29
ヨークがハレたちの滞在する宿を訪れたのは、ハレたちがマドラインに到着してから五日後のことだった。ヨークは二十歳前後ほどで、ガタイと愛想のいい青年だった。五日前も今日も、彼は鳶色で短髪の頭に、白いタオルを職人のように巻いている。どうやらそれが、仕事中の彼の通常であるらしかった。
「ようハレ、しばらく」
宿屋のフロントにハレを呼び出したヨークは、そこに現れたハレを見つけるなり、右手を上げてそう言った。
「おっす! ヨークが来てくれたってことは……」
「うん。ピエトロさんの船は、今日の昼頃には港に着くみたいだ。荷下ろしなんかでしばらくバタつくだろうから、夕方くらいに来てくれると丁度いいと思うぜ」
安堵の表情を浮かべながら「わざわざすまねえな。ありがとよ」とハレが返すと、「良いってこと」とヨークは満足そうに笑った。
「どうせ俺みたいな下っ端にはろくに仕事が回ってこないから、案外暇してんのさ。またなんかあったら、いつでも声かけてくれよな」
「そういうもんなのか」と、ハレは意外そうに目を丸くさせると、続けて尋ねる。「ヨークって、ずっとギルドで働いてんのか?」
「俺? 俺は、そうだな。親父の手伝いみたいなことならガキの頃からしてたけど、本格的に働き始めたのは十五の頃だよ。今年で十八になるから、もう三年前か」
「へ~~」と間の抜けた声を半開きの口から漏らすと、ハレは顎を手で押さえて、しばし黙考した。ハレの口から次の言葉が出てくるよりも先に、「なんだよ、ギルドに興味があるのか?」とヨークが尋ねた。
「うーん……、ちょっとだけ」
遠慮がち、というべきか、慎重に言葉を選ぶような様子でそう言ったハレに、「なんならギルド長に掛け合ってやろうか?」とヨークは何でもなさそうに問うた。
「これからマドラインのギルドでは、仕事の出来る人間がどんどん高齢になっていくんだ。下っ端に仕事は来ないって言ったけど、それも今だけの話。これからのギルドでは、若い人間が重宝されるようになるみたいだぜ」
予期せぬ誘いに、ハレは慌ててヨークに向かって「いやいや!」と両の手を広げて見せた。「そこまでは大丈夫。まだやらなきゃいけねーこともあるんだ」
「そっか、そりゃ残念。みんな随分若いみたいだったし、ハレたちってなんか訳ありっぽいもんな。まあ無理に聞き出したりはしないよ。『やらなきゃいけねーこと』が落ち着いたら、またマドラインにも顔見せてくれよな」
「ただでさえよくしてもらってるのに、気ィ使ってもらってすまねえな。ご察しの通り、積極的に喋って回るようなことじゃねえ」
両手を天へと向けて広げて見せながら、(その上経緯が複雑すぎて、まともに喋ってたら日が暮れちまう)とハレは頭の中でそこに付け加えた。「ただよ」とハレは続ける。
「迷惑ついでに、もう一つだけ聞かせてくれ」
「なんでも聞けよ」とヨークが答えると、ハレはまたしても、言葉に迷っている様子で「うーん」と数度唸ってから、『この聞き方であっているのか分からない』というような表情を浮かべて、「あのさ」と切り出した。
「ギルドって……、大変?」
果たしてその聞き方が合っているのかどうかは、聞かれたヨークにも分からない。一瞬キョトンとした顔になって、ヨークは質問の意味をしばらく考えた後で答えた。
「まあ、言っちゃえば大変も大変だよ。ここでは色んなことを、自分で考えて決めなくちゃいけないからさ。でもやりがいはあるよ。それに自信もついた。俺はね」
多くを語ることを、ヨークはしなかった。彼の言葉は簡潔で分かりやすい。五日前に会った時にも、ハレは同じことを感じていた。そして、常にハレが求めている回答を、彼はくれる。あれは彼の能力、或いは才能なのだろうか。ハレは考える。答えは分からない。
去り際、宿屋出入り口の扉に手をかける直前で、何かを思い出したように「あ、そうそう。俺からももう一つ」とヨークはハレを振り返った。
「ハレたちはそんなことで人を判断したりはしないとは思うけど、一応」と前置きをした上で、ヨークは言った。「ピエトロさんは同性愛者だよ。つまり、男を好きになる男ってことだけど」
