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エンデラの森の黒き魔女  作者: 暫定とは
三章『深淵』
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30

『なあ、ハレ』

 その横顔を、ハレは何度も思い出す。

『……もしも』

 もしもの先に何があったのか、ハレは何度も考える。

『いや、なんでもない』

 ただ考えるだけではない。その脳裏には言いようのない後悔の念が、取り留めもなく押し寄せてくる。心の浜辺に取り残されたハレは一人、墨をこぼしたみたいに黒く染まった後悔の波に、何度も何度も身を打たれる。

 アーロンの横顔は、確かに憂いを浮かべていた。あれは何を意味していたのか。あの時の彼は、一体どんな場所にいたのか。いま自分がいるのと同じような、黒い波の打つ何もない浜辺だったかも知れない。そうではないことを祈れば祈るほど、そうであったのだという確信がハレの心を蝕(むしば)んだ。

(どうして)

 どうして、もしもの続きを聞き出せなかったのだろう。

「なんで……」

 何故、彼は攫われなければならなかったのだろう。

「なんでなんだよ……!」

 何故、攫われたはずの彼はいま、自分の目の前で、自分に対して明確な敵意を向けているのだろう。

「久しいな、ハレ」

 白いローブのフードを外して、男はその顔付きを明らかにした。

 深緋色(こきひいろ)でストレートの長髪は、彼の背中の中ほどまである。常盤色(ときわいろ)の瞳を持った切れ長の目は、ハレたちのことを確かに睨み付けている。その声は彼の年齢にしては低く、聞く者に威厳すら感じさせた。(先に出現させた衝撃波と同じく)象牙色(ぞうげいろ)にも近い淡い金色の煙のような光を、彼は微かに、その身に纏わせている。

「……――アーロン!!」

 五年ぶりに目にするとはいえ、彼の姿はどう見たところで、ハレの知るアーロンそのものであった。ただ一つ、自分に向けられる視線の中に、紛(まご)うことなき敵意が含まれているという点を除いては。

 丘陵の斜面を、風が吹き抜けていく。深緋の髪を大きく風に靡かせながら「なんで、か」とアーロンは静かに、そして嘲るように言った。まるでどこか遠くの星から、見当違いの質問でも受信してしまったみたいに。

「俺にはお前がここにいることのほうがよっぽど不思議だよ、ハレ。あの張りぼてみたいな孤児院で、お前は何不自由なく暮らしていたじゃないか」

 坂の上からハレを見下ろすアーロンの目つきには、侮蔑とも取れる感情が見えた。何故、彼があんな目で自分を見るのか、ハレには見当もつかなかった。

 「張りぼてって……」と戸惑いながらも、ハレは答える。「お前を連れ戻す為に、俺は旅立ったんだ。五年前お前が攫われて以来、ずっと心配してたんだぞ! なのになんで……!」

 それ以上の言葉を失って、ハレは俯いた。「ふん」と鼻で笑うと、今度はハレの後ろに立つトーマに向かって、アーロンは尋ねた。「お前はなんだ、トーマ。俺のやろうとしてることに、お前は〝興味なんてない〟んじゃなかったのか? どうしてここにいる?」

 「答える義理はない」とトーマは答える。「俺はただの、ハレの付き添いだよ」

 トーマの返事に、「ほう」とアーロンは薄い笑みを浮かべると続けた。

「まあ、あれは方便だな。お前は俺と同じ目をしている。野心を持った目だ。言葉ではどう取り繕おうと、胸に巣食う野心を取り除くことは出来ない。お前はそのことをよく分かっているはずだ」

