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「ルチカちゃん、本当に行っちゃうのね……」
涙に震える声で、パジャマ姿のクリスはそう言った。実際に、〝彼女〟の瞳は今にも涙を零しそうなほどに潤んでいる。二ヶ月ほど前に、自分と初めて出会った時とは大違いであるとルチカは思った。
「そんな顔しないでよママ。あたし、二度と戻ってこないみたいじゃない。大体あたしのこの短期出張は、ママが決めたことでしょ」
「そうだけど、いざ見送るとなったら寂しいし心配じゃないの~!」
呆れ顔のルチカに対し、クリスは両の目から、ダムが決壊するようにボロボロと、大粒の涙を流して表情を歪ませた。
「ラメールもついてるんだから大丈夫! もうあたし行くからね! ほんの数日で戻ってくるから、それまでニャブの世話よろしく! じゃあねママ、ニャブ、行ってきます!」
革靴の紐を結びながらそう言い残すと、ルチカは引き止められることのないように勢いよく、クリス家の玄関を後にした。クリスの腕に抱かれた肥満体系の猫が、「ニャ!」と鳴いてルチカを見送った。この家の飼い猫のニャブだ。残されたクリスの、悲鳴にも似た野太い叫び声が、朝早いリヴィールの街に木霊した。
「ルチカちゃぁ~~ん!」
クリス・ジルプライドといえば、世界的に有名なファッションブランドである。基本を踏襲しつつも、自然な奇抜さ、斬新さを取り入れるのがそのデザインの特徴で、若い女性のカジュアルファッションを中心とし、パーティドレスやビジネススーツなども手掛けるジルプライドのラインナップは、私服としては勿論、社交やビジネスの場でも好まれる。
奇抜過ぎないデザインを、新しい自分探しの第一歩にしてほしい――そう掲げるのは、十九歳にしてジルプライドを立ち上げ、ここ二十年ほどで世界中の誰もが知る大ブランドへと昇華させた、一人の〝男性〟だ。〝彼女〟の仕事に対する姿勢は多くの関係者に、『冷徹と言ってもいいほどにストイックで、尊敬に値する』と言わしめる。ファッションデザインに携わるすべての人々の憧れの星、などというのが、雑誌に載る際の決まり文句だ。
「よかったの? クリスさん、泣いてたわよ」
リヴィールの北東に広がる森林を歩きながら、ラメールはルチカにそう尋ねた。
「ママは感情的なのよ。感化されやすいっていうか。アレでいて、十五分もすればケロッとしてるんだから世話ないわ」
「二ヶ月前とはまるで逆ね」とラメールは笑った。
「ホントにね」
二ヶ月前、ルチカはまだクリスに会ったことすらなかった。ルチカにとって本当の意味で、彼女は雑誌の中の憧れの人だったのだ。否、今現在憧れや敬意を抱いていないというわけでは、決してない。
三年前の旅を終えてからというもの、ルチカは(服作りに勤める〈実の〉母親の影響で)以前から興味のあった服飾の勉強に、本格的に着手していた。
ルチカたちの通うコントゥリで唯一の学校は、十六歳の春で卒業をするのが基本だった。卒業後、多くの生徒はコントゥリに残って、家業を継ぐことになる。村を出て暮らす者は稀だ。
旅を終えて村に戻った時、ルチカは十四歳だった。今すぐにとは言わずとも、そう遠くない未来には、ルチカには自分の進路を決める必要があった。旅に出る前のルチカは朧げに、母の仕事を継ぎ、この村で服を仕立てて暮らしていく、変哲のない将来のビジョンを思い描いていた。それはこの村で生まれ育った者として、何の不思議もない当たり前の発想だった。通例といってもいい。然し――、
「もっと大きな舞台が、この世界にはあると思ったの」
一年間の旅で世界中の街や村を回り、(コントゥリで暮らす中では見たこともなかったような)それぞれの地域に古くから根付く伝統的な衣装や、はたまたこれまで誰も着ることがなかったような新しいファッションの文化に触れたルチカは、自分の中に芽生えた服飾に対するはっきりとした意識を、両親に打ち明けた。それが今から一年半ほど前――ルチカが村の学校を卒業する、少し前のことだ。