困ったような笑みを浮かべると、「ああ、そんな気はしてた」とハレは答えた。
騒ぎが起こったのは、十五時を回った頃だった。そろそろピエトロを訪ねようかと準備を整えたハレたちが宿の出入り口の扉を開けると、血相を変えた何人かの男たちが、宿の目の前の坂道を、ハレたちから見て左側の坂の上のほう(つまり街の外側ということになる)へと駆け登っていくところだった。「追え!」「逃がすな!」と男たちは語気を荒立たせている。
十人ほどの塊が通り過ぎてから、ハレたちは改めて宿の外へ出た。「何かあったのかしら」とルチカが首を傾げると、「さあ、盗みでも入ったんですかね。こんな白昼に」とトーマが返した。そこへ――。
「ハレ!!」
男たちと同じく、坂の下から息を切らしながら走ってきたのはヨークだった。「ヨーク! 何があったんだ?」とハレは呑気な声で尋ねる。やはり必死の形相で、ヨークは黒い瞳を持つ目を血走らせていた。「話はあとだ! ハレたちも来てくれ!!」と叫ぶように答えると、彼は再び、坂の上へと駆けて行った。
何やら只事ではない雰囲気を感じ取ったハレは、咄嗟にトーマへと目配せをした。呆れ顔になって「止めたって聞かないんだろ」とトーマは言った。「ご名答」とハレはニヒルな笑みを浮かべる。次いでルチカへと、ハレは目配せする。「あたしも行くよ」とルチカ。「ヨッシャ!」と頷き返すと、「行けるよなァ、ドボロ!」と、ハレは右隣のドボロを仰ぎ見た。
「あったりまえだ!」
ハレへと頷き返しながら、ドボロは握手でも求めるように、広げた右手をハレへと差し出した。新型フォルスチェインを嵌めた右掌で、ハレはドボロの手を打ちながら、「〝共鳴〟!」と強く唱える。と、山吹色の煙のような光が、二人の身体からは激しく迸った。
「ノアは部屋ン中で待ってな!」
そうノアへと告げると、ハレは坂の上方へと跳ねるように駆けた。ドボロがそれに続く。〝共鳴〟を発動させた二人の跳躍力や走行速度が、常人のそれを遥かに上回っているということは、最早言うまでもない。
後方から「お気をつけて!」とノアの声が響く。間もなくして、カレントとラメールを目覚めさせ、〝共鳴〟を発動させたトーマとルチカがそこに追い付いた。トーマたちとルチカたち四人は水色の光を、各々その身に纏っている。
進行方向にヨークの背中を見つけると、「ドボロ!」とハレは呼びながら、ヨークのほうを指さした。「ンだ!」とハレへ頷き返すと、ドボロはヨークを追い越しざま、彼の身体をひょいと持ち上げて肩に背負いつつも、速度を緩めることなく走り続けた。
「うおおっと!」
一瞬、何が起こったのかと驚いた様子のヨークだったが、辺りを見回して自身の置かれた状況を理解すると、「ハレ! みんな!」と喜びを露わにした。ニッ、と歯を出して笑いながら、ハレは右手の親指を突き立てて見せる。
ハレに向かって親指を突き立て返すと、改めて一同の姿を見回しながら、ヨークは今度は驚きに目を見張った。
「なんだよ全員アーツ使いってこと? アンタたちホントに何者? まいいや! 何だか分かんねーけど最高ってことは分かる! そういうことなら俺にもアーツがいるんだ! ドボロって言ったっけ? 俺を上に向かって投げてくれ!」
「分かっただ!」と頷き返すと、ドボロはヨークを上空へと放り投げた。空中でくるりと一回転をしながら、右手で腰に携えられたドルミールに触れるのとほぼ同時に、ヨークは左手で、首から提げたペンダントのチャームに手を添えながら「〝共鳴〟!」と唱えた。浅緑の光を放ちながら、全身を黒い羽毛に包み、腕とは別に大きな翼を持った鳥のようなアーツが、そこには現れた。
「ティオ!」とヨークが呼ぶと、そのアーツ――ティオは「はい!」と答えながら、ヨークのあばらの辺りを両腕でガッチリと掴み、二人はそのまま、ハレたちと変わらない速度で滑空した。広げられたティオの黒い翼は非常に大きく、端から端まで三メートルはありそうだ。上空を滑るように飛ぶ二人の姿は、丁度ハンググライダーの体験者が、インストラクターと共にタンデムフライトを楽しむような具合だった。ゆっくりと高度を落とすと、ティオとヨークはハレたちの隣に並んで、そのまま飛び続けた。