 口を一文字に結んで、トーマはそれ以上は無言を貫いた。二人の会話に、ハレは違和感を覚えた。

 ハレは今まで、トーマとアーロンは孤児院での生活中に、凡そ殆ど繋がりを持っていなかったという認識でいた。勿論同じ建物で暮らしているのだから、生活に必要な最低限の会話というものはあったかも知れない。例えばだが、朝食時の食堂における最低限の会話ということなら(二人のどちらかがその日の配膳係だったとして)、「パンとライスのどちらにするか」、「ライスで」といった具合にだ。殊更トーマとアーロンが、(自分とトーマのように)休憩時間の体たらくを共に過ごしたり、各々の趣味や嗜好について熱心に意見を交わしたりするところというのは、ハレは見たことがなかったし、あったとしてもそれを知らなかった。ましてや、実際にそういう過去があったのなら、それはアーロンに関する思い出話の一つとして、トーマの口から語られて然るべき事柄のはずだ。ハレは今日まで、トーマからそんな話を聞いたことはない。然し、今しがた目の前で交わされた二人の会話(とりわけアーロンの発言)は、過去のやり取りの中で出たトーマの発言を、掘り起こして彼の目の前に提示するようなものであった。そしてその内容は、生活に必要な最低限の会話という度合いを、優に超えている。

 どのような質問をすればいいのかハレが考えをまとめるよりも先に、アーロンが再び口を開いた。

「さて、お前の疑問に答えよう。ハレ」

 疑問と言えば、先程ハレが思わず零した「なんで」という言葉のことだろう。その言葉は、一つの問いに対して一つの回答を求める、単純な意味での質問ではない。ハレの胸中に蔓延する、形容しがたい幾つもの疑問と疑念が、欠乏した形ではありながらも三文字の言葉として、この世界に産み落とされた仮初(かりそめ)の姿だ。とはいえその大筋の意味合いとしては、『何故(優しかった)アーロンは(過去のノアへの行いも含めて)このようなことをしているのか(また、するようになったのか)』ということには他ならない。

 そのことをも理解した上で、アーロンは次のように答えた。先に感じた、質さなければならない違和感のことなどは失念し、それを聞き終えたハレの胸には、怒りの焔(ほのお)が音もなく、然し強(したた)かに燃え上がるのみであった。呪いの呪文でも唱えるみたいに、アーロンは言った。

「罪に塗(まみ)れたこの世界を、俺は粛正する。虐げられた者の痛みを、この世界には返さなければならない。痛みによって生まれた格差は、痛みによって埋められるべきなのだ。平和ボケした世界を目醒めさせる――その為に俺は活動している」

 宙へと向けていた視線を、再びハレへと移すと、「ハレ」とアーロンは呼んだ。「お前のような楽天家には、一生理解出来るまい。理解出来ないままのうのうと生きるくらいなら――」

 前方に向かって、アーロンは何かを掴むように右手を差し出した。その手に力が込められると、アーロンの身体を覆う象牙色の光は煙のように流動し、その手の前で、地面と水平に棒のような形を取った。光は徐々にその輪郭をはっきりとさせていき、数秒を以て、淡く金に輝く一本の剣へとその姿を変える。剣を手に取り、自身から見て右下の地面に向かってそれを振るうと、アーロンは言葉の続きを引き取った。

「――俺がいま、ここで消してやる」

 ハレは俯いて、彼の言葉を聞いていた。握り締められた両の拳は、ふるふると震えている。「ドボロ、トーマ、カレント」と、仲間たちの名前を呼びながら、ハレは腰の双剣(そうけん)を抜いた。ハレの身体を覆う山吹色の光が、強く輝きを増していく。

「悪(わり)ィ。俺、これでもこいつを慕っててよ。こいつを連れ戻す為にここまで来たんだ。この大馬鹿野郎の目ェ覚まさせんのに、ちっと手ェ貸してくれ」

 ハレの言葉に、一同は頷き返した。腰のポーチから、トーマは共鳴術(きょうめいじゅつ)の指南書を取り出して構える。ドボロはハレへと歩み寄って、彼の背中をぽんと叩いた。

