

 「それから、アタシのことはクリスさんじゃなく、ママと呼びなさい」と、最後にクリスは付け加えた。一度、誰かにそう呼ばれてみたかったのだという。自分の母親のことすらそんな風に呼んだことのなかったルチカは初めは戸惑ったが、数日もすると思いの外、その呼び方にも慣れてしまった。

 こうして、ルチカはクリスに弟子入りすることとなった。それが二ヶ月前のことだ。ぎちぎちに詰め込まれた自身のスケジュールを、クリスは半年後に向けて更にぎちぎちに詰め込んで、半年の休暇を確保してくれた。とはいってもスケジュールを調整するのは、小柄で眼鏡をかけた彼女のマネージャーだ。リヴィール内に宿を取って滞在していた彼は、翌日にクリスの知らせを受けると、大慌てでクリスの別荘へとやってきて、泣きながら半年後のスケジュールを組み立てていた。

 クリスの勧めで、ルチカは取ってあった宿をキャンセルして、クリスの別荘に転がり込んだ。クリスが(冒頭の会話のように)ルチカを溺愛するようになったのは、それから一週間ほどして、ルチカの整理整頓好きと、料理の腕前を知った後のことだった。

 ルチカの作ったオムレツを食べたクリスは、「美味しい。美味しすぎる。ルチカちゃん、デザイナーより料理人になった方がいいんじゃないの?」とべた褒めした。喜ぶべきか落ち込むべきか、ルチカは戸惑った。


 そして、現在。

 ヒマロス大陸西側の海に面したリヴィールから見て北東に位置する、珊瑚の死骸で出来た特殊な地形をルチカは探索していた。潔癖そうな見た目に反して、自らの足でフィールドワークを行うことに重きを置くクリスの勧めによって、ルチカはこの地を訪れることになった。『珊瑚廊(さんごろう)』などと呼ばれるこの珊瑚の大地は、ここでしか手に入らないような珍しい種類のものも含めて、様々な色味の顔料を採取出来ることで有名だった。

 普段好んで着用する可愛らしいワンピースやドレスとは打って変わって、この日のルチカは機能性のみを重視したサファリジャケットを、細い身体に纏っていた。紺瑠璃(こんるり)のロングヘアも、ルチカはいつものシニヨンにはせずに、簡単なポニーテールにしている。

 ルチカが(クリスに惜しまれながら)リヴィールを発ってから、既に四日が経つ。出発の日、サファリジャケットを着たルチカを見たラメールは「これはこれで可愛いけど、ちょっとおかしいわね」と少しだけ笑った。

 「デザインする上で大事なのは、常にニュートラルな気持ちでいられること。他人の目は気にしない。だから自分がどんな服を着ていたって、あなたには関係ない。裸でも同じ歩き方が出来るくらい、堂々としていなさい。可愛い服を着なきゃ出掛けられないなら、まだまだ甘ちゃんよ」と言って、クリスはこのサファリジャケットをルチカにプレゼントした。

 これまでの自分を捨て去るような、複雑で新鮮な気持ちで、ルチカはそのジャケットに袖を通した。ルチカの為に拵えてくれたものらしく、サイズはぴったりと合った。それから四日が経った今では、自分にとってもう一枚の皮膚であるかのように、ジャケットはルチカに馴染んでいた。

「結構集まったよね。瓶ももう尽きそう。ほら見て、なかなか綺麗じゃない?」

 珊瑚の地面に胡坐(あぐら)をかいて、昼食のビーフジャーキーを齧りながらルチカは言った。視線の先には、色ごとに分けて瓶に詰めた珊瑚の枝が、グラデーションになるように並べられている。昨日の昼にここに着いてから、ルチカとラメールで採取したものだ。

 小さく頷くとラメールは答える。

「思ったよりも早く集まったわね。死骸なんていうから、色の残ってるものを探すのに苦労するものかと思ってた」

「あたしも。こんなに綺麗に色を残しているなんて思わなかった。珊瑚なんてまともに見るのも初めてだけどさ」

 「そうね」とラメール。

「それにしても――」

 ぐるり、とルチカは宙を仰ぐ。珊瑚の地形は複雑に高低差を持っており、ルチカのいるところから見上げると、陸側から海に向かって、庇(ひさし)のように突き出した別の階層が見えた。その表面には朱色や黄金色(こがねいろ)の珊瑚が、陽光を反射して光っている。

「世界中を回ったなんて根拠もなく思ってたけど、全然だよね。あたしが知らないだけで、こんなに綺麗な場所があったなんて。世界は広いわ。とてもじゃないけど回り切れない」

「まだまだ長い人生じゃない。一緒にゆっくり回っていきましょ」

 ラメールに視線をやって、ルチカは微笑みかけた。が、彼女はすぐに鋭い睨みを、ラメールの後方へと向けることとなる。舌を出してこちらを威嚇する(硬い鱗の皮膚を持つ)巨大な蛇型の魔物を、ルチカの視線は捉えていた。