「かっけー!! 空を飛べるアーツなんてアリかよ!」と、ハレは感心して声を上げる。
「ティオは元々親父のアーツなんだ。俺ともフォルスの波長が合うみたいで、俺とも親父とも〝共鳴〟出来るってわけ!」
「そんなこともあんのか! トーマ、知ってたか!?」
「聞いたことはあるが実物を見るのは初めてだ! でもその話はあとだ! 何があったのか簡潔に教えてくれ!」
「おっと、そうだった」とハレ。いま、そんなことを話している時間はない。
宿屋の扉を開けた際に、ハレたちの前を走り抜けていった集団を追い越しながら、「夜明けの月光だ!」とヨークは答えた。ハレの表情が微かに曇る。五日前の夜、焼きそばの屋台の店主が語った言葉が、反射的にその脳裏を過った為だ。
「ここんとこ、黒き爪の者を探してるとかで各地に現れてた白ローブの連中! 何が目的か分からねえけど、ギルド本部を襲撃して、ピエトロさんが必死で買い付けてきた珍しい素材の布をパクっていきやがった! 先方は少なくとも三人! 親父も含め、本部ではギルドの力自慢が応戦中! で、親父の部屋からティオのドルミールを拝借して、俺はその布を持って逃げた男を追っかけてるとこ!」
ヨークの説明はやはり簡潔であった。が、ハレの頭は情報の処理に混乱した。ハレだけではない。トーマもだ。二人の頭の中には、幾つものクエスチョンマークが浮かび上がっていた。
まず、夜明けの月光はこれまでには(世間的には)、『黒き爪の者を探し求めて世界各地に出没する』のみで、今回のように何処かを襲撃したり、何かを略奪したりということはしなかった。その為世間から見た夜明けの月光に対するイメージというのは、犯罪者集団やテロリスト組織といった物騒なものではなく、『(ローブで身を隠した)怪しい連中ではあるが、特に危害を加えてくるようなことはない、ただの変り者の集まり』というようなものであった。一方で、ハレたちの前にはこれまでに二度、彼らは立ちはだかったが、それはハレたちが黒き爪の者そのものであるノアと共に行動を取っているからであり、彼らの目的ではあくまでも、戦闘行為自体ではなく、ノアを自分たちの手中に収めることであったはずだった。
そして、彼らが盗み出したという珍しい素材の布。この言葉だけではそれが何であるのか、断定することは難しい。珍しい素材の布といえるようなものは、世界中にはごまんとあるだろう。然しそれはあくまでも、一般的に、という前提に基づいた話でしかない。ハレとトーマにしてみれば、今この場で、自分たちに向けて発せられる言葉としての『珍しい素材の布』といえば、それは最早、アビスシルクのこととしか思えなかった。
それが何であるのかを確かめるべく、ヨークに向かってトーマは問うた。「盗み出された布っていうのは、アビスシルクですか?」
驚いたように目を丸くすると、「そうだよ。なんで分かったんだ?」とヨークは尋ね返した。トーマはこれには答えなかった。頭の中に出来かけていたパズルに、ハレとトーマは『アビスシルク』という情報を当て嵌めてみる。
一つ。夜明けの月光は、黒き爪の者を探している。しかし、その為に尋問や街荒らしのようなことをした試しはない。そんな彼らが今、アビスシルクを求めてこのマドラインを襲っている。
一つ。自分たちは、ノアをエンデラの森に連れていき、プリマギアを目覚めさせることでノアを助けようとしている。その為に必要なものの一つであるアビスシルクを、今は探し求めている。
二つの事実は非常に似通っている。明らかでないのは夜明けの月光の目的だ。彼らは何故、アビスシルクを欲しているのか。
(あいつらはあいつらで、エンデラの森に入ろうとしている……? じゃノアを必要としているのはなんでだ? 俺たちはノアを助ける為に、プリマギアを目覚めさせようとしている。仮にあいつらも、俺たちと同じようにプリマギアを目覚めさせることを目的としているとしたら、その理由はなんだ……?)