 顔を上げ、ハレはアーロンの姿を見据える。ほとんど変わっていない彼の姿を、変わり果てたとハレは思った。何が彼をそうさせてしまったのかは分からない。確かなことは、彼のしてきたこと、これから為そうとしていることを、ハレはやめさせなければならない、ということだけだった。

(この世に悪がある限り、……それを断ち切る正義もまたここにあり)

 双剣を握り直すと、坂の上のアーロンに向かって、ハレは走り出した。ドボロとカレントがハレに続く。ぱらぱらとめくった指南書を或るページで止めると、トーマは共鳴術技(きょうめいじゅつぎ)の詠唱(えいしょう)を開始した。

 「聞こえなかったのか?」と、向かってくるハレに対してアーロンは問う。「目を覚ますのはお前たちのほうだ!」

「うるせェ! このッ――」

 アーロンの直前でハレは跳ねると、空中で回転しながら双剣による斬りを放った。剣筋に追従するように出現した、山吹色の刃がアーロンを襲う。「――アホンダラ!!」

 「ふんッ」と唸りながら、縦に構えた象牙色の剣で、アーロンはそれを防いだ。着地ざま、ハレはバックステップでアーロンとの距離を取る。アーロンの左右両側から、そこへ追い付いたドボロとカレントが、それぞれ共鳴術技を放った。

「〝千柱牢(せんちゅうろう)!〟」

「〝渦巻(かかん)、蟠蛇絞(ばんじゃこう)!〟」

 円状にアーロンを囲うように、地面から無数の細い土柱(どちゅう)が出現する。相手の動きを封じるドボロの技だ。土柱はアーロンに向かって伸びていくが、アーロンはこの全てを、剣の一太刀(ひとたち)で切り払った。次いで、鞭(むち)のように伸びたカレントの右腕が、蜷局(とぐろ)を巻く大蛇の如く、アーロンの肢体(したい)を絞めにかかる。カレントの腕が身体に触れる直前で、アーロンは白いローブを脱ぎ捨てると、それを空高く放ちながら、「イリス!」と何かを呼ぶように言った。

 その刹那、象牙色の閃光が迸り、カレントの腕は弾かれた。表情を顰めながら、カレントは腕を引っ込める。イリスと言えば、先にハレが聞いた単語と同一のものだ。それは彼が契約を結んでいる、(恐らくは)精霊の名前ということらしかった。上空に放り投げられたローブの向こう側から、それは姿を現した。

 翼のような二枚のヒレを羽ばたかせて空中を漂うその姿は、巨大な魚のようでもあり、竜のようでもあった。宙に浮いているため定かではないが、頭部から尾までの身の丈は、アーロンよりも一回り大きいくらいに見える。腹部には鯨のような流線型の膨らみを持っているが、一方で竜のような(鋭い眼光と、先の尖った口、口の両脇からはそれぞれ二本のヒゲを持つ)頭部はそれに比べると小さく、アーロンの頭と並んでもそう変わらないほどであった。側頭部からは後方に向かって伸びる二本の角を持っており、首より下の全身には、(海藻に擬態するリーフィーシードラゴンの皮弁(ひべん)を思わせる)マーメイドドレスのような襞(ひだ)のある白の皮膚を、その精霊は揺らめかせていた。襞の隙間から微かに覗く内側の肉体は、鼠色で鱗の皮膚を持っている。象牙色の輝きを放ちながらアーロンの背後に浮かぶその姿は、どこかしら禍々しいものを感じさせながらも、神々しく風雅であった。

 また、白いローブを脱ぎ捨てたアーロンはその下に、イタリアン・カラーの立ち襟と、燕尾服のような長い後ろ裾を有したジャケットを着用していた。紫檀(したん)色のジャケットは襟と袖の部分だけが白く、前側は二つの金のボタンで留められている。ジャケットの内側には黒の肌着を着、下衣にはぴっちりとしたベージュのパンツ、そして黒のロングブーツを、彼は履いていた。一見して、小綺麗で身軽な海賊のようにもその姿は見える。