「子供の言うことに聞こえるかもしれない。実際あたしは母さんの見よう見まねで、なんとなく裁縫するくらいのことしかしてこなかった。知識も経験もない。でも、それがホントに素敵なことだってことは分かってる。だから本気でやりたい。この気持ちは本物。あたし、知識と経験が欲しいの」
ルチカの、生まれて初めて抱いた情熱といってもいいかも知れなかった。これを信じずに、他に何を信じることがあろうかとルチカは思った。
「コントゥリを出ようと思ってる。今度は自分の為だけに、もう一度世界中を旅したい。もちろん永遠にじゃないよ。でも少なくとも、自分の中で納得のいく答えが見つかるまでは、戻ってこないと思う。それを許してほしい」
父のダグザと母のレベッカは、娘の成長への喜びと、手を離れることへの寂しさに、溢れ出る涙を堪えなかった。「一晩考えさせてほしい」と涙ながらに言ったダグザが、翌朝にはそれを許してくれるであろうことを、ルチカは知っていた。心から信頼の出来る父だった。だからルチカも苦しかった。
卒業してからの一年間で、最低限の知識の蓄えと下準備を済ませたルチカは、服飾業界での師となる人物を求め、コントゥリを旅立つ心づもりでいた。アシリア歴二〇五二年の四の月、来月にもコントゥリを発とうかと考えていた矢先のルチカに、或る誘いが届いた。
『五の月の初旬、アルバティクスでシンと会わないか』という、リリからの誘いだった。そこにはバーンズも同行するという。ルチカはこの時、自分がコントゥリを発つつもりでいることを、ようやくリリに話すことが出来た。このきっかけがなければ、或いは何も言わずに旅立つことになっていたかも知れないとさえルチカは思った(バーンズには予め伝えていたのだが)。リリへの恋愛感情からくる緊張感と、旅の終わりにドボロを失い、今でも時々彼を思うのか放心しているリリに(誘いを受けた時、ドボロはまだ再生していなかった)、ましてやラメールと共にある自分が夢を追って旅立つことを伝える後ろめたさが、その告白を邪魔していたのだ。
リリとバーンズのアルバティクス行きに、ルチカは同行することに決めた。旅立って最初の目的地をリヴィールと決めていたルチカには、二人と共にコントゥリを出発し、アルバティクスでシンと会った後、そのままの足でリヴィールへと向かってしまえば都合もよかった。旅の終わりからの三年間、シンにも一度も会っていなかったので、その再会も勿論、ルチカにとっては喜ばしいことだった。
四の月も中旬に差し掛かった頃、ドボロが再生した。ルチカはボロボロになるまで泣いて、彼の帰還を祝った。ラメールもだ。そして本当に喜ぶべきことに、ドボロは彼女らとの記憶を残したまま再生してくれた。理由は分からなかったが、ルチカにとって重要だったのは過程ではなく、その結果だった。理由はシンにでも考えさせればいいと、冗談めかしてルチカは言った。それが確実だとリリは笑った。久方ぶりに目にするリリの心からの笑みは、ルチカの胸に言いようのない安寧を生んだ。
そして五の月初旬の某日。旅立つルチカを、ダグザとレベッカは泣いて見送った。四年前と同じようにバウムの森を抜け、城砦都市フルリオを経由して、ルチカたちはアルバティクスを訪れた。
リリたちは合計で四日間、アルバティクスに滞在することになっていたが、ルチカはスチルバティクスから出る船の関係で、三日目の朝には一足先に離脱する行程だった。
「この街で初めて会った時を思えば、少しは成長したということか」
二日目の夜、ルチカはホテルのラウンジにシンを呼んだ。自身の夢と、今後改めて世界中を旅するつもりでいることを打ち明けると、シンは冷やかすような笑みを浮かべてそう言った。
「余計なお世話よ。アンタはその嫌味な性格、ちょっとは成長させたら? 肩書き以外何にも変わってないじゃないの。勉強オタクの根暗研究員」
