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明くる日の未明。
スチルバティクス三階・市街区の東側エリアに存在する小さな公園に、トーマは一人でいた。辺りはまだ暗く、建物の灯りはその殆どが消えている。街灯と微かな星明りが、スチルバティクスの街を照らしていた。
眼下に海を臨む公園の端で、柵に手を着いたトーマは海の先を見つめていた。東の空は、微かに白み始めている。海からは時折、強い潮風が吹いた。海面は白波を立てて、静かに荒ぶっている。
トーマは自身の〝日課〟を済ませるべく、この公園に来たのであった。昼間、街を歩いている時から、この場所がいいとトーマは決めていた。いつも通りの朝を、トーマは迎えるはずであった。そこへ、予期せぬ来客はやってきた。
「敬虔なバルド教信者は、毎朝必ず日の出を拝む。あいつの言ってたことは本当だったんだね」
後方から、一切の気配を感じさせずに近づいていた人物がいること自体に、トーマはまず驚いた。振り返ってその人物の何者かを確認すると、その驚きは焦燥へと変わった。構えの姿勢を取りながら、トーマは腰のポーチへと手を添える。
「……何の用だ?」
ペールラベンダーのおかっぱ頭と、ネイビーの瞳を持つ垂れ下がった目。そこにいたのはモナトであった。
殺気を湧き立たせるトーマに対し、「まあまあ」とモナトは両の手を広げて見せた。戦意はない、という意思表示だとトーマには分かったが、すぐに構えを解くことは、トーマはしなかった。
「戦うつもりはないよ。ただ話がしたいんだ」
「貴様と話すことなどない」
細めた目で怪しげに微笑むと、「それはどうかな?」とモナトは言いながら、トーマの隣までやってきて、先ほどまでトーマがそうしていたように、公園の柵に手を着いて、海からの風に髪を靡かせた。
先日出くわした時とは違い、この日のモナトは夜明けの月光の白いローブを着てはいなかった。軍服を思わせるセルリアンブルーの衣服にその身を包み、脚にはダボつきのあるベージュのパンツと、茶色い革のロングブーツを彼は履いている。また、腕には同じく革素材で、茶色のロンググローブを彼は嵌めていた。
その格好が何を意味するのか、ということはトーマには分からなかったが、こうしていれば(当たり前だが)彼が夜明けの月光の一員であることなどは、一見して分からないものであるとトーマは思った。
「……どういう意味だ?」とトーマは問う。
「単刀直入に言おう」
そう、モナトは切り出した。次の言葉が放たれるなり、トーマは自分の耳を疑わざるを得なくなった。モナトを睨んでいた鋭い眼光は一瞬にして、虚を突かれたように丸く見張られた。
「お前、……――シロだろ」
それは、現代に於いてはほぼ使われることのなくなった、或る俗語であった。
トーマはその意味を理解していた。理解していたからこそ、何故いま、その言葉がモナトの口から放たれるのか、その意味を探る必要があった。様々な思考が、瞬間的にトーマの脳裏を駆け巡る。数秒を以てトーマの中に導き出された答えは、余りにも非現実的であった。然し、もしもそんなことが現実に起こり得るのなら、それはまさしく悲劇であると、トーマには思えた。
ごくり、と一つ唾を飲み込んでから、反射的に両の手をグッと握り込むと、再び細めた両の目で、トーマはモナトへと睨みを向けた。
「……何のことだか分からないが」
ふ、とモナトは鼻で笑うと、「分からないってことはないだろ」とトーマを嘲るように言った。「まあ、そちらはどうもそこまで鼻が利くわけではないらしいから、気付いていないみたいだけど」
一拍を置いて、再び意味ありげな笑みを浮かべると、モナトはトーマの目を見つめた。心の奥までをも覗き込まれるような、強い不快感にトーマは襲われた。
「……僕が同族を見誤るわけないでしょ」
その言葉に、トーマはまたしてもハッとした。嫌な緊張に、喉の奥から苦い唾が滲み出てくる。思考を巡らせながら、嫌が応にもトーマの視線は宙を彷徨った。自身の考えが或る答えに達した時、トーマは不本意ながらも、妙な納得を得てしまった。そういうことか、という意味の表情を浮かべるトーマに、モナトは小さく頷いた。
「分かってくれたみたいだね。僕がここに来た意味」
トーマの身体中を、あらゆる感情が蹂躙するように駆っていった。と同時に、今日のモナトには、本当に戦意などないのだということを悟ると、トーマはそこで、ようやく構えの姿勢を解いた。
「これまた単刀直入に言おう」と、モナトは続けた。
「僕たちと、……夜明けの月光と共に来い、トーマ。僕たちは僕たちの国を作る。腐った世界を改革して、新たな世界へと導く為の国を。夜明けの月光はその為の前身に過ぎない。もう分かっている通り、お前は本来、こちら側にいるべき人間なんだよ」
一拍を置くと、「トーマ」とモナトは再度呼びかけた。
「――僕たちと共に来い」
それが、モナトがここに来た理由だった。また、自分自身が今、この時代のこの場所にいる理由なのかも知れないとすら、この時のトーマには思えた。運命を呪うほか、トーマにはなかった。然し――。
「……断る」
再びモナトへと鋭い睨みを向けながら、トーマは答えた。その瞳の中にどんな意味が込められているのか、モナトには想像するに容易かった。トーマから視線を外すと、憐れむような表情を宙へと向けて、モナトは言った。
「ハレ、か」
図星を突かれようと、トーマはもう怯むことはしなかった。強い視線でモナトを見つめながら、「答える義理はない」とトーマは言った。
向かい合った二人の間に、暫しの沈黙が流れた。数秒の後に、痺れを切らしたモナトの吹き出した溜め息が、その沈黙を破った。
「まあいいや、今日のは軽い挨拶。また来るよ。次は良い返事が聞けることを期待している」
くるりと踵を返すと、来た方向に向かって、モナトは去っていった。遠ざかっていくモナトの後ろ姿に、トーマは語気を強めて言った。
「何度来ても同じだ。俺はお前たちとは違う」
トーマの言葉に足を止めると、モナトは顔を半分だけトーマを振り返って、次のように問うた。
「トーマ、君はいつまで傍観者でいるつもりだい? 目を逸らしているだけじゃ、世界は勝手には変わらない。誰かが声を上げなきゃ、行動を起こさなきゃいけないのさ。いつまでも見て見ぬふりをしていないで、寝ぼけたその目を覚ましておきなよ。夜明けはもう、すぐそこまで迫ってる」
そう言い残して、モナトはトーマの前を去った。
東の空から昇る朝日にその背を照らされながら、トーマは暫し、無言で立ち尽くした。一分ほどそうしてから、トーマは太陽を向き直ると、青いグローブを嵌めた自身の右の手を、水平線の彼方に輝く光に翳して見せた。
(『事実を別の何かで塗り隠そうと、その本質が変わるわけではない』、か)
孤児院で暮らしていた頃、或る人物から言われたそんな言葉が、トーマの脳裏には思い起こされていた。遥遠の真実に手を伸ばすように、太陽に翳した右の手を、トーマはそっと、固く握りしめた。