「愚かだな。この俺に敵うと思うのか」

「やってみなくちゃ分かんねーし、分かってたってやるっつーの!」

 言いながら、ハレは再び坂の上のアーロンへと駆けた。トーマの共鳴術技の詠唱が終わると、アーロンとイリスの頭上には水色に輝く、複数の層に分かれた魔法陣が出現した。

「〝天(あま)の流涙(りゅうるい)、集い降りしは空前怒涛(くうぜんどとう)の篠(しの)突(つ)く雨(あめ)――〟」

 折り重なった魔法陣の淵に沿うように、濃紺の光を放つ小さな棒状の水のフォルスが、無数に顕現する。攻撃から身を守るべく、アーロンはすかさずに、自身も呪文の詠唱で返した。

「〝臨界せよ。元素万有(げんそばんゆう)を返照(へんしょう)す神鏡(かんがみ)の煌めき――〟」

 イリスがアーロンの周りとぐるりと旋回すると、二人を囲うように、象牙色に輝く球状の魔法陣が出現する。

 「〝バラージュ・レイン!!〟」というトーマの言葉に重ねて、「〝リフレクション!〟」とアーロンは唱える。

 アーロンを包む魔法陣からは紋様が消え、球状だったそれは、複数の面を持つ透明な正多面体へと変わった。その表面は光を反射するプリズムのように、淡い虹色の光沢を放っている。一方でトーマの魔法陣からは、顕現した棒状の水のフォルスが、アーロンへと向かって一斉に放たれる。が、金属音にも似た鋭い音を響かせながら、アーロンたちを囲った正多面体は、トーマが出現させた水の弾丸による集中砲火を、単純に防ぐばかりか、ハレやトーマたちの方へと弾き返していった。

 余談だが、アーツではなく精霊を使役するアーロンに、共鳴術技を使うことは出来ない。共鳴術自体が読んで字の如く、〝共鳴(チェイン)〟を前提とした武術だからである。アーロンが今しがた使ってみせたのは、共鳴術技よりも更に近代になって生み出された、『精霊術技(せいれいじゅつぎ)』と呼ばれるものの一つだった。

 精霊を基に造られたアーツ。その発展により生み出された共鳴術、並びに共鳴術技。その共鳴術技を、精霊術(せいれいじゅつ)に置き換えたのが精霊術技であり、これは謂わば技術の逆輸入とも言えるようなものであった。トーマはその存在を知っていた為、アーロンが術を使ったことに対して特に驚いてはいない。ハレはその存在を知りはしないが、そもそもそこに違和感を感じられるほど、ハレの頭は回っていなかった。

 水の弾丸をすべて防ぎ切ると、アーロンたちを囲う光の防御壁は消えた。地面へと跳ね返った弾丸が巻き上げた土煙によって、アーロンたちの姿は見えない。が、それは逆に、向こう側からもこちらが見えていないということだ。坂を駆け上がったハレはその勢いのまま、土煙の中へと突っ込んだ。然し――。

「甘いッ!!」

 十字に重ね合わせたハレの双剣は、横に構えられたアーロンの剣によって受け止められた。巻き起こる風に、土煙が晴れていく。苦しそうな表情で剣に力を込めるハレに対し、それを受け止めるアーロンの表情には、まだ余裕の笑みがあった。

「クッソ!!」

 剣を弾きながら、ハレは一旦後ろに退(ひ)いた。そこに生まれた一瞬の隙をついて、空中からイリスがハレへと襲い掛かる。「ハレ!」後方からトーマが呼ぶが、避けるも防ぐも間に合わないかと思われた。その時――。

「させないだ!」

 叫び声と共に、ハレの右手側からドボロが駆け付け、ハレへと接近するイリスの躯体へと、右の拳で打擲(ちょうちゃく)を放った。呻(うめ)き声と共に、左手側の坂の下方へとイリスは吹き飛んでいく。

