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エンデラの森の黒き魔女  作者: 暫定とは
三章『深淵』
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「綺麗なところですね……。まるで海の中を歩いてるみたいです」

 一帯に広がる珊瑚の大地のあちこちに視線をやりながら、ノアは言った。

 「そうでしょ?」と先を歩くルチカがノアを振り返る。「あたしも先日初めてここに来たんだけど、こんなに綺麗なところがあるんだってびっくりしちゃった」

 案内役としてルチカを加えたハレたち一行は晴天の下、リヴィールの北東に位置する、珊瑚の死骸で出来た特殊な地形を進んでいた。ヒマロス大陸の北海岸に連なるこの珊瑚の大地は、複雑に絡み合う高低差を持っており、一見して通過に難しい。然し実際に歩いてみると、本当に通り辛いのは一部の狭まった通路くらいで、中心を貫いている幅広のルートを通れば、リヴィールの東に広がる深い森林地帯を抜けるより幾らも簡単に、大陸の東側に進んでいけることが分かる。

 「メーディウム珊瑚廊(さんごろう)」と、トーマは教科書の一文でも読み上げるみたいに言った。

「旅人からは『自然の街道』と呼ばれることもある、珊瑚の死骸で出来た世界でも類のない特殊地形だな。かつては海の底だった珊瑚礁が、地殻変動によって海上に押し上げられたのが今の姿だから、ノアの印象も間違いじゃない。珊瑚たちが死んでいながらも鮮やかな色を残してるのは、酸化しながら表面が剥がれ落ちていくことで、内側に残っている色素が表に出てくるからなんだそうだ。海の中で生きていた頃よりも鮮やかになっているという説もある。珊瑚礁が陸地に押し上げられる現象自体は他の海域でも確認されてるが、こんな反応をするのは、この近海に生息する固有種だけに見られる特有の生態らしい。不思議なものだな」

 トーマの言うように、辺りに広がる珊瑚の群れはそのほとんどが、パステル調の青やピンク、黄色など鮮やかな色彩を保っている。よく管理の行き届いた、人工の花畑のようにもそれは見えた。

 「よく知ってんのね、トーマ」とルチカ。

「本を読むのが好きなんです。実際にはほとんど帝都から出たこともなかったので、付け焼刃の知識ばっかりですが」

 「トーマの話を聞いてると、シンと旅してた頃を思い出すだ」とドボロが笑みを浮かべると、「ああ、言わないようにしてたのに」とルチカは嘆くように言った。

「シンさんとは仲がよろしくなかったんですか?」

 ノアの問いに、ルチカはうーんと唸ってから答えた。「仲が悪いわけじゃないけどね。ほらあいつって、いつも一言多いっていうか、他人を小馬鹿にしたような態度じゃない? それでしょっちゅうバチバチしてたのよ」

 「喧嘩するほど仲が良いって言うだ」とドボロ。「否定はしないわ」とルチカが言うと、「ルチカも素直じゃないんだから」とラメールは笑った。

 後方の二人を振り返りながら、「ハレさんとトーマさんみたい」とノアが笑いかける。一行はこの時、前からルチカ、ラメール、ノア、ドボロ、ハレ、トーマの順に並んで(カレントはドルミールの状態でトーマの腰に提げられている)進路を取っていた。

 「俺は否定しておくぞ」とトーマ。ハレからの返事はない。ハレは先刻からずっと、手に持った一枚の写真を眺めて黙りこくっていた。

 リヴィールを発ってから数日、ハレは結構な頻度で、その写真を眺めている。表情はニヤついており、感傷に浸っているという風ではない。ただ彼は、それに夢中になっているだけなのだ。

 「どれだけその写真が気に入ってるんだ」と呆れた様子でトーマが言うが、やはりハレからの返事はない。

「ハレさん?」

 ノアの再びの呼びかけに、ハレはようやく顔を上げて反応した。「あ!? ごめんごめん、なんだって!」

 ハレの問いにはドボロが答えた。

「喧嘩するほど仲が良いルチカとシンの関係が、ハレとトーマみたいって言っただよ」

「俺は否定しておくと言ったんだ」

 興味なさげにそう言ったトーマに対し、ハレはしたり顔になって「またまたトーマさん、恥ずかしがっちゃって~」とトーマの脇腹をつついた。

「俺とトーマの仲が良くなきゃ、誰が仲良いのってェもんよ! ツーと言えばカー! 喧嘩するほど仲が良いと言えば、俺とトーマって相場が決まってんのよコレが! だってそうだろ? この写真――」