点と点同士は、線で繋がっているのだ。然し、その線が何を意味しているのかがハレには分からなかった。
二つの事実の間にあるものは何か。共通項は何か。解けないパズルを、ハレは瞬間的に、頭の中で何度も何度も組み直した。答えは出ない。然し、ヨークに聞かなければならないことがもう一つ、ハレにはあった。それがパズルのピースになるのかどうか、今は分からない。そしてそれを聞くことはハレの精神に大いなる躊躇いを齎した。唾を飲み込み、迷いに揺れる心を決すると、ハレは恐る恐る、ヨークへと尋ねた。
「なあヨーク。ギルドを襲った連中の中に、……赤い髪の男はいたか?」
ヨークがそれに答えようとしたその刹那、ハレたちが走っている通りと交差する別の通りから、紅蓮の光を纏った巨体が現れた。急ブレーキをかけて、ハレたちはその巨体の前で立ち止まった。ヨークとティオもが地面に足を付いてそこに立ち、四組のアーツ使いとそのアーツは、壁のような巨体の前に横並びの形を取ることとなった。
す、と巨体の頭部を、ハレは睨みつけるように仰ぎ見る。この三メートルほどの赤い巨人に、ハレは見覚えがあった。
「お前は確か……」
二足歩行で人型の巨体は、強靭で筋肉質な上半身と、それを支える短くも太く逞しい両足を持っている。全身が赤い皮膚に覆われている上、その肉体には煙のような紅蓮の光を、巨体は緩く纏わせてもいた。胸部と腕には鎧のような装甲を持っており、これは一部が紫や黄色に輝いている。鼻から上はヘルメットのような黒い仮面で覆われており、その頭部からはトサカや鬣を思わせる、金色の髪をその巨体は持っていた。
二ヶ月近く前、旅に出て間もなかった自分たちの前に現れ、まったく歯が立たなかった自分たちをガルダバム川に追いやった、夜明けの月光の一員である少女が連れていた(暫定)精霊。名前は――。
「…………ごめん、誰だっけ……?」
呆れたトーマが溜め息を吐き出して間もなく、「フラムよ」と答えながら、巨体が出てきた通りの奥から一人の少女が現れた。白いローブに身を包んでおりその姿は明らかではないが、声や背格好からして、あの時の少女で間違いはなさそうだった(また彼女も紅蓮の光をその身に纏っている)。
「そしてお前はユニ。そうだな」とトーマが言うと、僅かだが虚を突かれたように、少女は怯んだ。
「ああ、モナトか。相変わらずお喋りな奴。そう、あたしがユニ。火の精霊を使役する精霊術師」
言いながら、彼女は顔を隠していたフードを外した。声色からも察しはついていたが、その顔付きは幼く、十二、三歳ほどのものに、ハレには見えた。
青の瞳を持つ目は大きいが、白目の面積が少ないせいか、表情に乏しい。否、目だけではなく、一文字に封じられた小さな口や、同じく小さな鼻筋が、それぞれの意志を持って協力的に、その顔から表情を消し去ろうと努めているようにもハレには感じられた。柳茶色の髪は長めのボブカットにされており、その前髪は瞼にかかりかけている。前髪とそれ以外を分けるように、彼女は頭に茶色のカチューシャを装着していた。
「そこを退け」とトーマはユニを睨み付ける。「ま、それで退いたら来た意味ないよね」と余裕の様子で、ユニは(機械仕掛けのスイッチでも入れるように)フラムの脚を人差し指でつついた。するとフラムは本当にスイッチでも入れられたかのように、機械的な動きでユニへと手を差し伸べるなり、彼女がそこに乗るのを待ってから、自身の右肩へと移した。
「ノアならここにはいねーぞ」とハレ。
「今日の仕事は、あなたたちの足止めだから。それじゃ、始めま――」
始めましょう、とユニが言い切る前に、フラムは防御姿勢を取らざるを得なくなった。鈍く鳴り響く金属音と共に、フラムの巨体は大きくよろめく。跳躍しながら水のフォルスによる大剣を作り出したラメールの縦斬りを、フラムが右腕の装甲で受け止めた音であった。
音のする上方を見上げるなり、「ラメール!?」とハレは驚きに顔を顰めた。「走って!!」とルチカの声が響く。トーマとカレント、ヨークとティオは、フラムの足元をくぐって坂の上へと駆けていく。状況が判断出来ないまま、前方の二組と後方のルチカに、ハレは交互に目をやった。
「ドボロ、ハレを!!」とルチカが怒鳴るように叫ぶ。「ンだ!」とドボロは頷き返すと、ハレの身体を抱き上げて走った。