「無条件にゆっくり旅が出来たら、それが一番いいんだけどね」

 言いながらルチカは立ち上がると、魔物から目を逸らすことはせずに手探りで、傍らに置いたリュックから弓と矢筒を抜いた。ルチカの視線を追ったラメールも魔物の存在に気が付くと、次いで立ち上がる。「まあ、旅に危険は付き物ね」


 昼にルチカが立てた予測の通り、彼女が持ってきていた瓶のすべては、この日の夕刻には珊瑚でいっぱいになった。二日間をかけてこの珊瑚廊を探索したルチカは、ここが(クリスの話を聞いて)自分が想定していたよりも幾分広大であることを、身を以て体感していた。入り組んだ珊瑚の地形は迷路のようで、狭い通路のように両側を珊瑚の壁に塞がれるところもあれば、途端にそれが開けて海を一望出来るようなところもある。かつてここが海底だった頃、なぜ珊瑚たちがこのような形を取ることになったのか、ルチカには想像もつかなかった。

「綺麗なところだったけど、用が済んだ以上、長居は無用ね。この地域の魔物は強力なものが多いみたい。食糧になるようなものが少ないからかな」

 瓶の出し入れでこんがらがったリュックの中身を整頓しながら、ルチカは言った。

「そうね。それになんだか殺気立ってるのを感じたわ。ねえルチカ、もしかしたらだけど」

 整頓し終えたリュックを背負い直しながら、ルチカは真剣な眼差しで、ラメールの瞳を見つめ返す。「うん。もしかするかも知れない」

 「一応ね」と言って、ルチカはシンから託された、或る特殊な紙を一枚、リュックから取り出しておいた。

 紙は細長く、二つに折ればルチカの手の中に収まるほどの大きさだ。空気に触れないように、その紙は一枚一枚が、真空状態になったガラスの容器に入れられている。白い紙には等間隔に五本の線が引かれており、それぞれの線は赤、青、緑、黄、黒の色をしていた。

 世界各地を巡る中で、もしも(シンの言葉で言う)『特異点』を見つけたなら、そこでこの紙を使ってほしい、というのが、シンからルチカへの頼みだった。特異点の特徴について、シンは次のように説明した。

 空間ごと切り抜かれたようにぽっかりと、空中に黒く穴が空いている。穴の大きさは様々だが、今のところ直径一〇センチから五〇センチほどのものが確認されている。付近の空間は陽炎(かげろう)のように歪んでいる。穴の中からはほんの小さな、赤黒くて菱形の紙吹雪のような何かが、溢れ出ていたり、出ていなかったりする。よく覗き込めば穴の向こう側が見えるらしいが、絶対にそんなことはしないこと。それで既に、失明したり、手を触れようとして腕ごと失った研究者も出ている。三メートルも距離を取っていれば安全なはずだ。

 あの夜、すさまじい物量の話を一気にぶつけられたルチカは、頭の中で何度かそれを反芻(はんすう)したが、その全てを理解するには至らなかった。自分の杞憂に終わるかも知れないから、今はまだ理解する必要はないと、シンは言ってくれた。

「とにかく、特異点を見つけたら、紙の入った容器の蓋を開けること。外気に触れれば、紙が特異点から放出される特殊な物質を検出し、計測してくれる。三メートル離れた位置で、十秒も蓋を開けていれば十分だ。計測が終わったら蓋を閉じて、速やかにその場所を離れること」

 自分が欲しいのはその計測結果だから、次に会った時にでも渡してくれればいいと、シンは言った。

 そして特異点は今、ルチカとラメールの目の前にあった。珊瑚廊をリヴィールの方面に向かって遡(さかのぼ)るルチカとラメールの前に、それは前置きもなく現れた。

 シンはこの特異点のことを、『門』とも言っていた。それを実際に目にした時、確かに門のようだとルチカは直感的に思った。それが何処に向かって開(ひら)いているのか、誰が通る為のものなのか、ということは別にして。

「……これ、だよね」

 こんなに早い段階で見つかるとは、まさかルチカも思ってはいなかった。が、見つけたからにはルチカには、やるべきことは決まっていた。シンの話が頭をよぎると、嫌な胸騒ぎがする。喉と口の中が、一気に水分を失いだす。

「そうみたいね。……ルチカ」

 ラメールへと頷き返すルチカの表情は、緊張に強張っている。「う、うん。分かってる」

 大丈夫。距離は十分に取ってある。

 ガラス容器を握った左手が、好ましくない種類の汗で湿っている。ほんの微かに震える右手で、ルチカは容器の蓋を開けた。

 世界の裏側でまた一つ、歯車が重なり合っていく。歯車の向こう側から、運命が顔を覗かせていた。その眼差しは、あらゆる概念を置き去りにして、こちら側の世界を見つめている。そこに秩序はない。まるで太古の昔から時を超えて、いま、この場所を覗き込むみたいに。

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