32
マドラインから出る定期貿易船の航行日程の関係で、ハレたちがマドラインを出発するのは、アーロンとの戦闘並びにアビスシルクの入手から、数えて三日後となった。物資に富んだこの街で、ハレたちは武器や野営道具の一部を新調したり、宏大な街を観光したり、ハレは床屋で散髪をしたりと、のんびりとした休息を取ることが叶った。
三日後の今日、時刻は午前の十一時過ぎ。ルチカとラメール、そしてヨークとピエトロに見送られて、ハレたちはギルド本部内の港から、マドラインを発とうとしていた。
「それじゃあね」とルチカは右手を上げる。「本当に気を付けて。旅の無事を祈ってるわ」
「おう! ありがとな、ルチカにラメールも。二人が一緒に来てくれて助かったぜ」とハレ。次いでトーマは「本当にお世話になりました」と軽い辞儀をした。
「あたしたちは何も。案内しただけよ。それよりもお二人に」と、ルチカはヨークとピエトロへと目をやる。
「いやいや」とピエトロが首を振るう。「俺たちのほうこそ、みんなが居てくれて助かった。ありがとう」
ピエトロに差し出された手を、ハレは微笑みながら握り返した。「二人にも会えてよかった。アビスシルクも本当にありがとう」
「マドラインにも、また遊びに来てくれよな」とヨークが言うと、「モチ!」とウインクしながら、ハレは右手の親指を突き立てて見せた。
ハレたちの背後では、水面に佇む中型の木造船へと、体格のいい男たちが木箱の荷物を次々と運び入れている。どうやらそろそろ出航の準備が整うようだ。名残惜しそうにルチカたちを見つめるハレへと視線をやって「ハレ、そろそろ」とトーマは告げた。
「ああ」
改めて、ハレはここで別れることとなる四人と視線を交わす。ヨーク、ピエトロ、ラメール、そしてルチカ。短い間ではあったが、皆本当に親切にしてくれたものだとハレは思う。
ふと、何かに気付いたルチカが目を丸くした。ルチカの視線の先にいたのはノアだ。柔らかな笑みを浮かべながらも、ノアはその頬に、一筋の涙を零していた。困ったように微笑んで、ルチカはノアの頭をさらりと優しく撫でた。
「どうしたの、ノア。そんな顔しないで」
ルチカにそう言われてようやく、ノアは自分が泣いていることに気が付いたらしい。自身の頬に手を添えて、涙の存在をその指に認めると、「あれ?」とノアは裏返った声で言った。
「ごめんなさい、泣くつもりなんてなかったのに」
「旅が終わって落ち着いたら、またみんなで会えるよ。そうでしょ?」
「は、はい。すみません。……ただ、どうしてだろう」
ギルド本部を柔らかな潮風が吹き渡ると、ノアの黒い長髪はふわりと大きく翻った。「もう、二度とは会えないような気がしてしまって」
ノアの姿は儚げで、その声は、彼女の存在と共に風の中に消えてしまいそうだった。細くしなやかな黒い髪は、一本一本に名前を付けたくなるくらいに美しい。彼女という存在自体が、魔法によって齎される幻のようにすら、ハレには思えた。
彼女の存在が魔法ならば、その言葉はどこかに予言めいた響きを秘めてすらいた。『魔女』というのは良い意味に於いては、彼女の呼び名に相応しいものかも知れないとハレは思った。
どうしてノアはそんな風に思うのだろう。もう二度と会えないような気がするなどと。幻のように感じる彼女自身の存在とは裏腹に、その言葉は嫌悪すべき種類の現実性を帯びているように聞こえる。ノアがそんなことを思う必要はないのに、とハレは思う。そんな風に思ってほしくないし、思わせたくもない。願わくば彼女には、思い悩んでなどほしくはないのだ。そして悲しみの為の涙などというものは、その一切を流さずにいてほしい。
「ハレ」とルチカ。「ノアのこと、ちゃんと守っていける?」
ハレの心を読んだかのように言ったルチカもまた、魔女のようだとハレは思う。真剣な眼差しでハレを見るルチカの、萌黄色の瞳を見つめ返すと、しっかりと頷きながらハレは答えた。
「守るよ。絶対に守る。何があってもな」
自分の口から当たり前のように(何の突っかかりもなく、すらりと)生まれてきたその言葉に、ハレは顔には出さずに驚いた。然し嘘や建前を述べたわけではない。心からそう思っているから、いつものように格好つけることもなく、おどけることもなく、そんな言葉が出てきたのだとハレは思った。その返事には、ルチカも安心したように笑みを浮かべて、「じゃあ信じるよ」と頷いた。
「ノア、あなたのことはハレが守ってくれるから大丈夫。あいつはどう見てもバカだし、信じられないくらい五月蠅いけど、嘘吐くような奴じゃないでしょ?」
歯に衣着せぬルチカの物言いに、ノアは涙を指で拭うと、「はい」と思わず笑みを溢しながら答えた。「ハレさんは嘘なんか吐けないです。絶対」
ノアの言葉と、その笑みが、空想の針となって自分の胸に突き刺さるのを、ハレは感じた。そこには心地いい痛みが生じた。その痛みを好むべきなのか忌むべきなのか、ハレには分からなかった。ただ、彼女のその笑みを絶やさせてはいけないと、ハレは強く思った。
孤児院育ちのハレには、男女の交際についての明確な知識というものはない。ノアのことを(異性として)好きだと思ってはいても、それを殊更彼女に伝えるべきだとか、彼女を抱き締めたいとか、恋人として傍にいたいなどということを、これまでハレが思うことはなかった。それは今この瞬間に於いても同様だ。
今にも消え入りそうな彼女の存在と、その愛おしい笑みを、彼女から奪ってはいけない。その為に自分は、更なる強さを身に着けなければならない。それが恋であるのか、愛であるのかということはハレには分からない。ハレに分かるのは、自分はこの感情を遵守し、またそれに従っていくべきなのだということだけだった。
船の上から、一人の船員の声が響く。「おーい、あんたらも乗るんだろ! もう船が動くぜ」
慌てて返事を返しながら、ハレたちは貿易船へと乗り込んだ。全員が乗ったことを確認した船員の一人が合図を出すと、船はギルド本部の北側に開けた巨大な門に向けて、冬眠から目覚めた巨大な熊みたいに、ゆっくりと動き始めた。目下の桟橋に立つルチカたちに向けて、ハレは右手を上げる。
「それじゃ、みんなホントにありがとな! また会おうぜ!」
「まだまだ大変だと思うけど、落ち着いたらうちの村にも遊びにおいでよ! なんもないとこだけどさ」とルチカ。ハレたちが頷き返したのを確認すると、今度はドボロへと視線をやって、「ドボロもまたね! シンにもよろしく!」と彼女は続けた。
「ンだ!」
各々別れの言葉を口にしながら、お互いが見えなくなるまで、ハレたちは手を振り合った。ハレたちを乗せた貿易船は晴天の下、ヒマロス大陸の北側に広がる大海原――カエルラ大海を、東に向かって走り出した。