「さ、サンキュー、ドボロ!」

 「ハレ、こっちは任せるだ! カレント!」ハレへと頷き返しつつ、カレントへ呼び掛けると、「おう!」と答えたカレントと共に、ドボロはイリスのほうへと駆けていった。

 改めて、ハレはアーロンを向き直る。睨み付けるような鋭い目つきで、アーロンはハレの視線に応えた。張り詰めた空気感は、ここにある静寂を一層に際立たせるようだった。数秒間睨み合い、気と気がぶつかり合った瞬間に、二人は再び、その手に握った剣を振るった。剣戟(けんげき)を響かせて弾き合い、更に二発、三発と続けて打ち合う。強く力を込めた四発目の打ち合いで、二人は互いの剣を剣で受け止め、刀身(とうしん)を挟んで睨み合う形となった。「お前は邪魔だ」とアーロンが静かに口を開く。

「あの魔女を助けようとちょこまかと動き回っているようだが、やめておけ。あれは誰かに利用される運命の中にある、哀れな疫病神でしかない。助けようとすればするだけ、お前も不幸になるだけだ」

 双剣に込める力を強めて、「違うね!」とハレは返した。

「ノアを疫病神にしてるのはノアじゃねえ。周りの人間たちだ。それが運命だってんなら、そんなくだらねーモン、俺が書き換えてやる!」

 吼えるように言いながら、再び剣を弾き返して、ハレは間合いを取った。アーロンへと睨みを向けながら、「でもよ」とハレは続ける。「ノアを追いかけるせいでお前がそんなになっちまったのなら、確かに疫病神かもな。でもそれも違(ちげ)ェ。お前がそうなったのは、ノアのせいなんかじゃねえからな。お前をそうさせたのは、アーロン、お前自身の心の弱さだよ!」

 双剣を構え直しながら、ハレは駆ける。「戯言を!」とアーロンは剣を縦に構えて、迎え撃つ体勢を取った。

 マドラインに辿り着くまでの道中、トーマやドボロに教わりながら、ハレもまた共鳴術の修練を重ねていた。元々或る程度のスキルとセンスを持っていたハレは、短期間でめきめきとその腕を上達させ、今では他の面々と遜色ないレベルにまで、フォルスコントロールの精度を高めていた。

 ありったけのフォルスを込めて、ハレは最大級の共鳴術技を放つ。アーロンもまた、それに対抗すべく相応の威力の精霊術技で応えた。

「〝岩砕剛熊牙(がんさいごうゆうが)!!〟」

「〝残影破光閃(ざんえいはこうせん)!!〟」

 ハレの双剣による横(よこ)薙(な)ぎから出現した、咆哮する熊の頭部を模った山吹色のフォルスと、アーロンが振るった剣の軌跡をなぞるように現れた象牙色の衝撃波が、空中で激しく穿(うが)ち合う。衝撃にびりびりと震える空気に、ハレとアーロンは思わず、腕で顔を覆い隠した。力の拮抗は数秒間続いた後、凄まじい爆裂によって幕を閉じた。巻き起こる爆風に、二人はそれぞれ後方へと吹き飛んでいく。

「うがァっ!!」

「くっ!」

 ハレは今度は、なんとか両足で着地した。ほぼ同時に、戦いに一区切りをつけたらしいドボロとカレント、そしてイリスが、各々使役者の下へと戻ってくる。

 「無事か」とトーマが問うと、「なんとかな」とカレントは答えた。「然しあのイリスとかいう精霊、かなり手強いぞ」

 ふらりとバランスを崩しつつも、坂の上のアーロンへと、ハレは目を向ける。視線の先でアーロンはまだ、ハレたちよりは幾らか余裕の表情を浮かべていた。「ふん」と強気に鼻を鳴らすと、強張った表情を微かに綻ばせながら、アーロンは言った。