「おっ、おい! ルチカは!」
慌てた様子のハレに、「ルチカさんを信じろ!!」とトーマが返した。然し――。
「逃がさない」
ユニの声と共に、フラムはラメールを地へと叩きつけると、足の裏から火のフォルスを噴出するようにして、空中へと浮かび上がった。(ああ、こいつは飛べるんだった)とトーマは思い出す。
「空中戦なら俺たちだ!」と、言いながらヨークは跳躍した。タイミングを揃えて跳躍したティオが、翼を広げて飛翔する。急上昇するティオの脚を、ヨークが手で掴むと、二人はそのまま旋回し、フラムとユニを迎え撃つ体勢を取った。
「ハレ!」とヨークは上空から叫ぶ。「俺たちが今追いかけてる奴! アビスシルクを持ち去ったそいつが、まさに赤い髪の男だったよ!!」
何も言わずに、ハレは頷き返した。その小さな首の動きが、上空にいるヨークに見えたかどうかは分からない。然し、元気よく返事を返すような気力は、今のハレには残っていなかった。しばらく走ったところでドボロはハレを下ろし、ハレとドボロ、トーマとカレントは更に走り続けた。
通りを抜けて、田畑の広がる地帯に差し掛かると、ハレたちはとうとうその視線の先に、白いローブの後ろ姿を見つけることが叶った。然し、『叶った』などとは到底、この時のハレには思えなかった。
「おいコラ! 待てコソ泥!」とハレは強気で咆哮する(勿論、男は逃げる足を緩めない)。
あの男を捕まえれば、自分たちはアビスシルクを手に入れられるかもしれない。それと同時に、自分はアーロンに会うことだって出来るのかもしれない。然し、男を捕まえようと全力で走り続ける二本の脚とは裏腹に、ハレの心はその男を捕まえて、顔を確認することを拒んでいた。目前に迫った目的達成の水面下で、ハレの心はその男が、アーロンではないことを願って止まなかった。
「待てっつってんだよ!」
ハレが探しているアーロンは、自分の憧れであり、頼れる兄貴分だったアーロンだ。ノアの家を襲い、彼女の祖母を殺し、街を襲撃して盗みを働く人間がもしアーロンだったとして、自分はどんな顔をして、彼との再会を果たせばいいのか。そんなことはハレには分からなかった。そして分かりたくもなかった。
「なあおい、鬼ごっこは、もういいだろ」
街を出て更にしばらく走り、浅い草の茂る丘陵の真っただ中で、ハレはその男の腕を掴んだ。坂道はハレたちの後方に向かって下り坂となっている。〝共鳴〟状態とはいえ、数分間に渡って坂を上り続けてきたハレの息は切れていた。
男の体格はかなりがっしりとしており、身長は一八〇センチほどはある。ハレの知るアーロンの姿よりは、幾らか大きいようだった。最後に見たとき十八歳だった彼が、二十三歳になっているとしたらこのくらいだろうか、とハレは考える。
「アーロン……なのか? なあ」
ハレが腕を引っ張ると、男は案外すんなりとこちらを振り返った。フードに隠れていて、その顔は見えない。ハレが次の言葉を紡ごうとした瞬間に、男の口が動いた。「イリス」と呟いたように、ハレには聞こえた。
その言葉が何を意味するのか、ハレが判断をするよりも早く、ハレたちの身体は後方の坂の下へと、淡い金色の衝撃波によって数メートルほど吹き飛ばされた。なんとか空中で体勢を立て直したトーマとカレントは、両足をついて地面に立っている。二人からやや離れた位置で、ドボロは片膝をついて表情を歪めていた。地に転がされたハレは、痛みに顔を顰めながらも、男から目を逸らすことはないように、ゆっくりとその場に立ち上がりながら言った。
「なんで……」
ここのところ、自分の頭では処理し切れないことばかりが起こる、とハレは思う。
何故、彼がここにいるのか。何故、彼は夜明けの月光の白いローブに身に隠しているのか。何故、彼はマドラインからアビスシルクを盗み出したのか。
「なんでなんだよ……!」
ノアと出会っていなければ、自分はここに来ることもなかった。ともすれば、変わってしまった彼の姿を、自分は見ずに済んだかもしれない。すべては偶然なのか。これが、運命だとでも言うのか。
ハレの言葉に応えるように、男は顔を覆い隠す白いフードを、黒いグローブを嵌めた両の手で、静かに外した。
「久しいな、ハレ」