 手に持った写真を、ハレは前方の一同に披露した。かと思えば、今度は再度、写真を自分のほうへと向けて、込み上げてくる笑いを堪える様子を見せた。「っ……、ホンットに……」

 そこで、ハレの笑いは爆発した。腹を抱えて笑い始めて数秒、珊瑚の地面に蹲(うずくま)ったかと思えば、そこをバシバシと叩きながら、ハレは笑い続けた。

 「どうしよ? 置いてく?」とルチカ。

 「そうしましょう」とトーマは言いながら、自身のポーチに入った同じ写真を取り出すと、細めた目でそれを睨んだ。「こんな写真、どこがそんなに面白いんだか」

 ノアも同様に、(リヴィールで拵えた)自身のリュックサックから同じ写真を取り出すと、それを見つめて柔らかな微笑みを浮かべる。「でも、良い写真ですよ」

 写真にはハレとトーマのほかに、ノアとドボロ、カレントが映っている。右からノア、ハレ、トーマと屋外のベンチに並び、その後ろにドボロとカレントが立つという構図だが、トーマは何があったのか、ベンチから立ち上がりながらハレを怒鳴り散らしている。トーマの怒号から逃れるように、ハレは屈めた頭を両腕で抱えつつも、腕の隙間からニヤけ顔で、トーマの様子を伺っている。ノアとドボロとカレントの三人は、突然の出来事に目を丸くして驚いている、といった具合だ。

 ルチカやクリスと出会ったリヴィール到着の日まで、話は遡る。


「アビスシルク。アビスシルクね~」

 値切りを渋る店主のように、クリスは悩ましい表情で言った。何から話したものか吟味している、といった様子だ。数秒間、「うーん、うーん」と唸った後で、クリスは口を開いた。

「あなたたちが何を知ってるのか分からないから、とりあえずアビスシルクの基礎から話すわね」

 ルチカの作った炒飯を食べながら、クリスは次のように語った。

 アビスシルク。別名『深淵絹(しんえんけん)』。世界最大の大陸であり、九つの雄大な山脈を抱えるパラム大陸の、或る渓谷地帯の樹林にのみ生息する、蚕の変種である黒蚕(くろかいこ)。その黒蚕の作り出す黒い繭からのみ取れる、極めて希少性の高い絹。また、その絹を使った織物。それがアビスシルクである。

 黒蚕の個体数が減少の一途を辿る中、アビスシルクの流通ルートもそれに伴って減少し続けており、今現在、商人や一般向けに公開されている流通ルートは、ない。それどころかここ数年で、業界では黒蚕自体が絶滅したのではないか、という噂まで立っているくらいであり、つまるところ新品の状態のアビスシルクというのは、既にこの世に存在しないといっても過言ではない。もし本当に黒蚕が絶滅しているのであれば、この先の未来についても、もちろん同じことが言える。中古品であったとしても、それを入手するのは困難を極めるだろう。

「アタシも生のアビスシルクなんてのは、一度しか見たことがないのよ。もう十年以上前になるかしら。当時はちょくちょく交流のあった渡りの商人がね、たまたま手に入ったんだって見せてくれたの。必要なかったから買いはしなかったけどね。彼はアビスシルクを見たのはその時で三度目だって言ってた。流通ルートでの立ち位置上、彼はそういう、所謂(いわゆる)レア物を手にする機会は多いほうなんだって。多いほうで三回よ。そもそも彼に会えるかどうかも分からないし、あんまり期待はしないほうがいいと思うわ」

 その商人との交流は今ではほとんどなくなってしまったが、とある事情から世界中を飛び回るのが難しくなった彼が、今では渡りの商売をやめ、このヒマロス大陸の或る都市を拠点にして活動しているのだと、クリスは風の噂で耳にしたという。ダメ元で申し訳ないが、とした上で、自分がアビスシルクについて何か教えてやれるとしたら、彼を訪れてみろとしか言いようがない、とクリスは教えてくれた。