「どうやら、愚かさだけでここまでやって来たというわけではないようだな」

 爆裂によってか、右腕のグローブが大きく裂けてしまったらしい。脱ぎ捨てるようにそのグローブを外しながら、「教えてやろう、ハレ」とアーロンは続ける。

 突風が、丘陵を吹き抜けていく。地に足を踏ん張りながら、ハレは首を振るって前髪をよけた。坂の上からアーロンは、グローブを外した右手の甲をこちらに向けて、ハレたちに見えるようにした。

「――爪の色が分かるか?」

 アーロンの言葉に、ハレは妙な聞き覚えがあった。

 いつだったか、トーマが同じようなことを言っていなかっただろうか。あれはそうだ。ロロキア旧水脈で、ノアの爪についての説明を、トーマがしてくれた時だった。『その女の爪をよく見てみろ』という言い方を、トーマはしていた気がする。

 まさか、とハレは思いつつも、アーロンの手へと視線を向けてその目を凝らした。然し、ハレの胸を過った予感と、そこにあった答えとは別だった。『まったくの逆だった』と言ってもいい。アーロンの爪は、黒くはなかった。アーロンの爪は、〝白かった〟のだ。

「白い……? なんで……」

 そういえば、とハレは思う。

 孤児院に暮らしていた頃、自分はアーロンの爪を見たことがあったろうか。いや、あれだけの長い時間を一緒に過ごしたのだ。見たことがないはずがない。その一方でアーロンはいま、自分に対してその爪の色を確認するように、殊更に促している。そこには何かしらの意味があるはずだ。少なくともあれは、ノアの黒い爪と同様に、塗り爪などではなく、アーロンが生まれ持ったものとして考えるのが自然である。では何故、自分にはその爪に関する記憶がないのか。あんなに真っ白な爪を目にしていたら、嫌でも印象に残るはずなのに。

 そこまで考えたところで、ハレは思い出した。孤児院での生活中、アーロンが常に、その手にグローブを嵌めていたことを。通常は皆で一斉に行う入浴も、アーロンはわざわざ、時間をずらして行っていた。

(アーロンは病気だから一緒に風呂には入れないって、シスターはみんなに説明してた! あれは、そういう――)

 ふと、ハレの脳裏を過る強烈な違和感があった。それは既視感にも似ていた。『同じような扱いの人間が、自分の周りにはもう一人いたはずだ』というような。その既視感が何であるのか、ハレには考える時間が必要だった。が、続くアーロンの開口に、ハレは思考を中断せざるを得なくなった。

 「ネルビアンコ」とアーロンは言った。聞き慣れない言葉に、ハレは目を細める。古代の石板を見つめる、若い考古学者みたいにだ。

「ネル……ビアンコ……?」

 ハレが尋ね返すと、アーロンは静かにこくりと頷いて、次のように言った。

「孤児院育ちのお前は知らないだろうな。黒き爪の部族と並んで、このアシリア全土で謂れのない迫害を受ける、白い爪を持った人種。それが、俺たちネルビアンコだ」

 一拍の間を開けると、遠い目をしてアーロンは続けた。「迫害の歴史は遥か古にまで遡る。爪が白いという以外、通常の人種と何一つ変わらない俺たちを、お前たち通常人種はわけもなく、そして前置きなく忌み嫌い始めた。大義名分は黒き爪に対するものと概ね同じだ。爪が白いのは先祖のしてきた悪行のせいだとされ、初めに一族はみな、この爪を剥がされたらしい。通りかかれば、殴るや蹴るは当たり前。目を合わせれば集団暴行。暴力行為は時代の流れと共にエスカレートし、いつしか殺される者も出てくるようになる。そんな状況を、誰もおかしいとは思わない。次第にネルビアンコは奴隷化され、奴隷として使い飽きられれば、今度は爪の色を理由に絞首台に送られる時代が来た。ここまでされてようやく、生き残ったネルビアンコたちは重い腰を上げて一致団結、通常人種の支配から逃れようという動きが始まる。奴ら、飼い犬の反逆に腹を立てたと思うか? その逆だよ。面白がって狩りの的にし始めた。初めはこの爪を気味悪がっていた癖に、絶対数が減ったらどうだ。気付いた時には俺たちの爪は、貴族や皇族が身に着ける嗜好品になっていた。ネルビアンコは人里離れた僻地に移り住み、自給自足の暮らしでどうにか生き延びて現代に至る」

