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「おっ! 見えてきたぜ!」
デッキの柵から身を乗り出して、海の向こう側を指さしながらハレは言った。
「あんまり身体を乗り出すなよ。海に落ちても知らないぞ」
「ハレさん、危ないですよ!」
ハレたちを乗せた連絡船がスチルバティクスを出港して、二週間が経過しようとしていた。連絡船のデッキに集まったハレたちの目は、青く輝く水平線の先に、ヒマロス大陸の西海岸を映している。
「なんだよノアまで。ビビってんのか?」と、二人を振り返ったハレは挑発するように言った。柵に足をかけると、子猿が木登りでもするように、ハレは柵の上までよじ登り、偉そうに腰に手を当ててそこに立った。
「ほーらこんな柵、乗っかったって落ちたりしねーって――うおわっ!!」
船の揺れにバランスを崩し、ハレはその場でよろめいた。「ひっ」とノアが口元に両手を当てる。流石のトーマも、これには表情を歪ませた。
海に放り出されそうになったハレの足を、ドボロが掴んだ。「大丈夫だか? 危ないだよ、ハレ」
そのままドボロの腕に引き上げられ、甲板の上に下ろされたハレは、その場に胡坐をかくと頭の後ろを掻きながら笑った。
「へへへ、こういう演出~。サンキューな、ドボロ」
「何が演出だ」とトーマ。「ふざけるのも程々にしておけよ。少なくとも目的を達成するまでは」
「わーってるって! 怖い顔すんなよ、怖くなるだろ」
分かってると言いつつも調子の変わらないハレに、トーマは呆れたように溜め息を吐きながら、先のハレと同じく柵に手をついて、その向こう側へと視線をやった。海からの風に、ブロンドの髪が舞う。眼鏡のブリッジを押さえると、魔法使いが秘密の呪文でも唱えるみたいに、トーマは小さく呟いた。
「……無事に会えるといいんだがな」
立ち上がり、トーマの隣に並ぶと「ま、なんとかなるさ」と他人事のようにハレは笑った。「ルチカって言ったっけか?」
「ンだ。世話好きの優しい女の子だよ」
ドボロを向いて頷き返すと、ハレは今一度、真剣な表情になって海の向こうの大陸へと視線をやった。その脳裏には、この旅の第一の目的である、深緋の長髪を持つ青年の姿が思い起こされている。
ハレの瞳は、スチルバティクス到着よりも前――ただ純粋に、『彼を助け出して連れ帰る』ことのみを考えていた時とは、幾分違う色をしていた。複雑に絡み合った幾つかの感情を、その緑青色の眼は宿している。
(アーロン……。直接会って、話がしてえ。今、どこで何してんだよ)
ハレがそのように思うようになったわけは、二週間前、ノアによって語られた話の中にあった。スチルバティクスからの出航前夜まで、話は遡る。
ノアは悩んでいた。一つだけの悩みではなかったし、簡単な悩みでもなかった。複数の、そして難しい悩みだ。然し彼女の悩みというのは、何も今に始まったことではない。
ノアの出生は、このアシリアの中でも極めて特殊だ。そしてその血縁についても、やはり同じことが言える。極めて特殊な出生と、極めて特殊な血縁を持った彼女が、複数の難しい悩みを抱えることはさして不自然なことではない。殊更酷な表現をするのならば、それは抱えられるべくして抱えられている、と言ってもいいくらいだった。彼女にとってもそれは日常的な営みの一つだった。ふつうの人が、朝、カーテンを開けて『今日はいい天気だ』とか『今日は曇っている』などと、反射的に(そして無意識に)思うのと同じように。
この時ノアが抱えていた悩みは、大きく分けて二つあった。一つ目の悩みに関しては、ノアはもう、考えて答えを出すことを諦めていた。自分が考えて導き出す答えとは無関係に、事態が進行していくことを彼女は理解していたからだ。それは『本当にこのままハレたちの世話になり続けていいのか』ということだった。