 男の名前はピエトロ。数年会っていないが、多分自分のことは覚えてくれているだろうと(忘れられるはずもないと、彼女はえらく自信ありげだった)、クリスはピエトロに宛てた手紙を書いて、ハレたちに託してくれた。「ルチカちゃん、あなたも一緒に行くといいわ。あの街では色々と勉強になることもあると思う」とクリスが言ったので、ルチカとラメールもそこに同行することが決まった。

 新しい大陸での旅の準備も含め、リヴィールで数日間の休息を取った後に、ハレたちはメーディウム珊瑚廊を超えた先にあるという、巨大な流通都市を目指して出発することとなった。

 リヴィールの町の大部分はやはりというべきか、日中ハレたちが通ってきた市場のように、雑多でごちゃごちゃとした街並みに覆われていた。然し、近年は観光地としても人気を博するこの町の一部分には、旅行客向けの宿場町のようなエリアが設けられており、こちらは比較的小綺麗に整っていた。「宿屋が綺麗だといい」というトーマの願いは成就し、ハレたちは滞在の数日間、柔らかいベッドで穏やかな休息を取ることが叶った。幸運なことにこの間(かん)、ノアも体調を崩したりすることはなかった(本人曰く、体調不良には波があり、街の中にいてもそれが起こる時と起こらない時があるのだという)。

 リヴィールからの出発の朝、準備を済ませて町の出口に集まったハレたちの耳は、突き刺さるような声量の高音に襲われた。まだ朝の六時だ。自分がこの町の住人なら間違いなく苦情を申し立てるだろうとトーマは思った。

「イィーねェ!! 君たち! すごーくイィーよォ!! アツゥいパッシォンを感じる!! スサマじーいポテンシァルを感じる!! ちょッッッと一枚、撮らせてくーんない!?」

 声の主――サングラスをかけた老年の男は、背が低く頭は禿げている。首からは物々しい雰囲気を醸す巨大なカメラを、彼は提げていた。写真屋には見えないが、その発言とカメラから察するには、どうやら写真屋ということらしい。

 「ハレ、お前の友達か?」とトーマは無表情で問うた。流石のハレも苦笑を浮かべて、「いや、あそこまで癖の強(つえ)え友達は俺にもいねえ」と答えた。が――。

「ごめん、あたしはあいつを知ってる……」

 眉間を押さえて悩ましそうに、ルチカはそう言った。そして彼を知っているのは、ラメールも同じだった。

 ルチカ曰く、三年前の旅の終わりに、戦いを終えたルチカたちを祝う為に帝都で開かれた凱旋パレードにも、この写真屋は現れたのだとか(ハレとトーマはこの話を聞いて、そういえば自分たちが凱旋パレードに際して、孤児院で出店していた屋台を手伝わされていたことを思い出した。当時は二人とも、なんのパレードかなどは気にしていなかった)。聞けばこの男、世界中の街や村を自由気ままに転々と巡り、(自身が発明した)撮った写真をその場で印刷することの出来るカメラで、道行く人々を撮影しては写真を売るという商売をしているのだという。写真は一枚四〇〇ベイで、ルチカたちは当時、わけの分からないまま彼の流れに乗せられて写真を撮り、人数分の四枚、写真を買わされた。その写真は今でも、コントゥリのルチカの自室に飾られているという。

 余談だが、フォックシャル帝国並びにアシリア全土に於いて、カメラと写真の技術は生まれてまだ間もない。一般市民が写真を撮ろうと思ったら、基本的には専門店に出掛けていって、写真屋に撮ってもらうというのが通常だ。一部の金持ちやマニアを除いては、カメラを個人で所有している人間というのはそう多くない。カメラを持っていたとしても、気に入った風景や親しい友人を好き放題に写真に収められるほど、フィルムも写真の印刷も、安い買い物ではなかった。そういった背景を踏まえれば、このようなカメラを造り出してしまうこの写真屋の技術力は侮れないのかも知れないし、またその商売は理に適っているとも言える。あまりにも癖が強いという一点に目を瞑れば、彼は優秀な人材であるらしかった。

 「いいじゃん、撮ってもらっちゃえば? 写真の腕自体は悪くはなかったわよ」とルチカが言うので、ハレたちはそうすることにした。「俺はいい」とトーマは撮影を拒否したが、ハレがそれを許さなかった。