 そういう種類の情報と、ほぼ無縁で暮らしてきたハレには正直に言って、アーロンの話はピンとこなかった。まるで物語の中の出来事でも聞くみたいに、ハレには実感が湧かなかった。事実、この手の話はハレたちの生きる(凡その平和が約束された)現代に於いては、暗黙のうちに歴史から抹消され、教科書にも載っていないことが殆どだった。多くの人にとって、迫害の歴史というのは文字通り、消し去りたい過去であるからだろう。然し、それは紛れもなく、現実のこの世界で起こったことなのだ。それがどれだけ凄惨(せいさん)で、あってはならないことであったかということは、ハレにも想像することが出来た。が、それを想像したところで、ハレはぽかんと開いた間の抜けた口から、如何(いか)なる言葉を放つことも出来なくなっていた。

 アーロンは更に続ける。「迫害の始まりから何千年が経った今でも、明るみにこそされないが、この白い爪はバカみたいな高値で取引されている。一攫千金を狙う気狂いのハンターたちから、俺たちは未だに、こそこそと隠れながら生きていかなきゃならない。こんなバカな話があるか? 俺たちはお前たちの道具じゃない。犬でもなければ狩りの的でもない。れっきとした人間だ」

 「そうだろう?」と、アーロンは同意を求める。然し、その声はもう、ハレに向けられてはいなかった。ハレの斜め後方に立ち、先程から押し黙ってその話に耳を傾けるハレの親友へと、アーロンの意識は向けられていた。

「――トーマ」

 不思議に思ったハレは、トーマを振り返る。静かな睨みをアーロンの足元付近の地へと向けて、トーマは無反応だった。

 何故、アーロンはこのタイミングで、トーマに話を振るのか。そして何故、トーマは意味ありげに沈黙を守っているのか。初めに感じた違和感の正体はなんだったのか。先程過った既視感の理由は、なんだったろうか。

「トー……マ……?」

 何かを隠すように、トーマは両の拳を握り締める仕草を見せた。トーマの青いグローブが、幾つものしわを寄せてぐい、と丸まる。その瞬間、ハレの中にあったいくつかの点が、曖昧で不明瞭な線によって繋がった。

 (あの日)とハレは思う。

 ノアと出会った日、黒き爪の者への差別についての意見を求めると、トーマは珍しく取り乱していた。アーロンと殆ど繋がりがないと思っていたトーマは、実際には孤児院での生活中に、アーロンとの間に浅くはない関わりを持っていた。極め付けに、ハレが先ほど感じた既視感の正体。あれはトーマだ。孤児院での生活中も、そして今も、彼の手は常に、青いグローブによって覆われている。アーロンと同じく、見られたくない傷があるとかで、彼は入浴も、自分たちとは時間をずらして行っていた。

「その様子じゃ、ハレにはまだ何も話してないというところか。そう簡単には話せないよなあ、こんなこと」

 挑発めいたアーロンの言葉に、「やめろ」とトーマは返した。その声が微かに震えているように、ハレには聞こえた。

「ハレ、二つ当ててやる」

 白い爪を持つ右手の人差し指と中指を突き立てて見せながら、アーロンは言った。

「俺がいなくなったあと、すぐにでも俺を探しに行こうと考えたか? 答えは『考えていない』だ。何故ならそんな発想は、お前にはなかったからな」

 「あ、ああ。そうだよ」とハレ。

「それじゃあ二つ目だ。そんなお前が、俺を探しに出るきっかけを作ったのは、一体誰だ?」

 きっかけは、とハレは思い返した。きっかけはトーマだ。「アーロンを探しには行かないのか」、トーマはそう言っていたと思う。確かに自分にはそんな発想がなかったから、驚いたのをハレは覚えている。