前提として、世話になることへの応酬に、ノアは常々後ろめたい気持ちに駆られずにはいられなかった。然し、ノアにとって真に苦痛だったのはそれとは別に、『そもそもアーロンを連れ戻す為に旅をするハレとトーマが、その使命を差し置いてまで(少なくともハレはそれを認めないだろうが、実際に差し置いていることは事実だ)、自分をも助けようとしてくれている』ということだった。
同年代、且つ子供だけで旅をしているという点に於いて、自分とハレたちは似たような境遇を持っている。然し旅の目的については全くの正反対であり、ハレたちが誰かを助ける為の旅をしているのに対し、自分は、自分が助かる為だけに旅をしている。
勿論ハレたちにとっても、アーロンを連れ帰ることに成功すれば、それは自分たちの喜びにも繋がるのだろうから、そういう意味ではハレたちの旅もまた、自分たちの為のものと言うことも出来るのかも知れない。否、それはあくまでも『言うことも出来る』程度のものであり、大筋としてはやはり、彼らの旅はアーロンを助けるという目的を持った、他人の為の旅に他ならなかった。
一方で自分は、自分が生き延びる為だけに夜明けの月光から逃げ、自分が生き延びる為だけにエンデラの森を目指している。その事実は悲しいかな、どこをどう引っくり返そうと、誰かの為などということには決してならない。
命を惜しむということは、(言うまでもなく)生きていく上で重要だ。然し多くの場合、その行動は自分や他人の目には、惨めたらしく映る。『命惜しさに醜く足掻く』――、というようなことが、自分の旅の本質であるとノアは思っていた。
だからこそ一時は、ノアは自決まで考えた。惨めさから目を背け、自分の為だけに無理難題の目的を課してはいるものの、それが失敗すれば自分の力は悪用されることが目に見えている。それならばいっそ、そうなってしまう前に自ら命を絶ったほうがいい、と。
然し、ハレがそれを思い留まらせてくれた。こんな自分を、エンデラまで連れていくと彼は言ってくれた。そう言ってくれるハレの為にも、生きねばと再び、ノアには思うことが出来たのだ。自分の為だけに生にしがみつくことに限界を感じていたノアにとって、それは救い以外の何物でもなかった。
自分の為に生きる必要などない。自分を生かそうと必死になってくれる、ハレの為に生きればいい。今ではノアは、そのように思えるようにもなっていた。
それでも尚、ノアの中に根を張るネガティブな感情は、時に強く打つ波の如く、彼女の心を飲み込むように押し寄せた。それはノアが抱えている、もう一つの悩みへの罪悪感によって引き起こされるものだった。彼女が抱えるもう一つの悩みの種は、未だ言うことが出来ずにいた、ハレたちへの隠し事だ。
「ハレさん、トーマさん。海の向こうに渡ってしまえば、多分色々な意味で、私たちは後戻りが出来なくなってくる。不可能とまではいかなくとも、少なくとも今よりは難しくなると思うんです。だから、その前にお話させてください。今まで黙っていたことも謝ります」
それを話すべきか、ノアはずっと迷っていた。確実な情報ではなかったし、それは恐らくハレたちに(特にハレに)、良い影響は与えないだろうと思えたからである。
ヒマロス大陸への出航前夜、スチルバティクスの宿屋の一室で、ノアは深刻な表情を浮かべて言った。
「アーロンという名前には、聞き覚えがあります」
単なる聞き間違えかも知れないし、もしそうでなかったとしても、ハレたちが探しているアーロンとは別人かも知れない、と断った上で、ノアは語った。
「一年前。おばあさまと暮らしていた山中の家で、初めて夜明けの月光に襲われた時のことです」
当時のことを思い出しながら、ノアは話した。
あれは突然の出来事であった。前置きと呼べるようなものはなかった。昼前のことだ。ノアはその時、いつものように昼食の支度をしていた。何かを煮込んでいたように、薄れゆく記憶の中にノアは思う。
普段なら来客などあり得ない、深い山間にあるその民家を、白の地に青い線のローブを纏った二人組の男女が訪れた。祖母が玄関先で応対した。祖母から家の奥にいるようにと言われたノアは、それに従った。数分間、祖母は彼らと話をしていた。「帰ってくれ」などと祖母が怒鳴るのが聞こえたと思えば、突如として轟音が鳴り響き、家は炎と共に崩れ落ちた。