「いいじゃねェか減るもんじゃないし! 記念だよ記念!」

「なんの記念だ」

「そりゃーほら、あれだよ。あれだ。うーんと、……リヴィール出発記念?」

 呆れ顔のまま、然しハレは絶対に譲る様子ではなかったので、トーマは諦めてそれに応じた。どうせなら、とトーマはカレントのドルミールを目覚めさせ、彼にも写真に写るように促した。町の出入り口広場にあったベンチに、ハレたち三人は横並びに座った。その後ろにドボロとカレントが立った。

 「ルチカは来ないだか?」とドボロが聞くと、「あたしはいいわ、こんな格好だし」とルチカは遠慮がちに笑った。「気にすることないと思うだよ」とドボロは言ったが、ルチカは首を振るったので、ドボロは無理に誘うことはやめておいた。

「はーァい!! みんなとびっきりのスマーイル、見せてちょーだいネェ!!」

 写真屋が構えるカメラのレンズを見つめながら、ハレは言う。

「なんかドキドキするよな。写真なんて生まれて初めてだ」

 「私もです」と返したノアの声色は緊張気味で、その表情は強張っていた。ベンチに浅く腰掛けた彼女は、背筋をピンと伸ばしている。

「写真っていうんだか? 一体これから何するんだ?」

 よく分かっていない様子のドボロを仰ぎ見ると、写真屋のカメラを指差して「あそこの丸を見とくんだよ」とハレは言った。それから再度、自分も正面を向き直ると、ハレは次のように続けた。

「タイムマシーンみてーなもんさ。あの機械は今の俺たちの姿を、紙に残して、未来まで永遠に記録してくれるんだ。未来の俺たちはその写真を見れば、いつだってこの時間を思い出して戻ってくることが出来る。逆に言えば、今の俺たちはあのレンズを通して、未来の自分たちを見つめてるようなもんだな。ドボロには、どんな未来が見えるよ? 俺ァもちろんこの仲間たちと、あとアーロンもだな。みんなで楽しく馬鹿やって笑ってる、最高の未来が見えるぜ」

 ハレの話を片耳に、彼にしては珍しく詩的なことを言う、とトーマは思った。かくいうトーマも生まれて初めての写真撮影に、少し緊張して背筋を伸ばしていた。カメラから視線を外すことはなく、トーマは脳内で、ハレの言葉を反芻(はんすう)する。

 あのレンズの向こう側に、自分にはどんな未来が見えるだろう。そして未来の自分は、どんな姿でこの写真を見るのだろう。その時、自分の隣には誰が居るのだろう。ノアは居るだろうか。ドボロやカレントは居るだろうか。ハレは、そこに居るだろうか。それとも――。

 ふと、トーマは脇腹を襲う妙な痛みに気が付いた。右隣のハレが「しししし」と笑っている。ハレがトーマの脇腹を、指の先でこっそりと摘まんでいるのだ。それを払い除けようかとトーマは思ったが、写真屋の様子を見る限りどうやら、そろそろ調整が終わってシャッターが切られるらしい。「やめろ」と小声で言うのみに、トーマは留めた。カメラに向けられた表情は痛みと苛付きに歪んでいる。

 「え? 何をよ」と、わざとらしく知らない風を装ってハレは言った。「脇腹を摘まむのをやめろ」とトーマは囁くような声で繰り返す。

「準備できたから、撮るからネェー!!」

 写真屋がシャッターを構える。「いやはやトーマさん、もう少し大きな声で言ってくれないと聞こえませんね」と笑いながら、ハレは摘まむ力を更に強めた。耐え切れなくなったトーマが立ち上がり、「脇腹を摘まむのをやめろって言ってるんだよ!」とハレを怒鳴った。屈めた頭を両腕で庇う動作と、嬉しそうな表情でハレは反応した。トーマの突然の怒号に、ノアとドボロとカレントは、目を丸くして驚いた。その瞬間、シャッターが切られた。

 印刷された写真を見るなり、ハレは一分ほど、地面を転げながら爆笑した。満足するまで一頻り笑い終えると、「おっちゃん、同じのをあと三枚ちょうだい」と、ハレは合計四枚の写真を購入し、それをトーマとノア、そしてドボロへと配った。

