第十章 親子の対立 一
その昔、伽羅の『祖』たる北方騎馬民族の『女性』の地位は、高かった。
戦に関すること以外の権限は、基本『婦人たち』にゆだねられていたのだ。
一夫一妻も少々の例外を除けば当然のこと。
過酷な遊牧生活によって女性の成人率が低かったため、数少ない女性を権力者たちが独占していては、部族の勢力を維持できなくなって落ちぶれる。
彼らは移動生活を常としていたので、身に余る財を持つことも少ない。
天幕は解体して運び、次の移動先で再び組み上げて使うのだ。それだけでもたいした荷物量であり、過剰な家財宝物は邪魔にしかならない。
この北方騎馬民族出身者が上層の大多数を占める『隋王朝』は、元々質素な気風を持っていた。
皇帝が揚堅、皇后が伽羅であるから、なおさらと言えよう。
ところがである。
「ふん、何が質素だ」
そう吐き捨てた者がいた。
年若き太子『勇』である。
手には金の高杯。左右には美女。
太子勇にとって、祖先が重んじていた北方の風習など、古めかしい『よそ事』であった。
「こんなことだから我が国は『蛮人』の域を出ぬのだ。
幼き頃は、世を知らず、父母の言うがままに質素や勉学を尊んだ。
だが、成長してみると、わが国がいかにみすぼらしいかわかろうと言うものだ。
王宮は最低限の装飾しかないし、皇帝皇后はその装束さえ他国の王族貴族のように金銀を散らさず地味なばかりだ。
広大な中華を治めているとは言っても、貢物を持って訪れる使節団の方がよほど綺羅綺羅しいではないか。
それに比べて滅んだ『漢人』の国々や『後梁』はやはり、格調高く麗しい。
隋のような、成り上がり者が建てた『田舎臭い国家』とは全く違う。
いや『北斉』はそうでもなかったか」
同じ北方騎馬民族系でありながら、北斉は地理的な影響もあったのか、漢人の煌びやかなところを早期から吸収し、洗練されていた。
北斉が滅ぼされた後、その地区の統括を任されたのは、太子勇である。
勇は男にとって都合が良く、しかも絢爛豪華な漢風の魅力にすっかりのめりこんだ。
あか抜けた様を見せつけようと、ことさら身を飾り立てて立派にし、美女を多数侍らせたのだ。
また、父のように妻一人を大切にし、質素な生活を送るのは『蛮族の風習』であるように思い嫌いはじめた。
伽羅は太子勇に、正妃をすでに娶らせていたが、三男同様、どうにも夫婦仲は良ろしくない。
太子妃に選ばれた元氏は名家の娘――隋の租である北魏皇族の血筋であるが、太子よりも博識なうえ、質素を好む女性であることが気に入らぬようだ。
しかし、太子妃ともなれば『美しさ』だけを基準に選ぶわけにはいかない。
当然である。傾国の美女がどれほど賢君を惑わせ、国を滅ぼしてきたことか。
もちろん元氏も美しい女性ではあった。
十人、人がいれば、その十人全てが彼女を『美しい』と評するだろう。
しかし、絶世の名を欲しいままにしてきた母や姉を見て育った太子には物足りない。
また、細身過ぎて色気にも乏しく、伽羅のように夫を上手く喜ばせて和やかに事を進める要領の良さも持っていなかった。
一方、次男の楊広には飛び切りの美少女・蕭氏が正妃として与えられた。
彼女は伽羅と同郷の者ではなく『漢人の姫君』である。
それは『蕭』が『梁』の国姓(時の皇帝の姓)であることからもわかるだろう。
彼女は優美なる南朝、漢人の国のうち唯一滅んでいない『後梁(*後に起こる五代後梁とは別物)』の二代目皇帝――亡き明帝の娘であった。
伽羅としては一族古来の風習に理解を示す『同郷の女性』の方が望ましかったのだが、次男の妃であるのなら、国益が見込める漢人の姫君でも良いのではと考えた。
さて、蕭氏の出身国である『後梁』とは、どんな国であるか。
実は国と言うより、一地方の勢力と呼んだほうが良いほどの小さな国であった。
この小国は、江南に存在した大国『梁』から追われた皇族が分立して建てた王朝で、ゆえに『後梁』と呼ばれる。
しかし後梁は、江南への影響力を確保したい『西魏』の支援を受けたため、実質は西魏の傀儡国家に成り下がっていた。
後に西魏は本家である『梁』を滅亡に追い込んだため、以後は傍流である『後梁』が正統を名乗ることとなったのである。
「我が祖国『後梁』が健やかに繁栄しているのは、隋の皇帝さま、皇后さまのおかげですわ。
そんな高貴な方々がわたくしの義父母になられるのですから、喜びに堪えません」
まだ幼い蕭氏は優雅に微笑むと完璧な礼儀作法にて拝礼した。
属国の姫である身を、幼いながらによくわきまえているのだ。
後梁は、隋の時代となっても引き続き傀儡国家のままであった。
西魏末の皇帝が禅譲して『北周王朝』が建ち、その北周王朝末の皇帝が禅譲して『隋』が『後継王朝』として栄えたためである。
しかし腐っても漢人の国。隋は後梁の持つ江南への影響力が欲しいのだ。
蕭氏は後梁の姫君としては不遇な目にあっていたので、隋王朝に取り込みやすい。
当時としては当たり前であったが、まさしく政略ありきの結婚であった。