「アーロン。多分、あの子が」
衝撃と炎で、ノアと玄関を隔てていた壁やら扉はなくなっていた。姿が明らかになったノアを見つけたローブの女が、こちらを指さして、男の方にそう告げたようにノアには聞こえた。ノアに気付いた男は、ゆっくりとノアへと歩み寄ると、彼女に向かってそっと手を差し伸べた。
「俺たちには、お前の力が必要だ。大人しくすれば悪いようにはしない。俺たちについてこい」
咄嗟に、ノアは背後の裏口から家の裏手へと逃げた。幾つもの疑問が、ノアの頭には一斉に浮かび上がった。
彼らは何者なのか。自分は逃げればいいのか、ついていけばいいのか。そもそも今、ここで何が巻き起こっているのか。目の前の光景は本当に現実なのか。何一つ、ノアには分からなかった。
この家で過ごした十余年の思い出と共に、あっけなく崩れていく家屋の外壁に隠れて、ノアは震えながら泣いた。家の中から男の気配が近付いてくる。彼の足取りはゆっくりとしており、走ってノアを追い詰めたりするつもりはないようだった。その不気味さが、ノアの恐怖心を一層に煽った。外壁に沿うようにして、震える足取りでノアは逃げた。玄関のほうまで回り込んだところで、瓦礫に身体を預けて倒れる祖母の姿を、ノアは見つけた。
「おばあさま!」
祖母へと駆け寄り、ノアは彼女の頬に手を添えた。恐怖と戦慄に、その手はガタガタと震えている。同じく震える掌で、ノアの手を力なく握り返すと、(喉が焼けているのか)ほんの小さな掠れ声で祖母は言った。
「森を……、ノア、エンデラの森を、探せ。泉に眠る魔女、プリマギアを……目覚めさせなさい」
炎を巻き上げながら倒壊していく家屋の中から、男がこちらに気付く。「ち」と舌を打つと、男は祖母に向かって右手を伸ばし、そこから白い光球を放った。光球の直撃を受けた祖母が、声にならない声で唸る。
「余計なことを。巫女の力も失った死に損ないが」
そこでようやく、ノアの脳は彼らが(少なくとも)善良な人間ではないという判断を下すと共に、『今すぐ逃げるべきだ』という指示を、彼女の肉体に伝達した。然し、瀕死の祖母を背負って、大の大人二人から逃げる術など、この時のノアにはなかった。
「おばあさま、私、どうしたら……!」
これが遺言だ、とでも言わんばかりに、最後の力を振り絞ってノアの服の袖を掴み、ぐい、と自身に手繰り寄せると、震える声で、彼女は言った。
「魔女が……、魔女が目覚めれば、流れ込む穢れにも制御が効くはずだ。これまで、つらい思いさせたね、ノア。あたしゃ幸せだったよ。お前の母さんが死んだ時、お前の親になろうと思った。親らしいことなんて出来なくて、ごめんね。この、ばばあの、最後のお願いだ。ノア、お前は……お前だけは……、生きろ。生きて、幸せになってくれ」
自分の人生の中で、祖母の存在は常にその根幹であり、たったひとつの道標でもあった。ノアの目の前で、赤い炎にその身を焼かれて彼女は死んだ。正しいことがなんなのか、ノアにはもう分からなかった。
何者かも分からぬ二人組に運命を委ねて、彼らの言うことに従うのが正しいのか。灼熱の炎に包まれて、祖母と共にここで朽ちるのが正しいのか。祖母の亡骸をここに捨て置き、道標のなくなったこの世界で、自分一人で生き延びるのが正しいのか。少なくとも三番目の選択肢を、ノアは正しいとは思えなかった。然しそうするほか、ノアにはなかった。
カミナを走らせて、ノアは山を下った。どれだけ走ったか分からない。山を下りて平野に出ても、ノアはカミナを走らせ続けた。カミナの背中で、ノアは何度も泣いた。カミナが立ち止まったのは夕方になってからだった。夕焼けに燃ゆるアンモス平野の真っただ中で、心の真ん中にぽっかりと空いた穴を埋めるように、ノアは泣いた。わけの分からないままに、平穏だった生活は終わり、わけの分からないままに、ノアの旅は始まったのだった。