 「やめろ!」とトーマは今度は声を荒げた。

 アーロンから程近い位置にいたカレントが、アーロンへと駆け寄りながら、水のフォルスによる刀を生成して斬りかかる。が、刃がアーロンへと届くよりも先に、アーロンを庇ったイリスの尾ひれによる薙ぎ払いを受け、カレントは後方へと転がった。吹き飛んでいくカレントに一瞥をくれると、「邪魔をするな」とアーロンは吐いた。それから再び、ハレへと視線を向けるとアーロンは続けた。

「答えは、『トーマ』だ。何故なら――」

 もう、どんな言葉が出てきても驚くまいとハレには思えた。いまここで巻き起こっているこの状況すら、ハレにはうまく呑み込めていなかったのだ。それでも続くアーロンの言葉に、そして、次いでその場に現れた人物の言葉にも、ハレは驚き、言葉を失わざるを得なくなった。アーロンの言葉はハレにはまるで、夢の中で聞くように現実感がなく、然しその輪郭だけは、嫌というほどにはっきりとしていた。こういう可能性を、自分は心のどこかで感じていたのではないのかとすら、ハレには思えた。

「トーマは俺たちと同じネルビアンコだ。そして俺が何の為にあの孤児院を抜け出したかを知っている。孤児院を出る前、一緒に来ないかと俺が誘っていたからな。トーマは俺の誘いを断った。にも拘らず、俺を追いかけてこんなところまでやってきた。トーマの中の野心が、俺の理想がどんな形で達成されるのかを、確かめずにはいられなかったんだ。ハレ、お前はトーマに利用されたのさ。……そうだろう? トーマ」

 何も言えずに、ハレはトーマへと目をやった。トーマもまた、何も言わずに地を見つめていた。そこへ、ハレたちにとって聞き覚えのある声が響いた。

「リーダー、追手は退(しりぞ)けたよ。少し目立ちすぎた。これ以上の長居は無用だ」

 風のフォルスで作り出したと思しきボードに乗って、そこに駆け付けたのはモナトだった。両肩にはそれぞれ、黄緑と青緑の羽根を持つ二頭の巨大な蝶を乗せており、全身には浅緑の煙のような光を、彼は纏っている。

 「ああ」と頷くと、モナトが乗っているのと同じようなボードをもう一枚作らせて、アーロンはそこに乗った。モナトとイリスと共に、ふわりと宙へと浮かび上がると、そこからハレたちを見下ろして、アーロンは言った。

「俺はネルビアンコの国を作る。お前たち通常人種が牛耳る、この世界を改革する為のな。ハレ、もう一つ教えてやろう。俺はあの孤児院から攫われてなどいない。自ら望んで、連れ出していただいたのさ。俺たちには力が必要だ。或るお方の力をお借りする代わりに、俺は俺を連れ出してくださった、そのお方の手足として動いている」

 懐から、何枚かの黒い布を取り出すと、アーロンはそれをハレへと放(ほう)った。ハレは慌ててそれを受け取る。どうやらそれがアビスシルクであるらしい。その手触りは、驚くほどに柔らかかった。

「お前たちにも必要なのだろう? お前はまだ使えそうだ。これは預けておく。時が来れば、再び相見(あいまみ)えることになろう。それまでくれぐれも、魔女の護衛をしっかりとな。次に会う時は、互いの使命が因果によって結ばれる場所――」

 向こうへと踵(きびす)を返しながら、アーロンは最後に言い残すと、ハレたちの前を去った。その言葉を、ハレはぼんやりとした頭の中で、しばらく噛み締めていた。幾重にも重なる疑問の回廊に、ハレは再び取り残されることとなった。ここはどこで、自分は一体どこへ向かえばいいのか、ハレには分からなくなった。

「――終末の火(エンデラ)の森で」

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