 「俺は要らん」とトーマは写真を突き返そうとしたが、「記念だよ記念」とハレはそれを受け取らなかった。

「なんの記念だ」

「まあまあトーマさん、細かいことは気になさらず」

 笑って誤魔化しながら、ハレは町の出口へと歩き出してしまったので、トーマは手に持った写真を十秒ほど眺めた後で、仕方なく腰のポーチへとしまった。こうしてハレたちはリヴィールを出発し、現在に至る。


 メーディウム珊瑚廊を歩き始めて更に数日の後、ハレたちは珊瑚廊の出口まで辿り着いていた。一行の目の前には、大陸北側の海岸に沿って、(これまでは珊瑚の壁に隔てられて見えなかった)広大な砂浜がどこまでも続いている。

 「やーっと出られた。もう珊瑚はこりごりだぜ」と、ハレは溜息と共に吐き出した。歩き始めた頃は美しい風景を楽しんでいたものの、数日間珊瑚に囲まれて歩き続けたハレは、既にその景色に嫌気が差してしまっていた。

 「思ったよりも長かったわね」とルチカ。「でも、ここから街まではそう遠くないはずよ。明日の日中には着くんじゃないかな」

 巻取り時計を引っ張って、トーマは時刻を確認する。今、午後の一時過ぎだった。

 「ねえ、ルチカ」とラメールは耳打ちするように、ルチカに声をかけた。「うん」とルチカは神妙な面持ちで返す。ラメールの言わんとすることは、ルチカにも分かっていた。

「魔物たちは落ち着いているし、数も以前ほど多くはなかった。通りがかった時に一応確認したけど、特異点――『門』ももう、あそこにはなかった。〝箱庭〟は収束したみたいね」

 ルチカの言葉に、ホッとした表情でラメールは頷き返す。聞き慣れない言葉に違和感を覚えたトーマが、ルチカに向かって尋ねる。「どうかしたんですか?」

 「ううん、こっちの話」とルチカは首を振るった。「シンからの頼まれ事でね、四属性とは別に存在する正体不明のフォルスを調べてるの。以前あたしがここに来た時には、この珊瑚廊にはそのフォルスの兆候があったんだけど、今はもうないみたい」

 「それってシンが言ってた、第五フォルスとかって奴のことか?」と、頭の後ろで両手を組んだハレが尋ねる。

 「ううん」とルチカは再び首を振るう。「第五フォルスとはまた別物なんだって。そもそもの構造がフォルスとは真逆なんだけど、性質的にはほぼ同じだから、暫定的に『反フォルス物質』って呼んでるってシンは言ってた。あたしはよく分かんないから、とりあえず頼まれたことをやってるだけだけどね」

 ハレとトーマはそれぞれ、シンに会った時の会話の記憶を遡ってみた。特異点、門、箱庭、反フォルス物質。ハレたちの記憶にそれらの情報は存在しない。記憶の糸を手繰り寄せても、どうやら自分たちにとって、それらは本当に初耳らしかった。恐らくは自分たちの(アーロンを取り戻し、ノアを助ける)旅には関係がないことだから、殊更シンも話をしなかったのだろう、という結論に至り、ハレとトーマはそれ以上を聞くことはしなかった。

 無闇やたらに情報を増やす必要はない。好奇心旺盛なハレには、その詳細が気にならないわけではなかった。が、目的が増えれば増えた分だけ、一つ一つの達成は困難になる。まずは自分たちのやるべきことを、今は一つずつクリアしていくべきなのだ。そう自分に言い聞かせて、ハレはその話への興味を閉じた。

「シンって色んなことやってんのな。想像しようとしただけで頭がパンクしちまうよ」

 両手を広げてお手上げのポーズで言ったハレに、「想像する前から諦めるなよ」とトーマは言った。

 「オデなんか想像する前に、何を考えればいいかも分かんないだよ」とドボロ。

 「そうだろ? だからお前とは仲良くなれると思ったんだよ」とハレは、左隣を歩くドボロに、右の掌を広げて見せた。横長の口を縫い合わせるように笑って、ドボロはそこにハイタッチをした。

 「調子のいい奴」と呆れた様子でトーマが言うと「ふふ」とノアが静かに笑った。

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