「言いたい放題だな」
「言いたい放題よ」
一頻りの思い出話をし終えると、シンはルチカに、或る頼み事を切り出した。
なんでも、シンは現在、自身の在籍する元素機構の研究室とは無関係に、元素機構に縁のあるものもないものも含めて、複数の事柄を同時に研究することを余儀なくされる状態に置かれており、その頼み事は、その『複数の事柄』のうちの一つにとって重要なことなのだという。
話が複雑すぎて理解する気にはなれなかったが、その頼まれ事はルチカにとって大した手間にはならなかったし、シンの言葉を借りるなら、『世界を飛び回るこれからのルチカには打ってつけの役割』だった為(鼻につく言い方ではあったが、同意は出来る内容だった)、ルチカはそれを引き受けることにした。
滞在三日目の朝早くにアルバティクスを発ち、スチルバティクスからの連絡船に乗ったルチカは、予定通りリヴィールへの航路を辿った。海は季節柄穏やかで、ルチカはのんびりとした船旅を楽しむことが出来た。
最早言うまでもないことだが、ルチカは旅の終わりから三年が経った今でも、リリに好意を伝えられないままでいた。しばらくの別れとなるであろう今回の旅立ちに際して、ルチカは告白を考えなかったわけではない。然しルチカは、やはりそれを伝えることはしなかった。伝えれば(リリの返事がどうあれ)、自身の夢への決心が揺らぐような気がしてしまったからだ。
「期待してたのに。リリだって待ってるかもよ」と、リヴィール行きの船の上でラメールは言った。
「リリが気付いてるわけないでしょ。バーンズさんの仕事手伝うようになってから、前にも増して鈍感になった気がするわ。父さんもそうだけど、土ばっかいじってるとみんなああなるのかしら。気付いてくれるなら苦労しないわよ」
「そこまで言うなら伝えてみればいいじゃない。『当たって砕けろ』よ」
「もー」とルチカは、海の向こうに向かって唇を尖らせる。
「お節介! 当たる前から砕けるなんて決めつけないでよ! それに……」
「ごめんごめん。それに?」
真剣な表情を、ルチカはしてみせた。嫌になるほど分厚い本の、最も重要な一文を読み取るような表情だ。一見して意味不明な文脈を、自分の言葉に直して紐解くように、ゆっくりとルチカは言った。
「今は、伝えたらダメなんだ。リリのことも、夢のことも、同じくらいに大切。だけど今のあたしには、それを両立させることなんて到底出来ない。夢を叶えてコントゥリに戻ったら、その時に、今度こそ言うわ」
ルチカとラメールが出会ってから、もう間もなく四年になる。二人の関係性は出会った頃から凡そ変わらない。姉のような存在でいてほしいとルチカは願っていたし、姉のような存在でありたいとラメールは願っていた。変わる必要など、二人にはなかったのだ。
しかし出会った頃と比べると、この四年で(とりわけこの一年余りで)ルチカ自身は変わったと、ラメールは感じていた。三年前の旅の最中、ルチカは基本的には、リリやシンに付いて回るような立場を守り続けた。それが旅を良い方向に収束させることをルチカは理解していたし、旅に出る前のルチカの性格からしても、それは自然的な行動であったのだろうとラメールは想像していた。
リリやシンのように、何かを成し遂げたいという強い意志は、(多分)元々はルチカの中にはなかった。リリとシンはそれを旅の中で見つけた。バーンズさえも、或いはそうだったかも知れない。ルチカがそれを見つけたのは旅が終わった後だった。それからルチカは変わっていった。勿論良い意味でだ。自分の意志というものを、彼女が幾分はっきりと意識し始めていることを、ラメールはひしひしと感じ取っていた。そして彼女の姉として、そこに喜びを見出してもいた。
「なに笑ってるのよ。そんなにおかしい?」とルチカに指摘されて初めて、ラメールは自身の頬が綻んでいることに気が付いた。
「ううん。夢を叶えてコントゥリに戻る時、ね。楽しみにしているわ」