「私は丸腰で飛び出してしまいましたから、それからの一年で少しずつ旅の荷物を揃えました。大方の荷物が揃って、なんとかカミナと二人でもやっていけるかと思った矢先に、カミナを含めたすべてを、私はもう一度失うことになってしまった。その直後にハレさんとトーマさんに出会い、今に至ります」
話の終わりを、ノアはそのようにして結んだ。
フォックシャル帝国、延いてはこのアシリア全土に於いて、アーロンという名前は『ありふれている』とまではいかずとも、特別珍しい名前というわけではなかった。ノアが初めに注釈したように、(ましてやわけの分からない状況下、燃え盛る家屋の中で聞いたともあれば)聞き間違いであったり、人違いであったりという可能性も否定は出来ない。
それを確かめるべく、その男に何か特徴はなかったか、とハレは尋ねた。その答えが、ノアの家を襲った男と、ハレたちの探すアーロンが同一人物である可能性を否定してくれることを、ハレは望んでいた。然し、黙考の後にノアの口から零れ出た答えは、ハレが求めていたものとは全くの逆であった。
「フードで顔はほとんど見えませんでしたが、赤毛の長髪だったように見えました。手には黒いグローブを嵌めていたと思います」
二つの特徴はそのどちらもが、ハレやトーマの記憶の中のアーロンの姿と、残念ながら一致した。
「ロロキア旧水脈で、ハレさんたちがアーロンという人物を探しているのだと聞いた時、一緒に行けばもしかしたら、夜明けの月光やアーロンという人物についての情報を得られるかもしれないと思って、お二人に同行することに決めたんです。彼らが私の力を狙っているのは明らかですが、その力を一体何に使おうとしているのかが、私には未だに分かっていませんから。これまで黙っていてごめんなさい。お二人とここまでお近付きになるとは思っていなかったから、わざわざお二人を落ち込ませるようなことを、出来ることなら言いたくなかったんです。私が浅はかでした。もっと早くに言うべきだった」
ノアの話を聞き終えたトーマは、彼の中で合点のいくところ、いかないところがあるらしく、いつものように悩ましい表情を守っていた。一方のハレは、その晩眠りの床に就くまで、落ち込んだ気持ちを拭い切ることが出来なかった。が、翌朝には何事もなかったかのように、ハレの態度はケロッとしていた。
「もう答えは出たのか?」とトーマが聞くと、「そんな簡単にゃ出ねーよ」とハレは言った。
「でもまあ、悩んでたってしょうがねェ。それがアーロン本人だって確証は、どこにもねーんだからな。まず俺たちがやるべきは、アビスシルクを手に入れること! アーロンのことは、何か分かったらそん時に考えるよ」
「分かりやすくていい」とトーマは言った。「そうだろ?」とハレは自慢げに返した。
それから二週間後の現在。
波に揺られる定期船のデッキで、ハレたちは船首のほうへと視線を向けている。世界最高峰を抱える山脈を持つ、緑豊かな大陸がその目には見据えられていた。次なる目的地でもある港町の風景をも、ハレたちはその視界へと認め始めている。
緑や紫の瓦屋根を持つ、エスニックな建築の立ち並ぶ河口の町。その町並みは、各々の建築物が無造作に、また無計画に建てられたのであろうことをハレたちに想起させた。街の興りに当たって、都市計画書というようなものはなかっただろう。或いは、それがあっても機能しないほどに個性の強い大工が揃っていたに違いない。
菖蒲色の屋根で統一されたアルバティクスや、青の屋根で統一されたファンテーヌの街並みと比べると、この町が醸す雰囲気は、いささか遊び心に富んでいる。しかしこのような風景は、案外自分の趣味には適っているかも知れないとハレは思った。
「騒がしそうな町だ」とトーマ。「宿が綺麗だといいんだが」
首から提げたゴーグルを額にかけながら、ニヒルな笑みをハレは浮かべる。
「良ーいじゃねぇか。騒がしいの大歓迎! さ、ルチカとやらに会いに行こうぜ」
入港の汽笛が鳴る。ハレたちを乗せた定期船は、リヴィールに到着した。




